彼は噂の変わり者
私の通う大学には、密かに知られた変人がいる。
彼は何者なのか。学生だということはわかっているものの、学部はどこなのか、何年生なのか、全く不詳なのである。けれど、もし口頭に登らせれば誰もが「ああ、あの人ね」となること受け合いだ。
何せ彼はこの御時世において、和服に高下駄で大学に通っているのである。目立つことこの上ない。どこからともなくかっこんかっこんと音がしたらどこかに彼がいる証拠だ。
気になったら明らかにしたい性分の私は方々に聞いて回ったのだけれども、身のある話は一つとして得られなかった。誰もが「あの人ね」となり誰もが「何者なんだろうね」と首を捻る。
以来私はこっそりと彼の追跡を始めた。彼が構内に住み着いた猫と戯れる様を見(「ねこ先生」と呼んでいた)、坂を転げ落ちるのを見(高下駄でなんか歩くからだ)、大学職員に珍しがられている様子を観察した(ちょっと嬉しそうだった)。だがやはりさっぱりわからない。
そんなまどろっこしいことをしてないで、本人に直接訊けばいいじゃないかという声もあるかもしれないが、そんな無理を言わないでほしい。極度の人見知りの私にそんな芸当ができようはずがない。
しかし、転機はある日突然訪れた。
私は他学部の教授に用があって、理学部の校舎を訪れていた。だがもともと不案内な上、建て増しが繰り返されてきたというその校舎は道に迷うに十分で、例に漏れず私も迷子になり、入口の案内板と睨み合いを続ける状況に陥っていた。
今日中に来てくれと言われたけれど、これでは今日中になんて無理だ。
誰かに訊こうにも理学部に知り合いはいない。休日だから歩いている人もいない。用件は成績に関することだから放棄するわけにもいかない。
万事休す。
私が頬にいやな汗を流していたそのとき、
「やーきみ、お困りかい?」
不意に背後からかけられた妙にひょうきんな声に驚いて振り向くと、例の和服男が猫を肩に載せて立っていた。
二重にびっくり。
さりげなく足元を窺うと、やはり高下駄だ。高下駄でちゃんと立っている。さすが慣れたものというわけだ。
「察するに、迷子だね」
どんぴしゃり。
「ど、どうして……」
人見知り発動で挙動不審な私に、そりゃあ、と彼は笑う。
「10分おきにそうして案内板と睨めっこじゃ、ねえ」
「……見てたんですか」
恥じらいに顔が火照るのを感じる。積日の相手とのファーストコンタクトなのだから、この機を逃さず根掘り葉掘り質したいところだけれど、私はもうどうしようもなくテンパってしまっている。
全くもってそれどころじゃない。
「それで? どこに行きたいの」
屈託無く訊いてくる彼に、私はたどたどしく教授の名前を告げる。ああ、と彼は頷いた。
「その教授の研究室はF棟の五階だね。F棟には?」
「い、行ってみましたけど、三階より上には立ち入り禁止って」
「そんなの無視無視。普段使いの通路にするなって話で、上らないと研究室まで行けないでしょ」
「そ、そうなんですか…」
ノリが軽い。ねー、と肩上の猫を撫でようとするも、みゃあ、と容赦なく噛まれている。
はあ、と頷いて返すも、しかし私はこの迷子と邂逅に大きな成果を感じていた。今彼がここにいて、学棟にこれだけ通じているということは、
「り、理学部、なんですね」
迷子を看破された羞恥よりも、一歩前進した喜びに頬が火照る。しかし彼は、
「んにゃ? 違うよ」
実に軽く否定してしまった。え? と思うも、彼は気にした風もなく「それで」と続ける。
「急がなくていいのかい? 理学部棟が閉まるまであんまり時間がないけど」
あ、と時計を見る。確かに、もうあまり時間がない。話が長引くかどうかはわからないが、早く向かわなくては。
「あ、あの」
私は顔を上げて、彼の顔を見る。うん? と見返す彼に、私は勢いよく頭を下げた。
「あ、あり、ありがとうございました」
「いやいや、いーよいーよ。知らない相手でもなかったしね」
ひらひらと手を振る彼に、え、と私はまた顔を上げた。私の怪訝な顔に、おや、と彼も首を傾げる。
「よく俺のあとつけてるのって、君だよね? 俺なんて追っかけて何が面白いのかわかんないけど」
ひ、と私は軽く血の気が引くのを感じた。
ばれていた。どうして? いつから?
けど私の動揺に頓着なく、彼は軽く手を振って歩き去っていく。
「それじゃ、俺は行くよ。また困ったことがあったらおいで。俺はいつもその辺をふらふらしてるから――」
かっこんかっこんという音が遠ざかっていき、彼の肩にしがみついている猫の尻尾が揺れる。
その背を睨むように見ながら、私は考えを改めることにした。
彼は奇人で、謎で、お人好しの――変わり者だ。