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4. 正体

一段と冷たい風が吹く夜だった。

シャルロットはいつものように、門の前に立って遠くを見つめていた。時折強く吹きつける風は身体を刺すほどに冷たく、シャルロットを震えさせた。

真夜中まであと半刻になった頃、空からちらちらと白いかたまりが落ちてきた。召し使いがあわてて屋敷から飛び出してきた。


「シャルロット様! 雪ですよ、雪! 寒いと思いました。早く中へお入りになってください」


シャルロットは、遠くを見つめたまま言った。


「ええ、でも、もう少し……」


召し使いはとうとう声を張り上げた。


「なにがもう少しですか! 凍える前に入ってください。風邪をひいたらどうなさいます!」


シャルロットは残念そうに目をふせて頷いた。


「そうね……」


今日も来なかった。

シャルロットは肩を落として、召し使いの後に従い、屋敷の中へ入ろうとした。

と、その時だ。


シャルロットの耳に、雪で濡れた枯れ葉を踏みつける、かすかな音が聞こえた気がした。すぐさま振り返ると、そこには長い間待ち続けていた人物が、去年と変わらぬ姿でずっと前からそこに居たように立っていた。

シャルロットは驚きのあまり、声が出なかった。代わりに涙が頬をつたった。





ジャック・ウィルソンは、今朝この街にたどり着いた。

まっすぐシャルロットの屋敷へ向かっても良かったのだが、また彼女が誰かに罠に嵌められていないかと心配になったので、ピョートル・セルビーノとして状況を探った。


思えば一年前は酷な事を言ったものだ、とジャックは自分に呆れた。庇護の元で育った彼女に、強くなれだと! 無茶にもほどがある。メイドの仕事でも小間使いでもいい、無事でいてくれと祈るような気持ちで街を歩いた。

しかし、得た情報はジャックにとって予想外のものだった。

シャルロットはだれとも結婚していなかった。それどころか、父親の仕事を受け継ぎ、社交界ではこの辺りでは珍しい女性の商人としての地位を確立していたのである。

裏組織の人間の話では、彼女は顔も広く、街の役人や軍人ともよく交流しており、収益を利用することも難しいらしかった。悪事を企む者は彼女の周りにはいないようだ。その一方で、貧民街での活動も途切らせていないらしい。

去年会った時の彼女は、自分の叔父に好き勝手に利用されていた無力な娘だったのに、一年間ですっかり変わったようだ。ジャックは不思議でならなかった。探りを入れて仕入れた情報からは、去年のシャルロットの弱々しさは欠片も感じられなかった。もしや彼女は性格まで変わってしまったのだろうかーー俺との約束は覚えているのだろうか。

それさえも危惧しながら、ジャックはシャルロットの屋敷に出向いたのである。





雪を頭に被りながら立ちつくしている目の前の彼女は、紛れもなく去年のままのシャルロットだ。いや、前より少し大人びた姿になっているかもしれない。

ジャックは、シャルロットが自分を拒絶することを恐れ何も言えずにいたが、彼女の目から涙が溢れると、動揺したように駆け寄った。


なぜ泣いている。なぜこんなところで雪を被るまで立っているんだ。

頭に浮かんでくる疑問は、拒絶を恐れるジャックには言えなかった。無言でポケットから一番清潔な布きれを取り出して彼女に差し出す。彼女は少し目をぱちくりさせたが、それを見てとても嬉しそうに微笑むと、布ごとジャックの包帯の手を握った。

そして濡れた目で彼を見上げ、大きな琥珀色の眼鏡の奥を見つめて言った。


「やっと……やっと、お会いできましたね」


その言葉に、ジャックはその言葉に息をのんだ。


「シャルロット、君は……」


ジャックは言いかけたが、シャルロットが寒さに震えていることに気がついた。


「とにかく、外は寒い。中に入れてくれないか」




*************************




ジャックは暖炉の火が燃える暖かい客間へと案内された。


「夕食は召し上がりますか?」


召使いの言葉にジャックは首を振った。


「いや、今日はすませてきたから大丈夫だ。用意してもらっていたのなら申し訳なかった」


ジャックは、シャルロットがすっかり商人として風格のある人物になったという町の噂から、屋敷に入れてもらえない可能性も考えていた。結婚はしていなくても、恋人ができたかもしれないと思ったのだ。情報を探るばかりで、屋敷に赴くことができず、ぐずぐずしているうちに結局真夜中になってしまった。

もっともそのような心配はいらなかったようで、ジャックは召使いの手を煩わせてしまったことを詫びた。


代わりにシャルロットは温かい飲み物を持ってくるよう召使いに頼んだ。


「シャルロット様は、ここのところ毎晩ずっとああしてあなたをお待ちになっていたんですよ」


部屋を出て行く前に、召使いが女主人に聞こえないよう、ジャックに囁いた。


彼らが出ていくと、ジャックはシャルロットを暖炉の暖かい火にあたるように導いた。


「外で待っていたとは。風邪をひいてしまうじゃないか」


少し怒ったような口調で言うジャックに、シャルロットは火に手をかざしながら嬉しそうに笑ってジャックの方を見た。


「だって、早くあなたに会いたかったんですもの……お変わりありませんね、ジャックさん」


彼は初めてこの屋敷に来たときと同じように、2年たった今も帽子もコートも身につけたままだった。

ジャックも少し笑って言った。


「俺は変わらないが、君はずいぶん変わったらしいな。街でも噂になっていたぞ、この辺りでは珍しい若い女商人がいると」


シャルロットは少し照れたようにふふふと笑った。


召使いが飲み物を運んできた。風邪の予防になる暖かいハーブティーだった。

2人は向かい合って長椅子に座った。


召使いが再び部屋を出て行くと、ジャックはハーブティーを少し飲みカップを両手で包み、きちんとシャルロットに向き直って言った。


「さあ、君のこの一年間の頑張りを聞かせてもらおうじゃないか」


シャルロットはにこにこと嬉しそうにしながらカップの中身を飲み干すと話し始めた。


ジャックが家を去ってからすぐ父親の友人を訪ねたこと、社交界に参加するようになったこと、商業の難しさを感じたこと、そして初めての友人のこと。

シャルロットは嘘偽りなく全て話した。誰よりも心を許しているジャックには、今まで誰にも言えなかったつらかったこと、悲しかったことも全て吐き出していた。

時間はとうに深夜を過ぎていたが、シャルロットの話をジャックも熱心に聞いていた。


「……それからずっと私はジャックさんを待っていました。あなたの妻にふさわしい女に、少しでも近づけたのではないでしょうか」


長い長い話が終わると、ジャックは改めてシャルロットを見た。

この一年でやはり彼女は変わった。自立心が芽生え、行動力に長け、何事に対しても臆することがなくなった。自信に満ち溢れる強い女性に成長したのだ。それは、元々温和で明るく天真爛漫だった彼女をさらに魅力的にさせていた。

そんな彼女を目の前にして、ジャックはやはり彼女は自分にとって高嶺の花だと感じた。

去年彼女と約束したからと、あちこちの場所での仕事を全て片付けてこの街にやってきた。

だが結局のところ、過去は消せないのだから、こんなに清廉潔白な彼女と一緒になるなど、自分にはおこがましいと思った。せっかく社交界で立場を確立したのに、正体不明の男と結婚するなどそれこそ嘲笑の的になるだろう。

それに、彼女には自分の秘密を明かしていない。

彼女には絶対正体を知られたくなかった。彼女にだけは、嫌われたくなかった。

シャルロットは自分と結婚するために強くなったと言うが、もしかすると結婚しなければならないと足枷にしてしまっているかもしれない。

結婚は、もともと自分を守れない彼女のために勧めたのであって、今となっては彼女は誰かと結婚する必要はないし、自分で相手を選ぶこともできるだろう。




「結婚のことだが――やはり俺とはやめた方が良い」


予想外のことを言ったジャックに、シャルロットは目を見開き、思わず立ち上がった。


「どうしてですか? 去年約束なさったではありませんか!」


「それはそうなんだが……」


「約束は必ず守るのでしょう? 私が強くなれば娶ってくれると言ったことをお忘れですか!」


立ち上がったままのシャルロットの剣幕に、ジャックは少したじろいだ。

なぜそこまで俺と結婚したがる? 彼女は一体俺のどこが良くて結婚したいなどというのだろう。窮地を救ったからそこに義理を感じているのだろうか。


ジャックも彼女を説得しようと立ち上がった。


「確かにそう言ったが……俺は命を救ったことで君に恩を着せたつもりはない。結婚は君にとって大事なことだ。約束したからと言って無理に従わなくても……」


シャルロットは目をぱちくりさせた。


「無理にだなんて思ってません! 確かに恩は感じていますが、それとこれとは別です。私はあなたと結婚するために自立しましたのよ、私と結婚してください!」


訴えるように言ってからシャルロットははっとした。

こんなに強制的に結婚を迫る女性なんて、まるで社交界の令嬢たちみたいじゃない。

少し落ち着こうと息を整えてからシャルロットは長椅子に座り直すと、ジャックも腰を下ろした。

そして少しの沈黙の後、再び彼は言った。


「結婚はできない」


「……どうして? そんなに私と結婚したくないのですか、そんなに私が嫌いなのですか?」


シャルロットの傷ついたような顔に、ジャックは慌てた。


「いや違う、そうじゃない! 俺だって君のことが……!」


ジャックは途中まで言って、しまったと口を閉ざした。

言葉にするのは初めてだったが、今の自分の言葉は取り消すことはできなかった。

シャルロットは息が止まった気がした。


「私のことが……なんですの」


ジャックは頭に手をやって言った。


「初めて会ったときから、君には惹かれていた。それは今もずっと変わらない。だが……」


ジャックはうなだれた。


「君とは結婚できない。俺は、自分の姿を君に明かすことはできない」


「あなたの姿?」


シャルロットは首を傾げた。

ジャックは頷いて帽子を取った。首から顔をだけでなく、頭のてっぺんまですっかりと包帯で覆われている。目元に大きな色眼鏡があることで輪をかけて不自然だった。


「君はまだ俺の顔を見ていない。見ればきっと化け物扱いする。だから見せたくないんだ。顔も知らない男に嫁ぐわけにもいかないだろう」


シャルロットはそれを聞いてどきっとした。確かに彼はいつも手足含めて身体全てに包帯を巻いている。顔どころか、肌の色も一度も見たことがなかった。


「戦地に行かれたのですか? それとも異国で……?」


酷い怪我の跡が残っているのかと思ったシャルロットの問いに、ジャックは自嘲するように答えた。


「いや、戦争には参加していないし、異国でやられたわけでもない。もうずっと、旅をする前からこの姿だ」


ジャックの今のこの姿は、趣味でも異国文化でもなく、ほんとうの姿を隠すためなのだろう。

シャルロットはそう悟ると考えた。

もしあまりにも恐ろしい素顔で悲鳴をあげてしまったらどうしよう。ジャックは去ってしまうかもしれない。きっと結婚は断念されてしまうだろう。

だが、シャルロットはどうしてもジャックと結婚したかった。彼の気持ちを知った今、絶対に引き下がるわけにはいかなかった。シャルロットは腹を括った。


「包帯を取ってください」


「な、なんだと?」


ジャックは耳を疑った。


「あなたの言う通り、顔も知らないのに結婚するわけにはまいりません。素顔を見せてください」


「断る」


ジャックは首を振った。

ジャックにとって、シャルロットはこの世でただ一人自分に想いを寄せてくれている女性だ。また、世界を旅して来たが、こんな風に心を許せる女性は今までいなかった。その彼女が自分の素顔をみて、もう口をきいてくれなくなったらと思うと耐えきれない。嫌われるくらいなら、結婚などせず友人のままでいたかった。

しかしシャルロットは真剣なまなざしで言った。


「私はあなたの妻になりたいのです。包帯を取って顔を見せて」


「嫌だ。絶対に見せない」


しばらく2人の間で、見せろ、見せないの押し問答が続いたが、とうとうジャックが折れた。


「……よし、わかった。そんなに言うのなら見るがいい。だが、俺は今夜ここに泊まらせてもらうぞ。君がいくら悲鳴をあげて嫌がっても、それだけはゆずらないからな」


シャルロットは深く頷いた。

ジャックは椅子から腰を上げて、シャルロットの真横に立った。シャルロットも立ち上がって彼の正面を向く。

ジャックは意を決したように小さく息を吐くと、首からあごにかけての包帯をほどきはじめた。

シャルロットはそれを目の前で真剣な面持ちで見守った。

火傷の痕が酷くたって、鱗が生えてたって、怖がるものですか。シャルロットはどんなに恐ろしい姿でも受け入れようと覚悟していた。


しかし、包帯の下から現れた身体は、毛むくじゃらでも、ぬるぬるした液体でもなかった。


何もなかった。


彼が包帯をだんだんと解いていくうちに、彼の向こうのクローゼットが見えるのである。そう、まるでそこに彼がいないかのように。


シャルロットは驚きのあまりに目を見開いた。

あごまで巻き取り口の上まで届くと、ジャックはついに脱落して手を止めた。

シャルロットは口をぽかんと開けたままだったが、かすれた声で言った。


「あ、あなた……」


次の言葉が出てこない。

そんな彼女に、ジャックは半分やけっぱちになり、自嘲するように言った。


「そうだ、俺は透明人間だ。頭から足の先まで何も見えない。これで俺が全身に包帯を巻き、帽子とコートをいつも着ている理由がわかっただろう。俺が旅をする理由が。名前がたくさんある理由が」


ジャックが投げやりな言葉を発しても、シャルロットはただ彼を驚きの目で見つめるだけで、何も言わなかった。悲鳴はあげなかったが、きっと恐ろしくなって何も言えなくなってしまったのだろう。今に結婚は考え直しますと言い出すに違いない。

ジャックは無性に怒りが立ち込めてきた。

くそ、これで俺はまた帰る場所も友人も失った。全てだいなしにするのはいつもこの身体だ!


シャルロットは何も言わなかった。だがしばらくすると無言のまま彼に歩み寄り、その透明の首におそるおそる手を伸ばした。


「お、おい……!」


ジャックはシャルロットの行動にたじろいだが、彼女はかまわずに見えない彼の首に触れた。確実に肌に触れ、人間の体温の温かさを感じた。

シャルロットはほっとしたように胸を撫で下ろした。目には見えないが彼はここに存在するのだ。触れることだってできる。


「……よかった」


シャルロットの口から安堵の笑みが漏れた。

ジャックは彼女の言動に戸惑った。


「よ、よかった? 何がだ?」


シャルロットは手を下ろして言った。


「あなたの姿が見えないとわかった時、私は幽霊と結婚の約束を交わしたのかと思いました。命を落とさなければ、幽霊とは結婚できませんもの。でもあなたはほら、ちゃんと人間としてここに存在していますわ!」


シャルロットは嬉しそうに笑った。「ああ、よかった」と、心底安心しているような様子に、ジャックは納得できずに言った。


「何を言っている? 確かに生きているが、俺の身体は見えない、透明なんだぞ!」


「そうね、とてもびっくりしました。でももっと恐ろしい姿を想像していましたから」


彼女の落ち着いた態度が、ジャックは信じられなかった。


「今まで俺は悪魔の手先だとか、悪霊だとか、化け物だと言われてきた。多くの裏組織の連中に恐れられてきたんだ、あのおいはぎも、君の叔父上にもだ! こんな姿を見て、何とも思わないはずがないだろう、強がるな」


「恐ろしかったら、怖いと言いますわ。私、ほんとうに怖いと思ったら震えて動揺してしまいますもの、あなたはご存知でしょう? それに」


シャルロットは微笑んだ。


「彼らが恐れている人が私の味方なんて、とても心強いわ。おいはぎも、叔父様も、私にとってはあなたの何倍も恐ろしいもの」


シャルロットはジャックに向き直ると、彼の右手を両手でしっかりと握って真面目な顔で言った。


「身体は見えないけれど、ジャックさんはジャックさんだわ。私は、あなた以外と結婚するつもりはありませんのよ」


ジャックは、シャルロットの真剣な顔を食い入るように見つめていた。


「本気で言っているのか……? 俺でもかまわないと?」


ジャックの問いにシャルロットは笑った。


「あなたでなければ嫌だと言っているでしょう。私もあなたをお慕いしています」


シャルロットの言葉に、目を見開いてジャックはよろよろと後ずさった。


「この姿を見ても? ほんとうに?」


ジャックのしつこい問いに、シャルロットは微笑んで頷いた。

ジャックは、首を振った。


「信じられない、こんな俺を……」


化け物扱いされるような自分を慕ってくれるなんて。

ジャックは再度、シャルロットの真剣なまなざしを見つめ直した。包帯と琥珀色の眼鏡越しなのにもかかわらず、シャルロットはジャックの瞳を見透かしているかのようにまっすぐとこちらを見ている。ジャックを想う、きれいな目だった。こんな目で見てくれるのは世界できっと彼女しかいないだろう。

ジャックは意を決すると、両手で彼女の両手を取った。


「ほんとうに……ほんとうに俺でいいのなら、シャルロット。俺は……君を妻にしたい。生涯君を……君を愛すると誓う」


彼の表情を伺うことはできなかったが、手を取られたシャルロットは、彼の目元を見て心底嬉しそうに頷いた。


「はい!」




******************




次の日、ジャックとシャルロットは中心街に指輪を買いに行った。シンプルなデザインだったが、シャルロットは嬉しそうに頬を染めた。準備を整えるために式は明日と定め、シャルロットは屋敷の召し使いやメイド達を集めて、ジャックを改めて紹介した。ジャックは自分の正体は明かさなかったが、それでも召使いたちは彼を暖かく歓迎した。ジャックのことは、シャルロットの父、セドリックが生きていた頃からの客であったから知っていたし、シャルロットを窮地から救ったことや、屋敷を取戻させたこと、絶望していた彼女に希望を与えたことは、若い女主人から十分に聞かされていた。そのため、ずいぶん前からジャックを受け入れる体制は万全であった。




夜になって、召し使い達も寝静まったころ。ジャックは客用の部屋のベッドで、眠りについていた。ここを寝床とするのは今夜が最後で、明日の結婚式を迎えてから、正式な主人用の部屋を使うことになっていた。


ジャックは恐ろしい夢にうなされていた。自身の姿が見えないだけでなく、物に触れることすらできなくなってしまう夢だった。声を発することもままならなくなり、シャルロットに気づいてもらえなくなってしまうのだ。シャルロットはジャックが出て行ってしまったと勘違いし、雪の降る中、門の前でジャックの帰りを待っているが、ジャックが彼女の隣に立って叫んでも手を掴もうとしても、気づいてもらえない。

叫んで、叫んで、ようやく声が出たと思ったとき、ジャックはベッドから突然起き上がり、夢から醒めた。


真冬だというのに、汗が滲み出ていた。ジャックは一息つくと、ベッドから出て、帽子やコート、テーブルなど手当たり次第に触って感触を確かめた。よかった……触れることができる。

ジャックは空気を入れ替えようと、窓を開けた。冷たい冬の風がすうっと部屋に入り込んでくる。今夜は雪は降っておらず、珍しく雲の少ない夜で、明るい月の周りで星が輝いていた。

と、その時だ。


「ジャックさん?」


上から小さな声が降ってきた。

見上げると、月明かりの下、ジャックの斜め上のベランダから、シャルロットがこちらを見下ろしている。


「シャルロット……? どうした、眠れないのか?」


シャルロットは頷いた。


「ええ、なんだか寝つけなくて。ジャックさんは?」


「俺は……その、夢見が悪くて、外の空気を吸おうと思ったんだ」


ジャックは深刻そうな顔で言ったのだが、シャルロットはくすりと笑い声をあげた。


「ジャックさんでも夢にうなされるのね」


ジャックは彼女の笑いのおかげで恐怖心が少し安らいだ。


「今までろくな仕事をしていないからな。悪夢はよく見るんだが、今回のは応えた」


シャルロットはそんなジャックを見下ろしてまだ笑っていたが、やがて笑いを収めると、少し考えてから言った。


「あの、あのね、ジャックさん」


ジャックがなんだと言うように彼女の顔を見上げる。シャルロットは言った。


「ジャックさんは今まで、あちこち旅をしてきたでしょう? 苦労した話も少しきいたけど、それでも何にも縛られることのない、1人の自由な旅はいいものだっておっしゃってたことは覚えているの」


ジャックは頷いた。2年前に食事の席でしつこく旅の話をねだられて、舌が痛くなるまで話したことは覚えている。

シャルロットは続けた。


「それで……昨日の夜は、ああ言ってくださったけど、ほんとうは、ジャックさんは旅ができなくなるのは嫌なのではと思ったの。結婚してしまったら、あなたから自由を奪ってしまうと……」


それからシャルロットは黙り込んでしまった。昨日の夜、結婚しろと迫ったあの強気はすっかり失われている。ジャックはふっと笑って言った。


「俺がなぜ旅をするようになったのかを話そうか。楽しい話じゃないが」


シャルロットはきょとんとした顔をしたが頷いた。


「きかせてください」


ジャックは視線をシャルロットから遠くの山々の景色に移して、自身の身の上話を始めた。


「俺は、生まれはイングランドだった。ウィルソンの名前はそこから来ている。だが、親の顔は見ていない。母親は俺を生んですぐに死んだときいただけだ。その後すぐに、フランスの田舎に住む貧しい叔父の家に預けられて育ったんだが……ろくな暮らしじゃなかった。叔父は働かず酒ばかり飲んでいたから、俺は12でその家を出て、伯爵の屋敷で奉公して暮らしていたんだ」


シャルロットはなるほどと頷いた。

ジャックの立派な物腰や丁寧な口調、そして礼儀は、どうやらこの奉公で身についたらしい。


ジャックは続けた。


「17のとき、奉公先の奴隷の1人が泥棒をしたと騒ぎになった。実際盗んだのはその奴隷ではなく、隣家の人間だったらしいが、屋敷の主人や召使いはその奴隷が犯人だと決めつけた。そして“やった”と言うまで、縄で縛り鞭を打ち続けるという始末だった。俺はそれが耐えきれなくて、彼を逃がしてしまった。当然主人は怒り、俺も彼と同様、鞭で打たれ身体がぼろぼろになるほど酷い目にあった」


ジャックはそのときのことを思い出して顔を歪めた。あれだけされて、よく生きていたものだと自分でも感心する。


「散々鞭打たれた後、動けないままの俺は荒野に投げ出されて放置された。そのとき俺は、天に向かって罵った。権力者の一言で誰かの生き死にが決まるというのなら、俺をその立場に就かせてみろと。超人的な力でも身体でも何でもいいから、誰からも恐れられる人間になりたいと心の底から願った……死ぬほどそう祈ったんだ。すると突然雷鳴が轟き、空から雷が降ってきて俺の身体に直撃した。そして目が覚めたとき、身体も着ていた服もすべて見えなくなっていた。俺は透明人間になっていたんだ」


ジャックは更に続けた。


「初めはその状況は便利だと思っていた。何をしても気づかれない、存在を知られないということが。しかしその考えはすぐに消えた。姿が見えないと誰にも気づいてもらえない。自分が存在しているのかさえわからなくなった。包帯を巻いて帽子をかぶり、眼鏡をかけてコートを羽織ることで、俺は自分の存在を必死になって証明しようとした。目覚めて包帯をとったら肌が見えるのを何度夢にみたことか。天に向かって許しを乞うてみたこともあった。だが、だめだった。俺は行き場を失って、旅に出た。旅をするしかなかった。素顔の見せない男がまっとうな仕事につけるわけがなく、裏の社会で生きていく道を辿った。名前を変えていろんな国でいろんな仕事を引き受けた。それこそ君に言えないような、この身体だからこそ、できることをな」


そう、なんでもやった。金を手に入れるために、生きるために、自分が彼らから存在を認められるために。


「裏社会の奴らからは恐れられた。俺に逆らう者は誰一人いなかった。それこそ超人的な身体のおかげで、自分が願った権力者の地位を手に入れたんだ。……だが、俺には行き場がなかった、安心して帰れる場所が。人と同じように宿を求めれば煙たがられ、誰もが正体を探ろうとした。若い時はすぐに素顔に気づかれて悪魔と騒がれて捕まった。もちろんこの身体だから逃げることは簡単だったが、素顔を見せない人間には、人は冷たいものだとひしひしと感じた。あらゆる人から恐れられ、敬われたが、笑顔で受け入れてくれる者は誰一人としていなかったんだ」


今でこそ“悪魔”という二つ名を便利に活用しているが、言われて間もない頃はひどく応えた。その名で呼ばれるようになることに違和感を感じなくなったのは、正義感が薄れ始めた頃だろうか。笑い飛ばせるようになったのは人を殺める仕事をしてからだろうか。

いずれにせよ、ジャックは時を重ねることで人として扱われないことに慣れてしまっていた。どの街でも、ジャックに対する待遇は同じであった。


「だからシャルロット、俺は君には驚いた。金も払っていないのに、あんなに親切にされたことなんてなかったんだ。目を背けないで真正面からしっかり見据え、人として会話してくれたことに、俺は自分の中の人間味が蘇るのを感じた。君が俺に微笑む度に、自分の魂が救われている気がした。こんなことをいうのは大げさかもしれないがほんとうだ。君が2年前に“来年また来るのを待っている”と俺に言ってくれた時、俺がどれだけ嬉しかったか。この姿になってから帰る場所を与えてくれたのは君だけだ。君だけなんだ、シャルロット。俺は君が友人として受け入れてくれるだけでも幸運だと思っていた。恋人だなんて露ほどにも期待していなかった。それなのに、俺の妻になりたいだなんて――」


初めて会った時はただ物珍しさと好奇心だと思っていた。2回目のときは父親が亡くなった心細さから。しかし、3回目の今になって、正体を知ってもなおシャルロットが心から自分を望んでくれていることを知った。


ジャックは、シャルロットを見上げて言った。


「結婚が嫌だなんて思っていない。俺にもそういう幸せが許されるというのなら……旅なんかせずに、ずっと君のそばにいたいと思っている」


と、見上げたジャックの顔に何かが降った。シャルロットの涙だった。


「わ、私………」


ジャックの孤独は彼女にとって計り知れないものだった。苦労してきたのであろうことはわかっていたが、それでもシャルロットの想像をはるかに超えていた。

初めて会ったときから、経験豊かなジャックにとって自分はなんてちっぽけなのだろうと思った。だから未熟で子どもじみた小娘とほんとうは結婚したくなかったのではとさえ考え、なかなか眠れなかったのである。

でもジャックさんは、初めから私のことを大切に思ってくれていたのだわ。自分のことで精一杯なはずなのに、二度も私を救ってくれた。私を強い人間になるように押し上げてくれたのだわ。シャルロットは、今度は自分が彼を支えたいと心から思った。彼の抱えきれない苦労を、少しでも自分にも背負わせてほしいと思った。


シャルロットは涙をぬぐい、咳き込んで鼻をすすると、少し息を吐いてから微笑んで言った。


「私こそ、あなたのような方に出会えて、ほんとうに幸せだわ……。良い妻になるよう頑張ります」



それから2人はそれぞれの部屋でベッドに入って眠りについた。外は冷たい風が吹いていたが、2人の心は暖かい日差しに包まれていた。




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