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12. 喪失



「お兄ちゃあん」


砂浜で少女が呼んでいる。


呼ばれた兄は何事かと眉を寄せた。妹はあまり大きな声は出さない。そういう時はほんとうに大事な時だけだった。婆様が死んだ時。ハリケーンで家が壊れた時。スペイン海軍がやって来た時。

とにかく、妹が叫ぶのには何かそれなりの理由がある。何か起きたのだろう。


「どうした、ポーラ」


兄が駆け寄ってくると、妹は少し興奮したように自分の後ろを指差した。


「人が」


妹の指す方を見ると、確かにその砂浜の上には海藻やら木片やらと一緒に、ぼろぼろの服の誰かが倒れているようだった。そういえば、昨夜は大きなハリケーンがこの近辺の沖合を通ったらしい。その被害者だろう。


「まだ生きてる」


妹の言葉に若者は「わかった」と頷くと、倒れている人物の方に駆け寄った。

うつ伏せになっている人物は、背格好からして男のようで、肩を叩いてみる。


「おい、しっかりしろ」


男が小さな声で呻いたようなので、兄はほっとしてゴロリと男の身体を仰向けにさせた。と、その瞬間凍りついた。

顔がなかったのだ。

青年は思わず仰け反り、しりもちをついた。


「お兄ちゃん? どうしたの」


ポーラがきょとんとした声を出す。


「生きてるでしょう? 息の音も心臓の音も聞こえるよ。ねえ、助けてあげないの?」


妹に言われ、青年は黙って目の前に転がる得体の知れない生き物を見つめた。着ている物からして、人の服装だ。見れば、袖口からの手はなかったが、白い砂が手の形を作っている。頬にも砂がついているようだ。

姿はないのではない、見えないだけだ。

兄は彼をじっと見つめていたが、しばらくして言った。


「……家に運ぶ。お前も手伝うんだ、ポーラ」


「うん!」


ポーラは嬉しそうに頷いた。







男はうめき声をあげるばかりで、意識はなかなか戻らなかったが、ポーラがしきりに話しかけ続けていたおかげか、2日後の朝になって急に大きく咳き込んだかと思うと、「こ、ここは……」と低い声を出した。


「お兄ちゃん! この人、目を覚ました!」


呼ばれて兄はベッドの方へ駆け寄った。


「気がついたか? ここは俺と妹の家だ……あんたは2日前に砂浜に倒れてたんだぞ」


顔の見えない男は、ぼうっと天井を見つめているようだった。しばらく何も言わないので、青年が言った。


「あんた、この前のハリケーンでやられたんだろう。どこかの船に乗ってたのか? この辺りにはあんたしか流れてこなかったみたいだけど」


男の表情は全くわからなかったが、どうやら一生懸命考えているようだった。無理もない、2日も寝ていたのだ。青年は妹をちらと見やってから続けた。


「俺は、トマ。そっちにいるのは妹のポーラだ。ここはテール島。あんたはどっから来たんだ? 旧世界から来たのか?」


「俺は」


男は天井を見つめたまま、ぼんやりと言った。


「俺は……俺は一体誰だ」


トマは男の言葉に目を見開いた。












何も思い出せない。

なぜ、俺はここにいるのだろうか。

自分の手がない。おそらく足も身体も顔もないのだろう。トマという目の前の青年が目を泳がせ、ぎこちなくタオルやら飲み物やらを渡してくるので、それはわかった。

なぜだ。なぜ身体が見えない。

俺は一体、何者なんだ。


「でもさ……生きててよかったね」


ぐるぐると考えていると、横から少女がにこにこしながら言った。


「最初は死んでるのかと思った。でも心臓がコトンコトン言ってたから」


そう言って微笑む彼女は、目の焦点が合っていなかった。トマが妹の頭に手をやってガシガシと撫でてから男に向かって言った。


「……ゆっくり思い出したらいい。ここには好きなだけいていいから」


青年の言葉は、この島に降り注ぐ太陽のようにあたたかかった。










夕方、獲れた魚と薪を手に、トマが家の扉を開けた。

家の中では、ポーラがテーブルの上に頬杖をつき、ベッドに横になっている男に何やら話しかけている。


「じゃあマルクは? エリック! ジャン……ルイは? ポール?」


トマはくすりと笑った。


「名前の候補か」


「うん! どれが自分にぴったりか、考えてもらおうと思って」


真剣に名前を思い浮かべる妹にトマは優しい目を向けた後、男の方を見た。


「それで? 成果はあったのか?」


「いや、まだ……」


男が小さく否定したのに、ポーラは声を上げた。


「でもさっき、トビアスって名前を知ってるって言ったよ! きっとそれかも」


「いや、聞いたことがあるような気がしただけで、俺の名前じゃない」


トマはテーブルに魚を置くと、薪を部屋の隅に置いた。


「そもそも何処の国の出身かもわからないからな。フランス語が話せるってだけで、フランス人とは限らないぞ。イングランド人やスペイン人の名前の候補はあるのか?」


「絶対フランス人だよ! 発音が母さんみたいにきれいだもん……ねえねえ、ピエールは? テオドール? ロラン?」


妹が粘り強く名前を考えているのに、トマはたしなめるように言った。


「あんまり急かすんじゃない、ポーラ。病人なんだ」


「いや、俺はもう……」


「だめだ。自分の名前を思い出せないほど混乱してるんだぞ。今朝起きたばかりなんだから安静にするんだ」


「はあい……じゃあ今日はここまでね! もし思い出せなかったら、ラシーヌがいいと思う! ぴったりだから」


ラシーヌ。

思いがけない上品な名前にトマは吹き出しそうになったが、すんでのところで抑えた。


「とりあえず夕飯だ。あんたも食べるだろ?」




トマが用意した食事はフルーツと焼き魚に黒っぽくなった肉のかたまりだった。

固そうな肉だ。男は眉を寄せた。


「燻製肉だ。精力がつくから食っとけ。急に飲み込むと胃がびっくりするから、よく噛んで食べろよ」


トマが言ったのに頷くと、おそるおそるその肉をかじった。


と、その時だ。

肉の風味がふんわりと拡がった瞬間、彼の脳裏に以前食べた燻製肉が蘇った。

前にも食べた味だ。あの時は確か、家の中ではなく街中で食べた気がする。手渡してきたのは……そうだ、フレッチャーという若い男だ、彼は燻製肉をこちらに差し出して『はいよ、ジャック』と言った……。






「俺は……ジャックだ」


男が急にそう言ったのに、兄妹は驚いて動きを止めた。


「俺の名前は、ジャックだ……。そうだ、こういう肉を食べたことがある……、あいつから、フレッチャーからもらったんだ……」


「わあ、やったじゃない!」


ポーラが嬉しそうな声を上げた。


「ジャックって言うんだ……やっぱりフランス人! でも、フレッチャーって誰?」


そう問われて、ジャックは少し考えて、眉を寄せた。


「誰だ……フレッチャーって」


自問して、少しの間沈黙が流れたが、トマがぽつりと言った。


「まあ、よかったじゃないか。自分の名前だけでも思い出せて」


「そうだよ! ラシーヌじゃなかったのは残念だけど」


ポーラが少し残念そうに肩をすくめたのに、トマが笑いを堪えて言った。


「その名前は魚か牛の名前にでもとっておけ。とにかく彼はジャックだ」






夜ふけの頃、トマは植物のツルで籠を編んでいた。ポーラはもう二階で眠っている。

ベッドで横になっていたジャックは、むくりと起き上がった。


「散歩がしたい」


突然彼がそう言ったのにトマは驚いたが、作りかけの籠を置いた。


「俺もいくよ」




むんと蒸し暑さが漂い、ザザン、ザザンと、さざ波の音が響いている。夜の砂浜は歩きにくかった。トマは裸足だったが、ジャックは靴を履いていたので、靴の中に砂が入ってくるのを鬱陶しく感じていた。

月が出ていたので、外は明るかった。

しばらく2人は無言で歩いていたが、やがてトマが口を開いた。


「あんた……人間なんだよな?」


その問いに、ジャックは小さく笑った。


「わからない。死んでいるとは思いたくない。でも腹は減るし痛みも感じるから、生きているんだろうな」


トマは少しほっとしたような表情になった。


「最初に見た時は幽霊かと思ったよ。あんたみたいな奴、初めて見たから」


また2人の間には沈黙がおりたが、今度はジャックが言った。


「ポーラは……いつから目が見えない?」


トマは肩をすくめた。


「生まれつきだ。本人は不自由には感じないらしい。俺がいなくてもなんでも一人でやれる。魚だって釣れるし、火だっておこせるんだぜ」


ジャックは頷いた。


「……優しい子だ。今日一日ずっと俺の名前を当てようとしてくれた」


トマが吹き出した。


「俺だったら、“ラシーヌ”は遠慮するけどな。あんたを助けたのもあいつが見つけたからだ。俺だったら、まず死体か服の塊だと思って近づかなかった」


ジャックは海の遠くの方を見つめた。


「思い出せない、なぜこんな姿なのか。でも不思議と人から驚かれるのには慣れている。姿が見えなくてつらいとか、そういう風には思わない。もう長いこと、この姿なんだろうな」


先を歩いていたトマは足を止め、ジャックの方を向いた。


「俺が思うに、あんたはこっちの世界の人間じゃない。きっと船で大西洋を渡ってきたんだ」


ジャックも足を止めたが、海を見つめたままだった。

暗い海は穏やかだった。


「……ハリケーンが来ていたと言っていたな。俺の乗っていた船は難破したんだと」


「多分な。ここは小さい島だから情報が流れてくるのがとんでもなく遅いんだ。だからどの船が沈んだかとか、正確な話はまだわからない。けど、この島に流れ着いたのはあんただけだ」


ジャックは頷いた。

トマはしばらくジャックを見ていたが、やがて目を細めて言った。


「普通の船乗りなら、ハリケーンが来ると知ったら海には出ない。ここの島だけじゃない、ここいらに住んでる奴らはみんなそうだ。そんな無茶をするのは、旧世界から来た貿易船か、軍艦か……海賊だけだ」


ジャックははっとしてトマを見た。

なんとも言えない目をしている。彼は、俺を海賊だと思っているのだろうか。

ジャックは自分の姿を見下ろした。

兵士の軍服ではないから、明らかに海軍の人間とは見えない。

ジャックは言った。


「俺は……海賊じゃないと思う。だが、貿易船員でもないと思う」


自信はなかったが、そんな気がした。

トマはにやりと笑った。


「あんたは海賊にしちゃあ、物腰が丁寧過ぎるよ。まあ連中の中にはそういうのもいるかもしれないけど」


ジャックは頭をかいて月を見上げた。

美しい月が浮かんでいる。こんな月は、前にも見たことがある気がした。あるいは誰かと見たような。

トマは言った。


「今は、もう少しうちで療養した方がいいと思う。けど、いつかは向こうに帰るべきだ。誰かあんたを待っているかもしれないぞ。うん、きっとそうだ」


ジャックは、夜の潮風が顔に吹きつけるのを感じた。風がまるで自分の名を呼んでいるように聞こえる。誰が呼んでいるのか、誰に会うべきなのかもわからないのに、なぜだか無性にどこかに行かなければならない気がしていた。




******************




2週間後。

ジャックはひとり、家の裏で薪割りをしていた。


「おや、ジャック。精が出るねえ」


汗をぬぐい顔をあげると、中年の女が籠にたくさんのフルーツを抱えて立っていた。


「ポーラは中にいるかい? ちょっと籠編みを手伝ってもらおうと思ってね」


ジャックは頷いた。


「さっき朝ごはんを食べ終わったところだ。きっと暇してるだろう」


「そうかい、じゃあちょっと失礼するよ」




テール島の島民は少なく、10人にも満たなかった。彼らは姿の見えないジャックに怯えるどころか死にかけた彼を気の毒がり、余計なくらい世話を焼いた。おかげでジャックはすぐに元気になった。

島の住民は、漁に出るか、島の真ん中で牧畜に励むか、籠を編むかして平和に暮らしているようだった。

まるで楽園だった。




夕食の席で、ポーラがどっと疲れたような声を出した。


「バルバラおばさんってほんとに不器用。なんであんなに籠を編むのが下手なのかな」


バルバラおばさんとは、今日ジャックが薪割りの時にやってきた中年女性だ。

トマが笑った。


「生まれつきだよ。お前の目が見えないのと同じように、おばさんは手が不器用なんだ。世の中うまくできてるんだよ」


「そういうものなのかなあ」


ポーラが口を尖らせているのに、ジャックが言った。


「……彼女はいつも、今日みたいにフルーツを届けてくれるんだろう? 親切な人じゃないか」


「そうなんだけど……。いつまでたっても編み方を覚えてくれないから困っちゃう。ジャックの方が覚えるの早いよ」


「俺は器用なんだ。錠前だって簡単に……」


と、そこでジャックは言葉を途切らせた。


錠前だって簡単に……なんだ? 鍵をこじ開けるのが得意だというのか?

まるで泥棒ではないか。

急に口を閉ざしてしまったジャックに、トマが咳払いをした。


「ポーラ。バルバラおばさんは、お前の目が見えないことを責め立てたことがあったか?」


「ううん、むしろ優しくしてくれる」


「だったら、お前もおばさんの手際の悪さを責めるんじゃない。わかったな?」


「はあい」


今日もテーブルにはフルーツと魚、燻製肉が並んでいる。魚やフルーツの種類は日々変わり、ジャックは飽きることはなかった。


「そういえばね、今日バルバラおばさんから聞いたんだけど」


ポーラが器用に魚の骨を取りながら言った。


「マリーガラントの島にも難破した船の人達が流れ着いたらしいよ。イングランドかアイルランド人の海賊だったらしいけど」


「なに……?」


ジャックが手を止めた。


「ああ、大丈夫、大丈夫。その人達、捕まったわけじゃないから。こんな片隅にある島々なんか、海軍は知らん顔だよ」


ジャックは何か考えているようだったが、ポーラはかまわず続けた。


「でも、ちょこっと残念。イングランド人なのかあ。ジャックの乗ってた船の人なのかな。その人達もフランス語が上手なのかなあ」


「お前はどうしてもそこが気になるらしいな。どこの国出身でもどうでもいいだろう」


トマは呆れたように妹を見やると、ポーラは憤慨したように言った。


「だって国がわかったら、ジャックがどこに帰るべきかわかるじゃない! お兄ちゃんもぼんやりしてないで、よく考えたらどうなの?」


「はいはい、すまなかったな」


兄妹がそんな会話をしている間も、ジャックはずっと押し黙って考え込んでいた。







その夜、ジャックはベッドに横になると、記憶を整理した。

どうも俺は海賊と一緒に船に乗っていたらしい。記憶にあるフレッチャーという若い男も海賊なのかもしれない。


俺も海賊なのか?

いや、とジャックは自分の考えを否定した。

海賊ならもっと海の事情に長けているはずだとトマが言っていた。

生活の仕方は身体が覚えていた。顔を洗う、調理する、薪を割るなどひと通りはできた。また、錠前破りも覚えていた。


だがトマのように、空を見ていつ雨が降るか、晴れるかなどということは判断できなかった。帆の縫い方も、ハリケーンに備えるための船や家の対策も全然知らない。

やはりトマの言うように、こちらの世界で生きてきたわけではなさそうだ。

ジャックは眉を寄せた。

もし、一緒に難破した者がいるなら、自分が何者なのか、知っているかもしれない。そのマリーガラント島に行くべきではないだろうか。


翌日、その考えを朝食の席で言うと、ポーラが「だめ!」と即座に止めた。


「こっちの島にジャックが流れ着いたっていう話も、たぶん向こうでは今頃聞いてるから、その人達がこっちに向かってくるかもしれない。すれ違いになっちゃうよ。砂浜か船着場で待ってた方がいいと思う」


トマも妹の言い分に賛同していた。


「焦る気持ちはわかる。だが、ポーラの言う通りだ。少し待ってみよう」


そういうわけで、ジャックはこの島で待つことになった。

そして3日後の昼、とうとう船着場に小さな船が入港してきた。バルバラが慌てて知らせにやって来て、ジャックは聞いた途端に飛び出していった。


船着場といっても立派なものではなく、小さな桟橋があるだけだった。船からは漁師のような出で立ちの男達がわらわらと降りてきている。

ジャックは、彼ら1人1人をじっくり見ていたが、突然「あっ」と声を上げた。

見た顔だ。燻製肉を渡してくれた記憶に残っているあの男だ。

きっと彼は知り合いだ。




「おお、ジャック!」


若い男は、ジャックと目が合うと嬉しそうな満面の笑みを浮かべた。


「やっぱり噂の幽霊男はジャックだったんだな! 生きてるって信じてたぜ!」


突然人懐こそうに近寄ってくる青年に、ジャックは少したじろいだ。


「フ、フレッチャー……か?」


「そうだよ、忘れたわけじゃねえだろ。いやあよかったなあ! 包帯は流されちまったようだな。俺はたまたまウィルとおんなじ場所に流れ着いてさあ、他にもいろいろ噂をきいて探してたんだよ。ボリスやロビンなんかも無事だったらしいぜ、島に向かっていたのがよかったんだなあ」


ぺちゃくちゃと話し出す若者に、ジャックは少し迷ったが、「わ、悪い」と口を挟んだ。


「その……実は」


「おう、どうした」


フレッチャーの嬉しそうな顔に、ジャックは頭をかいた。


「実は、あんまり覚えてないんだ。記憶が……飛んで」


フレッチャーは目を丸くさせた。


「えっ?」


「その……俺の名前とフレッチャーの名前は思い出したんだ。あと、燻製肉を食べたことも。だが、それ以外がさっぱりで……お前は、海賊なのか?」


フレッチャーは丸い目をぱちくりさせた。


「本気で……言ってるのか? 今までのこと、なんにも覚えてねえって?」


ジャックは気まずげに頷いた。


「船に乗っていたのかどうかもわからない。なぜこの島に……この辺りにいるのかも思い出せないんだ」


フレッチャーは目を瞬かせながら、途方にくれたようなジャックを見ていたが、次の瞬間ぶっと吹き出した。唾を目の前のジャックの顔に飛ばして、フレッチャーは腹を抱えて笑いだした。


「嘘だろ……! ほんとうに忘れてやがる……くはははっ!」


何がおもしろいのかさっぱりわからなかったが、ジャックは不快そうに顔を袖で拭った。

なんとなく、この目の前の人物の人柄を思い出した気がする。








フレッチャーは、トマとポーラの家に案内されてテーブルに座った。ジャックはフレッチャーの向かいに、ポーラはジャックの隣に座って頬杖をつき、トマは床に座って籠を編みながら、2人の話を聞いていた。


「……つまり、俺はヨーロッパの方の沖合で海賊の仲間にされたんだな?」


「まあ、仲間になんかならねえって頑なに言い張ってたけどな。向こうで人を待たせているから海賊になっちまうわけにはいかねえってよ。とにかく、テライアの要塞で仲間を助けるのにあんたは貢献して、その後は旧世界に帰ろうとしてたんだ。ハリケーンに遭ってなかったら、今頃はあんたはビスケー湾だったかもしれねえ」


「ねえねえ、ジャックがヨーロッパのどこにいたのかあなたは知らないの? ジャックはどこの国出身なの?」


ポーラが口を挟んだのに、フレッチャーは肩をすくめた。


「どこの国出身かは教えてくれなかったな。だがあっちこっち旅してたってことは知ってるぜ」


ジャックは少し考えたが首を傾げた。


「人を待たせている……? それでヨーロッパに帰りたがっていたのか。なぜだ、家族がいるのか? 海賊に手を貸してまで……帰りたかった理由はなんだ、誰を待たせている? あんたは知っているのか?」


フレッチャーは目を細めてジャックを見た。


「そうか、あんたは……それも忘れちまったんだな」


彼の目はいつになく悲しげだった。


と、フレッチャーは「あ、そうだ」と思い出したように懐に手をやると、筒のような物を取り出した。


「これ、ジャックのだろう。たまたまマリーガラントの砂浜で見つけた時、ウィルがそう言ってたぜ」


ジャックは、テーブルに置かれたそれを手に取った。

筒だ。海水で少し錆びついた部分があるが、元は金色の豪華なデザインだったらしい。


「なんだこれは」


「望遠鏡だよ」


ジャックの問いに、フレッチャーは答えた。


「なんでも、俺達がジャックの乗ってた船を拿捕した時、あんたが金持ちの若い男からそれを渡されてるとこをウィルが見ていたらしいぜ」


金持ちの若い男……? 誰だ、それは。

だが、その望遠鏡の重みはなんとなく覚えている気がした。誰から渡された? 誰と船に乗っていたんだ。


「俺に金持ちの知り合いが……?」


全然覚えがなかった。

なぜこんな物をもらったのだろう。彼に会うために俺はヨーロッパに帰りたいのか? ヨーロッパのどこに?

ジャックは混乱した頭を振った。


フレッチャーは少し考えていたようだったが、「あのさ」と切り出した。


「俺、なんでジャックがヨーロッパに帰りてえのかっていう理由をどうしてもききたくて、前に甲板を磨きながら聞き出したんだ。だから知ってんだ、あんたが向こうに帰りてえ理由」


ジャックは身を乗り出した。


「教えてくれ、頼む」


フレッチャーは頭をかいたが、「海に流されてるかもしれねえが」と眉を寄せてから、ジャックの上着を指差した。


「俺が言うより自分で思い出した方が、その、あんたにも先方さんにも、いいと思うんだ。その……ポケットにまだ入っているかもしれねえ」


何が? ジャックは言われるままに、上着の内ポケットに手を突っ込んだ。

指に、何か冷たい金属が触れる。そっと取り出すと、それは金色で輪っかの形をしていた。ジャックは目を見開いた。


「指輪だよ」


フレッチャーが言った。


「あんたには婚約者がいるんだぜ」



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