1. 出会い
18世紀初頭のヨーロッパ、南フランスのとある町から物語は始まります。
本作品は、架空の地名と実在する地名を混ぜた世界になっております。
冷たい風が吹きつける季節だった。もう日は沈み、辺りは暗くなりかけていた。
外灯に照らされた街の大通りでは、人々がコートを着込んでせわし気に歩いている。従者を連れてきれいに着飾った紳士やご婦人方ばかりだが、一角曲がれば、ぼろをまとい目つきを鋭くさせている者も潜んでいた。
その通りを、一風変わった男が重い足を引きずるように歩いていた。つばのある帽子を深く被り、古びたコートのえりをたて、両手をポケットにつっこんでいる。行き交う人々の目を最もひいたのは、えりからのぞく顔だった。全面が包帯に覆われていて、肌色ひとつ見せず、目には黒ずんだ琥珀色の眼鏡をかけていた。旅人であることは一目瞭然だった。だが、顔も腕も衣服と包帯で隠れているため、年齢もわからない。男の名前は、ジャック・ウィルソンといった。
どこの街もかわらないな。男ーージャックは、そう思わずにはいられなかった。美しく着飾った紳士や貴婦人方は、ジャックをけものをみるような目で通り過ぎていく。彼はそんなことにはもう慣れているようで、どこ吹く風のように足を進めた。
街行く人は、彼の奇妙な格好ゆえに想像だにしなかったが、ジャックのポケットの中は金でいっぱいに膨らんでいた。
彼は貴族でもなければ大商人でもなく、あらゆる裏稼業をして稼いでいたのだ。人より機転はきくし、狡猾な性格だったが、それ以外に決して誰にも言えないような秘密があった。彼はそのおかげで裏社会で一目置かれ、旅を続けることができるのだ。いや、できるというよりも旅するより他がなかったのかもしれない。
ジャックは今夜泊まる場所を探していた。さすがに野宿では今夜の寒さを乗り切ることはできない。そう思っていた時だった。
ふいに強い風が吹いたかと思うと、突風はあっという間にジャックの頭から帽子が奪い、通りかかった馬車を操る御者の顔に叩きつけた。いきなり視界をふさがれた御者は驚いて手綱を誤り、馬は暴走し始めたのである。
幸い、御者はすぐさま帽子を片手で掴み、視界を確保すると慣れた手付きで馬を鎮めた。あと少し御者の行動が遅かったら、馬車は間違いなく道のわきにそれて民家に突っ込んでいただろう。御者は、駆け寄ってきた帽子の持ち主に向かって、相手の詫びも聞かずに怒鳴り散らした。
「馬鹿野郎、帽子ぐらい自分の手で抑えておけ!」
興奮して、かなり気がたっているようだ。
ジャックは帽子を受け取ろうと手を伸ばして言った。
「すまなかった、強い風が吹くとは思っていなかった……」
しかし御者は、彼の言葉を最後まで聞かずに遮って言い放った。
「言い訳するつもりか、薄汚い物乞いめ。これがその報いだ!」
そう言って手綱を振り上げ、男をぶとうとしたその時だ。
「やめなさいっ!」
勢いのある女性の声が響き、御者の動きを止めた。御者は男を睨んで言った。
「しかしマダム、この者のせいで我々はもう少しで……」
「何もなかったから良いではありませんか。むやみに人をぶつのはおやめなさい。さあ、帽子を返して差し上げて」
不本意そうな御者から帽子を受け取ると、ジャックは馬車の方をみた。中にいる女性が助けてくれたようだ。彼は馬車の中に向かってお礼を言った。
「ありがとう、マダム。その寛大な精神のご恩は忘れない」
馬車の中の女性は笑って言った。
「寛大だなんて。あなたは旅の方のようですわね。この街は初めて? なにかお困りなことがあれば言ってくださいな」
ジャックは少々迷ったが、ではと切り出した。
「ご存知ならば教えていただきたい、この辺りに宿屋はあるだろうか?」
彼の問いに、女性は気の毒そうな声で言った。
「残念だわ、宿屋を営んでいた老夫婦がいたのだけれど、お二方は先日亡くなったばかりなの。この街に宿屋はそこだけですわ」
「そうか」
彼はがっかりしてそれだけしか言えなかった。
自力で一晩泊めてくれそうな家を探すしかなさそうだ。見たところ、そんな親切な家を探し出すのは難しいだろうが、金さえあれば見つからないこともないだろう。
ジャックは、落胆するばかりで自分がお礼を言っていなかったことを思い出した。
「答えていただいて助かった」
そう言って一礼すると、帽子を被り直して馬車に背を向けた。
と、女性の声が引き止める。
「あら、お待ちになって! あてがないのなら、私の住む屋敷に泊まっていってはいかが?」
ジャックは眉を寄せて振り向いた。
「なんだと……?」
明らかに夜の商売女の言葉だ。
ジャックは舌打ちしそうになった。それならば親切そうな態度は客引きのためだったというわけか……辻馬車を使うような高級娼婦は値段が張るだろう。宿屋は必要だがそこまで金をかけたくなかったし、女の相手をする気はなかった。
裏社会を生きてきたジャックは女性がそういう思惑を持っていると決めつけていたが、女性の方は慌てた様子で馬車から身を乗り出した。上品な顔がちらりと見えた。
「あ、あやしい者ではありません! 私はパーシーズ商会を営む父と暮らしていますの。ほら、あなたもご存知でしょう?」
女性が御者に同意を求めると、御者はああと頷いた。
「絹織物のパーシーズ商会。マダムはあそこのお嬢様でしたか。道理で……」
ゲテモノ好きなわけだ、と御者は心の中で付け加えた。
女性は御者の言葉にほっとしたような声で言った。
「そうなのです! この辺りでは有名ですのよ。それに父も私も、旅のお客様は大歓迎ですわ」
こちらを安心させようと必死な彼女の弁解に、ジャックは目を瞬かせていたが、その様子に小さく笑った。
どうやら彼女は、豪商の娘のようだ。
ジャックは言った。
「……では一晩、馬小屋でいいのでお借りしたい」
「まあ、馬小屋だなんて! 生憎うちには馬がいないのでそれは無理ですわ。客室くらい用意します」
それを聞いて御者が咳払いして言った。
「マダム、奴は乗車賃を持っているようには思えませんが」
「あら、心配なさらなくとも結構、私が払いますわ……さあ、お乗りになって。屋敷はもう少し先にありますの」
女性は御者の嫌味を冷たくあしらうと、優しい声でジャックに呼びかけた。
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馬車に揺られて、ジャックの心は落ち着かなかった。
先程の口調から風格ある夫人だと思っていた女性が、まだ17、8に見える娘だったのだ。その上優しい目で自分に微笑みかけてきて、ジャックは少し居心地が悪かった。これまで彼女のような若い娘からは、蔑むような、あるいは怯えたような目線しか送られていなかったので、初めて向けられたそんなまなざしにどうして良いのかわからず、そわそわした様子で目をそらしていた。
馬車が出発してすぐに、女性は笑みを浮かべて言った。
「私はシャルロット・パーシーズです。あなたは?」
ふいに自己紹介を受けたジャックは、少々の躊躇いの後、名前を述べた。
「……ジャック・ウィルソン。泊めてくれると言ってくれて、助かった。あてがなくて途方にくれていたんだ」
「それはよかった。実はさっき、あなたが歩いているところを馬車から見ていましたの、その……とても目立っていたので」
彼女が少し言いづらそうに言ったのに、彼は頷いた。
「顔に巻いている包帯は自分でも奇妙だと思う。訳あって、帽子もコートも人前では脱げない……君の父親は見逃してくれるだろうか」
「心配なさらないで。父は商人なので、異国の方とはよく接するのです。あなたにも、無理にこの国の礼儀に従わせるつもりはありませんわ」
シャルロットはにっこりと微笑んだ。
二人を乗せた馬車は街を外れて林の中へ入っていった。もう日が沈んでいたので、御者は近道をとっていた。
と、急に馬車が止まった。
「あら、どうしたのかしら」
こんな林の真ん中で、無言で止まるなんておかしい。しかも静かすぎる。ジャックは嫌な予感がした。
何事かと窓から外へ顔を出そうとしたシャルロットをジャックが止めたその時、御者の断末魔の叫び声が響いた。
その後は、馬車の外から複数の足音が周りを取り囲み、男の焦ったような声が聞こえてきた。
「……金を出せ! さもなければ御者と同じ運命をたどることになるぞ」
それを聞いたシャルロットの顔がさっと青くなった。ジャックは冷静にその声に呼びかけた。
「おいはぎか」
「そんなところだ。早く金を出せ」
シャルロットが震える手で、かばんから金を出そうとしたが、ジャックは無言でそれを止めた。
「だって殺されてしまいます」
シャルロットの囁くような掠れた声に、ジャックは首を振ると人差し指を立てて口元に当てた。
ここで金を渡しても命を奪われないとは限らない。辻馬車だが、御者はやられたのだ。
豪商の娘が乗っていることが知れたら、それこそ彼らに絶好のターゲットと思われてしまうかもしれない。
仕方ないとジャックはため息をついて言った。
「お前たち、こんなことをしているが、この俺が誰なのか知っているのか?」
「知るか、そんなこと。誰であろうと……」
おいはぎの返事に、ジャックはわざとらしく残念そうな声で遮った。
「残念だな。俺は、ピョートル・セルビーノだ。お前らのような人間ならだれでも知っていると思っていたが、どうやら自分を買い被りすぎたようだな」
その言葉においはぎたちは凍りついた。
「ま、まさか、あの“悪魔のピョートル・セルビーノ”……?」
突然彼らは動揺し始め、ざわざわと焦った声が聞こえた。
「お、おい、ほんとうに奴だったらまずいぞ!」
「だが、情報屋の話だとセルビーノは北に行ったきりだと……」
「どうする?」
なかなか諦めてくれない彼らに、ジャックはしびれを切らしたような声で言った。
「俺の行く手を阻もうとする度胸は認めてやろう。だが俺は今日は疲れているんだ……先に殺られたいのは誰だ」
そう言うと護身用のナイフを取り出して袖を捲ると、馬車の窓からそれを見せつけた。
男たちは、カンテラに照らされたジャックの腕を目にすると「ひっ」と悲鳴をあげて、飛ぶように街の方へ逃げていった。
「やれやれ、やっと行ってくれたか」
窓から顔を出して確認すると、そう言って馬車から降り、御者の方へ歩み寄った。案の定、彼の心臓は剣で貫かれて息がなかった。
ジャックは舌打ちをすると、今度は後ろの座席の方に戻り扉を開けた。
「御者は気の毒だが、あきらめてくれ。早く奴らに気づいていれば、助かったものを。降りて街へ戻ろう」
席に座ったままのシャルロットは何も言わない。身をこわばらせて、一ミリも体を動かさなかった。
ジャックはそんな彼女を見て、再び座席の方へ乗り込むと、気遣わしげに言った。
「おい、大丈夫か? パーシーズ嬢? シャ、シャルロット?」
呼び慣れない名を呼んだジャックの声は戸惑いがちではあったが、シャルロットは自分を呼びかけた彼の声で我に返ったようだった。
氷が解けるような動きで振り向いたシャルロットに、ジャックはほっとして息を吐いた。随分と怯えていたようだ。彼女を安心させるように、ゆっくりとした口調で言った。
「とにかく早く家に帰った方がいい。生憎俺は馬車を操るどころか、馬にも慣れていない。ここから屋敷まで歩くのは遠いのか? 街に戻ってまた辻馬車を拾うことも……」
シャルロットはジャックの問いかけに答えず、じっと包帯の巻かれた彼の顔を見つめていたのだが、次の瞬間少し顔を歪めると、ジャックの薄汚れた胸に顔を押し付けるようにして飛び込んだ。
「……!」
ジャックは想定外のことに、驚き固まってしまった。な、なんだこの女は。やはりその筋の……? と、ジャックは、彼女の身体が震えていることに気づいた。まるで小さな子供が、父親にするような仕草で体を縮こませていた。
よほど怖かったらしい。
泣きそうな声でシャルロットは口を開いた。
「ぎょ、ぎょ、御者は、こ、こ、殺されてしまったのね……! わ、私、あなたがいなかったら……」
ジャックはそのまま硬直した状態だったが、震えている彼女を突き放すこともできず、どうしたらいいかしばらく考えていたが、小さくため息をつくと、ぎこちない手つきで彼女の背中を撫でてやった。
すると、シャルロットの震えがだんだんとおさまってきた。ジャックはほっとして身体を離し、元気づけるように言った。
「帽子が、御者の顔に風で飛ばされてよかった」
シャルロットは一瞬わけが分からないという顔をしたが、理解するとぎこちない笑顔で頷いた。
「ほんとうね。あなたがいてよかった……なんとお礼を申し上げればよいのか。ほんとうにありがとうございました」
シャルロットは落ち着くように息を整えると、もうすっかり気丈な様子で言った。
「もう、大丈夫です。御者と馬車は後で父に頼んで引き取ってもらいます。家に帰りましょう……ここからそんなに遠くありませんから、歩いて帰れますわ」
日はとっぷり暮れていた。林の中は闇に包まれ、時折吹きつける冷たい風が木々をカサカサと揺らし、林は不気味さを一層増していた。わずかに顔を出している月あかりと馬車から外したランタンを頼りに、二人は前を進んでいった。
ジャックは先程のシャルロットの行動に、未だに戸惑っていた。包帯を巻いた顔、異国風の黒みがかった古い色眼鏡、そして清潔とはほど遠いぼろぼろで薄汚い服装ーー商売女でも自分に近づいてこようとはしなかったのに、シャルロットはこちらに向かって微笑んだし、動揺していたとはいえ、子どものように抱きついてきたのだ。なんなんだ、この娘は。下賤かどうかの区別がつかないほど、まだ子どもなのだろうか。
2人の間には沈黙が流れていた。
シャルロットの方も動揺していた。先程のおいはぎとの遭遇で怖い思いをしたのだ。耳に残っている御者の断末魔の声は頭から離れず、落ち着こうと深呼吸ばかりしていたが、やはり夜道を無言で歩くのは怖かったので、とうとう沈黙を破った。
「ほ、ほんとうのお名前はどちらなんですか?」
ジャックは、彼女の方を振り向いた。
「名前?」
先ほど自己紹介したばかりではと返そうとしたが、おいはぎに別名を名乗ったことを思い出した。
「その……俺は……」
おいはぎを騙すために偽りを述べたと言っても彼女は納得しただろう。しかし、ジャックはなぜかそうしなかった。
「俺は、わけあって、いろんな所でいろんな名前を持っている。ジャック・ウィルソンがほんとうの名だ」
ジャックの説明に、シャルロットは目を丸くした。
「まぁ、いくつも名前を持ってらっしゃるなんて。なんだか嘘みたい」
「さっきのピョートルって名前は、聞いたことはないか?」
「ええ、全く」
肩をすくめたシャルロットをみて、ジャックはほっとしたように言った。
「それならいい。だが、君の父親には言わないで欲しい。その名前だと……いろいろと不都合なんだ。場合によっては屋敷から追い出されるかもしれない」
「わかりました」
シャルロットは聞き分けのいい子供のように頷いた。
「でも、名前を言っただけで逃げ出してしまうなんて、あなたはどんなに強いお人なのかしら」
シャルロットは尊敬の色を述べたが、言われた方は鼻で笑って首を振った。
「勘違いするな。俺は君が思っているような人間ではない。潔白な人間とは程遠い存在の奴だーー見た目通り」
シャルロットは肩をすくめた。
「ピョートル・セルビーノさんはそうかもしれません。でも、ジャック・ウィルソンさんは私の命を救ってくださったわ」
ジャックは無言で眉を寄せた。
何を言っているんだ、彼女は。あまりに好意的な言い方に、ジャックはちらりと隣を歩く娘を見た。何か裏があるのかもしれない。しかし、シャルロットは視線に気づくとこちらににっこりと笑顔を向けてきた。まるで無邪気なその笑みは、思惑があるようには見えなかった。
とうとう屋敷が見えてきた。さすがは豪商の屋敷だけあって荘厳さを感じた。近づいて見ると、きちんと手入れも行き届いているようで清潔さが光っていた。
こんなところに、ほんとうに俺は客として迎え入れられるのだろうか。屋敷の中に入ると、2人の召し使いが駆け寄ってきた。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
シャルロットはロビーを歩きながら言った。
「ただいま。お父様は帰っていらっしゃるの?」
「はい、夕食をお嬢様と一緒にと、お待ちしていらっしゃいます」
「あら、そうなの? それなら待たせちゃ悪いわね」
シャルロットはジャックに言った。
「すぐに夕食ですけれど、かまいませんか?」
ジャックが頷いたのをみるとシャルロットは足早に屋敷の奥へと進んでいく。
ジャックは彼女に後ろについて、長い廊下を歩いていた。さっきの召し使いがコートを受け取りましょうかと言ったがジャックは断った。彼らはかしこまりましたと去っていく。
こんな大きな屋敷で、薄汚いおかしな服装をしているのに、普通の人間のように扱われることにジャックは戸惑った。シャルロットは、父は商人だから外国人に慣れていると言った。確かに今の召使いの慣れた様子からは、その雰囲気は伝わってきた。
一体この屋敷の主はどのような人物なのだろうか。
シャルロットは、ひとつの大きな扉の前で足を止めた。どうやら食堂についたようだ。いよいよシャルロットの父親との対面である。ジャックは、彼女の父親が自分を見て追い出す可能性もあることを念頭に、礼儀正しくしようと身構えた。
扉を開けた瞬間、ごちそうのいい匂いが鼻をくすぐった。暗い廊下と違って食堂は明るく、テーブルにはごちそうが並べられているところだった。そしてその長いテーブルの向こうにこの屋敷の主であるセドリック・パーシーズ氏が座っていた。
「お父様、ただいま戻りました」
シャルロットは父親の前まで行くと、優雅にお辞儀した。ジャックはその後ろで頭を下げたまま、ちらりと屋敷の主人の方を盗み見た。
パーシーズ氏は、立派な体格に、威圧感を与えるような髭が印象的な、いかにも凄みのありそうな男だった。一枚岩ではいかないだろうというのがジャックの正直な感想だった。ほんとうに泊めてもらえるのだろうか。
ジャックの心配を煽るかのように、パーシーズ氏は気難しい顔をしてみせた。
「まったく、どこで道草を食っていたのだ。父親を待たせるとは何事だ! もうすぐで飢え死にするところだったのだぞ」
扉のすぐ手前にいたジャックは体がどっと重くなった気がした。この男も案外普通の人間だったらしい。ほんとうに追い出されるかもしれないぞ。
しかしそんなパーシーズ氏の言葉に、シャルロットはくすくす笑った。
「残念ながらお父様、全く凄みが感じられないわ。貴族の方々に対抗するなら、もっと自分本位でなきゃ。それに飢え死なんて、いくらなんでも大げさすぎよ」
するとパーシーズ氏は、予想外にもいたずらっぽく笑った。急に表情をがらりと変え、眉尻を下げた。
「手厳しいな。なかなか帰らないから、時間をかけて練りに練った台詞であったのに。だがシャルロット、お前の帰宅時間も少し遅くはないか?」
思いがけないパーシーズ氏の言葉と、先ほどまでとは打って変わった優しい表情に、ジャックはあっけにとられた。今のは演技……?
1人混乱しているジャックをよそに、シャルロットは肩をすくめた。
「ごめんなさい。でもお父様、私もう少しで殺されるところだったの! おいはぎよ、おいはぎ! 危なかったのよ!」
と、その時、パーシーズ氏は、彼女の後ろにいるジャックの方に目を向けた。
「シャルロット、その前に、私にお前のお客様を紹介してはくれないのか」
パーシーズ氏がたしなめると、シャルロットははっと気づいたように彼の方に近づいて言った。
「まあ、ごめんなさい! この方はジャック・ウィルソンさん。異国から来た旅人よ。ジャックさん、私の父です」
シャルロットは嬉しそうに2人を紹介した。ジャックはパーシーズ氏の優しく暖かい笑顔に未だに戸惑っていた。ほんとうにこちらが彼の本性なのだろうか。
「彼は今晩泊まるところを探していたので、うちはどうかって提案したの。泊めてさし上げてもよろしいでしょう?」
パーシーズ氏は、自分の娘がこうして旅人や困っている人間をたびたび連れてくることをを嬉しく思っていた。娘には常に誰にでも優しくしなさいと説いているからである。それは、彼女の亡き母親が生前良く言い聞かせていたことであった。
もちろん、彼女が連れて来る人間が皆、善良な者であったわけではなかった。娘を利用しようとしている輩だとわかった時はすぐに手を下し、憲兵につきつけることもあった。亡き妻の忘れ形見である大切な愛娘を危険にさらす気は全くなかった。
だが、こうして多くの人間に触れることで、娘に善悪の判断をつけさせようとしていたのである。
パーシーズ氏は目の前の客に、少し戸惑った。
今回連れてきたシャルロットの客は、あやしげな恰好をした男だと思ったが、無口で今のところ何も要求してこないので、娘がやや強引に連れてきたのではないか、と思うほどであった。
大体の人間は顔を見たり、会話をすることによって悪意があるかないかはパーシーズ氏にはすぐわかった。だがこの男の場合、顔を見て真意をつきとめようにも包帯と大きな黒い眼鏡で表情は読めないし、シャルロットの紹介に小さく頭を下げた程度で、一言も話さず、何かを要求してくることはない。
そこで、パーシーズ氏は彼に握手を求めた。その手に触れて、彼の人間性を確かめようと思ったのだ。
ジャックはそれに驚いた。
こんな奇妙な自分に触れようとするなんて思っていなかったからだ。戸惑いながらも、顔と同じく包帯が巻かれている手を差し出して言った。
「このような身なりな上に、帽子も上着も脱がない無礼者で申し訳ない。この街には宿屋がないときいた。一晩泊めていただけるとありがたい」
その言葉に、パーシーズ氏はにっこりと笑みを浮かべてジャックの手を握った。謙虚な態度のせいか、彼の声をきいて握手した時「悪意はなさそうだ」と思えたたのだ。
パーシーズ氏は言った。
「もちろんだ。ようこそ、我が屋敷へ。何のもてなしもできないが、ゆっくりしていってくれ」
ジャックは、その暖かく嬉しい歓迎の言葉を信じられない気持ちできいていた。金もまだ払っていないのに。思わず上着のポケットに手をやり、金があるのを確かめた。
それから、にぎやかな食事がはじまった。シャルロットは、パーシーズ氏に先程の道中の出来事をせき込みながら話した。
「……すぐに金を出せと言われて、私は出そうとしたんだけど、ジャックさんに止められたの。それからその人たちをすぐに追い払ってくれたのよ! ジャックさんがいたから助かったの」
ジャックは慌てて言った。
「俺は何もしていない、ただ……」
名前を名乗っただけだ。そう言いたかったが、それはさすがに怪しまれると思って言えなかった。
パーシーズ氏は改めてジャックの方を向いて言った。
「それでも、君が私の娘を救ったのには変わりはない。娘に代わって礼を言うぞ」
「いや……」
ジャックがそれきり黙ってしまったので、シャルロットは話題を変えた。
「ねぇ、ジャックさん、旅の話を聞かせてくださる?私この街から出たことがないんです」
「旅の……話?」
ジャックは戸惑いの声を漏らした。まさかそんなことを聞かれるとは思っていなかった。
「ええ、どんなところに行ったことがあるのですか?」
シャルロットがあんまり興味深々なので、ジャックは頭をかいて話し始めた。
「この辺の周辺諸国は大体行ったことがある。遠方は、オスマン帝国、インド……」
ジャックは今まで旅してきたいろんな国々のことを語った。初めは簡単に話を切り上げるつもりだったが、シャルロットが熱心に聞いてくれるので、話はどんどん膨らんだ。
彼にとって、誰かとこのようなたわいもない話をしたのは久しぶりだった。いつも食事は1人で、空腹を満たすだけの時間でしかなかったのだが、今夜だけは違った。豪華な食事に加えて、パーシーズ親子との会話があった。こんな食事をしたのは何年ぶりだろう。
セドリック・パーシーズ氏は客人の様子に安心した。外見はあやしく、いかにも裏の社会で生きてきただろうということは見てとれたが、こちらに被害を及ぼすつもりはないようだ。むしろそれを伏せ、娘に害を与えまいとしてくれているように感じた。
この街から出たことのない娘にとって、外国の話はいい刺激になるだろう。寡黙そうな男だが、娘の質問にはちゃんと答えてくれている。楽しそうな二人を、パーシーズ氏は優しく見守っていた。
夕食を終えると、ジャックは召し使いに部屋へ案内された。パーシーズ氏の話では、商人として外国人を迎え入れることもあるから、このような客室用の部屋があるということ、そして気兼ねなく過ごしてほしいということだった。
部屋には、大きなベッドやきれいに装飾されたテーブル、クローゼットなど、客室用として必要なものはすべてそろっていた。仕事で目にすることはあったが、このような豪奢な部屋を自分自身が使うことになるとは思ってもいなかった。しばらくそれらを物珍しそうに眺めたまま突っ立っていたが、やがてベッドの脇に腰かけ、ずっと疑問に思っていたことを考えた。
なぜ見ず知らずのしかも自分のような身なりの人間に、ここまでもてなしてくれるのだろう。豪商であるなら、自分の益にならないことは関わらないはずだ。
ジャックが今まで接してきた人間は皆そうだった。取引の際は決して気を抜かず、まず金を手に入れてから行動に移すのが理である。
薄汚いコートのポケットの中に、金を大量に持っていると感づいて見返りを期待しているのだろうか。自分は騙されているのか? 一瞬そんな考えが過ぎったが、ジャックは首を振った。いや、そんな素振りは全く感じなかった。言動にも顔にも違和感はなかった。陰謀が渦巻く渦中を生きてきたジャックは、その辺りの勘には自信があった。
ジャックは屋敷の主とその娘に思いを馳せた。不思議な親子だ。あのセドリック・パーシーズという男は、さすがは豪商だけあって腹に一物あるようであったが、それでも人を包むような暖かさを感じた。
そしてあのシャルロットという娘。普通の若い娘は、薄汚い姿のジャックが視界に入ると眉を潜め、嫌悪するようなまなざしを送るのが常であったが、彼女は初めからそのような表情を浮かべることは全くなかった。そればかりかすっかり自分に心を許し、純真な目でこちらを見つめてくる。なんなんだ、あの目は。ジャックは、彼女の目が、なにもかも見透かしているようで、恐れすら抱いた。あの慈愛に満ちた目は、ピョートル・セルビーノの名前すら知らないのに、まるでジャック自身の所業をすっかり知っているのではないかと錯覚さえ覚えたのだ。
だが恐れを抱いたものの、ジャックはシャルロットの純真な様子に、心が洗われるようにも感じていた。
その時、ノックの音がした。ジャックはすっと立ち上がって警戒したが、聞こえてきたのは優しい小さな声だった。
「ジャックさん、もう寝てしまった?」
シャルロットの声だ。
ジャックは少し驚いた。夜中に何の用だろう。見知らぬ男の寝室に訪れるなど、やはりまさか彼女は……?
疑問に思いながらも、ジャックは身構えて応えた。
「いや、まだだ……開いている」
すると、ドアが静かに開かれた。シャルロットは顔を出し、ジャックの存在を見とめると、いたずらっぽい笑みを浮かべながら跳ねるように入ってきた。
まるでうさぎのようだな。メイドに着せられたのか、白いふわふわしたガウンをきっちり着込んでいる。
「少しお話できますか?」
その様子は、幼い子が寝る前の話をせがんでいるようだった。ジャックは呆れたように笑みを浮かべた。
もう成人している年頃なのだろうに。
事実、シャルロットが純真な目で物語を待ち受けている姿に、ジャックは未婚の女性が夜中に来るなんてと叱る気にもなれず、笑いながらベッドに腰掛けた。
「もう旅の話は勘弁してくれ。舌が疲れてしまった」
旅人の正直な言葉に、シャルロットは「ええっ! そんな……」と少し残念そうな表情を浮かべた後、舌を出して笑った。
「いいえ、ごめんなさい、確かにたくさん話してくれましたものね。でも、とっても楽しかったですわ!」
ジャックは、やれやれと肩をすくめてため息をついていたが、少し考えた後に言った。
「ひとつきいてもいいか」
シャルロットはジャックの改まった姿勢に目をぱちくりさせた。
「なんでしょう」
「どうして……どうして、見知らぬ男に、ここまでもてなしてくれる? 俺が、金を……大金を出すと思っているのか?」
ジャックが思いつめた様子で尋ねたのに、シャルロットはきょとんとしたが、次の瞬間ころころと笑いだした。
「あなた、そんなことを気になさっていたのね! ふふふ……」
ジャックは、シャルロットが笑うのを少し驚いた様子で見ていたが、やがて少しだけ不機嫌な口調で言った。
「何がおかしい。一泊部屋を与えたら金を取るのが当たり前だろう」
シャルロットは笑いをおさめると、優しい目になって言った。まるで、あの馬車で対面した時のように、顔も急に大人びて見える。
「そうかもしれませんね。でも私も父も、あなたからお金を受け取ろうとは思っておりませんわ」
ジャックは混乱した。
「なぜだ?」
「あなたは旅人でしょう? この街の宿屋はなくなりましたし、あてもないとおっしゃっていました。今夜は冷え込むから外で眠ることはできない、だからお助けしたのです、それだけですわ。利益目的で泊めたわけではありません」
「……善意というわけか」
ジャックは少し嫌そうに言った。嫌いだったのだ。同情で施しを与えられるのはまだいい、近頃それが貴族や資産家の間で流行になり、金持ち連中の権力の誇示として利用されているということが嫌だった。
シャルロットは肩をすくめた。
「だって、うちは宿屋ではありませんから。お金を頂かなければならないほど生活に困窮しているわけでもありませんし。困っている人がいるのにそのまま見捨てることができないのです」
ジャックは鼻で笑うように言った。
「人助けか。高尚なもんだな」
「人助け、という気持ちでは……。そういうつもりではありませんが、むろんそう思われても致し方ありません。ただ、私としての考えもあるのですよ」
シャルロットは困ったような笑い方をすると、ジャックの隣に腰掛けた。
「私は父のおかげで生まれたときから裕福な暮らしができます。ですが、働いても働いても苦労している人は、大勢いるでしょう。私にできることをしたい。そうせずにはいられないのです。ほら、あなただって、私を危機から救ってくださったではありませんか。ピョートル・セルビーノとして私を見捨てて彼らに宿を頼ることもできたのに。それと一緒です」
ジャックはそのように言われて言葉に詰まった。
なぜおいはぎから助けたのか。理由は思いつかなかった。
ジャックはしばらく考えてから言った。
「……君にできることとは? 一体何をしている」
シャルロットは肩をすくめた。
「大したことではありません。父の手伝いをしたお給金で、貧民街をまわったり、孤児院を訪れたり、ですわ。私自身が事業を経営しているわけではありませんから、大きなことはできないの」
手伝いとはいえど、きちんと働いた分の金を使っているということは、金の価値を理解しているということだ。蝶よ花よと育てられてきたわけではないらしい。
だが大きな落とし穴があるとジャックは思った。
シャルロットは疑うことを知らない。今だって、彼女は俺のとなりに腰かけている。俺が何かするとは考えてもいないようだ。よく今まで無事だったものだ。貧民街などに出向けば、犯罪はごろごろ転がっている。いつ被害にあってもおかしくない。きっと、彼女の父親がどうにかして守っているのだろう。
しかし、彼がいなければ彼女は一分だって無事でいられるわけがないのだ。それほど彼女は無防備だった。
またしばらくたって、ジャックは言った。
「早く結婚するんだ」
「え?」
シャルロットはいきなりそんなことを言われて眉を潜めた。シャルロットは冗談かと思ったが、ジャックは言った。
「その志は豪商の娘にしては見上げたものだ。だが、父親以外に自分を守ってくれるやつがいないと、この先、君は困ることになるぞ。早いうちに誰かと身をかためておけ」
シャルロットは干渉されたような気がして少しむっとして言った。
「結婚なんてまだ考えていません。そんなこと、あなたには関係ありませんわ」
ジャックは彼女が怒ったのをみて小さく笑った。
「そうか。……まあ確かにそうだな、悪かった」
シャルロットはジャックがなぜそんなことをいうのかわからなかった。
自分と結婚してほしいと、今までは何度か言われてきたが、誰かと結婚しろなどと言われたことはなかった。私のことを気遣ってくれたの?
シャルロットはジャックに言った。
「お気遣いいただいたことは感謝します。父はこの街でも指折りの豪商ですから、以前から私には結婚の話は持ち上がっていたんです。でも、その、なんていうか……」
「全部断ってきたのか」
シャルロットは肩をすくめた。
「というより私がお断りされてしまうんです。多くの方は父の金銭面を期待をしていらっしゃって……。やはり貧民街の人々のために妻も共に働くということは、あまり良い目では見られないようですの」
ジャックは肩を揺らして笑った。
「違いない! そのための豪商の家との結婚だからな。貧しい奴らのために収入を使うなどという考えは毛頭ないだろう……。しかし、求婚された相手にそんなことまで話しているのか」
「そんなことだなんて! 私には大事なことです。豪商の娘として生まれて育てられた私の志ですわ。嘘をつくのは嫌ですの、信頼し合える、互いを尊重し合える方とお会いできたらいいのですけれど」
ジャックは、シャルロットの心からの願いをきいて同情した。そんな相手がこの世に存在するとは思えない。理想的ではあるが、所詮人の信用性など脆いものだ。ジャックのこれまでの人生から得た教訓は、"他人は信じるな、己のみを信じろ"である。
「豪商に集まってくる連中は、たいてい金目当てであってその他はどうだっていいんだ。結婚相手が物静かで文句の言わない従順な娘であるなら、平気で嘘をつく。世の中から信頼できる男を探すのは困難だぞ」
シャルロットは落胆し、そうねと頷きかけたが、突然顔に笑みを広げて言った。
「そうでもありませんわ。少なくとも、私、ジャックさんを信頼できますもの」
「は?」
ジャックは突然自分を引き合いに出されて動揺したが、戸惑いながら言った。
「だ、だが、俺は……隠していることだってあるし、人に言えないようなことをして生きてきた。君の信頼に値するような人間じゃない。今夜こんな部屋に泊めてもらうのだって、未だに信じられないくらいだ」
たじろいだ様子で答えたジャックに、シャルロットは笑い声をあげた。
「ふふ、ジャックさんは正直よ。悪い人はたいてい自分がそうだなんて認めませんもの。今まで何をしてきたかではなく、人間的な面であなたは信頼できる方ですわ」
ジャックは、そんな風に言われたのは初めてで、嬉しいような恥ずかしいようなよくわからない気持ちになったので、咳払いをして話を切った。
「もう遅い、早く自分の部屋に戻れ」
シャルロットは、ジャックが照れ隠しにぶっきらぼうになったことに気づくと、含み笑いをして言った。
「今日のお礼を言わせてください。危ないところを助けていただき、ありがとうございました」
王侯貴族を相手にする儀礼通りのお辞儀に、ジャックは気後れして慌てたように言った。
「礼を言うのは俺の方だ。金も払ってないのに部屋どころか食事まで用意してもらった」
シャルロットは嬉しそうに微笑んだ。
「お互い困っている人を見捨てられない性分なのかもしれないわね」
ではとドアに歩み寄ったが、思い出したように振り返って言った。
「ジャックさんは、明日発たれるのですか?」
「そうだ」
シャルロットは少し気落ちしたようだった。
自分の考えを打ち明け、それを認めてくれた友人は初めてだった。
「そう……ですか。旅のご無事を祈ります」
ジャックは彼女の後ろ姿があまりにもがっかりした様子だった。それを見送り、ドアが閉まりそうになるのを見て思わず「ら、来年!」と言った。
シャルロットがドアから顔を出す。
「来年、ここに来たら、また泊めてくれるか?」
ジャックのとっさの言葉だったが、シャルロットはその一言で笑顔になり、大きく頷いた。
次の朝、ジャックは街を去った。
出発する前に、シャルロットが「来年、またお会いできるのをお待ちしていますわ」と言ったのが、不思議と嬉しかった。ここ数年ずっと、あてもなかった旅だったが、自分にも目的地ができたのだ。