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7. 海賊の襲来

ジャックとトビアスは、船の甲板に出て、右手に果てしなく広がる海を眺めていた。ほとんど傷のない黒く光る甲板に、真白く膨らんだ帆、綿密に彫られた美しい船首像。船主が貴族であるこの船には、乗組員以外は上流階級の者ばかりが乗船していた。


「もっと地味な船があっただろうに」


甲板にいる派手に着飾った貴婦人や紳士を遠目に見ながら不満そうにジャックが述べたのに、トビアスは腰に手を当てて言った。


「相変わらず地味が好きなんですね。生憎他の船は衛生的に却下です。船上での生活は病気になりやすいんですよ。きれいであることに越したことはありません」


ジャックはそんなことはどうでもいいと首を振った。


「こんなに派手で目立つ船なんぞ、海賊に襲ってくださいと言っているようなものじゃないか」


トビアスは一瞬きょとんとした。


「カリブ海なら僕だって考えますよ。でもこの辺りは各国の軍艦がたくさん行き交っている。今は平和条約が結ばれているから海で戦争が起こることもない。それにここ最近は海賊はめったに見かけないと、さっきビーア船長が言っていたのを忘れたんですか?」


トビアスの反論に対してジャックは言った。


「海賊は、どこにでも現れる。むしろ平和が海賊を生むんだ。通りすがりで襲われることなんてざらにある」


ジャックの強い警戒心に、トビアスは肩をすくめたが、相手を安心させる得意の微笑みを浮かべた。


「大丈夫ですよ。いざとなったらここの船客はみな大金を払えますから、命の危険に晒されることもないでしょう。もちろん、あなたもね」


ジャックは、トビアスの自信満々な様子に苦笑いした。大金を払えば逃がしてもらえるなんて考えは甘い。相手は法律どころか国の勢力にさえ逆らう者たちだ。無傷で難を逃れることはないだろう。

しかしトビアスの言う通り、ときおり海原で見かけるのは軍艦ばかりで、それも海賊討伐隊のようだった。この近辺は取り締まりが厳しいらしい。しかし、警戒心の強いジャックは不安を拭えなかった。何も起きなければいいが。



航海は順調に進んでいた。嵐に見舞うこともなく、熟練のビーア船長と航海士たちの指揮のもと、優秀な乗組員たちは船を目的地へまっすぐ進めた。船出して10日目、船客たちの間で予定より早く着くらしいと噂が広がった。ジャックとトビアスは、実際の入港の日取りを知るために船長室を訪れた。船長の話では、あと3日もたたないうちにドマーニュに着きそうだということだった。

トビアスとジャックが喜びの声をあげようとしたその時。

突然、乗組員が船長室に飛び込んできた。


「せ、船長! 右舷に怪しい船が……! 旗を掲げていません」


ビーア船長は眉を潜めた。


「旗を揚げていないだと?」


彼は後甲板に上がると、望遠鏡を覗いた。レンズを通して向こうの船の様子がようやく見える距離になると、ようやくその船は旗を掲げた。黒地に白い髑髏が風になびいている。

ビーア船長は望遠鏡を落としそうになった。


「か、海賊船だ……!」


「なんですって?」


船長の後を追いかけてきたトビアスは船長の呟きに驚いて自前の望遠鏡を覗いた。船出する前に購入した、金の縁取りのある高級品だ。


「ほ、ほんとうだ……初めて見た」


トビアスは驚きと興奮で震えながら呟いた。

隣では乗組員たちが注意深く望遠鏡を覗きながら、口々に情報を共有している。


「2本マスト、ブリッグ船だ……」


「砲門は20以上あるぞ!」


「風の具合はどうだ、こっちが風下なのか?!」


乗組員の慌ただしい様子に、トビアスは呆然と手を下ろし、後からやってきたジャックに望遠鏡を掠めとられた。仮面の目の穴から船の様子を確認する。


「まずいな、進路を変えてこっちにまっすぐ向かってきている……」


ジャックの言葉を耳にしたビーア船長は顔面蒼白になって叫んだ。


「取り舵いっぱい!」





その後ビーア船長は顔を強張らせながらも、乗組員たちに的確な指示を出し、乗組員たちも熟練水夫として職務をまっとうした。

しかし、こちらは風下、多数の乗客が乗っており、おまけに装飾に凝った大型船だ。快速に造りかえられた海賊船が追いつけないはずがなく、距離はどんどん縮まっていった。

ビーア船長は相手の船を睨みながら考えた。海賊が乗り込んでくるのは時間の問題だ。それどころか、顔が見えるほどに近づけば大砲を撃ち込んでくるだろう。船と乗客の安全を考え、被害を最小限にするなら、なすすべは一つしかない。

ビーア船長は呼びかけて乗組員の注目を集めると低い声ではっきりと言った。


「降伏する」


乗組員たちの顔が青ざめた。

船長はしっかりと部下たちの目を見て命じた。


「騒ぎ立てるな。乗客達にはきちんと事情を話し、彼らを一つの船室に集めてくれ。全員の無事を我々が確保せねばならん。それから……旗を掲げろ」


船長の言葉に乗組員たちは従い、船の乗客たちは一番広い船室へと導かれた。トビアスは海賊に降伏するなんてと口惜しそうに言ったが、助かるにはそうする他ないとわかっていた。

マストのてっぺんには、するすると白旗が掲げられた。


ほどなくして海賊船が追いつき、連中がどやどや乗り込んできたらしい音が、船客たちの集められた甲板下の船室に響いてきた。

それからひっきりなしに聞こえてくる海賊たちのがなり声や耳障りな笑いに、貴婦人たちは震え上がって泣き出してしまった。紳士たちは、女性たちと一緒に身を寄せ合っている者もいれば、海賊の押し入りを防ごうと船室の出入口付近に固まっている者もいた。


ジャックは、彼らとは少し離れたところで窓の前に立ち甲板の様子に聞き耳を立てていた。

こうして船室に閉じこもっていても、すぐに海賊に上へ連れ出されてしまうだろう。乗客に混じっていれば安心だが、もし仮面を外せと言われたら、自分が透明人間であることがわかってしまう。そうなればきっと海賊は自分を仲間に引き入れたがるに違いない。裏社会で生きてきたジャックは、見えない姿を利用しようとする組織に隷属することを望まれた。海賊が例外とは思えない。ならば彼らに見つからないように隠れておく必要があるだろう。

と、ふと女性たちの泣き声が止んだので、ジャックは振り返った。どうやらトビアスが泣いていた女性たちを元気づけていたらしい。貴婦人たちは涙を拭いて、トビアスの言う冗談に笑みを浮かべている。

その様子に、ジャックはシャルロットとの会話をぼんやりと思い出した。




『ーー確かに彼は社交界で何人もの女性と浮き名を流していました。私もそれを理由に彼を警戒していたし、正直に言うと嫌悪もしていましたわ。でも、トビアスが女性たちに人気なのは、外見の華やかさや資産だけが理由ではなく、別の長所のためだとわかったのです』


『別の長所?』


ジャックの問いにシャルロットは頷いた。


『彼はとても優しいのです。下心がないとは言い切れませんが、人の何倍も気遣いができます。権力争いでみじめな思いをしていたり、壁の花になっていたりする女性がいれば、必ず話しかけて笑顔にさせる。泣いている女性を目の前すると、じっとしていられない紳士なのです。ただ、誰にでもそうであるので、一人の女性に対して誠実とは言えず、彼が結婚するときいたときは少し心配なりましたが……』




シャルロットの言葉は的を得ている。貴婦人たちと話すトビアスのおどけた顔をみながら、ジャックはそう思った。シャルロットが商いを始めたときも多くを教えてくれたと言っていたし、今こうしてジャックのために旅を共にしてくれている。彼はシャルロットと同じ、困っている人を放っておけない性格なのだ。確かにこの光景を彼の奥方が見ていい気はしないだろうが。

トビアスはふとジャックの視線に気づくと、罰が悪そうな顔をして、ジャックのそばへやってきた。


「その……僕はあなたに謝らなければなりませんね。あなたの言う通りにもっと目立たない船にしておけば……。本当に申し訳ありません」


トビアスのしおれた様子に、ジャックは慰めるように肩を叩いた。


「君のせいじゃない、運が悪かっただけだ。それよりもーー」


ジャックはトビアスにだけ聞こえる程度の小さい声で言った。


「ここにいてくれ、俺はそっと様子を見てくる」


トビアスは、驚きの声を漏らした。


「そ、そんな、危険です! あなただけの命じゃないんですよ!」


トビアスの咎めるような口調にジャックは頷きながら他の乗客たちに見られていないことを確認すると、帽子を取り仮面を外した。


「わかっている。もちろん見えるまま行くつもりはない」


黒いコートを脱ごうとしたジャックの腕を、トビアスは掴んで動きを止めた。


「見つからないという自信はあるんですか? 奴らは海賊ですよ」


自分の身を案じてくれているトビアスに、ジャックは微笑んだ。


「俺は、今まで裏通りしか歩けない連中の世界で生きてきたんだ。海賊だって会うのは初めてじゃない。そう簡単に殺られるつもりはないさ」


ジャックは、腕を掴んでいるトビアスの手をそっと外すと、コートに続けてトビアスに借りた物を取り去り、とうとう姿が見えなくなった。


「ジャックさん……?」


返事にも応じないので、トビアスには彼がどこにいるのか見当もつかなかった。






ビーア船長は乗客が全員船室に避難したことを確認すると、乗組員に乗客のいる船室への入り口は守りを固めるよう指示したが、そうしている間に海賊たちが次々と乗り込んできた。その数は驚くことにたった10人程度で、こちらの乗組員と同じくらいの人数だったが、あっという間に海賊たちはビーア船長や乗組員たちをメインマストの下に縛りあげてしまった。

歓声や罵声、どちらも発しながら乗り込んできた海賊の中から、大柄で一際存在感のある三角帽子の男ーーおそらく彼が海賊船の船長だろうーーが怒鳴った。


「この船の船長はどいつだ?」


「私だ」


縛られたビーア船長は堂々とした声で言った。

海賊船長は極めて冷静を保っている彼の前へ歩み寄ると、下から上まで相手をじっくり見ると、口の端を上げて言った。


「貴様は降伏すれば俺達が何もしないとでも思っていたのか、えっ?」


乗組員たちはその脅しに震え上がったが、ビーア船長の方はどっしりと落ち着いていた。


「この船は砂糖、木材等、もちろん金銀の貿易の品は積んでおらん。あと2、3日で目的地に着くから食料もそこそこだ。君達の望みのものは手には入らないだろう」


海賊船長は首を振って笑った。


「何もないのなら、なぜ船室への入り口を守っていた?」


「それは……」


ビーア船長が言葉に詰まったのに、海賊船長はにやりと笑うと部下に合図した。海賊の乗組員たちはそれに頷くと笑い声をあげながら船室の方へと駆けていく。


「ま、まってくれ! この船は客を運んでいるんだ。私には紳士淑女の方々を安全に届ける義務がある。船室には入らないでくれ!」


ビーア船長は懇願したが、海賊たちがそれに耳を傾けるはずもなかった。 船室の方から悲鳴が聞こえ、絶望の表情を浮かべた彼に、海賊船長は低い声で笑って言った。


「船長、確かに俺たちは金目の物はいただくがーー必要としているのは新しい仲間だ」


ビーア船長の表情はいよいよ青くなった。





ほどなくして船室から紳士の乗客達が甲板へ連れて来られた。貴婦人たちは怯えたように俯いている。紳士たちも縛られることはなかったが、武器を構えた海賊たちに囲まれ身動きがとれずにいた。トビアスはその中で一人きょろきょろと辺りを見回していた。

海賊船長は、乗客たちの豪華な身なりに口笛を鳴らした。


「こいつあ、驚いた。一人身ぐるみ剥がしただけでいくらでも金になりそうだぞ」


「けど、ウィル」


海賊の一人が彼の隣に立って言った。


「この着飾った連中の中には船乗りになれそうな奴はいねえぞ。乗組員の方だって、こっちと目を合わせようともしねえ腰抜けばっかりだ」


「まあ待て。もう少し観察させてもらおうじゃねえか……全員注目しろ、さもなければ殺す!」


突然の海賊船長の怒鳴り声に、海賊たちも縛られた乗組員たちも乗客たちも、きょろきょろしていたトビアスも、俯いて泣いていた貴婦人たちでさえ、彼の方を向いた。

海賊船長は皆の視線が集まると再びドスの効いた声を張り上げた。


「俺は船長のウィリアム・ドンバスだ。お前らがあっさり降伏したおかげで、こっちは怪我人を出さずに済んだ。誰かを見せしめに殺るのも今回は見送ろう……船長は存外まともな奴みてえだしな。俺たちが必要としているものは金、それから新しい仲間だ。候補者はいねえか?」


その問いに、縛られた乗組員も乗客も皆が下を向いた。あからさまな拒否に海賊たちは笑い声をあげた。海賊の一人が言った。


「ウィル、この船は金持ちしか乗ってねえみてえだぞ。こいつらは俺たちみてえな底辺の暮らしなんざ、想像すらしたことねえんだろう。胸糞悪い連中だぜ」


別の海賊がそれに同調した。


「その通りだ。いっそ全員殺っちまうってのもいいんじゃねえか?そうすりゃあ世の中の金持ち連中が少しでも減るってもんだ!」


そうだ!と海賊たちは賛同した。海賊船長のドンバスは低く笑った。


「まあ確かにそうだろうな。貧乏人から搾り取った有り余るほどの金で贅沢しているのは、着ている物をみただけでわかる。労働で血を吐くような思いをしたこともないんだろう。おめでたい連中だ」


トビアスはその言葉にぐっと眉を寄せた。

ひどい侮辱だ。商人だって何だって、それなりの苦労があって贅沢な生活を勝ち得ているんだ。シャルロットだって父親の受け継ぎとはいえ、最初はほんのわずかな資金から商会を営んでいた。僕たちの生活を知ろうともしないのは、そっちの方じゃないか。

トビアスはシャルロットから、ふとジャックのことを思い出した。彼は一体どこにいるんだろう。先ほどからちっとも気配を感じない。


トビアスの思いを全く知らずして、ドンバスは部下たちに言った。


「だが、今は俺たちも乗組員が足りていない。あんなことがあったばっかりだ、無駄に血を流すことは俺は好かん。お前たちもみんなそれはわかっているはずだ」


海賊たちは何かを思い出したのか、少しだけ暗い表情を浮かべた。ドンバスは続けた。


「必要なのは新しい仲間だ、そうだろう? まあ一人くらい腰抜けよりましな奴がいるかもしれん、それに人数が増えれば生活が前より楽になるぞ」


ドンバスの言葉に、海賊たちはすぐに陽気な表情を取り戻した。


「……そうだな」


「確かにもう雑用はこりごりだぜ」


暴走せずに自分に従った部下たちに、ドンバスは笑みを浮かべた。


「品定めの始まりだな」


海賊たちは同意の声を発すると、乗客たちを値踏みするようにじろじろ眺めた。

乗客たちは震えながらその視線から目を反らし続けている。そんな様子に、海賊たちはげらげら笑った。


「こいつはどうだ? なかなか海賊面してるじゃねぇか」


「だめだ、こんなひょろひょろしてるんじゃ、嵐の夜にぶっとんじまうだろ」


「使えねえ奴は足手まといだ」


「この金髪の野郎はどうだ、見張りならできそうだぞ」


「こんな手足じゃマストに登れねえよ。これならそっちの乗組員から探した方がまだましだぜ」


「度胸がねえ奴はすぐに逃げるぞ」


海賊たちが好き放題言う中、マストに縛られたビーア船長がひときわ大きな声を上げた。


「私が海賊になろう。だから、乗組員と乗客は見逃してほしい」


乗客と乗組員を救うための決断だったが、ドンバスはすぐさま一蹴した。


「願い下げだ。貴様のような堅物は俺たちの仲間にはふさわしくない。自己犠牲なんぞするな」


そのとき、ドンバスの隣にいた海賊が乗客の一人を指して言った。


「おいウィル、あそこにいる奴がさっきからずっときょろきょろ落ち着きがないぜ。何かを企んでるかもしれねえぞ」


「ほう」


ドンバスは部下の指す男の方を向いた。


きょろきょろしている男ーーもちろんそれはトビアスだった。彼は姿の見えないジャックを探していたのだ。

彼は、ドンバスの怒鳴り声と資産家を見下した言葉以外には、ほとんど海賊たちに意識を飛ばしていなかったので、海賊船長がこちらに近づいてきたことに気づくと、慌ててしおらしく下を向いた。


「何を探していた?」


ドンバスの直球の問いに、トビアスはどきりとした。


「な、何も」


自分は口は上手いが嘘をつくのは下手だと自覚しているので、顔を伏せたままにして答えた。


「何も探していないんなら、なぜ辺りを見回していた?」


「く、首が痛かったんだ……」


苦し紛れの言い訳に、ドンバスは小さく笑うと、次の瞬間太い片腕でトビアスを拘束して、首に短剣をあてがった。


「これで首の痛みも吹き飛んだだろう。言え、探していた物を……あるいは物じゃなく、人かもしれんな」


トビアスは目を見開いてドンバスを見た。すごい。この勘の鋭さ、商いをしていれば非常に有利だ。短剣を突きつけられているのにもかかわらず、トビアスはのんきにもそんなことを考えていた。

ドンバスはトビアスの表情に喉を鳴らして笑った。


「図星か。お前の連れはどこに隠れている?」


「わ、わからない。だから探していたんだ」


「それもそうか……おい、聞け!」


ドンバスは頷くと、突然甲板全体に響く大声を出した。


「どんなやつか知らねぇが、姿を現さねえとこいつの血でこの船が染まることになるぞ!」


しばらく沈黙が続いた。


トビアスがおずおずと言った。


「姿は現せないよ。たとえ彼がそう望んだとしても」


トビアスの言葉の意味がわからず、ドンバスが訝しげに腕の中のトビアスを見下ろしたその時。


ドンバスの首に突然すっと短剣が当てられ、すぐ背後から低い声がした。


「彼を離せ」


乗客の女性たちの悲鳴が響いた。紳士たち、縛られた乗組員、海賊たちも目の前の不可思議な現象に、皆が驚きと動揺の声を上げた。


「短剣が浮いているぞ……!」


ドンバスの首に短剣を突きつけている人間の姿は全く見えず、まるで剣がひとりでに浮いているかのようだった。


「ゆ、幽霊だわ……」


その場にいた者たちは皆、恐ろしげにそれを見つめた。トビアスは驚いて短剣の持ち主の方を見上げた。ずっと隠れていればよかったのに! この船に乗ることにずっと反対していた彼にはその権利がある。なんで出てきてしまったんだ?


「だめだ……早くその剣を離して、逃げてください!」


トビアスは焦ってそう言ったが、剣はぴくりとも動こうとしない。

短剣を突きつけられていたドンバスは背後に何者かがいる気配を感じ取り、そのまま剣の方に目をすがめた。

そして次の瞬間、ドンバスは当てがわれた短剣からふっと身を反らすとトビアスを邪魔だとばかりに前に押し出し、くるりと後ろを向いて、宙に浮いた短剣に自分の短剣を合わせて対峙する体勢を取った。その技に剣の持ち主は面食らったようで、数歩後ずさったのがわかった。その隙にドンバスは力まかせに相手の短剣を叩き落とし、見えない手首をつかんで引き寄せると、片腕で相手の両手を後ろに拘束し、首があるだろう場所に短剣を突きつけた。

ドンバスはひとまず形勢逆転がうまくいったことに息を吐いて、姿の見えない彼をじっくりと眺めて笑い声をあげた。


「ほっほう! こいつは大した奴が紛れ混んでたもんだ。姿が見えないとはいえ、触ることはできるぞ。お前は何者だ?」


返事は返ってこない。ドンバスは鼻を鳴らすと、すぐ近くで尻餅をついたままこちらを不安気に見つめるトビアスが目に入った。


「お前はあの金持ち坊やと知り合いなのか? だから助けたのか?」


返答はやはり沈黙だった。

ドンバスは笑った。


「まあそんなことはどうでもいい。とにかく、お前を新しい仲間として歓迎しよう」


その言葉にとうとう見えない相手は抗議した。


「断る。俺はそんなに暇じゃない。やらなきゃならない事があるんだ。他を当たってくれ」


「ふむ、口はきけるようだな。だったら選ばせてやる。このまま喉を斬られるか、仲間になるか。さっきので、力では俺に敵わないことがわかったろう。……なんならあそこにいる坊やを殺ってもいいんだぜ」


再び沈黙になった。しかしドンバスはこの沈黙に手応えを感じていた。


「名前はなんだ、答えろ」


有無を言わさない海賊船長の物言いに、彼は答えた。


「……ジャックだ。ジャック・ウィルソン」


「よおしジャック。今死ぬか、仲間になるかどっちだ」


くそ。ジャックは横目でトビアスの方を見た。

彼は自分が短剣を突きつけれていた時よりも、青ざめている。彼の顔が最後に見たシャルロットの不安気な顔と重なった。ここで死ぬわけにはいかないのだ。

ジャックは息を吐いて答えた。


「……わかった、仲間になる。そのかわり、他の連中は傷つけずに無事に航海させてやれ」


「それは保証しよう……多少金品はいただくがな」


ドンバス船長は満足そうに笑うと、ジャックから手を離し短剣をおさめて、自分が着ていた上着を脱いでジャックの方に放った。


「今はこれを着るんだ。どこにいるかわからなくなっては困るからな」


ドンバスはトビアスの方を向いた。


「若造、すぐにジャックの荷物を船室から持ってこい。命の恩人に餞別でもくれてやれ」


トビアスが駆け出していくのを見送ると、ドンバスは部下たちに向き直って声を張り上げた。


「金目の物をいただいて撤退だ! 誰も傷つけるんじゃないぞ」


命令が下ると、海賊たちは同意の声を上げ、乗客たちが身に付けている宝石や時計をその場で没収したり、船室から盗み出したりし始めた。


ジャックはそんな騒ぎを後ろ目に、上着を着ながら今後のことを考えていた。


「ジャックさん!」


呼ばれて振り向くと、船室から彼の荷物を持ってきたトビアスが駆け寄ってきた。


「ジャックさん、僕は……!」


トビアスは眉尻を下げてすっかり情けない顔をしていた。ジャックは荷物を受け取るといつもと変わらない調子で言った。


「そんな顔をするな、殺されるわけじゃない。俺は裏社会で生きてきたんだぞ」


トビアスは唇を噛み締めた。自分がとても無力に感じた。


「僕のせいです。僕がこの船を選んで、僕が海賊に目をつけられたから! それなのにジャックさんが連れて行かれるなんて……飛んだとばっちりだ」


自分を責めるトビアスの肩を、ジャックは優しく叩いた。


「いいや、そうじゃない。俺が透明人間だからだ。全てはそこが原因なんだ。それに君や他の乗客が海賊になるよりずっとましだろう。初めから俺が乗るべきだったんだ。だが、君にもしも頼めるのならーーこのまま1人でドマーニュへ行ってほしい。お父上の書物を手に入れたらそのまま街に戻って、役所で俺の……ピョートル・セルビーノの疑いを晴らしてくれないか。君に全部任せてしまって申し訳ないんだが」


ジャックの頼みに、トビアスは悲痛な面持ちで何度も頷いた。


「ええ、ええ、もちろんそうしますとも。あなたが大手を振って帰れるようにしておきますが……でも、シャルロットは? 僕は彼女に会わせる顔がありません。あなたの帰りを今もずっと待っているだろうに」


ジャックは彼女の顔を思い浮かべたように少し沈黙したが、ジャックはトビアスに向き直って言った。


「……シャルロットは強い。彼女なら大丈夫だと俺は信じている。ただ、危ない時は手を貸してやってくれないか」


トビアスは小さく頷いたが、心配そうに尋ねた。


「でも……でも、ちゃんと帰ってきてくれますよね?」


ジャックは微笑んだ。


「あたりまえだ。約束を破るつもりはない」


ふと目線を上げると上甲板のデッキ近くでドンバスが仁王立ちしてこちらを見ている。そろそろ行かねばならないようだ。


「シャルロットに伝えてくれ、遅くなるが必ず帰ると」


ジャックはそう言って踵を返そうとした。


「あ、待ってください!」


トビアスは彼を引き止めると、上着のポケットから金色に光る筒を取り出した。買ったばかりの望遠鏡だ。


「お守りです……持っていてください」


ジャックは少し驚いたが、快く受け取った。


「お守りにしては随分と高値だな」


「差し上げませんよ、高価な物なのでちゃんと返してください。壊さないで……絶対に帰ってきてください」


トビアスの言葉に、ジャックは笑った。


「なるべく傷つけないように心がける……では、シャルロットを頼む」


そうしてトビアスは泣きそうな表情でジャックの後ろ姿を見送った。






海賊船へと連れていかれたジャックは、まず乗組員らしい服を与えられた。さすがにトビアスの黒い紳士服や帽子、手袋を身につけているわけにはいかず、それらは船室の自分の寝床へしまい込んだ。服から飛び出ている顔や手足には、再び包帯を巻いた。こうして、ジャックは船客から海賊船の乗組員となったのだった。


ようやく支度を終えたところで、ジャックはドンバスが呼んでいると他の乗組員から言われた。

海賊船長は、後甲板で操舵手と海図を見ながら話をしていた。

ジャックの姿が現れると、彼はにやりと笑って操舵手に「そのまま進路を進めろ」と言うと、ジャックの方へ歩み寄った。


「来たな」


そして、ジャックを上から下へ眺めた。


「ふむ、包帯があるとますます不気味だ。一度見たことがあるが、エジプトの死体にそっくりだな」


何も言わないジャックに、ドンバスはため息をついた。


「何か言えよ。馬鹿にされてんだぞ、腹は立たねえのか?」


「……慣れた」


短い返答にドンバスは肩をすくめた。


「まあいいだろう。それよりもまずお前の正体は何だ。なぜ見えないのか言え。嘘はつくなよ」


ジャックは船長から視線をずらし、海を眺めながら答えた。


「昔、神を怒らせて、天罰をくらった。それ以来ずっとこの姿だ」


簡潔で解りやすく、同時に信じがたい内容に、ドンバスは目を瞬かせた。


「笑えないな」


「笑わせたつもりはない」


「そんな話を俺が信じると思っているのか?」


「思っていない。だが、俺は嘘は言っていない」


ジャックの真面目な口調に、ドンバスは目を細めて包帯の顔を見つめていたが、ほどなくして言った。


「ではお前は幽霊じゃなく、ほんとうに人間なんだな?」


「人間だ。刺せばちゃんと血が出る」


「……確かに、すでに死んでいるのならさっきの剣の脅しは通じねえか」


ドンバスは納得したように頷いて、甲板の手すりに手をかけた。


「俺が人質にとった、あのきんきらした若い男は連れだったのか?」


「そうだ。俺は彼とドマーニュへ行くつもりだった。やらなきゃならないことがあった……人を待たせているんだ」


ジャックの不満そうな口調に、全く悪びれずにドンバスは小さく笑った。


「そいつは運が悪かったな……お前はいつも、人から見えねえようにしているのか?」


「いや、普段は見える服を着て、こうやって包帯を巻いている。あの時はお前たちに目をつけられることがわかっていたから姿を隠した」


「ほう、俺がお前を仲間に入れたがると? 大した自信なこった」


「この姿になって長いからな。利用したがる人間には大勢会った」


ドンバスは口の端を上げた。


「すると、お前はあの坊やみたいにきれいな道を歩いてきたわけじゃねえのか」


「名前を偽って裏社会を点々として生きてきた。だがーーそれも、もう終わりにするつもりだった」


去年の冬、ジャックは各地に残る偽名での仕事を精算するとシャルロットと約束し、それを実行したのだ。

しかしドンバスは笑い声をあげた。


「終わりにするだと? そんな姿じゃ裏からは逃げられんだろう……そうか、それであの金持ち坊やが連れだったんだな。だが、なんでまた終わりにしたいだなんて思ったんだ? 今までずっと日陰暮らしだったんだろう?」


「……あんたには関係ない」


ジャックはそっけなく返してそっぽを向いた。余計な質問だったようだ。ドンバスはにやついた笑みのまま言った。


「まあ何にせよ、結局海賊に成り下がっちまったわけだ。腹を括って海賊稼業に励むこった」


ジャックはしばらくの沈黙の後、海を見つめながら言った。


「俺は海賊にはならない。あの時はどうしようもなかったが、不意をついてこの船から抜け出して、家に帰ってみせる」


ジャックの言葉にドンバスは目を見開いたが、また豪快に笑った。


「それこそ無理だ。この稼業は他と比べて条件が飛び抜けて良いから、やめられなくなるぞ。きっとそのうちこの船を降りたくないと思い始める。ましてやお前の姿は誰にも見えない。盗みのしがいがあるってもんだ。第一どうやって港から遠いこの船から降りる?」


「……簡単だ。透明になってお前を背後から狙えばいい」


「そんなことをすれば他の乗組員が黙っちゃいないさ。全員殺したところで、お前一人には船の操縦はできない。こんな海の真ん中で事を起こしてもお前が損するだけだぞ」


ジャックは顔をしかめた。

確かに、ドンバスの言う通りだった。いくらジャックが旅に慣れていようと、この大海原の真ん中で逃げ出すことは難しい。ましてや相手は熟練水夫たちだ。船は密航するばかりで操ったことのないジャックは、彼らより有利になる余地がなかった。


ドンバスはにやつきながら続けた。


「無茶を考えるのはよせ。そのうち一仕事終えたらお前を港に下ろすことも考えてやろう。だが、それまでは船長の俺に従ってもらうぞ」


ジャックは帽子の代わりのバンダナに手をやった。帽子でもなく包帯でもないそれは、ジャックにとって違和感があり、慣れるのに時間がかかりそうだった。彼は遠ざかる帰路を思い、水平線を見つめて息を吐いた。






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