九月六日
傘を叩く雨音が五月蠅い。九月の雨は冷たいと言うよりは温く、昼間の熱気を拭うことは出来ない。むしろ重苦しい雲が蓋をしている所為で、昼間よりも暑く感じられた。額を滑るのは汗か、雨粒か。後者なら傘を買い換えよう。私はひとつ息を吐き、遮断機の下りた踏切を見つめた。…現実逃避はここまでだ。
ちらりと左手に視線をやると、無人駅に停車する電車が見える。此処からは一両しか見えないが、きっとあれは二両編成だ。小さな、おもちゃみたいな電車。雨の日の午前二時にしか現れないその電車に乗って、彼はやって来る。
「……はぁ」
もう一度息を吐き、今度は電車ではなくホームへと目を向ける。電車からは沢山の乗客が吸い込まれ、或いは吐き出されていく。朝のラッシュ時のようなそれを背景に、彼は佇んでいた。真っ直ぐにこちらを見つめる彼は、今年の頭にこの不思議な電車を縁にして出会った武史くんだ。初めて言葉を交わした時、彼はまだ私の胸にも届かない背丈の幼子だった。二度目は私の視線とほとんど同じ位置に旋毛がある少年だった。三度目は手紙だけのやりとりで会っていない。
――そして、これが四度目の邂逅である。
大きくなったと、思った。彼と私の間には、一体どういう理屈なのか時の隔たりがある。彼にとっての数年は、私にとってはたった三ヶ月のことでしかなく、故にその差が私には恐ろしく感じられたのだ。たとえば武史くんが子供ではなく、高齢といっても差し支えのない年齢だったなら、私はそうは感じなかっただろう。目に見える変化が小さければ、そもそもその隔たりに気付きすらしなかったはずだ。けれど、と無意識の内に落としていた視線を持ち上げた。そうして視界に入り込んだ武史くんは、幼子でも、少年でもなかった。
静かにこちらに歩み寄ってくる彼は、私よりも背の高い青年だった。
「お姉さん」
武史くんは少し照れたように笑う。彼のマントのような黒い外套が雨粒を吸いこんでいくのに気付き、私は慌てて傘を持つ手を上げその中に迎え入れた。高さが足らない所為で少し背を丸めた彼は、苦しそうな姿勢のまま私を見下ろす。
「……って呼んだら駄目ですか」
「いいけど、…多分、君の方が年上になっているんじゃないかな」
「え、……え?」
驚いて丸くなった両目の下には揃いの泣きぼくろ。背が伸びても変わらない、武史くんの特徴だ。
「いくつになった? ちなみに私は、来月二十一だけれど」
「…にじゅう、」
「ハタチ?」
「……さん」
「おぉ、まじか…」
自分で言っておいて何だが、本当に年上になっているとは。目の前に現れた武史くんは、首を逸らさなければ目が合わせられないほどに成長していた。
「随分、大きくなったね」
「それ、前も言ってましたよね」
「だって君は成長が早い…と言うか、敬語止めよう」
「で、でも年――」
「上なのは君の方だろう」
台詞をさらう様にそう指摘すれば、しまった、と武史くんは眉を寄せた。戸惑うのは無理もないが、それにしても酷く冷静なように見える。私は未だ、この不可解な年齢差が理解出来ない――ではなくて、理解する事を放棄している。もう考えたくない、と言うのが本音だ。
君は、と私は慎重に言葉を選びながら口を開いた。
「あまり…、驚いているように見えないけれど」
選ばれたのは曖昧にも程がある台詞で、我ながら肩を落としたくなった。それでも武史くんは私が言いたかった事が分かったらしく、あぁ、と軽く顎を引くように頷いた。
「これは、そういう電車だから」
彼はそっと窺うように背後の電車をちらりと振り返った。そして、不意に傘を持つ私の手を引くと、向こうに行こう、と屋根のあるホームへ歩き出した。
「…前に、本当に凄く前だけど、父さんに会いに行くって言ったよね」
「え? ……あぁ」
『ひとりでお父さんに会いに行くんだ』
『すごいでしょ!』
『うん、凄い』
記憶の中で得意げに胸を張る少年の笑顔が、目の前の青年に重なる。こうやって思い出してみると、彼の成長をもっとちゃんとした形で見たかったなぁ、とふと思う。弟が生まれた時の喜びを知りたかった。実家から離れて寄宿舎に入った時は寂しくなかっただろうかと聞きたかった。一冊の本の一部を抜き取るようにしてしか私は彼に関われなかった事がもどかしかったのかもしれない。
すべてを知らなければ人と関われないと言うわけではない。けれど、相良武史と言うひとりの人間の全体像を少しでも掴みたくて、だから私は雨が降る度にこの駅を訪れた。ただ会いたいと思うこの感情を、人は恋と呼ぶのだろうか。
「半年前だね、私にとっては」
そんな馬鹿げた事を思いながら、私は武史くんの背に向かって頷いた。
「十年前だよ」
僕にとっては、と可笑しそうに武史くんは笑う。ホームのベンチに辿り着き、促されるまま私はそこに腰掛ける。武史くんは座らないのだろうかと、傘に入り切らず濡れて色が濃くなった外套の左肩を見つめた。
「此処で話したよね、父さんは史郎が生まれる前から居ないって」
「うん」
武史くんは少年だったあの頃と同じように、背後の電車を真っ直ぐに見つめる。彼の正面に座る私は、何度となく見下ろして来た彼の後ろ姿を見上げた。
父さんは、と武史くんは私を振り返らずに会話を続ける。
「…居ないんじゃないんだ」
「うん」
「史郎が生まれる前にね、死んじゃった」
「…そう」
何と声を掛けていいか分からず、ただ相槌を打つ事しか出来ない。
「だけどさ、この電車。凄く不思議なんだ。乗ればね、死んでしまった人に会いに行ける」
そこで漸く武史くんはこちらに向き直り、不思議だよね、と繰り返した。彼の父親は生きていると信じていた私には予想もしなかった――そもそも単身赴任だとずっと思っていた――武史くんの言葉に、ぽかんと何も言えずただ話の続きを待つしか出来なかった。
「どうしてかは分からないけど、そういう事が出来る電車なんだって母さんから聞かされてた。…母さんがね、父さんが死ぬ直前に約束をしたって言うんだ。僕が――武史が成人を迎えるまでは会いに行きますって。――その時はまだ史郎がお腹にいる事、知らなかったみたい――だから僕は母さんに連れられて何度もこの電車に乗って、父さんに会いに行ったよ。……史郎は一度も連れて行かなかったけれど」
「…お父さんの顔を知らないから?」
分からない、と彼は首を振った。
「母さんは聞いても教えてくれなかったし」
武史くんは不意に俯き、未だ繋いだままの手を見てそっと微笑んだ。
「本当はもう、来るつもりなかったんだよ。二十歳は過ぎたし、母さんと父さんの約束も果たしたし、このままもう忘れてしまおうかなって。切符ももうないし」
「切符…って、電車の?」
「うん、これね、ひとり何枚でも買えるけど、人生でたった一度しか買えないんだ」
そう言って、武史くんは空いた手を外套のポケットに入れると、そこから一枚の切符を取り出した。運転手の制服と同じ、藍色の切符だ。既に鋏が入れてあるそれを私の目の前に翳し、最後の一枚、と吐息のように呟いた。
「もし失くした時の為にって、母さんが予備で買った分を貰って来た。二十歳の時にこの駅に来たら誰もいなかったから、それだけが気がかりで。…前みたいに手紙でもいいかなって考えたけど、最後が紙切れじゃ嫌だよね」
「あの手紙、大切にしまってあるよ」
「だったら手紙でもよかったかな」
「手紙も嬉しいけど、こうして会える方が嬉しいよ」
最後でも、とは言わなかった。人生で一度しか買えない切符。きっと幼かった武史くんの代わりに、彼の母親が二人分まとめて買ったのではないだろうか。武史くんが買える《一度》はまだ残っているのではないかと聞いてみたかったが、その《一度》を使うのは彼にしか決められない。もし私の想像が当たっていても、外れていても、その答えは聞くべきものではないのだ。
「僕も嬉しいな。今日会えなかったら、きっとお爺さんになった頃に悔しがってたと思うし」
「……それはまた随分と先だな」
「うんと先だね」
武史くんは切符をポケットにしまい、ちらりと電車を振り返って運転手を気にする素振りを見せた。つられて顔を上げそちらを見ると、こちらを見ていたらしい運転手は手に握っていた旗を小さく振った。
「あれ、合図だね」
私がそう声をかけると、武史くんは繋いだ手に少しだけ力を込める。そうだね、と返ってきた声は溜息のように幽かだ。
運転手から武史くんへ視線を向けると、穏やかな微笑が降ってくる。けれど涙目の所為でそれは泣き笑いのようにも見えた。彼は何か言いたげに口を開いたが、突如鳴り出した発車のベルに邪魔をされ、結局何も言わずに唇を閉ざした。
「さようなら」
聞こえているだろうかと思いながら、別れの言葉を口にする。武史くんの背後で運転手が旗を振っている。それを視界の端に収めながら、目の前の青年を見つめた。
「―――――」
ぱくぱくと武史くんの口が動く。ベルが五月蠅くて聞こえない。するりと指が離れ、彼は私に背を向けて走り出した。外套が翻り、裾がマントの様にはためく。藍色の旗が視界にちらつく。電車の中で彼が振り返ろうとするが、それより早く扉は閉まった。武史くんは他の乗客と同じく黒い影しか見えなくなり、その輪郭すらも曖昧になってしまった。
誰もいないホームでひとりベンチに腰掛けたまま、私は電車が滑りだすのを眺めていた。別れとは酷くあっけないものだと思いながら、私は立ち上がる。歩きながらも電車の行方を見つめていると、それはもう光の粒にしか見えないほど小さくなっていた。視線の先で踏切の遮断機が上がるのが見えた。
私はふと、彼の指の感触が残る左手に視線を落とした。
「…帰ろう」
帰って、武史くんに貰った最初で最後の手紙を読み返そう。そうしてこの別れを実感できた時、少しだけ泣こうと思った。