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3. 「強くなる」

ジャックが再び旅立つのを見送ったシャルロットは、その後すぐに父の書斎の整理にかかった。

叔父は金目の物以外は手をつけなかったようで、本棚は無事だった。シャルロットは仕事机の中から父親の仕事仲間らしき者たちのリストを見つけ出した。

懐かしい父の文字を読むと、シャルロットは少し心があたたかくなるのを感じた。書かれている父の仕事の友人たちは親切な者ばかりで、葬式のときも泣いてばかりいた彼女に慰めの言葉をかけてくれたのだ。中でも特に目をかけてくれたのは、セドリックと並ぶほどの豪商であり、父の良き友人、良きライバルでもあったエドモン・ベルジェ氏である。ベルジェ氏は、父親が亡くなり叔父に屋敷を奪われて途方にくれていたシャルロットを、小間使いとしてではあるが住み込みで雇ってくれたのだ。


 彼ならきっと父の仕事について何か教えてくれるかもしれない。シャルロットは、再びベルジェ氏の屋敷を訪れた。


「やあ、シャルロット! 突然辞めると言い出したときは驚いたよ」


 客間で紅茶を飲みながら待っていたシャルロットは、屋敷の主人がにこやかに現れると、しっかりと儀礼通りの挨拶をし、深々と頭を下げた。


「この度は突然辞職願いを申し出ることとなり、申し訳ありませんでした。旦那さ……ベルジェ様のお気遣いでこのお屋敷において下さったのに、私は挨拶もそこそこで」


3ヶ月のみであったが、すっかり慣れたベルジェ氏の屋敷ではシャルロットはまだ小間使いのときの癖が抜けずにいた。


ベルジェ氏は笑って言った。


「いやいや、あなたは元々そのような身分じゃないだろう。お父上が生きていた頃のように、“ベルジェさん” と呼んでくれ、前はそう呼んでくれたじゃないか。しかし、あなたがセドリックの屋敷を取り戻せてほんとうに良かった」


 ベルジェ氏は、友人セドリックの娘であるシャルロットが貴族と同等に育てられたのにもかかわらず、屋敷も財産も全て失い路頭に迷うのを黙って見過ごすことはできなかった。聡明な彼は、友人の死には彼の弟が一枚噛んでいるのは薄々気づいていた。しかし、家族間のことに口出しすることはできない上に、裏稼業に詳しくないこちらが関われば、悪い影響が及ぶのは明らかだった。解決できない代わりに彼ができるのは、残されたシャルロットに衣食住を与えてやることだけだったのだ。


「屋敷と財産がいくらかあれば、この先も安心だ。あなたのような気立ての良い令嬢なら結婚相手もすぐに見つかるだろう。私が後見人になって良い男を探し……」


「ベルジェさん」


シャルロットは遮って言った。


「実は、今日は今後のことで相談があってお訪ねしましたの。結婚ではなく……お仕事のことで」




****************




ベルジェ氏は苦い顔でシャルロットの話を聞いていた。

シャルロットの話が終わった後も、ベルジェ氏は口を閉ざしていた。そのうちにメイドがやって来て、空になったポットを新しいものに取り替えて注いでいった。それを一杯飲むと、ベルジェ氏はようやく口を開いた。


「女の身で……それもまだ幾重もいかない歳で商会を営むのには、それなりの苦労が必要だということはわかっているね? 絹織物の商会はこの町では特にライバルの多い世界だ、もちろん私も含めて」


「覚悟はできております。それでも私は、父の打ち立てた商会で、自分自身で生計を立てたいのです」


シャルロットは緊張しながらも真剣な顔つきで頷いた。もう決めたのだ、守ってもらうだけの自分にはならないと。ジャックの妻になるにはその条件を乗り越えなければならない。


シャルロットの強い決意をあらわにした目を見ると、ベルジェ氏は微笑んだ。


「……似ているね。今のあなたはセドリックにそっくりだよ」


シャルロットは目をぱちくりさせた。

生前父からも、また周りの人間からも母に生き写しのようだと言われてきたが、父に似ていると言われたのは初めてだ。それに茶色の目は母譲りだ。


戸惑った様子の彼女に、ベルジェ氏は笑って言った。


「意思の強い目をしているということだよ。セドリックは、こうと決めたら引かなかった。これでも私は見る目があるんだ。あなたも彼と同じように商業に向いているかもしれないね」


ベルジェ氏の暖かい言葉にシャルロットの緊張していた顔はみるみるうちに満面の笑みになった。頭ごなしに否定されることを覚悟していたが、やはり彼は父の友人だった。


ベルジェ氏は続けた。


「幸いなことに、パーシーズ商会の絹織物の工場は私が保持している。その運営から始めるといい。もちろん、私はあなたとライバルの立場だから、コツや秘訣は教えることはできないぞ。私が教えるのは、あくまで商業のあり方、基本だ。それでもいいなら、手を貸そう」


シャルロットは深く頷いた。


「ありがとうございます!」




****************




こうしてシャルロットは慣れないながらも彼から商業を少しずつ教わり、絹織物の工場の運営を始めた。ひとつ学んでは失敗の繰り返しを重ねて、商いというものを学んでいった。しかし、父の商会を受け継いでいるとはいえ、一から始める知り合いもいない平民の娘にすぎず、先は長いように感じた。父と比べて自分は人脈に乏しすぎる。商業は人と人とのつながりと、信用で成り立つ仕事だった。社交界に参加していなかった彼女には顔見知りの輪が小さすぎた。


そこでシャルロットは、今まで近づかなかった舞踏会やお茶会に参加することにしたのだ。社交界には、貴族の他にブルジョワ階級の者たちも集い、それぞれの事業の話が聞ける絶好の場でもあった。

シャルロットと同じ年齢層の令嬢たちは、彼女が懸念していた通り、貴族の子息の噂話ばかりで、シャルロットにとってはどの話題も参考にはならなかった。商家の娘である彼女らは貴族の子息との婚姻を狙っている。舞踏会には、事業の客を探しに来ている人間もいたが、この年代では結婚相手を探しに来ている人間の方が多いのだ。

 シャルロットは、今までの数少ない舞踏会の参加時にいたその令嬢たちの輪から外れ、一回り高い年齢層にベルジェ氏を通して知り合いを作った。

もちろん、若い平民の娘が商いの話などと眉を顰める者は多かったが、父セドリックの顔見知りもたくさんいた。父の頃からの得意先の仕立て屋は引き続き生地を購入すると快く約束してくれた。はじめは彼らはシャルロットが後を継ごうとしていることに驚いた様子だったが、ベルジェ氏のように応援してくれる人間もおり、顧客の紹介にまでに至ることもあった。こうしてシャルロットは少しずつ商業につながる友人を作っていった。


シャルロットは社交界に参加するようになって改めて感じた。ここには、商いの面でも貴族子息との恋愛騒動の面でも、人を蹴落として利益を得ようとする人間がたくさんいる。誰かが策略して罠に嵌り、社交界に出て来れなくなるという者も少なくない。新しい顧客が現れると、シャルロットは必ずベルジェ氏に相談するようにしていたので、危険な目にあうことはなかったが、父が亡くなり叔父の一件があってからシャルロットは用心深くなった。そのうちに生地を売るとき、ほんとうにその相手を信頼できるのかと自分で調べるようになった。まさかこの人が、と悪事を企む人間が堕落していくのを見送ったこともあった。裏稼業の人間は社交界にはびこっており、うまくすり抜けて商業を営むのは至難の技であった。

やはり社交界は好きにはなれない場所だ。


唯一の安らぎは、貧民街の子どもたちと戯れることだった。シャルロットは週に一度、貧民街を訪れて飢えに苦しむ子どもたちの面倒を見ていた。父が生きていた頃に比べて収入はわずかだったが、それでもシャルロットは自分の食費を削って子どもたちのために使った。


ある夜の舞踏会でのことだ。

シャルロットは、例のごとく貴族の紳士を囲んで争っている女性たちを無心に眺めていた。

すると、一人の男性に声をかけられた。


「馬鹿らしいと思いませんか? 金のことしか興味ない、あの貧しい男の気を惹こうとするなんて。自分で稼ぐ脳もないくせに」


シャルロットは眉を潜めて彼の方を見た。

少し癖のある顔をしていたが、青い目が印象的な若い男が、シャルロットの目線の先を鼻で笑って見ていた。


「あら、そうなんですの」


シャルロットの返答はそっけなかったが、彼は続けた。


「その点、私は商人だが今は金自体には興味がない」


「あら、商いをしている方がお金以外の何に興味をお持ちなの?」


彼はシャルロットの目を見て、美しい笑顔を向けた。


「あなただ」


シャルロットは呆れて天を仰いだ。案の定と言ったところね。


「まあ。そういう口説き文句で多くの女性を虜にしているのね」


彼はいたずらっぽく笑うと言った。


「そんなところです。でもあなたには下心も何もなく興味があるのです」


「そうですか。私は気分がすぐれないので失礼いたします」


シャルロットはそう受け流して踵を返しその場を去ろうとしたが、次の男の発言で動きを止めた。


「木曜日の夜、貧民街でパンを配っていたでしょう」


シャルロットは振り向かずに立ち止まって言った。


「……見ていらっしゃいましたの」


男は笑顔で背を向けたままのシャルロットに言った。


「偶然見掛けたんですよ。以前舞踏会であのベルジェ氏と話しているのを見かけたので、あなたの美しいお顔は覚えていたんです。貴族の建前でもあるまいし、なぜあのような者たちにそんな施しをなさるのですか? 今のパーシーズ商会がそこまで利益を得ているとは思えませんが」


「あなたには関係ありません」


ずいぶん失礼な男だ。

シャルロットはいらいらしながらそっけなく答えた。しかし、男はかまわず「もうひとつ腑に落ちないことが」と話を続ける。


「あなたはパンを配っていた時、庶民と同じような粗末な服を身に付けていた。今夜のようなドレスとはいいませんが、亡くなったとはいえパーシーズ氏の娘さんならもっとましな服があるはずだ。なぜです、なぜあのような格好を? まるで彼らに溶け込んでいた。あれでは慈善家としてのステータスにはなりませんよ」


シャルロットは社交界の人間に自分の活動を知られるのは嫌だったし、口出しされるのはもっと嫌だった。


「あなたには関係ありませんと言ったでしょう」


と言って今度こそ立ち去ろうとしたが、男は強引にもシャルロットの手首をつかみ、振り向かせた。


「どうして話してくれないのですか? 何か言えないことでも?」


シャルロットはその無作法に怒りが込み上げてくるのを感じた。


「ずいぶんと失礼な方ね。あなたの名前さえ知らないのに、なぜそんなことを話さなければならないの?」


彼は自己紹介がまだだったのにやっと気がついたのか、はっと手を離した。


「これは失礼、マドモワゼル。私はトビアス・ホプキンスです。ただの好奇心から、わけを知りたいだけですよ。どうか理由を教えていただけませんか」


丁寧な言い方に、シャルロットは仕方ないとため息をついて言った。


「理由なんてものじゃありませんわ。あなたはご存知ないでしょうけど、貧民街に住む方々はごてごてと着飾った人間を忌み嫌っているの。ですから、彼らにはこんな格好では近づけません。ただそれだけですわ」


そう言ってその場を去ろうとしたが、またしてもトビアスに手首をつかまれた。


「ちょ、ちょっと、待ってくださいよ」


シャルロットは怒りを隠そうともせずに言った。


「まだ何か?」


「どうしてですか? あなたには何の利益もないのに、どうしてあのような者たちにパンを?」


この言葉にシャルロットの怒りは頂点に達した。


「彼らが飢えて困っているからでしょう!最近また税が上がったことはご存知? あなたのような人がいるから、貧民の資産家に対する憎しみが大きくなっていくんです!」


最後の方は八つ当たりも含まれて怒鳴り声になっていたが、周りが音楽と人の声で静かではなかったため、周りからは注目を受けずにすんだ。

シャルロットはトビアスの手を乱暴に振り払った。


「あなたとは関わりたくありません。もう話しかけないでください。失礼します」


ぴしゃりとはねつけるように言うと、踵を返し驚いた表情の彼を残してその場を去った。




シャルロットは馬車で帰路についても無性に腹がたって仕方なかった。ここまで人に干渉されたのは初めてだわ。だから社交界は嫌なのよ!

シャルロットは商人の娘という地位が憎らしく捨ててしまいたいと本気で思った。


しかし屋敷が見えてくると、父親の顔が頭に浮かんだ。お父様はどんな状況であろうと、屋敷を維持し自分を育ててくれたのだわ。冗談ばかり言って、気楽にのんびりとしている父だと思っていたが、あの社交界で名を馳せるほどの豪商だったのだ。偉大な父だったと、今さらになって気づくなんて。


シャルロットは、きっと顔をあげた。

商会は、父親が娘に生きる術として残してくれた大事な形見だ。私は商人の娘として育てられたのよ、ここでへこたれるわけにはいかないわ。

それに、今ここであきらめてしまっては来年ジャックに会わせる顔がない。彼と結婚する、そのためには強くなるのだと心に決めたではないか。

シャルロットは歯をくいしばって耐えることを覚えた。




***************




それから次の週の木曜日、シャルロットはいつもの街娘の服を着て、買ったばかりのパンを片手に貧民街へやって来た。

すぐさま子供たちが彼女に駆け寄る。


「「シャルロット!」」


服も顔も汚れているが、シャルロットを見たときの笑顔は、きらきらと輝いていた。

シャルロットは周りを囲んだ子どもたちににっこりと微笑みかけた。


「少し遅くなってしまったわね。さぁ、マルクの家からよ。お母さんは家にいらっしゃる?」


マルクと呼ばれた小さな少年は頷いた。


「うん、実はこの前から風邪をひいちゃってねてるんだ」


「まぁ、大変、すぐに看病に行かなきゃ!」


シャルロットが慌てて駆け出そうとすると、マルクのとなりにいた少女が言った。


「だいじょうぶよ。さっき青い目の男の人がきて、お医者さまを呼んでもらったから」


シャルロットは眉をひそめた。


「お医者様? でも……お金がたくさん必要だったでしょう」


「うん。でもね、その男の人が全部お金を払ってくれたんだよ」


「お金を全部?」


すると子供たちが次々と言った。


「それだけじゃないの。私のお母さんの病気もお医者さまに診てもらったの!」


「それに、ぼくらにお菓子をくれたんだよ!」


「あいつ、僕らよりぼろぼろの服着てるのに、いっぱいお金持ってるなんて、へんだよねえ」


「へんじゃないもん。お医者さまを連れてきてくれたんだぞ」


シャルロットは子供たちの会話でますます混乱したが、あわてて言った。


「まって、まって。その人は今どこにいるの?」


「さっき帰っちゃったよ」


「シャルロットにも会わせたかったな。青い目がすごくきれいな背の高い男の人」


青い目。

シャルロットは一瞬眉を潜めた。先週の舞踏会の出来事が頭によぎる。あのトビアス・ホプキンスとかいう男だろうか。まさか。


「シャルロット、どうかしたの?」


子どもたちが不思議そうな顔をして見上げてきたので、笑ってごまかした。


「あら、ごめんなさい、なんでもないのよ。……私も彼に会ってみたかったわ。さぁ、マルク、あなたの家に行きましょう」




****************





シャルロットは次の日、貴族の屋敷の舞踏会に足を運んだ。今夜は久しぶりに同世代の令嬢達の輪に入って噂話に耳をすませていた。トビアス・ホプキンスが、貧民街に訪れた青い目の人物であるかどうか確かめるためだ。令嬢達は一体どこから仕入れているのかと驚くほど、貴公子や若い紳士の人物の情報に通じているのである。


「商人の中で一番のお金持ちといえば、ロベール・ブリアン様よね」


「でもちょっとお歳を召されていない?」


「おいくつなの?」


「私たちより二十ほど上だったかしら」


シャルロット自身は、茶葉の商会を営むブリアン氏の存在を知ったのはつい最近のことだ。仕事一筋の独身の彼は、シャルロットが父親の商会を継いだことを耳にすると感激し、自分の客にパーシーズ商会の絹織物を宣伝してくれるというように寛大でおおらかな性格をしていた。


「まあ、それくらいでないと財は築けないですわよね」


「あら、ご存知ないの?つい最近、若手のホプキンス様が彼を抜いたのよ」


その言葉にシャルロットは飲んでいたシャンパンでむせそうになった。咳き込みながら驚きの声をあげる。


「ホプキンスですって? トビアス・ホプキンスのこと?」


「あら、めずらしいわね。シャルロット、彼をご存知なの?」


シャルロットが答える前に別の貴婦人が言った。


「当然よ、彼は舞踏会の女性、みんなの憧れの的だもの」


「あら、舞踏会の女性みんなを魅了したのは、アルベール・カーン様でしょう。ホプキンス様は二番目ってところね」


と、その時、シャルロットのすぐ後ろで大げさに悲しむような声がした。


「おやおや、私は二番目ですか。こんなに努力しているのに、がっかりですね」


「「ホプキンス様!」」


突然現れた噂の人物に、シャルロットの周りにいた女性たちは慌てふためいた。


「ち、違いますのよ、私はホプキンス様こそ一番舞踏会で輝いている人だと思いますわ!」


「あら、私だってそう思ってたのよ!」


必死で取り繕う彼女たちを尻目に、トビアス・ホプキンスは、青い目をきらきらさせてまっすぐシャルロットの方を向いて言った。


「パーシーズ嬢、むこうでミルドンヌ公爵夫人がお呼びです。私がお連れ致しましょう」


「え? ミルドンヌ公爵夫人……?」


シャルロットが訝しげな表情を浮かべたが、トビアスはかまわず彼女の腕を取って貴婦人たちの中から連れ出した。

女性たちの輪から抜け出て部屋を移ると、トビアスは言った。


「ミルドンヌという人はいません。あなたと話がしたくて嘘をついたのです。何か私に言いたいことがあるのではありませんか?」


シャルロットは男の強引さに目を見張らせたが、彼が何を言っているのかすぐにわかった。昨日の貧民街でのことだ。青い目を睨みつけて言った。


「やっぱりあなただったのね、昨日子どもたちの家に行ったのは。一体何のつもりですの? 私の真似をして、からかっていらっしゃるの?」


トビアスは苦笑いをした。


「そう思われても致し方ありません。ですが、弁明させてください。私はこの前の舞踏会であなたの言葉を聞いてはっとしたんですよ。先ほどのご令嬢の言っていた通り、私はこの街で一、二を争う商人です。しかし同じ街に住んでいるのに、裏通りの人は、病気を治すこともできない、今日腹を満たす食べ物にもありつけるかわからない状況であることを昨日知りました。子供たちや、彼らの母親から暮らしの現状をきき、自分の無知さにほんとうに驚きました」


トビアスの話し方や手ぶりは大げさと思えたが、顔は大真面目で真剣そのものだった。

この前は嫌味な男だと思ったが、逆に表裏のある顔ではないようだとシャルロットは思った。


トビアスは続けた。


「正直に言いましょう。私は、あなたが何年か前に社交界にデビューしてもなかなか顔を出さなかったのに、パーシーズ氏が亡くなってから頻繁に参加するようになったことを影で笑っていました。屋敷を維持させるために、結婚相手を急に探し出したのかと見下していたのです。そして、お父上の仕事を継ぐという噂をきいたときは、世間知らずの娘に何ができると馬鹿にしていました。お父上が亡くなって、この街でも指折りで私の強敵だったパーシーズ商会も終わりだと思っていた」


トビアスは首を振った。


「でも、何も知らなかったのは私の方だった。あなたの商会はベルジェ氏の力がなくても、少しずつ軌道に乗り始めている。何より、あなたは広い世間を見る目がある。貧民街のことがそうです。私は……ほんとうに知らなかったんだ。あなたが、なぜ彼らを助けたいと思うのか、実際に足を運んで初めてわかりました。どうか先日の失礼な言動と今までの蔑視のお詫びを申し上げたい」


そう言って頭を深く下げたトビアスに、シャルロットは目を瞬かせた。

本気で言っているのかしら。だがもしそうであるなら、シャルロットには嬉しいことだ。


「……社交界で、私の考えに理解を示してくれる人間がいるとは思いませんでした」


シャルロットは少し戸惑いながら言った。彼が何を考えているのかはまだわからない。でも今は、彼の言葉を信じよう。


「次の木曜日は……一緒にマルクの家に行きませんか?」


トビアスはがばっと顔を上げて嬉しそうに頷いた。


「ぜひそうさせてください!」




********************




それからシャルロットは、若手の商人トビアス・ホプキンスと行動を共にするようになった。


トビアス・ホプキンスは、商会を親から受け継いだのではなく自分で商いを打ち立てた強者で、頭と舌のよく回る男だった。才もあるらしく豪商となる者の見本のような人物で、シャルロットは間近で彼を見て上手な商いというものを学んだ。

また、彼に強敵と言われた父セドリックは、一体どのような商いをしていたのだろうと気になったので、シャルロットは書斎にある父の仕事の記録を読んで研究するようになった。

シャルロットは、口の上手いトビアスをはじめはあまり信用していなかったが、彼が人間としてまっすぐな考えを持ち、正義を重んじていることがわかってきた。

トビアスは織物ではなく、茶器の商会を営んでいた。ライバルであるベルジェ氏や父の友人と違って分野が異なるため、シャルロットには商いのコツを詳しく教えてくれた。トビアスの指導が入ると、シャルロットのパーシーズ商会はみるみるうちに大きくなった。顔の広いトビアスの紹介により、父親から受け継いだ商業は街や国境を越えて発展していったのだ。

そのうちに父親がいた頃に雇っていた召し使いたちをまた雇うゆとりができた。シャルロットが生まれる前から屋敷に勤めていた彼らは、喜んで屋敷に再び参上してくれた。

かつての繁栄を取り戻していくパーシーズ商会に、最初こそ若い娘の経営に眉を潜めていた者が多かった社交界であったが、彼女の凛とした強さと粘り強さ、そして頑張りは、やがて世間に認められるようになった。もちろん、その財産を狙って悪事を企む者が近寄ってくることも少なくなかったが、シャルロットはトビアスのように彼らの手をかわし、裏稼業の人間に左右されることもなく、収益を上げていった。


また、トビアスとは仕事の面だけでなく、友人としての仲も深めていった。

社交界では、彼は相変わらず女性に囲まれており、一緒に行動しているシャルロットに、令嬢たちが楯突いてくるときもあった。しかしシャルロットには全くその気がないどころか、逆に奔放なトビアスを戒め、令嬢達と彼との仲を取り持とうとさえしたため、彼女たちがシャルロットに非難の言葉を浴びせるのもすぐになくなった。

トビアスは奔放な性格をしていたが、シャルロットを女性としてではなく、1人の友人として、仕事仲間として常に尊敬の意を持ちながら接していた。2人は舞踏会で人間の観察をして議論したり、貧民街の子どもたちと一緒に泥をつけて遊んだりした。

数カ月の間で、二人は気のおけない友人となったのである。




**************




落ち葉の数が増える季節に差し掛かった頃、トビアスはシャルロットの屋敷を訪ねてきた。

彼は書斎に入るなり言った。


「シャルロット、その……君にはとても感謝している。広い視野を持てるようになったのは君のおかげだ」


「なあに、急に改まって」


シャルロットは帳簿をつけていたのだが、きょとんとした顔でトビアスを見上げた。

彼は弁解するような口ぶりで言った。


「実は……その、近いうちにこの街を出ることになったんだ」


「えっ? どうして急に?」


シャルロットは彼の真剣な表情を見て驚いた。

冗談ではないらしく、普段の彼からは見られない苦虫を噛み潰したような顔をしている。


「その、叔父が……数日前に亡くなったんだ。ずっと会っていなかったんだけど」


「それは……お気の毒に。それで、叔父様の事業を引き継ぐために街を出るのね?」


トビアスは頷いた。


「遺言書が残されていたんだ。叔父は兄と、つまり僕の父と二人で一つの事業を営んでいたんだ。 7年前に父が死んでからは叔父が一人で経営していた。それで、叔父も亡くなって……」


シャルロットは首を傾げた。事業を継ぐことになってもさほど彼の障害にならないはずだ。街を出なければならない理由は何かしら?


「叔父様の遺言書には何と書いてあったの?」


彼女の問いにトビアスはますます苦い顔をして頭をかいた。


「その……叔父には、娘が一人いて……つまり僕の従姉妹なんだが、事業は一旦彼女が受け継いだんだ。だが社交界の知識以外は、事業の右も左もわからないらしい」


つまりトビアスには、事業と莫大な財産、そして箱入り娘の従姉妹が残されたというわけだ。


「叔父はそれを見越して、遺言にこう書いたんだ、僕に娘の事業を支えてほしいと……彼女の夫として」


シャルロットは目を見開いた。


「まあ、それじゃあ……!」


「そうだ、僕は……彼女と結婚するために、ここを出ていく」


トビアスの肯定に、シャルロットは驚きを隠せなかった。

正直なところ、全く想像がつかない。あんなに舞踏会で多くの女性を魅了して、引く手数多だった彼が結婚とは! 彼自身もきっと遺言書を読んで目を疑ったに違いない。

最初はあっけに取られていたが、しまいにシャルロットは吹き出し、声をあげて笑い出してしまった。


トビアスは、突然の友人の笑いに驚いたが、その遠慮のなさに、少し不機嫌な口調になって言った。


「そ、そんなに笑わなくたっていいじゃないか……ひどいな」


シャルロットはやっとのことで笑いを収めるとそっと椅子に座り直した。


「ふふふ、私ったらごめんなさい……。おめでとう、というべきね。でもあなたが、まさか結婚だなんて」


トビアスは口を尖らせた。


「僕にはそんなに結婚が不似合いかい?」


「いいえ、そうでは……いえ、そうね。だって、あなたといると、いつも女性の取り巻きがやってきて、ひっぱりだこだったじゃない。きっと社交界は騒然となるわ」


シャルロットは、舞踏会で大騒ぎする令嬢たちを思い浮かべて小さく笑った。

トビアスも肩をすくめた。


「誰とも結婚しないと宣言していたあの豪商トビアス・ホプキンスが婚礼、だなんてこの中心街ではいいゴシップになるだろう。もちろんそれも街を移る理由のひとつだ。商売人にとって悪評こそが弱点だからね」


トビアスは冗談めかして笑ったが、再び真面目な顔に戻って言った。


「従姉妹は北の街に住んでいる。父の屋敷があったのも北街だ。事業を受け継ぎ、彼女と結婚するとなると、やはり街を移らなければならない。そうなると……この町の貧民街の子達に会えなくなる。君にも」


「仕方ないわ。家族は大事にしなきゃ。あの子達のことは心配しないで」


シャルロットが微笑んで頷いたのに、トビアスはほっとした顔になった。


「ありがとう。向こうに行っても受け継いだ事業に加えて、今まで築いてきた商会も続けるつもりなんだ。時々様子をみて、この街にも顔を見せにくるよ」


シャルロットはトビアスの言葉を嬉しく思ったが、少し残念そうに肩をすくめた。


「寂しくなるわね。あなたの後ろ盾はそれはそれは強力だったのよ。私は……あなたなしでも商会を続けていけるかしら」


「何を言っているんだ。僕が教えるべきことはすべて教えた。最近は僕もあまり関わっていなかっただろう、君はもう十分一人でやっていけるよ。ところで――」


トビアスは咳払いして改まった顔になった。


「その……ずっと気になっていたんだが、君は……結婚しないのかい?」


「あら、私? 私のことを気にしてくれていたの?」


シャルロットは意外そうに目を丸くした。


「もちろんさ。君とは仕事仲間として、友人としての関係だったが、僕が……その、一緒にいることで、君の相手を見つけるのに妨げになってはいなかったか、その、心配で……」


トビアスは下を向いた。

彼にとって、シャルロットは女性で初めての“ただの”友人だった。

今まで女性が絡むと、いざこざばかり起きて面倒だったのだが、彼女とは全くそうならなかった。

舞踏会でどこかの家のご令嬢との仲を取り持とうとされたときは焦ったが、それでも彼にとってシャルロットは大事な仕事仲間だったし、貧民街の一件以来、一人の人間として尊敬していた。もし叔父が急死しなければ、商業上の利害を考えて彼女との結婚を考えていたかもしれない。そういうこともあって、結婚の話はなかなかシャルロットには言い出せなかったのだ。


しかしシャルロットは、トビアスの言葉に何かを――あるいは誰かを彷彿させたかのように微笑んだ。


「言っていなかったけれど、実は……私には、前から結婚を約束している人がいるの」


「ええっ!」


トビアスは心底びっくりした様子で言った。


「ほ、ほんとうかい?! 君に?」


「あら、そんなに驚くこと? 私には結婚は不似合いかしら」


シャルロットの冗談めかした言い方に、トビアスは驚きを隠せないままだった。

出会いを求める社交界でほぼ仕事の話しかしない彼女に、まさかそんな相手がいたとは夢にも思わなかったからだ。


「し、失礼。そうか、だから……だから、いつも魅力的な男性が隣にいても、ちっとも靡かなかったんだな。納得だ」


シャルロットは「始まったわね」と目を細めて冷たい視線を向けた。


「いいこと? 結婚したら、そうやって手当たり次第女性に愛嬌を振りまいて、自分を押しつけるのは控えなさいよ」


シャルロットの牽制に、トビアスは肩をすくめた。


「そんなつもりはないよ。それにしても君の相手とは一体だれだろう、僕は会ったことがあるのかな」


シャルロットは首を振った。


「いいえ、社交界に出入りする人ではないわ。でも二度も危機から救ってくれたの。あなたに会う前に、弱かった私に強くなれと言ってくれた。あんな素晴らしい方、他にはいないわ」


シャルロットは初めてそう口に出して言うことで、彼、ジャックへの自分の思いが想像以上に強いことに気づいた。それはトビアスも同じようで驚いていたが、微笑んで言った。


「君が選んだ人ならそうなんだろうな。いつか僕にも会わせてくれ。こちらの町に遊びに来るのも大歓迎だ」


トビアスのあたたかい言葉にシャルロットはきちんと向き直って、真面目な顔で言った。


「あなたにもとても感謝しているのよ。あなたのおかげで父から受け継いだ商会も保てたし、私自身も大きく成長できたわ。ほんとうにありがとう」


自分で商会を営み、屋敷を維持しながら生活できているということが、シャルロット自身驚くべきことだった。

一番最初に商業の基礎を教えてくれたのは、父の友人ベルジェ氏だったが、駆け引きばかりの社交界で、転げ落ちることなく自分の立場を築けたのはトビアスの支えがあったからだというのは間違いなかった。

最初はあんなに彼が嫌いだったのに、変わるものねとシャルロットは心の中で呟いた。


トビアスも畏まったような顔をして頷いた。


「僕こそ、君には広い視野を持つことを教わった。街を移ってもその精神は決して忘れない」



*******************************



枯れ葉が枝から全て離れた頃、トビアスは北の街へと去っていった。


シャルロットはトビアスがいなくなっても、社交界で立場を持ち崩すことなく、新たに友人を作り仕事に励んだ。

案の定、社交界はトビアスの急な結婚の噂で持ちきりになった。令嬢たちは怒り、嘆き、悲しんだが、すぐに次のめぼしい紳士を探し出した。

そして思いの外、多くの人々がトビアスとよく共に行動していたシャルロットを気にかけてくれた。得意先である世話好きの貴婦人たちはシャルロットを娘のように思い、それぞれ見合いの話をいくつか進めていたことには焦ったが、自分には心に決めた人がいると伝えてなんとか全て破談にした。


「せっかくいい縁談だと思ったけど、あなたがそこまで言うのなら仕方ないわね」


貴婦人たちは残念そうにかわるがわる呟いたが、決して無理強いすることはなかった。

そういった面は父と似ていると、シャルロットは思った。

昔、父の持ってきた縁談も、自分は全て破談にしてしまったのだ。父が他界した直後は、そんな自分を呪ったが、今では全く後悔していない。

私には、ジャックさんしかいないもの。


シャルロットは、どこか遠くにいる旅人に思いを馳せた。

今頃彼はどこにいるのだろう。今の私を見たらきっと驚くに違いないわ!

叔父の影に怯え、人に頼るしかなかったシャルロットが、今では社交界でも地位を確立した女商人になっているとは想像もしていないだろう。

シャルロットは、社交界を窓口に多くの人間に接した。以前は、社交界は自らの利益のために人を蹴落とそうとする者たちの集まる場所だと嫌悪していたが、今ではそんな社交界を客観視していた。それに、人を利用しようと企んでいる者ばかりではない、トビアスのように裏表のない人間もいるのだ。トビアスが去った後、何人かの貴公子や、安定した商業を営む感じの良い紳士が、シャルロットと関わろうとしたが、その度にシャルロットは結婚を約束している人がいると断ってきた。


実際のところ、ジャックから正式に承諾されたわけではなかったが、シャルロットは、彼以外の人物と結婚するなんて考えられなかった。そのために今まで励んできたのだ。

情報の飛び交う社交界の常連になっても、彼の身元はわからないままだった。ジャック・ウィルソンという名は誰の口にも上がることはなく、ピョートル・セルビーノという名をあげると数人の人間が顔を曇らせた。だがシャルロットは、そんなことはどうでもよかった。

父の友人のよしみで働き口こそあったが、叔父に嵌められて何もかも失い、孤独に打ちひしがれていたあの時、彼は絶望の淵にいた自分を救い、弱気な心に希望を与えてくれた。あの時彼が自分のために動いてくれたことが、シャルロットにはかけがえのない救いだった。だから、どんなに人から煙たがられる仕事をしていても、彼と結婚したいと思ったのだ。初めてそう思える男性だった。その気持ちは、友人として仲良くなったトビアスへの親しみとは違う感情で、シャルロットはジャックへの想いが日に日に強くなっていることを感じた。



 冷たい風音が街に鳴り響くようになると、シャルロットは、屋敷の外に出て門のところに立ち、旅人を待つようになった。もうすぐ一年だ。


「シャルロット様、外は寒くなっております。お身体にさわりますゆえ、外に出るのはおやめください」


 夜になってシャルロットが表に出ようとすると、召し使いは決まってこう言ったが、シャルロットは首を振った。


「お願いだから行かせてちょうだい。あなたたちは中に居てね。私は寒いのには慣れているし、それにあの方だって、今この寒空の下にいるかもしれないわ」


 そう言って、夜遅くになって召し使いに叱られて屋敷へ引っ張られるまで、くる日もくる日も屋敷の門の前に立ち続けた。





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