魔物
「……砂嵐が吹いてきたな」
ワンダがそう漏らした。
「うん。でもファルシオンの方角は分かりますよ。ほら、コンパスを持ってきましたから」
ニコが手の上に乗せた小さなコンパスを見せてきた。ハッキリと北西を指していた。
「……ん」
次はトリオが、黙ってみんなに防塵ゴーグルを差し出してきた。
「さっすがトリオ。気が利くねー」
ワンダが受け取り、装着する。ニコとカルマも続いた。さっきから目が開きにくかったので本当に助かった。
ファルシオンの方角は、いつも砂嵐が発生している。特異な気候だ。どこかから発生して通り過ぎていくのではなく、年中通して砂嵐が街に居座っているのだ。
そこに一世を風靡した大都市があったなんて、事実だとしてもカルマにはとても信じられなかった。
カルマは三人とファルシオンへと進んでいる。時刻は真夜中ではあるが、カルマが家を出てからだいぶ時間が経ったので、徐々に夜目が効くようになってきていた。
ヒスカとファルシオンの中間地点に差し掛かったときだった。
「カルマ! 何してんの!」
突然の怒鳴り声に思わず体が強張った。ほぼ条件反射だ。
後ろを振り向くと、ナディアがいた。カルマたちと同じように防塵ゴーグルと防塵コートを身につけている。距離はまだ数十メートルは離れていた。
「ナディア? マジで?」
ワンダが目をこすってまじまじと見つめた。目はゴーグルで覆われていてこすれなかったが。
「ワンダもあれだけ言ったのに性懲りもなく! ニコとトリオまで!」
「うわあ……」「…………!」
距離はまだ離れているものの、その剣幕に誰もが押されていた。
「くらぁー! とっととヒスカに戻って来んかぁー!」
「どうします?」
「どうするって、どうしよう……」
ニコの問いに対する答えは二択だった。おとなしくヒスカに戻るか、思い切ってこのままファルシオンに突っ込むか。
「早くこっちに来なさい! この辺りは危ないのよ! 魔物が……」
まさにそのとき、地鳴りが聞こえた。地面が揺れ、その場にいた全員が砂に足を取られてバランスを崩す。
そして、ちょうどカルマたちとナディアの間で砂が吹き出した。
それは一定の間隔で吹き続ける。まるで地面が呼吸をしているようだった。
砂の吹き出す位置が少しずつ移動し始める。少しずつ、ナディアの近くへと向かう。
「ちょ、ちょっと……。まさか--」
ナディアの声からは生気が抜けている。腰が抜けているのか、身動きすらできないようだ。無理もない、ナディアから離れた位置にいるワンダたちでさえも顔が青ざめて動けなくなっているのだから。
直後、ナディアのすぐそばで、大きく砂が吹き出した。長い胴体をもつ巨大な魔物がその姿を現した。
「きゃあー!」
「「ナディア!」」
カルマとワンダは叫んだ。すくんで動けない自分の体に鞭打ち、ナディアの元へ駆ける。
* * *
「そんな、夜は魔物は寝ていて活動していないはずなのに……」
ワンダたちとファルシオンに行くと決めてから、ニコは魔物に関する文献という文献を読み漁った。行動記録や生態、習性等々。
全ては、大切な友人が魔物に襲われない、そのためだった。
そう、まさに目の前で起こってしまっていることを起こさないために。そのはずだったのだ。
ニコはその場から動くことができず、ただ茫然と立ち尽くしていた。
本来ならプレゼントのためにファルシオンに行こうと言い出したワンダを説得するべきだったのかもしれない。
でも、自分もファルシオンに興味があった。つい一緒に行ってみたいと思ってしまった。だから止めなかった。
「くそ、くそっ! 僕は馬鹿だ! ワンダたちを止めないで、危険な目に遭わせて!」
「ニコ、そんなこと言ってる場合じゃない。なんとかしないと」
トリオの落ち着いた言葉にニコはハッとした。
そうだ。こうしている今も、ナディアは命の危機にさらされており、血気盛んな二人は、命知らずの無謀な行動に出てしまっているのだ。
ニコは自分の両頬を何度も叩き、自分の思考を正常化させた。
「ニコ、あの魔物知ってる?」
トリオが優しく問いかける。
「え、うーん。ちょっと待って……」
ニコは頭をフル回転させた。自分の頭の中に入っている、ありとあらゆる知識を引っ張り出していく。
* * *
「で、どうするよ?」
「どうするったって……」
砂上を駆け抜けながら、カルマは首をひねる。
視界の向こうでは、依然として魔物がナディアに向けて牙を向いていた。
とにかく大きい。カルマの体の何倍だとか、そういうふうに表現すること自体が馬鹿馬鹿しいほどだ。魔物は蛇のような形状で、砂から出ている部分だけでもそれほどなのだから、全長がどれくらいなどとは考えたくもない。
「どうにかするしかないだろ」
「まあ、そうなんだけどな」
自分たちのせいでナディアが犠牲になるなんてことは絶対に避けたかった。
「おらあー! 魔物テメエ、コンニャロー! 襲うなら俺たちを襲え!」
ワンダが力の限り叫んだ。
「ナディア! 今のうちに逃げるんだ」
同じく叫んだカルマの言葉に、ナディアはこくこくと頷いた。腰を上げ、魔物に背を向けてヒスカの方向へと駆け出す。
「!!」
しかし、魔物は再びナディアに牙をむけた。
その迫力に押されて、ナディアは再び地面にへたり込んでしまった。
「ナディア!」
「畜生! 何でナディアを狙うんだよ!」
カルマとワンダが憎々しげに叫ぶ。
しかし次の瞬間、
「お」
「ん?」
魔物が別の方向を向いた。ナディアでもなく、カルマ・ワンダでもない、誰もいない岩の方向だ。
耳を澄ますと、砂嵐と魔物の唸り声以外に何かがぶつかる音が聞こえた。
* * *
ニコは足下にある石を、数メートル先にある大きな岩に投げつけた。この辺りの砂漠は完全な砂砂漠ではないため、持つのに手頃な石や見上げるほどの巨大な岩石群が所々に存在している。
コン、と乾いた音が辺りに響く。
そして次は、そこからニコを挟んで反対側にある大きな岩に、同じように小石を投げる。
再び響く、コンという音。
ニコはそれを繰り返す。彼から正反対にある二つの岩めがけて、交互に石を投げ続ける。石がなくなったらリュックに入れていた物を投げていく。心苦しいが命に代えられる物ではない。
コン、コン、コン、コン……。
(カルマ、ワンダ、気づいて……!)
* * *
「ニコ……何をやって--?」
「おいカルマ。魔物を見てみろ」
ワンダに言われて視線をニコから魔物に移すと、魔物は不思議な行動をとっていた。
魔物は音の鳴る岩の方向を向いていた。別の岩で音が鳴ると、その岩の方を。元の岩で音が鳴ると、再び顔を戻す。
「なあカルマ、もしかしたらやっこさん、音に反応するんじゃないのか?」
「ありえるね。砂の中に潜んでいたんだから、あんまり目が見えないのかも。代わりに聴覚が発達していて、獲物の動く音に反応して食べるとかそんな感じか」
少し前に、そんなことを勉強で教わった気がする。生き物は住んでいる環境に合わせて変化していくと。まさかこんなところで役に立つとは微塵も思っていなかったが。
(そうだ、ナディアは)
カルマはナディアを探した。魔物に届かないように声の大きさを最小限に下げる。
するとナディアは、いつの間にか回り込んだトリオによって、静かに動き出していた。トリオが小さく手を振っている。「こっちは大丈夫だ」と。
砂嵐が吹く音が常にあるおかげで、静かに歩いていれば魔物は気づかないようだ。
カルマはほっと胸をなで下ろした。
しかし、状況が大きく好転したわけではない。それどころか悪化する。
魔物が大きくホウコウし、二つある岩の一つに突進した。轟音をたてて崩れ落ちる。耳障りな音にしびれを切らしたのだろうか。
ニコの表情が遠くからでも凍り付いているのがよく分かる。
もう時間がない。
カルマは魔物に悟られないよう隣のワンダに語りかける。
(カルマ、お前今音出せるもん持ってるか?)
(そんなもん都合よくあったら苦労しないよ。ワンダは?)
(同じく、だな。ま、音を出すことはできるけどな)
(やっぱり、そうなっちゃうかな)
怖くないと言えば嘘だ。
しかし、自分たちが招いたこの事態。自分たちで尻を拭わないといけない。
カルマは腹をくくった。二人一緒に大きく深呼吸をして、沸き上がる恐怖を中に押し込める。
(じゃあ二手に分かれよう)
(オーケー。せーのっ!)
ワンダの合図に合わせて、二人は別々の方向へ走り出す。どちらもナディアから遠く離れる方向へと。
「ニコ! トリオ! 魔物は俺たちが引きつける! 今のうちにナディアを連れて戻るんだ!」
カルマはニコに聞こえるよう大きな声を出す。直後魔物と目が合った。真正面から睨まれるとちびってしまいそうだ。
「ちょ、ちょっと待って! 引きつけるのは僕がやってたのに!」
「それじゃリュックの中がカラッポになったらおしまいだろ? もう大声出すなよ! 魔物に目ぇつけられるからな!」
「ほら魔物! 俺はここだ! 早くこっち来いよ!」
カルマが力の限り叫びながら砂漠を全力疾走していく。
「ほーらホラホラ魔物ちゃーん! ワンダちゃんはこっちだよーん! こーこまーでおーいで!」
ワンダも大声を出しながら、地面に転がっていた手頃な石を魔物めがけてブン投げる。石は見事命中、魔物の注意がワンダに向く。
「オラ、俺も忘れんなよ、っと!」
カルマも同じように石を投げつける。再び魔物と目が合った。
これを繰り返して、ナディアたちの逃げる時間を稼ぐ。魔物の注意を戻すタイミングが遅れて、ワンダが喰われてはいけない。逆もまた然り。ワンダとのコンビネーションをただ信じて動いた。
* * *
こういう危険に直面したときは、嫌に時間が長く感じる。
カルマは十分時間を稼いだかのように思ったが、実際はまだたったの一分しか稼げていなかった。そのときだった。
魔物が吼えた。
「----ッ!」
今日一番の大音声に、カルマは左手に持っていた石を手放し、両耳をふさいだ。向こう側にいるワンダも同じ行動をしていた。
やがて、音が止んだ。先ほどまでと状況は変わらず、砂嵐は吹き続けているはずなのに、さっきのホウコウの反動で一切の音が消えたように感じた。
誰が見ても明らかだった。
魔物は、怒っている。
カルマはゾクリと背筋が凍った。少しずつ強まってきている砂嵐の中、魔物がカルマの顔を凝視している気がしたのだ。
魔物は頭を地面に突き刺し、そのまま全身を砂中に潜らせた。
砂漠の上には、カルマとワンダが取り残された。そして遠くにはナディア、ニコ、トリオがいる。
「……なんだ? 逃げたのか?」
ワンダがそう呟いた。
直後、地面の砂漠が大きく揺れ始めた。地鳴りが辺りに響き渡る。
* * *
「いや、これは……違う」
ナディアたちと合流したニコが、小さく否定した。
「…………」
トリオは何も言えずに口をパクパクさせている。ナディアの体も震えていた。
「地面の下から、狙っているんだ」
* * *
カルマは震えながらも、魔物が逃げたわけではないことを、本能的に察知した。
--逃げなくちゃ。
「ワンダ! 何かヤバい! 走ってヒスカに戻--」
カルマが、ワンダにそう呼びかけたときだった。
一瞬だった。地面が揺れて、その次の瞬間には魔物の大きな口がすぐ目の前にあった。
「え……何?」
カルマの第一声はそれだった。そして、直後に襲ってきた鋭い痛みに、カルマは叫んだ。
「……っあああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!」
カルマの左腕が、魔物に食いちぎられていた。
「「「「カルマ!」」」」
ナディアが、ワンダが、ニコが、トリオが、片腕を失った友の名を呼ぶ。
「構うな! 早く、逃げろぉ! ヒスカに戻れぇ!」
カルマは一番近くにいたワンダに向かって叫んだ。ワンダは固まったまま動こうとしない。表情からためらっているのが分かる。
「早くいけ! 全滅したいのか!!」
その言葉にハッとしたワンダが、歯を食いしばりながら動き出した。
(よし、それでいい)
カルマはファルシオンの方角に走り出した。ヒスカから、ナディアたちから遠ざかる方角へ。
「おらあ魔物ぉ! 俺についてこいよ! 俺はこっちだぞぉ」
半ばやけくそになりながらもカルマは走り続けた、砂漠の砂に足を滑らせた。腕を失ったせいでバランス間隔が狂い、何度も転んだ。左肩から吹き出す血を見て卒倒しそうになった。貧血で意識がとびそうになった。
しかしそれでも、無我夢中で走り続けた。
やがて、カルマは地面に倒れ込んだ。
砂漠の砂粒が体の至る所にへばりついて気持ち悪いことこの上ない。左肩の血は未だ止まらない。
砂漠の魔物はナディアたちではなく、カルマを追ってきた。ナディアたちが逃げる音が聞こえているはずだが、吹き出す血の匂いに惹かれたのか、カルマの肉に味をしめたのか。
どちらにしてもありがたい。魔物が食事を終える頃にはみんな逃げおおせているだろう。被害は最小限に収まりそうだ。
上を見ると、魔物がいた。今まさに獲物を補食しようとしていた。カルマが何人も収まりそうな大口を開けている。滴る涎が汚らしいことこの上ない。
(ああ、俺、死ぬな)
自分でも驚くほどカルマはこの状況をすんなりと受け入れていた。
本来なら、親に捨てられたあのとき死んでいた。いつ魔物に襲われていてもおかしくなかったのだ。
しかしマザーに拾われた。ナディアに、ワンダに、ニコに、トリオに、友達に出会えた。神様が俺に情けをかけてくれたのかもしれない。
十年近く生き延びられただけでも儲けもんだった。
しかし、神の加護もどうやらここまでのようだった。
--あんたなんか、生まれてこなければよかったのよ。
「……くそっ。なんで最期の最後に嫌なこと思い出すかねぇ。後味悪ぃ……」
カルマは朦朧とした意識の中で、魔物のゴツい顔を見据え、不敵に笑って見せた。これが最期だ。
「せめて俺を喰って、下痢にでもなりやがれ。そんでそれに懲りて二度と人間襲うんじゃねえぞ」
魔物の口が眼前に迫る。
意識が落ちる瞬間、幻覚だろうか、人が一人、視界の奥にいた気がして、
(魔物が俺を喰ってる間にさっさと逃げるんだぞ)
そう心の中でつぶやき、カルマの意識は完全に途絶えた。