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13. 思い出せ!


今日も魚が釣れた。トマは獲った魚を眺めて満足すると、岩礁から道へ足を踏み出し帰路についた。夕日を背にしようとしたその時、ジャックが海岸に佇んでいるのを見つけた。


彼は水平線を見つめていた。

フレッチャーという男の話では、ジャックにはそれはそれは大事な恋人がいたらしい。結婚の約束もして、指輪も買った。それなのに、自分の事情で彼女を残して船に乗り、ずっと待たせているという。

ジャックがどんな表情なのかはわからなかったが、トマも察しがついていた。


「つらいんだろうな」


いつのまにか、隣に例のアイルランド人がいた。ジャックが唯一、顔と名前を思い出した人物だ。


「指輪を見たら、さすがに思い出すと思ったんだがよ。難しいもんだな、人間の記憶ってのは」


若い海賊の言葉に、トマは息を吐いた。


「何か……きっかけが必要なんだ。ジャックが自分の名前を思い出したのも、俺の作った燻製肉を食べたからだ」


「そいつは笑える」


フレッチャーはにやついた笑みを浮かべたが、夕日のせいか眩しそうに目を細めた。


「きっと、彼女との経緯を話したってあいつを混乱させるだけなんだろうな。待たせてるんだろうに……全く、忘れちまうなんて」


フレッチャーの言い方に、トマが眉を寄せた。


「ジャックのせいじゃない。一番苦しんでいるのは彼自身だ。思い出そうと思って、簡単にできる話じゃないだろう」


フレッチャーは肩をすくめた。


「わかってるさ。ただ燻製肉が必要なんだろ。ああ、わっかんねえなあ、自分と俺のことは燻製肉で思い出したんだろ。シャルロットさんは奴に何を食わしたんだろうなあ。きいときゃよかった」










その夜の夕食の席にはフレッチャーもいた。彼はフランス語は話せないので、一人で勝手に英語でペラペラと襲撃の様子を語った。


「……それで、俺は少尉に取り押さえられて、兵士達に囲まれてたんだ。もうこれは絶対にだめだと思ったね。だけど、そこで急にドスドス兵士達が倒れ始めたんだ。突然だった。で、ひとりでに剣が立ち上がった時は『ああジャックが来てくれたんだ』って感動したよ。ジャックが少尉に言った台詞は今でも忘れねえぜ……『少尉殿、俺はこいつの味方だ』。かーーっ! かっこいいねえ!」


ポーラは、始めは英語なんかと聞かないふりをしていたが、いつのまにか表情をきらきらさせて楽しそうにフレッチャーの話に聞き入っていた。隣でトマは静かに魚の骨を取っているが、笑いを堪えているのが見てとれた。ジャックは熱弁をふるうフレッチャーの隣で、恥ずかしさのあまりに下を向くばかりだった。


「すごおい、ジャックってそんなに強かったんだ!」


「強いも何も、俺の船長がどうしてもって仲間に欲しがった男だぜ? そんじょそこらの腰抜け野郎とは一緒にしてくれるなよ。おお、これが例の燻製肉か……!」


トマが言った。


「固いから小さくして食べてくれ。喉に詰まらせないように」


「わかってるわかってる。しっかし、これ食って俺のことを思い出すとはな。喜んでいいのかわかんねえが……んん、うめえうめえ」


黙り込んでいるジャックに、ポーラが言った。


「別に思い出したくて思い出したわけじゃないもんねえ。ほんとうだったら全部覚えてなくて、名前だってラシーヌだったんだから!」


「ラシーヌ? なんだそりゃ」


「ポーラ」


トマが咳払いをして口を挟んだ。


「バルバラおばさんからもらったフルーツがまだあるだろう。取って来てくれないか」


「はあい」


ポーラが席を立つと、フレッチャーは目を丸くした。


「えっ、あいつ一人で大丈夫なのかよ」


「心配ない、慣れているんだ。ところで……フレッチャーは、この後どうするつもりなんだ? 船はもうないんだろう?」


トマの問いに、フレッチャーは肉をかじりながら頷いた。


「ああ、沈んじまったからな。けど、残ってる乗組員を集めてまた船出しようとは考えてるぜ。俺はウィルに……ええと、船長についていくまでよ。まあ当分は、この辺りで仲間集めかな」


トマはふうんと頷いて、ジャックをちらと見た。彼は一緒に乗るのだろうか。それともヨーロッパに向かうのだろうか。


「ジャック、あんたはどうする?」


トマの疑問をフレッチャーが口にした。

ジャックは少し沈黙してから答えた。


「俺は……もう少し考えたい」


フレッチャーは肩をすくめた。


「まあ、好きにするがいいけどよ……とにかく俺は、旧世界に帰った方がいいと思うぜ」


ジャックは返事をすることはなかった。「ごちそうさま」と小さく言うと、席を立って表に出ていった。

彼の後ろ姿を見送った二人は顔を見合わせる。


「困ったねえ」


フレッチャーが呟いた。


と、別室から「はいはい、フルーツですよう」と、ポーラがフルーツを抱えて戻って来た。


フレッチャーはテーブルにゴロゴロ置かれた果実からマンゴーを2つ掴むと、「ちょっとあいつと話してくるよ」と席を立って出ていった。

ポーラはやれやれと首をすくめて呟いた。


「海賊って落ち着かないね」







外はむっとした潮風が吹いていた。

ジャックは海岸の見える道の真ん中で立ち止まると、両手で顔を覆い天を仰いだ。

くそ、思い出せ! 思い出してくれよ……!


いくら考えてもだめだった。カリブ海の蒸し暑さが、余計に彼を苛立たせた。

ひどい話だ。結婚を約束している相手の顔も名前も思い出せないなんて。

指輪の事は、全然覚えていなかった。

第一こんな俺に、なんでそんな女がいるんだ。フレッチャーの話は信じ難い話だが、何より指輪が証拠だった。

そして彼が言うように、もしその女を待たせているのであれば、一刻も早く帰らなければならないのだということはわかっていた。


だが、ジャックにはどうしても抵抗があった。自分が彼女と対面する想像すらできなかった。

顔もわからない、知らない女の元に帰るのか?

帰ったところで、君を覚えていないと彼女に言うのか?

いいや。

ジャックは首を振った。

できない。顔も知らない女と結婚なんて、俺には無理だ。

そもそも、自分のことを覚えていない相手と結婚するなんて、彼女にとってあまりに酷ではないか。




「……不思議なもんだな。つい最近まで、あんなに帰りたがってたのに」


振り向くと、フレッチャーがすぐそばに立っていた。彼は赤い色のフルーツをひとつ、こちらに投げた。


「ポーラのくれたマンゴーだ。食えよ」


ジャックは受け取った果実を見つめたまま動かなかった。

フレッチャーの方はそれをむしゃむしゃと食べながら言った。


「俺が話したテライア要塞の事は思い出したのか?」


ジャックはゆるゆると首を振った。


「まあそうだろうな。やっぱり話をきいたからって、思い出せるわけじゃねえんだな」


フレッチャーが口をもぐもぐさせて言ったのに、ジャックは落ち込んだ声で言った。


「ここにいるべきじゃないと、なんとなくわかっているんだ。でも、できない。彼女のことを何一つ覚えていないのに、結婚なんて無理だ。ほんとうに俺は、彼女を……」


「愛してたさ」


フレッチャーが言葉を引き継いだ。口に含んだ果実を飲み込むと、フレッチャーは真剣な顔で言った。


「覚えてねえと思うが、要塞に侵入する前、あんたはバルバドスの港町で俺に手紙を託したんだ。婚約者宛のラブレターだぜ。中身を見たら殺されるから見なかったけどよ。もうとっくに向こうに届いてるんだろうな」


「手紙……」


もちろん覚えていなかった。

そんな手紙を書いたことすらも信じられない。俺が?


「そもそも俺は字が書けたのか……」


ぼんやりと考えこむジャックを、フレッチャーは再びマンゴーを食べながら見ていたが、やがて食べ終わると言った。


「ジャック。俺が思うに、あんたはここの島から出た方がいいな。もっと町とか店とか、そんなのが見えるでかい島に行った方がいい。じゃねえと思い出せるもんも思い出せねえぜ。身体はもう大丈夫なんだろ?」


確かにフレッチャーの言うことにも一理あった。この島にはジャックにとってのきっかけが少ない。旧世界とはかけ離れた生活をしているのだ。

ジャックは手にしたマンゴーをかじった。ここ1週間ほどで舌に馴染んだ味だ。初めて食べた時はその味に驚いたものだ。


「……そうだな。それに、ここの島からは大西洋を渡るくらいの大きな船は出ないときいている」


「よし、決まりだな」


フレッチャーは嬉しそうに頷いた。


「とにかくあっちの世界の物に触れてみようぜ。本とか馬車とか、いろいろ……」


「フレッチャーは」


ジャックが遮った。


「フレッチャーは、どうしてそんなに俺のために動いてくれるんだ。俺は……海賊になるつもりはないのに」


フレッチャーは目を丸くさせると、にんまりと笑みを浮かべた。


「その問いをあんたからきくのは2度目なんだぜ。答えは変わんねえよ……あんたが待たせてる婚約者さんが気の毒だし、俺はあんたの話をハッピーエンドにしてえんだ」


「俺の話……? なんだそれは」


ジャックは眉を寄せた。


「言ったろ。俺は、あんたがヨーロッパに帰りたい理由を全部きいてるんだ。つまり、あんたがそのお嬢さんとどうやって知り合ったのかってところから全部知ってるのさ! へっへっへ!」


得意げにフレッチャーがそう言ったのに、ジャックは少しの間固まると、げんなりした声で「なんでよりにもよって、俺はこいつにそんな話をしたんだ……」と呟いた。


「何言ってんだ、俺たちはそれくらい深い仲ってことだよ! 喜べ!」


ばしばしと強い力で背中を叩かれ、ジャックは前のめりになり「お、おい、いて、やめ、やめろ!」としまいには大声を出す始末だった。




********************




翌朝、ジャックはトマとポーラに別れを告げた。

ポーラはぎゅっとジャックを抱きしめた。


「元気でね。フランスに帰ったら手紙送ってね。お兄ちゃんに読んでもらうから」


「わかった、必ず送ろう」


トマは右手を差し出した。ジャックもそれを強く握る。


「あんまり、思いつめるなよ。幸運を祈ってる」


トマがそう言ったのに、ジャックは感謝の念を込めて頷いた。


「世話になった……ほんとうにありがとう」


2人の兄妹に暇乞いをすると、ジャックとフレッチャーは船着場に向かった。


何隻かの漁船以外に、二本マストの船が二隻浮かんでいた。

一つはマリーガラントの港町ブール行き。もう一つはグアドループの港町サンフランソワ行きだった。


「おおい、フレッチャー! ジャック!」


桟橋に向かっていた時だ。2人は呼び止められて立ち止まった。海岸の方から手を振りながら走ってきたのは、若い男だ。


「テッドじゃねえか!」


フレッチャーは嬉しそうな笑みを浮かべて手を振った。


「無事だったんだな! どこに流れ着いた?」


駆け寄ってきたテッドに、フレッチャーが問うと、若い海賊は歯を見せて笑った。


「それがお前とおんなじ、マリーガラントだったんだよ。ただ、別の海岸だったみてえだ。ウィルには昨日会ってよ、お前たちがここに来てるってきいた。すれ違いにならなくてよかったぜ」


「すれ違い? マリーガラント島で待ち合わせじゃねえのか?」


テッドは苦い顔をして頷いた。


「なんか知らんが、お前が行った後すぐにフランス海軍があの島に上陸して来たんだよ。住民に聞き込みしてる感じだった。別に俺たちを捕まえようってわけじゃなさそうだったが、場所は変えた方がいいって決まったんだ。だから、グアドループ行きの方に乗るぞ。ウィルもそこに行ってるはずだ」


フレッチャーは眉を寄せた。


「フランス海軍……? あんな何もない島に? なんでだろう」


「さあな、俺にもさっぱりだ。ジャックーーーは、相変わらず顔が見えねえんだな」


「あ、ああ。それに記憶が……」


と、その時、船着場から「船が出るぞー」と声がした。


「いけねえ、出港しちまうぞ! いそげ」


3人は慌ててグアドループ行きの船に乗り込んだ。空は快晴、風向きも良く、すぐに港町に着きそうだとフレッチャーはほっとした顔でそう言った。



船に乗りながら、ジャックは自分の記憶がなくなったことをテッドに話した。


「最悪だな」


テッドは眉を寄せて言った。隣に座るアイルランド人のように、急に笑い出したりなどせず、顎に手をやって真剣に考えながら言った。


「……そういえば、俺がウィルの船に乗る前の頃、商船でマストから落ちて記憶が飛んだ奴がいたっけ」


「なにっ」


「え、ほ、ほんとかよ!? で、そいつは思い出したのか?」


ジャックとフレッチャーが勢いよく身を乗り出したのに、テッドは動じずに頷いた。


「ああ。だが、その男は10年近くずっと同じ生活をしてたんだ、朝から晩までな。だから暮らしてるうちに、すぐに全部思い出したって言ってたよ」


「10年同じ生活か……」


ジャックが苦い声で言ったのに、フレッチャーは笑い声をあげた。


「そいつは難しいなあ、ジャックは波乱万丈な人生だからよ。むしろ死にかけた方が思い出すかもしれねえ」


へへへと笑う男を、ジャックとテッドはじっとりと睨みつけた。

フレッチャーはその視線に咳払いをして笑いを収めた。


「まあなんにせよ、俺はそんなに心配してねえよ。すぐに思い出すさ」





3人を乗せた二本マストの船は、昼過ぎにはグアドループ島の港町サンフランソワに着いた。

テール島とは比べものにならないほど大きな島で、船着場には小さな漁船だけではなく、三本マストの大型フリッグ船がズラズラと並んでいた。大西洋を横断する船だ。

今日着いたばかりの船、そして今日の夕方出港する予定の船のようで、とにかく港は騒がしかった。


テッドとフレッチャー、そしてジャックは船を降りると、桟橋を歩いて港町の入り口に向かった。


「どこに行くんだ?」


「中心街のマテって言う酒場のある広場だ。風向きもよかったから、ウィル達もすぐ来るはずだぜ」


2人がそう話しているのをジャックも後ろから聞いていたが、ふと船着場で妙な団体が目に入った。

見慣れない顔つきがずらりと並んで佇み、脚と手は鎖で繋がれている。


「な、なあ」


ジャックは2人を引き止めると彼らの方へ視線を向けた。


「あいつらは、なんなんだ? 鎖に繋がれているぞ」


テッドとフレッチャーは目を瞬かせて顔を見合わせたが、すぐに答えた。


「奴隷だよ。西アフリカから連れて来られたんだろう」


「ヨーロッパにいたなら、見た事があるだろう」


2人がそう答えたのに、ジャックは彼らに目を向けながら復唱した。


「奴隷……?」


彼らの1人がこちらに気づき、視線を向ける。ジャックは、その怯えたような、絶望したような表情を目にしーーーぐわんと頭の中が歪むのを感じた。


突然脳裏に、昔、奉公していた時に助けてあげた奴隷の少年の顔が蘇った。俺は彼を逃したんだ。その結果鞭で打たれ、そして荒野に放り出された。

そうだ、その後に雷が、その光と衝撃が、全身に走ったのだ……。




「そうか……それで、俺はこの姿になったんだ……わかったぞっ!」


ジャックが突然声を上げたのに、2人は目を瞬かせた。


「なんだなんだ」


「いきなりどうしたんだ、ジャック」


ジャックは嬉しそうな声で言った。


「俺の姿が見えなくなった理由がわかったんだ、思い出したんだよ!」






実際ジャックが思い出したのは、透明人間になるまでの人生、そして雷に打たれてからの旧世界の各地での所業のみだった。


「ジャックって、そんな悪い奴だったのか」


目的地に向かいながら、少し裏稼業の話を彼からきいたテッドは感心したように言った。フレッチャーも頷いた。


「俺も最初はあんたがあんな豪華な船に乗ってたから、てっきり金持ち連中の仲間だとばかり思ってたよ」


ジャックは眉を寄せた。

そこだ。

透明人間になってから、いろんな名前を持って裏社会を生きていたことは思い出したが、なぜ船に乗っていたのかはわからないままだ。拿捕されて海賊にさせられたことも記憶にない。そしてテッドや他の海賊のことも。もちろん婚約者のこともだ。

だが、フレッチャーは嬉しそうににかっと笑って言った。


「やっぱり俺の読み通りだ。きっかけはこの島には溢れてるのさ。なんでもやってみようぜ!」


なんでもと言うところにジャックは嫌な予感がしなくもなかったが、彼の言葉に頷いた。


広場に着くと、酒場の近くに若い男達が固まっていた。その中の大柄な男が、こちらを向いて手を振り上げる。


「おお、ジャックじゃねえか! やっぱり生きてやがったか!」


大きな身体に腹から出るような大きな声。ジャックはすぐに彼が、テッドとフレッチャーがウィルと呼んでいた海賊船長だとわかった。


彼は、がははと大きく笑いながら、「生きててよかったなあ!」とジャックの背をばしばしと叩いた。その勢いは、昨夜のフレッチャーの比ではなかった。

にこにこしている船長に、フレッチャーが気まずげに言った。


「いやあそれがさ、ウィル。ちょこっと問題が発生しててよ」


「問題? なんだそれは」


と、ジャックが背中をバシバシと叩く船長の手をかわすと、ぐっとその手首を掴んで言った。


「……あんたが、海賊の船長だな? 俺が一緒に乗っていた金持ちの男とは一体誰だ。望遠鏡と、どう繋がりがある?」


ジャックが警戒心もあらわにそう言ったのに、彼は目を瞬かせた。


「なるほど、めんどくせえことになってるな」




海賊船長ウィリアム・ドンバスは、船をなくしても、その統率力から仲間の支持を集めていた。今の時点でジャックを抜いて7人。まだこれからどんどん増えるらしかった。

彼らは酒場に入ると、一番良い席にどっかり座り、店主にラムを頼んだ。


「まあ、景気づけに一杯やろうぜ……みんなの健康に!」


ドンバスの掛け声に、海賊達は杯を掲げた。


「「健康に!」」


「無事でよかったぜ!」


「運がついてらあ」


ジャックの前にもラムが置かれた。

だがその匂いのきつさに、彼はそれを飲もうとはしなかった。


「おいおい、ジャックの奴が全然飲んでねえぞ」


「いや俺は、これは……」


「俺たちと一緒に飲めねえってのか?」


もう酔いが回っている海賊がジャックに怒鳴りつけようとしてきたが、「まあ待てよ」とフレッチャーはにやにやしながら止めた。

フレッチャーはジャックの隣に腰掛けると、テーブルの注がれた杯に触れた。


「ジャック、ひょっとしたらこいつを飲んで何か思い出すかもしれねえぞ。きっとそうに違いねえ」


フレッチャーは言い切ったが、ジャックは「いや、これは遠慮する」と首を振った。絶対にそうは思えなかった。そもそもこんなもの、絶対に飲んだことがないと自信があった。鼻が拒絶している。

フレッチャーはおどけたようにジャックの肩を叩いた。


「おいおい、前に船で乾杯した時はあんたも一緒に飲んだじゃねえか」


へらへら笑うフレッチャーの方に、ジャックは背けていた顔をすっと向けた。


「……嘘だな」


「えっ」


「嘘をついている顔をしている。俺には嘘をつくな」


フレッチャーは心底驚いたような表情でジャックを見つめた。

短い沈黙が流れた。

と、酔った海賊は怒鳴り声をあげた。


「うるっせえ、ガタガタ言わずに仲間だっていうんなら飲めよ!」


「俺は、海賊になったつもりは……」


「なんだとおっ!」


「まあ、待て」


ジャックが否定しようとした言葉を、とうとうドンバスが遮った。


「いいか、こいつは酒も飲んでねえのに記憶がぶっ飛んでんだ。これ以上悪くなっても困るからな。俺は強要するつもりはねえぞ」


ドンバスの言葉に、「ちぇっ。ウィルがそう言うんなら仕方ねえ」と酔った男は言い「そんなら俺たちが飲むぞお!」と呼びかけたのに、残りの男達が「おおー!」とかけ合い、やっと気まずい空気から脱した。


杯をすすめて盛り上がる彼らを眺めながら、ジャックはドンバスの隣の席に座って礼を言った。


「助かった。俺はどうもあの酒は飲めない」


「わかってるさ、船でも飲もうとしなかったからな」


ドンバスがそう言ったのに、ジャックはやはりそうかと頷いた。

ドンバスが少し目を細めた。


「フレッチャーを責めるなよ。あいつはお前のことを一番気にかけてるんだ」


ジャックはフレッチャーの方を見た。もうさっきのことなどすっかり忘れたように、テッド達と一緒になって盛り上がっている。

ドンバスは続けた。


「マリーガラントの砂浜で気がついた時、あいつが一番心配してたのはお前だ。姿が見えねえから、もしかしたら転がっていても布切れのかたまりに見えちまうかもしれねえって、ずっと海岸を探し回ってた。ずっと海岸で、お前の名前を呼んでやがった」


ジャックはフレッチャーを見つめた。彼の心配は当たっていた。


「……気がついた時は包帯も巻いていなかった。俺を見つけてくれたのは、盲目の子どもだ。心臓と息の音で気づいたらしい。運が良かったんだ」


ドンバスは小さく笑った。


「世の中、何が起こるかわからねえもんだな。チャーリーとデニス……乗組員だった奴が2人死んだと知らせが入った。まだ行方知れずの奴もいる。その上せっかく助かったお前が、記憶を飛ばすとは……。拿捕して無理矢理仲間にしたことに、俺のなけなしの良心が咎めるぜ」


ジャックはドンバスに向き直った。


「それについて教えてほしい。俺は金持ちの男と知り合いだったのか? 一体何をやっていた?」


ジャックの問いに、ドンバスは笑って肩をすくめた。


「知らねえよ。知ってたとしても忘れちまった。ただその男を助けるために、お前は俺達の船に乗ったんだぜ」


ジャックはこくこくと頷いた。自分は海賊船長には、婚約者の話をしていないらしい。

と、酒場の主人がジンを持ってきた。


「ラムじゃない酒はこれしかねえぜ旦那……おや、あ、あんた……!」


白い髭の主人は、ジンをテーブルに置いた後、ジャックの顔を見て、顔を引攣らせ、怯えたようにその場を去っていった。

ああ、そうか。

ジャックが自分が透明人間であることを思い出した。あのテール島の島民や海賊達が、見えない自分を受け入れてくれているので、主人の怯えた態度は、ジャックに懐かしさを感じさせた。

ドンバスは笑った。


「腰抜けめ……だが、確かに驚くのは無理もねえか。普段は包帯を巻いていたんだったな。この町にあればいいが……そうだ、いいのがあるぞ。とりあえずは、これをつけておけ」


彼がにやついた笑みを浮かべて取り出したのは、派手な色で塗られた仮面だった。西アフリカからの輸入品のようだ。大きく、そして植物の実でできている。腐ったような変な匂いがした。


「……絶対嫌だ」


「おいおい、わがまま言うなよ! 包帯なんてここじゃ高級品だぞ」


「無理なら布を引き裂いて巻く。それは遠慮する」


ドンバスは「ったく、仕方ねえな」と笑った。


「まあ、ハリケーンに突っ込んだのは俺のせいだしな……お前のあの上等な服も流されちまったわけだ。俺が用意してやるか……くそ、めんどくせえな」


ドンバスが席を立ったのに、ジャックは「えっ」と戸惑いの声を漏らした。


「包帯は高級品なんだろう、別に俺は……」


ドンバスはにやりと笑った。


「遠慮するな。俺だってちっとはお前に同情してるんだ。好意は素直に礼を言って受け取るもんだぜ。それにな……」


ドンバスは声をひそめて言った。


「実は、俺はこのサンフランソワの町長と仲良くさせてもらってるんだ。金ならいくらでもちょうだいできる。ここの酒代だって払ってくれてるんだぜ。ちょっと待ってろ」


そう言うと、ドンバスは酒場を出ていってしまった。

会ったばかりなのに、海賊の船長は俺に親切にしてくれる。不思議に感じたが、そういえばフレッチャーの話では、俺が仲間を助けるのに大きく貢献したと言っていた。その事で恩を感じているのだろうか。

海賊は情に厚いのか。陸の人間は不要になったらすぐに切り捨てるのにと、ジャックは記憶を失う前と同じ事を考えていた。


ジャックが水で薄めたジンをちびちびと飲んでいると、さっきドンバスが座っていたところに、今度はフレッチャーがどっかりと腰を下ろした。


「そんなしけたもん飲んでていいのかよ、ジャック! こっちの方が100倍はうめえぞ!」


そう言ってラム酒の瓶を掲げる。もうグラスの杯ですらなかった。


「いや、俺にはこれで十分だ……ドンバスはこの港町の町長の弱みでも握っているのか?」


ジャックが問うと、フレッチャーはぐびりと酒瓶を煽ってから頷いた。


「おうよ。まだ町長の野郎が町長じゃなかった時、大西洋でボートに浮かんでたのをウィルが見つけたんだ。そしたらこいつがどうも旧世界から逃げてきた金持ちだったらしくてな。助けてやって、今でも仲良くさせてもらってるわけよ。まあ、ウィルが仲良くしてるのは、夫のベンジャミンよりも奥方のパーシーズ夫人の方らしいけどな」


ジャックはなるほどと頷いたが、ふと眉を潜めた。

パーシーズ……?


「町長の名前は、ベンジャミン・パーシーズというのか」


「ああ、そうだ。なんだ、知ってるのか?」


「……いや」


ジャックは眉を潜めた。

ベンジャミン・パーシーズ。どこかで聞いたことのある名前だ。だが、どこで聞いたのかはさっぱり思い出せなかった。

ヨーロッパから逃げてきたということは、何かしら後ろ暗いことがあった人間だ。昔何か関わりがあっただけだろう。


フレッチャーは酒瓶をドンとテーブルに置いた。顔は少し赤くなっている。だが後ろの酔いでふらついている男たちと違って、彼の意識ははっきりしていた。


「あのさ」


フレッチャーは真剣な顔でジャックの方を向いた。


「テール島であんたにいろいろ話したけど……あれは全部嘘じゃないぜ。さっきのラムの話は確かにほんとうじゃなかった、けど、あんたの婚約者の話は……」


ジャックはふっと笑ってフレッチャーの肩を叩いた。


「わかっているさ。お前の顔を見ればわかる」


その言葉をきいて、フレッチャーは心からほっとしたような表情になった。ジャックから信用されなくなるのは嫌だったらしい。


「わかっているが、その酒は飲まんぞ。ひどい匂いだ」


フレッチャーは眉を寄せて酒瓶を抱いた。


「こんなにうまいのに……ひどいって言うなよ! 俺のお気に入りだぜ」


と、後ろにいた男達の何人かが、バタバタと立ち上がって店の表に出始めた。どこかへ行こうとしているらしい。

テッドも急ぎ足で店を出ようとして、あっと気がついたように振り返った。


「おいフレッチャー、ジャック、お前らも来いよ」


「どこへ行くってんだ?」


フレッチャーの問いに、テッドはにやりと笑った。


「娼館よ。ジャック、お前ももしかしたら記憶が戻るかもしれねえぞ!」


そう言うと、ピュンッと音を立てるようにして去っていってしまった。

フレッチャーは鼻で笑った。


「ったく、まだ明るいってのに。好きだねえ、あいつらも」


そう言ってジャックの方を見ると、むむむと考え込んでいた。フレッチャーは慌てたように言った。


「お、おい! まさか本気にしてねえだろうな。野暮な事だからきいたわけじゃねえが、俺が思うに十中八九お前は彼女とやってねえ……」


その時、再びドスドスと表から音がしたかと思うと、今度はドンバスがにやにやしながら戻ってきた。


「おいジャック、表へ出ろ。良い服をあつらえてやるから」




酒場を出ると、馬車が一台、すぐ目の前に止まっていた。

座席の扉は開かれており、椅子の上には上等な服が何枚も重ねて置いてあるのが見えた。

ドンバスが「ちょいと拝借してきたんだ」と、得意そうに言うと、筒状に巻かれた白い包帯をジャックに手渡した。


「ほらよ。とにかくこれは必要だろう」


「……ありがとう」


しかし、ジャックが服を品定めする前に、フレッチャーが目をきらきらさせて馬車の方へ駆け寄った。


「ほっほう、こいつは上等なもんだぞ! すべすべしてやがる」


「おいおい、フレッチャー。くれぐれも地面に落とすんじゃねえぞ。お前にもくれてやってもいいが……」


ドンバスが苦笑いを浮かべてフレッチャーに言った。


「わかってるわかってる! うひゃあ、こいつはいい帽子だ……ウィル、あんたほんとにすげえな! おいジャック、被ってみろよ。きっとあんたにぴったりだぜ」


ジャックは、差し出された帽子を受け取って被ってみた。


「ほう……いいじゃねえか。俺の趣味もなかなかだな」


ドンバスは自分に感嘆の声をあげた。


と、その時だった。

むっと熱を含んだ強い風が、南東からこのサンフランソワの町にぶわっと吹きつけた。

風はヤシの葉を揺らし、女性達の黒髪を靡かせると、ジャックの頭から上等な帽子を奪い、すぐ近くにいるドンバスの顔に吹き飛ばした。船長が「うわっぷ」と声を上げる。


風はその一瞬だけで、すぐ止んだ。

ドンバスは帽子をむんずと掴むと自分の顔から引き剥がした。


「こんの馬鹿野郎! 上等な帽子なんだぞ……」


ドンバスの焦ったような怒鳴り声は、ジャックの耳をすうっと通り抜けていった。

この光景は、ジャックにはひどくゆっくりと感じられた。

脳裏に似たような状況が蘇る。




帽子が飛ばされ、御者の顔に吹きつけられる。御者は帽子を掴むと「馬鹿野郎!」と怒鳴りつけ、鞭を振り上げてきたが、それを止めてくれた女性がいた。

彼女は荒んだ心のジャックに、優しく微笑み、次のように言った。


『私はシャルロット・パーシーズです。あなたは?』





ああ、そうだ。

彼女の名前はシャルロット。

俺が……俺が生涯をかけて愛すると誓った女性だ。

なぜこんなに、こんなにも大事な彼女を忘れていたのだろうか。



シャルロットの顔、名前、声が思い出されると、そこからすべてが繋がっていった。彼女の父セドリックとの晩餐、ベンジャミン・パーシーズとの交渉、各地の裏組織からの離脱、トビアスとの船旅、海賊の襲来、トビアスとの別れ、海賊船での生活、テライア要塞での救出作戦、その後のハリケーン……。





ジャックはすべてが頭に蘇ると、ふらふらと後ずさった。

ずっとぼんやりしたままの彼に、2人は眉を寄せて心配そうに声をかけた。


「ジャック……?」


「おい、大丈夫か?」


ジャックは2、3度瞬きをすると、はっと目を見開いた。

目の前の2人の顔に、ひどく懐かしさを感じた。2人とも変わらぬ顔つきで眉を寄せてこちらを見ている。


「フレッチャー、ドンバス……! 2人とも、そうか、生きていたんだな……!」


ジャックが心からそう言ったのに、フレッチャーはきょとんとした。


「えっ……今さら……?」


だが、急に親しげな色に変わったジャックの声に、ドンバスは驚きの声を漏らした。


「お前、まさか……思い出したか?」


その言葉にフレッチャーは「えっ!」と目を丸くさせてジャックを見た。


「そ、そうなのかジャック、思い出したのか? シャルロットさんのことも!?」


2人の問いに、ジャックは嬉しそうにため息をつくと頷いた。


「全部思い出したよ……なにもかも。俺が、一刻も早くヨーロッパに帰りたいと言っていた理由も……」


そう言ってジャックははっとした。陽は傾きかけている。


「フレッチャー、確かヨーロッパ行きの船が、夕方に出港すると言っていたな?」


「ああ、確か4時に出るって……ジャック、あんたまさか今日乗るつもりか?」


「できればな。ドンバス、この馬車だが……」


海賊船長はにやりとした。


「2人とも乗れ。俺が船着場まで連れていってやる」










ガタガタと飛ばす馬車の中で、ジャックは包帯を手と顔に巻き、ドンバスの用意した上等な服を身につけた。フレッチャーは、とにかく馬車の中で転倒しないように捕まっていることに精いっぱいのようだった。


一生懸命服を身につけている男に、フレッチャーは自然と笑みを浮かべた。


「よかったなあ、ジャック。全部思い出せて」


手に包帯を巻きながら、ジャックも頷いた。


「ありがとう、フレッチャー。お前のおかげだ。お前があの島まで俺を探しに来てくれなかったら……」


フレッチャーは照れたように言った。


「まあ、あの島での生活も悪くはなさそうだったけどな。やっぱり向こうでシャルロットさんが待ってるから」


ジャックはフレッチャーの言葉を受けて、少し考えたように言った。


「シャルロットは、まだ俺を待ってくれているだろうか。俺は、彼女の顔も名前も忘れてしまっていたのに……会ってもいいのかな」


自信を失った言い方に、フレッチャーは目を丸くしたが、にやっと歯を見せて笑った。


「大丈夫だって。前にも言ったが、透明人間のあんたと結婚したがる酔狂なお嬢さんだぜ? 辛抱強く待ってくれてるさ」


ジャックは不安げに頷いた。手の中の指輪を握りしめる。


「まあ、もしだめだったらこっちに帰ってこい。いつでも受け入れてやるから。あんたは海賊に向いてるぜ。ラムだって飲めるようになる」


フレッチャーのおどけた言い方に、ジャックは苦笑いを浮かべた。


「それは遠慮する」











馬車が着いたのは、出港の直前だった。ドンバスの口添えもあって、ジャックは旧世界に向かう船に乗船することができた。


乗り込む前に、ジャックは2人の海賊と握手を交わした。


「ドンバス、いろいろありがとう。包帯と服を用意してくれて助かった」


ドンバスは目を細めた。


「俺からの唯一の餞別だ。俺の方こそ、仲間を助けてくれて感謝している」


フレッチャーがにこにこしながら言った。


「達者でな。もう海賊なんかに捕まったり、記憶を飛ばしたりするんじゃねえぞ」


ジャックは肩をすくめた。


「気をつける。フレッチャーも元気で」


「次会った時は、ハッピーエンドの話を聞かせてくれよ」


ジャックは頷いた。


「ああ、してやるとも」


船の船長が「早く乗れえ!」と声を張り上げたのが聞こえた。

ジャックはそれに返事をして桟橋を走った。と、急に立ち止まって2人の海賊達の方を振り返ると、大きな声で言った。


「海賊にはならないと言ったが、俺はお前達の仲間だからな!」






船はとうとう出港した。ジャックを乗せた三本マストの船が、夕日に向かって進んでいくのをドンバスとフレッチャーは見送った。


「……なんだお前、泣いてるのか?」


ドンバスが驚いたように、隣のフレッチャーの顔を覗き込んだ。

フレッチャーはしゃくりあげながら言った。


「お、俺、こういうの弱えんだよ。なんだよ、最後の仲間だって台詞……! なんでこっちで暮らさねえんだよ」


ドンバスは笑みを浮かべた。


「あいつはあいつの帰路に着いたんだ……さあ、俺達も帰ろう」



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