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四月三十日


「………なんだろう、この既視感」

 無人駅のホーム、土砂降り、ベンチに座る大学生、午前二時、おもちゃみたいな二両編成の電車。

 目の前の電車からは、三カ月前のあの日と同じくたくさんの人が降り、たくさんの人が乗っていく。ぞろぞろと、働き蟻が巣穴を出たり入ったりするような光景を、やはりあの日のように、私は膝を抱えて眺めていた。

 ちなみに今回は、ちゃんと傘を持っていた為ずぶ濡れになる事はなかった。

「こんばんは、また雨宿りですか?」

 いつかの様に帽子を軽く持ち上げ、運転手は話しかけてきた。

 私は、ベンチに立てかけていたビニール傘を持ち上げ、首を振る。

「今日は傘買ったんで。……まぁ、この雨じゃ差してても濡れるんで、やっぱり雨宿りかも」

「風邪ひいたら大変ですもんねー。あ、ちょっと待ってて下さい」

 そう言うと、運転手は運転席ではなく乗客で溢れる車内に引っ込んだ。日に日に暖かくなってきた春とは言え夜はまだ冷える。しかも今夜は雨だ。冷えた指先をこすり合わせながら、運転手が消えた乗車口に目をやる。程無く藍色の制服をまとった運転手と、ひとりの少年がそこから飛び出して来た。

 運転手は少年と二言三言言葉を交わし、顔を上げて私に手を振る。振り返すべきなのだろうかと迷っている内に、運転手の隣に居た少年がぱたぱたとこちらに駆けてきた。

「お姉ちゃん!」

 彼は私の目の前に立つと、嬉しそうににっこりと笑った。ベンチに座る私より高い位置にある顔をまじまじと見つめたが、……大変申し訳ないのだが誰だか分からない。

「えー…っと、君は」

 ちらりと運転手を窺うと、彼はさっさと業務に戻って行くところだった。せめて紹介くらいしてくれても…、とその背に怨みがましい視線を送っておく。当り前だが運転手は振り返らなかった。

 仕方なく、少年と再び向き合う。見たところ、小学校中学年くらいの彼は、私の歯切れの悪さに気付いたのが段々と表情を曇らせていく。見る見る内に両目が涙に濡れていき、これはまずい、と慌てて口を開いた。

「久し振り、…だね?」

 向こうが私を知っていると言う事でそう言ってみたが、これが上手くいったらしい。少年はぱっと笑みを浮かべ、うん! と大きく頷いた。

 内心ほっと一息ついた私は、そこで漸く少年の顔にある特徴的な部分に気付いた。両目に泣きぼくろ。思い出すのは今日と同じ雨の日の深夜に出会った、袴姿の男の子。

 まさかまさか…、あの時の男の子がこの少年なのか?

 そんな馬鹿なと思いながらも少年を見ると、確かにあの男の子の面影がある――ような気がする。いや、しかし、あの日出会った男の子はまだ十にも届かない小さな子だった。対して、私の隣に腰掛けた少年は、十を幾らか過ぎたように思える。

 子供の成長は早いと言うが、三ヶ月でここまで大きくなるものだろうか。

 じっと少年を見つめていると、彼は戸惑った様な顔をした。

「覚えてないの?」

「ちょっと待て、今記憶と闘っている」

「……覚えてないの?」

「覚えてる、覚えているんだけど……タケシくん、だよね」

「! うん!」

「まじか……随分、大きくなって…」

 にこにことタケシくんは笑う。

「三ヶ月振りだね」

 そう言うと、え、とタケシくんはきょとんと目を丸くした。

「お姉ちゃんと前に会ったの、五年くらい前だよ」

「…五年?」

「うん、史郎が生まれる前だもん」

「……史郎、とは」

「弟! 今日はね、お母さんとお家で留守番してるんだ。だから僕ひとりで電車に乗ったの」

「ひとりで電車かぁ、それは凄い」

 手を伸ばしタケシくんの頭を撫でると、彼はくすぐったそうに笑った。可愛い子だなと思いながらも、彼が言った《五年》について考える。

 私が前回タケシくんに会ったのは、彼に言った通り三カ月前――一月だ。今は桜も綻ぶ四月である。五年も経っている筈がない。けれど、ともう一度タケシくんを見やる。私の記憶の中に居る彼に五年の時を足すと、丁度此処に居る彼に近いものになるのだ。背も随分と伸びているし、初対面の時の《七五三の様な格好》でもないが、その面影は確かに残っている。

「だからってなぁ…」

 五年、である。その成長ぶりからして彼の言葉に嘘はないのだろうが、やはり納得はできない。たかが五年、されど五年。私が三ヶ月だと思っているだけで、実際は五年もの月日が流れていたとか…?

「五年ですか」

 眉間に皺が寄るのが分かる。考える時に出来てしまうそれを人差指でほぐしながら、もういいや、と息を吐いた。ぐだぐだと考えたところで答えは出ないし、何よりタケシくんが正解を知っているようにも思えない。さっさと思考を切り替えて、恐らくこの電車に乗って何処かへ行くであろうタケシくんとのお喋りに集中しよう。

 隣に腰掛けるタケシくんを窺うと、彼は真っ直ぐに電車を見つめていた。車内から漏れる煌々とした光に染まるその横顔は三カ月前にも見た光景だ。

「君は、あれに乗って何処へ行くの?」

 気分が高揚しているのか、丸みを帯びた頬はほんのりと朱に染まっている。

「お父さんに会いに行くの」

 単身赴任でもしているのだろうか。何にしても子供がひとりで電車に乗っていていい時間帯ではない。

「そう、…随分とその、遅い時間に行くんだな」

 うん、と横顔がこっくりと頷いた。

「とても遠くに住んでいるから」

「あぁ、時間がかかるんだ?」

 ううん、と少年は私に向き直り首を振った。

「この電車、夜にしか来ないから」

「…そう」

 終電はとっくに終わっている時間だけれど、と言いかけた口を寸でのところで閉じる。目の前に確かにある電車を否定するのは、それに乗ってきたタケシくんをも否定する事になる。

 分からない事だらけのこの状況下でも、それだけはしてはならない事だと分かる。誰だって、否定されるのは悲しいし寂しい事なのだから。

「ひとりでお父さんに会いに行くんだ」

「すごいでしょ!」

「うん、凄い。私が君くらいの時は、バスに乗るのが精一杯だったよ」

 褒められて照れたのか、タケシくんはくすぐったそうに笑った。

「そうだ、史郎見せてあげる!」

「…ん? 留守番じゃなかったっけ」

 急に変った話題に驚きつつそう尋ねると、写真! と元気な声が返ってきた。タケシくんは肩から提げていたかばんに手を突っ込みごそごそと中をひっかきまわしている。成程、単身赴任である父親に見せる写真か。弟であるシロウくんにも、タケシくんの様なほくろはあるのだろうか。それとも、母親の様な感じだろうかと以前傘を貸してくれた女性を思い出しながら、タケシくんから写真を受け取る。

「これね、史郎が生まれた時の。写真館のおじさんに撮ってもらったんだよ」

 何度も繰り返し見たからだろう、ふちが擦り切れ角が丸くなったそれは少しピントのぼけた白黒写真だった。赤ん坊を抱いた着物姿の女性が椅子に腰掛け、その隣にはひとりの男の子。穏やかに微笑む女性は、以前私に傘を貸してくれたタケシくんの母親だ。緊張しているのか、少し強張った顔の男の子は目の前に居るタケシくん。抱かれている赤ん坊は、彼の言う弟だろう。父親は写っていなかった。

 礼を言って写真を返すと、タケシくんはまた元の様にかばんへとそれをしまった、

「カラー写真じゃないんだね」

「…からー?」

「こう、目に見えるのと同じように色が付いた写真…なんだけど…」

 不思議そうに首を傾げるタケシくんに、私の方が不安になってしまう。まさか知らないのかと説明と言うには頼りないものを口にしながら、ふぅん、とよく分からないと言いたげな顔で頷くタケシくんを見つめた。

「お姉ちゃんはいろいろ知ってるんだね」

「あー……あ、お父さんは一緒じゃないんだ」

 どう返したものかと逃げ道を探すように写真に視線を落とした私は、ふと浮かんだ疑問を尋ねた。自分の事ながら、あまりの話題転換の下手さに呆れてしまう。

「うん」

 けれどタケシくんはそれに気付くことなく、真っ直ぐに前を見据えたまま一度だけ頷く。ちらりと横顔に目をやった私は、その酷く真剣な眼差しに思わず息を飲んだ。焦がれるような、思い詰めたような、純真な子供にしか出来ない直向きさに目を焼かれる。私は視線を逸らし、そう、と首を振る事しか出来なかった。

「お父さんはいないから、三人で撮ったの」

「…そんなに前から、遠くに居るの」

「うん、史郎が生まれる前からずーっと。この電車じゃなきゃ会いに行けないって、お母さん言ってた」

「そっか、…ね、お父さん好き?」

「だいすき!」

 満面の笑みでこちらを振り向いたタケシくんに、彼の父親は幸せだろうな、と思った。どんなに遠く離れていても、たったひとりきりでも、こうして会いに来てくれる家族がいるなんて、幸せ以外のなにものでもない。

 早く会いたいなぁ、と呟く彼もきっと幸せだ。

「あ、でもね」

「ん?」

「僕、お母さんも史郎も大好きだよ。それにお姉ちゃんも」

「……うん? 私?」

 そこに加えられるとは思いもよらず、驚いてタケシくんを見つめると、彼は白い歯を見せて笑った。

「うん、だいすきだよ!」

「そうか、ありがとう。私も君が好きだよ」

 弟がいると言うのは、こんな気分なのだろうか。低い位置にある頭を撫でると、柔らかい髪の毛が指の間をするりと抜けていった。

「そうしていると、まるで姉弟のようですね」

 さらりと流れるような髪が羨ましく、しばらくそうして撫でていると、可笑しそうに笑う運転手がやってきた。

「いや、ほら、凄くさらさらなんですよ。どうしたらこんな…子供だから? 若いから? それともシャンプーの差? やっぱり二本三百円は髪に悪過ぎ…?」

「ちなみに、それは何が二本なんです?」

「シャンプーが二本です」

「…何故シャンプーを二本も?」

「……安かったから?」

「それは愉快な買い物ですね」

 心底呆れた顔で言われてしまった。

「さて、大変申し上げにくいのですが」

 ぱん、と運転手はひとつ手を叩き、直前の会話と表情がなかったかのようににこやかに笑う。

「間もなく発車時刻となりますのでご乗車願います」

「! 乗ります!」

 運転手の言葉にタケシくんは慌てて立ち上がると、電車に向かってばたばたと走り出した。またね! と飛び乗る間際に振り返った彼は大きく手を振り、そのまま車両の奥へと消えてしまった。

「……そこまで急かしたつもりではなかったのですが」

「五分前行動みたいなものじゃないですか。小学校でこれでもかって言う程叩き込まれますし」

「ですかねぇ…いえ、心がけとしては大変素晴らしいものですよ」

「まだ何も言っていませんよ」

「まだ、ですよね」

 この運転手、結構面倒臭い人かもしれない。もしかすると車内からは見えているかもしれないと振っていた手を下ろし、さぁ、と私は肩をすくめた。

「ところで発車しなくていいんですか」

「貴女は乗らないのですか?」

 運転手はいつか見た藍色の旗を片手に、ベンチに腰掛ける私を見下ろす。乗るも乗らないも切符を持っていないし、そもそも私はただの雨宿りに過ぎない。傍らに立てかけていた傘を手に立ち上がり、私は首を左右に振った。

「それではまたの機会にご利用ください」

 さっと運転手が旗を頭上に掲げると、ホーム備え付けのベルが一斉に鳴りだす。まるで真夏に聞く蝉の大合唱の様なそれに驚いた私は慌てて耳を塞ぐが、慣れているのか、運転手はけろりとした顔で電車へと戻って行った。

 今回は駆け込み乗車のなかった電車は運転手を所定の位置に収めると、あっという間に夜の中へと溶けて行く。遠くに見える後部車輛のライトを見送り、さて私も帰るかと、漸く上がった遮断機へと足を進めた。


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