8. トビアスの帰宅
シャルロットはこの数週間、マーガレットの屋敷に通っていた。内気なマーガレットも、人懐こいシャルロットにだんだんと気を許すようになり、初めてできた"友人"に感動を覚えていた。
またシャルロットの紹介で、北町のカトリーヌ・マルグリーチェとも知り合いになった。カトリーヌはもう20年近く夫と共同で事業をやっていて、その道の段取りをよく知っていたのだ。世話好きな彼女はトビアスがいない間に起きた問題を一緒に解決してくれた。
そうしていくうちに、マーガレットはだんだんと自分に自信がついてきたようで、自分から顧客に連絡さえ取るようになっていた。また、自分の小さな成長を喜んでくれるシャルロットの存在は、マーガレットにとって何よりも大きい支えだった。
トビアスの帰宅は突然だった。冬も終わりに近づき、春の始まりを告げる雨が降っていた。
その日もシャルロットはマーガレットの元を訪れ、サロンで一緒にお茶を飲んでいた。
執事が慌てたように扉を叩いた。
「奥様、旦那様がお帰りのようです」
「まあほんとに?」
マーガレットとシャルロットは突然のことに目を合わせ、同時に満面の笑みを浮かべた。
それから数秒もたたないうちに、サロンの扉がガバッと開け放たれ、屋敷の主人が現れた。
「トビアス!」
マーガレットは彼に駆け寄った。全身ずぶぬれ、彼にしてはめずらしく乱れた格好で、青白い顔をしていた。急いで帰って来たのだろう。
「お帰りなさい、トビアス」
トビアスは肩で息をついていたが、妻の優しい声に、硬い表情を崩し焦点を合わせて小さく微笑んだ。
「ただいま、マーガレット」
トビアスはマーガレットと抱擁を交わしたが、妻の後ろにいるシャルロットが目に入ると手を離し、彼女に向き直った。
シャルロットも、久しぶりに会う友人に微笑みながら言った。
「お帰りなさい、ずいぶん疲れているようだけど大丈夫なの?」
トビアスも彼女に笑みを向けようとしてーー失敗した。彼は少し後ずさると、がくんと膝と手を床につけてシャルロットに頭を下げた。
「すまない、シャルロット……!」
突然の事に、シャルロットもマーガレットも目を見開いて彼に駆け寄って膝をついた。
「一体どうしたの?! トビアス、何があったの?」
しかしトビアスは相当に追い詰められていたのか、ひたすらにシャルロットへの謝罪を続けるばかりだった。
シャルロットはとにかく彼を落ち着かせるために、彼を立たせると長椅子に導いて座らせた。マーガレットは新しくハーブティーを淹れ直し、夫にそれを飲ませて背中を優しくさすってやった。しばらくするとトビアスはいくらか冷静さを取り戻したように、大きく息を吐いた。
「大丈夫?」
シャルロットは彼の前の椅子に座り、心配そうに問いかけた。トビアスは目を細めて頷いた。
「うん、大丈夫だ。僕は……僕は何ともないんだ。シャルロット、君に話さなければならない事がある」
シャルロットはその口調から、何かとても悪い事が起きたのだと察した。そして、それがジャックに関することだと。
シャルロットは息がつまりそうになったが、一度目を閉じ呼吸を整えると、覚悟を決めて言った。
「話して」
トビアスは悲痛そうな顔で頷いた。
「手紙にも書いたけど、僕はジャックさんと亡くなった父の書類をドマーニュの港まで取りに行ったんだ。さっき役所に行ってきて、その書類でジャックさんの……ピョートル・セルビーノの汚名は晴れた」
シャルロットはそのことにいくらかほっと胸を撫で下ろした。少なくともこの街近辺で、ジャックが追われる身ではなくなったのだ。
トビアスは続けた。
「ドマーニュは北街の港から2週間ほどかかる地で、僕とジャックさんは船に乗った。船旅は順調で、早く着く予定だった。でも船出して10日目の真昼間、僕たちの乗った船は……海賊船に襲われた」
マーガレットは息をのみ、シャルロットは目を見開いた。
トビアスは続けた。
「海賊は誰も殺すつもりはなかったみたいだったけど、人員不足みたいで仲間を欲しがってた。海賊たちは誰にしようか選んでいて、落ち着きのなかった僕を捕まえた。そのときジャックさんが助けようとしてくれたんだけど、海賊は強かった。すぐにジャックさんは捕まってしまった。仲間になるか、自分が死ぬか、あるいは僕が死ぬか選べと言われて……ジャックさんは海賊の仲間になった」
シャルロットは真っ青な顔で口元を両手で押さえてきいていた。
「僕を助けようとしなければ……僕があの船を選ばなければ、ジャックさんが海賊になってしまうことにはならなかった。ジャックさんは捕まった僕の身代わりになったんだ。全部……全部、僕のせいなんだ、シャルロット」
トビアスは両手で顔を覆った。彼はジャックと別れてからずっとこうして絶望していたのだろう。ゆえに普段は極度に気を使う身だしなみも乱れ、顔色を悪くして帰ってきたのだ。
シャルロットはぼろぼろの友人から聞かされた事実に呆然とした。
ジャックさんが……彼が海賊に?
シャルロットは長椅子に腰を落ち着けているのに、突然目の前ががらがらと崩れていくようなめまいがした。その衝撃は、彼が無法者の集団に入ってしまったからという理由ではなかった。
「もう……もう二度と会えないの?」
無理矢理に海賊の仲間にさせられたということはその可能性がある。
船乗りは、内陸のこの地とはほぼ無縁の稼業だ。海を住処とする海賊は、足を洗わない限りめったに陸には上がらない。遠隔貿易の商人ではないシャルロットには、ジャックが突然遠のいてしまったように感じたのだ。
しかし、シャルロットの言葉に、トビアスはがばっと顔を上げて首を振った。
「いいや! ジャックさんは、遅くなるが必ず戻ると伝えてくれと言っていた! 君にそう伝えてほしいと頼まれたんだ」
シャルロットはそれを聞いて、目を見開いた。
「……ほ、ほんとう? ジャックさんが、私に?」
トビアスはその時のことを思い出すように泣きそうな顔で頷いた。
「ほんとうだとも。ジャックさんは君は強いから大丈夫だと信じていると言っていたけど、それでも最後まで君の身を案じていたよ。絶対に帰ると僕とも約束してくれた」
シャルロットの頬はみるみるうちに紅潮していった。彼は帰って来てくれる。
私が待つと信じてくれているからだ。
言伝を聞けただけで、シャルロットは舞い上がるような気持ちになった。
シャルロットはたちまち笑顔を折り戻し、思わず立ち上がった。向かいに座っていたマーガレットもほっとしたように微笑みを向けてくれたが、トビアスはあいかわらずいたたまれない表情をしている。自分のせいでジャックを海賊にさせてしまったことを心から悔いているのだ。話を聞く限りは、トビアスのためにジャックが犠牲になったのは確かのようだ。
しかし、シャルロットは目の前の友人を責めることはできなかった。きっとどうしようもなかったのだろう。それにジャックは透明人間だ。海賊はそれを利用したいと考えたのかもしれない。そしてジャックは捕まったトビアスを見捨てず、自分が代わりになることを選んだ。彼の中でも考えて決断したに違いない。
シャルロットは言った。
「言伝をありがとう、トビアス。私、ジャックさんを待つわ。大丈夫よ、ジャックさんは絶対帰ってくる。彼が約束を破ったことなんて一度もないもの」
トビアスは驚いた表情で顔を上げた。
「怒っていないのかい? 僕は……君からジャックさんを引き離したんだ」
「あなたのせいではないわ、トビアス。彼が海賊に目をつけられないはずがないもの……。それに、ジャックさんは大丈夫でしょうけど、あなたは海賊になんて絶対になれないわ。私は、彼が帰ってくると約束してくれただけで十分」
シャルロットの言葉を聞いて、トビアスはますます驚いた。まるきり、ジャックさんと同じことを言ってるじゃないか!
「ほんとうに……君たち2人には驚かされるばかりだ」
シャルロットは微笑み、そして決意を新たに言った。
「私、これまで以上にがんばってうんと強くなるわ! ジャックさんを安心させるためにも、もっと強くならなきゃ……」
その自信に満ちた姿には、叔父にやり込められていた頃の弱さは欠片もなかった。
そんなシャルロットに、トビアスもマーガレットもほっとしたように微笑み合い大きく頷いた。
******************
優雅な音楽が聞こえてくる。
シャルロットは同じ中心街のロベール家による舞踏会に来ていた。夏を目前にし、ドレスの生地は絹より綿が好まれる時期に入っていた。そのためシャルロットはここ最近は少しでも顧客を増やそうと舞踏会に頻繁に出席していた。
今夜は2人の買い手の確約を得ることができた。
少し疲れてしまったシャルロットは、人々のいるホールから離れ、屋敷のバルコニーから月を眺めていた。社交の合間に一息ついて考えていることは、ただ一人の男のことだった。
ジャックさんは、今どうしているのかしら。
乗組員の出で立ちのジャックを想像すると、シャルロットは自然と笑いが込み上げてきた。
きっとバンダナが窮屈でしょうね。ジャックさんのことだから、怖い海賊の船長にも、きっと臆せずに反発しているかもしれないわ。
シャルロットは初めてジャックと出会った時、彼から旅の話をたくさん聞いた。海賊の乗組員としての経験はその一部に過ぎないのかもしれない。帰ってきたら、海賊船での話をたくさんしてもらおうかしら。
そんなことを考えていた時。
「シャルロット?」
「シャルロットは名前を呼ばれて振り返り、目を見開いた。
「あら、トビアス」
バルコニーの扉近くに立っていたのは、トビアス・ホプキンスだった。
トビアスが帰ってきたために、シャルロットはマーガレットを補佐する必要がなくなったわけだが、マーガレットはその後もシャルロットに会いたがった。孤独だった彼女にとって、初めての友人は思いの外大きな存在になっていたのだ。
女の身で商会を営み、多くの知り合いを持つシャルロットは、マーガレットにとって憧れだった。夫に友人だと認めれられているという点でも羨ましかった。
しかしシャルロットの方は、ますます仕事に精を出そうと息巻いているので、頻繁に会うことは叶わない。
そこで、初めて舞踏会に参加したいと夫に切り出したのである。
もちろんトビアスは驚いた。
箱入り娘で今まで外出さえしようとしなかった彼女が、苦手であるはずの舞踏会に同行したがるようになったのだ。
トビアス自身、結婚して北街に移ってからは舞踏会に参加する回数は大幅に減っていた。新しい仕事が忙しかったからというのもあるが、散々女性との浮名を流しておいて急に結婚したことで、社交界に顔を出しづらくなったのだ。もちろん顧客増加のために、トビアスが1人で舞踏会に参加することはあったが、知り合いの女性達の視線を感じないわけがなく、居心地悪いことこの上なかった。そんな戦場に、自分の妻を連れて行くことができるだろうか?
結局トビアスは、マーガレットへの返事を曖昧にしたまま今夜もこうして1人で舞踏会に表れたのである。
トビアスは相変わらず、富を誇示するような派手な姿で舞踏会に参加していた。もちろん派手ではあるが、着こなしは抜群で彼が自覚しているようにセンスは良かった。
「こんなところにいるなんて珍しいな。月を見ていたのかい?」
「ちょっと考え事をしていたの」
「……ジャックさんのこと?」
シャルロットは少し笑って肩をすくめた。
「ええ、どうしているかと思って。分厚いコートを着て全身を覆っている姿で、海賊と同じように甲板に出ているのかしら」
トビアスは少し前を思い出して、小さく微笑みを浮かべた。
「一緒に役所へ出向く際、僕は彼を高級品の服に着替えさせたんだ。船では黒い紳士服を着て白い仮面で顔を覆っていたんだよ」
「まあ、ジャックさんが?」
「うん、最初はこんな派手なのは嫌だって言ってたけどね。決して派手じゃないし、長身だからなかなか似合っていたよ。君にも早く見せたいな」
シャルロットはその姿を思い描き、思わず笑みを漏らしていたが、ふとトビアスの顔から笑みが消えていることに気づいた。
「……どうかしたの?」
「その……君に相談してもいいかい」
シャルロットは目をぱちくりさせた。
シャルロットの大事な友人は、結婚してから社交界にほとんど顔を出さなくなった。独身時代は派手にあちらこちらの女性のグループと話し込んでいるのを見かけたものだが、今ではもっぱら仕事の顧客の相手をするばかりでいつも忙しそうにしており、シャルロットとも二言三言、言葉を交わすだけだった。
だから今夜のように、舞踏会で向き合って話すのは、久しぶりだった。
まあ、彼の相談なんてだいたい検討はついているけど。
「なにかしら、マーガレットのこと?」
シャルロットの問いに、トビアスは一瞬ぎくりと身体をのけぞらせたが頷いた。
「察しがいいね。うん、そうだ、僕の妻が……内気だったマーガレットが、突然舞踏会に行きたいと言い出したんだ、君に会うためにね」
シャルロットは目を見開いて思わず笑みを浮かべた。
「まあ嬉しい! 私に会いたいから舞踏会に?」
「そうだよ……確かに彼女が外の世界に目を向けようとしているのは喜ばしいことだ。君のおかげで彼女は事業のことを勉強するようになった。留守の間、彼女を支えてくれていたことには感謝しているよ」
「私も彼女と仲良くなれて嬉しかったわ」
トビアスは頷いた。
「だが、その……世間は君みたいに友好的な人間ばかりじゃないだろう、特に舞踏会は」
シャルロットはすっと真顔になった。
「あら、彼女にとって友好的とは言えない世間にしたのは、どこの誰だったかしら」
言ってやらなければならない。彼女がどんな思いをしていたか、知らないとは言わせない。
シャルロットは友人にじろりと冷たい目を向けた。
「前々から気になっていたのだけれど、あなたは結婚の意味をわかっているの? 遺言に残されていたから結婚せざるを得なかったとしても、それは彼女も同じこと。マーガレットはあなたを失望させまいと、留守の間ずっと事業を維持してきたのよ。それなのに、あなたは彼女をずっと外に出さないままにして、自分の今までのことを隠している。一体彼女をなんだと思っているの? 誠実さの欠片も……」
「わ、わかってる、わかってるよ、シャルロット! 結婚前に僕が女性に奔放だったことも、そのせいでマーガレットが傷つく可能性があることもわかってる!」
「可能性じゃなくて、もう傷ついているわ」
「えっ!? そ、そうなのか……いや、で、でも、僕の話を聞いてくれ、何もかも話すから」
シャルロットは不満そうに息を吐いたが、わかったわと頷いた。
トビアスは咳払いすると罰が悪そうな表情で話し始めた。
「僕がマーガレットと結婚した理由は、叔父上が僕に宛てた遺言にそうあったからだと、以前君には言ったね。実を言うと、僕は叔父が死ぬまで従兄妹がいるなんて知らなかったんだ。ほんとうだよ。父と僕はずっと離れて暮らしていたし、父は自分の兄弟や身の上のことをあまり話したがらなかったからね。それに、僕は誰とも結婚しないつもりだった。僕は、その……君が知ってる通り、いろんな女性と関わりがあったから、誰かと結婚したらその相手を傷つけてしまうってことはわかっていたんだ」
シャルロットは目を細めて頷いた。奔放な紳士は奔放なりに考えてはいたのね。
トビアスは痛い視線を受けながらも続けた。
「叔父が急死した時、葬儀場に彼の娘マーガレットがいて、僕は初めて従姉妹の存在を知った。その後すぐにわかったけど、彼女はめったに外出せずに育てられた箱入り娘だった。僕のような男が手を出してはならない女性だと思ったし、今まで関わりなく生きてきたんだから、これからもそうだと思っていた。でも、父は叔父と共同で事業をやっていたから、叔父の亡き後に事業を継ぐのは、彼女だけでなく僕もその対象なのだということがわかった。遺言にもそう書かれてあった。ただ……僕は叔父の事業に関わるのはめんどうでね。自分で一から始めたわけでもないのに、利益を出したところで叔父に投資しているだけの気持ちになるんだ。だから、事業を運営できる適当な男を見つけてマーガレットと結婚させ、僕は今まで通り一人で生きていこうと思っていた」
トビアスはその時のことを思い出すように目を細めた。
「葬儀から一週間経った時、叔父の死の直後の遺品を整理しなければならなくなった。そこで僕は初めて、馬車に乗っていた叔父は何者かに襲われて亡くなったのだということを知った。ただ証拠がなかったし、犯人は検討もつかなかったからそのまま事故死とされた。今になって考えてみたら、その犯人はジャックさんを巻き込んだ例の組織の連中だってことがわかるけど……その時はただ事業の金が目当てで、歳を取っていた叔父だから殺されたんだと思った。とにかく、それではっとしたよ。箱入りのマーガレットが事業なんて継いだら、すぐに悪事を企む連中に狙われてしまうってね。大事にしてくれるのかもわからない男に、たった1人の従姉妹を任せることなんてできなかった。何も知らない彼女を見捨てることなんてできない……事業を継ぎ、彼女を守れるのは身内の僕しかいないと思ったんだ」
トビアスは真面目な顔で、バルコニーから見える景色の一点を見つめながらそう言い切った。
シャルロットは眉を寄せる。
「でも、遺言書に……」
「僕に宛てた遺言には、事業を継いでほしいとは書いてあったが、彼女と結婚しろとは書いていなかった。彼女と結婚しようと思ったのは……僕の意志だ」
「まあ!」
シャルロットは目を瞬かせた。
「でも、それは……マーガレットにはほんとうのことは言っていないの?」
トビアスは苦い顔で頷いた。
「父親は、事故ではなく金目当ての人間に殺されたのだと言ったら、きっと怖がらせてしまうと思ったんだ。だから、遺言に結婚しろと書いてあったと伝えた方が自然だし、不審には思われないと思った。今までずっと互いに知らない存在だったから尚更ね」
シャルロットは話を聞きながら、去年の自分と重ねていた。否、そっくりだった。シャルロットの場合も父を殺され、叔父の陰謀に嵌まりら何もできずに嘆いていた。ジャックの救命がなければ、彼女の今は全く違ったものになっていただろう。パーシーズ家の場合は身内の問題であったが、それでもジャックの介入は、シャルロットにとっては暗闇にさした一筋の光のようだった。
シャルロットは、マーガレットの気持ちを思って言った。
「マーガレットは……真実を知りたいはずよ。何より彼女のお父様のことなんですもの。それに、あなたが彼女に結婚を申し込んだのが、遺言ではなかったということもちゃんと伝えるべきだわ」
トビアスは友人の真剣な言葉に頷いた。
「……そうだね。組織のことも既に解決している。そろそろほんとうのことを、言わなければならないとは思っていた」
「それに」
シャルロットは厳しい目つきでトビアスを見据えた。
「これまでの社交界でのあなたの所業もきちんと包み隠さずすべて話すべきよ。すべて話した上で、それでも彼女が舞踏会に来ることを望むのなら、あなたは絶対に彼女を1人にさせず、常に夫婦で行動する」
「すべて!?」
「それが嫌なら、あなた自身が過去の女性との関係を清算することね」
「そ、それだけは勘弁してくれ……」
トビアスは頭を抱えて俯いてしまった。
彼と関係した女性は星の数ほど多く、考えただけで気が遠くなりそうだ。
それを知っているシャルロットは、呆れたように肩をすくめた。
「どちらにせよ、マーガレットには全部話した方がいいわ。風の噂や他の女性から嫌味を言われるよりよりはましでしょうから」
「わ、わかった……マーガレットに軽蔑される覚悟で話すよ。もしかしたら家から閉め出されるかもしれないから、そのときは友人のよしみで君が助けてくれたまえよ」
「あら、私はマーガレットとともお友達だからどうしましょう、彼女次第かしらね」
シャルロットはふふふと笑った。
少しほっとしていた。トビアスが、マーガレットのことを蔑ろにしているわけではなかったとわかったからだ。
シャルロットは、その瞬く星を見つめた。
「前にね」
思い出したように、シャルロットは小さく話し始めた。
「前に、ジャックさんが私と結婚してしまったら、彼をこの街にーーこの場所に縛ってしまうって不安に思ったことがあったの。今まで彼はあちこちの国を放浪していたのに、その自由を奪ってしまうことになってもいいのかって」
トビアスは一瞬きょとんとした顔になったが、ああと納得したように頷いた。
「そうか、彼は旅人だったね」
「ええ。ほら、あなたも知っているでしょう、ピョートル・セルビーノはどの組織にも属さないって。だから、彼と結婚の約束をした時、ほんとうに彼がそう望んでくれているのか心配だったの。以前あなたには“結婚の約束をしている相手がいる”って言ったけど、それは私が一方的に決めたことだったから」
「えっ! 君が!?」
シャルロットは少し笑って肩をすくめた。
「そうよ、最初は問答無用で断られたんだから!……でも、そんな心配はいらなかったの。ジャックさんは、私が想像していたよりもずっと、私のことを思ってくれていた。様々な経験を経て、様々な人と出会った上で、私との結婚を心から望んでくれたの。その時気づいたのよ、私もジャックさんも、お互いに必要な存在だったということが」
ジャックは、シャルロットと出会ったことが幸運だと言った。会話することで人間味が蘇り、微笑みを見る度に魂が救われると。だがそれは、シャルロットだって同じだった。危機から救ってくれたこともあるが、ジャックのまっすぐな優しい心に寄り添いたいと思った。
「結婚は、お互いに支え合うためにあるものだと思うの。マーガレットは、あなたの力になりたいと懸命に足掻いている。だから彼女は事業のことを勉強し始めたの。あなたの想像以上に、マーガレットはあなたのことを考えているのよ、トビアス」
シャルロットの真剣な言葉を、トビアスは良心を痛ませて聞いていた。
トビアス自身、マーガレットには何の期待もしていなかった。ただ危険から守らなければという義務感から婚姻を結び、今までの女性以上に丁寧に扱った。だがそれだけだった。自分の過去を伏せてしまって、真剣に彼女と向き合おうとはしていなかった。
「……亡くなった叔父は立派な事業家で、街を移ってもその評判は高かったから、僕も誇りに思っていた。だから初めてマーガレットに会った時、彼女がひどい世間知らずだったから、少しがっかりしたんだ。父親はあんなに優れていたのに娘はってね。今考えたら酷い侮辱だ」
シャルロットは眉を寄せた。
「彼女は今でもそれを気にしているわ。“またあなたを失望させてしまう”って途方にくれていた。名目上でしか事業を受け継いでいない自分を、なんとか変えたいと必死だったわ。舞踏会に出ようと思ったのも、きっとそのこともあると思うわ。だから自分の過去のために阻止しないで、彼女のための扉を開けてほしいの」
友人の言葉に、トビアスは目を細めた。
シャルロットは、マーガレットと数週間前に初めて対面したというのに、結婚して3ヶ月一緒に過ごした僕よりもずっと彼女のことをわかっているし、真剣に考えてくれている。
商売を除いて人付き合いの悪いトビアスは、こんなに親身になって説教をしてくれる友人は初めてだった。そしてその存在をありがたいと思った。
「ありがとう、シャルロット。君には……教えてもらうばかりだ」
シャルロットは微笑んで首を振った。
「いいえ、私だってあなたから多くを教わったわ。それに……遺言ではなく、彼女を守るために結婚を決めたときいて、少し安心した。あなたのその心は、友達としてとても誇らしいわ」
「君にそう言ってもらえるなんて、僕も捨てたもんじゃないな……マーガレットが君に会いたがる理由がよくわかったよ。君と話していると、自信がついてくる」
シャルロットはくすりと笑った。
「なあに、それ。マーガレットはともかく、あなたは元々、過剰なくらい自信家じゃない」
「商人は必要以上に自信家じゃないとやっていけないからね」
トビアスは冗談めかして言うと、決意したような表情になって言った。
「……マーガレットと社交界に参加する。彼女のために、そうするべきだとわかったよ」
「ええ、私も会えるのを楽しみにしているわ」
トビアスの言葉に、シャルロットも頷いた。