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一月七日

 それは、酷い雨の日の出来事だった。時刻は午前二時。空が小休止を始めた瞬間を見計らい、私はマンションのエントランスを飛び出した。

 蛍光灯が瞬く無人駅を横目に踏切を渡り、水溜りを避けながら歩く。雨の匂いは私の胸辺りまで下がったままで、すぐにまた降り出すぞ、と言わんばかりだった。まとわりつく湿気を振り切る様に曲がり角を右に。少し歩くと深夜だと言うのに、昼間の太陽の様に煌々と明るく、夜から浮き出たコンビニが目に入る。私は少しだけ足を速めた。

 いらっしゃいませぇー、と眠たげな声で店員が私を迎え入れる。空が再び泣き出す前に、帰らなくては。

 商品棚の間をうろうろと彷徨い、目的のトイレットペーパーとついでにいつも買う雑誌の最新号を手に取る。まさか夜中にトイレットペーパー切らしてコンビニに来るはめになるとはなぁ、と他人事の様に呆れながら、商品をレジへ運ぶ。実家で暮らしていた時は、所謂専業主婦だった母が目を光らせていたおかげか、トイレットペーパーが無くなって困り果てる事はなかった。ティッシュや洗剤なども同じくである。もうすぐなくなりそう、と言うより早く、母は新しく買って補充していた。母とは何と偉大な事か。

 会計を済ませ、コンビニを出ると細かな雨が鼻先を濡らした。あぁ、間に合わなかった。濡れて帰るのは構わないが、せっかく買った雑誌が濡れるのは困る。ビニール袋に入ったそれをしっかり胸に抱えると、私は走り出した。

 段々と雨足は強くなり、背を丸めて走る私の背中を容赦なく打つ。畜生、とはしたないと分かっていながら悪態を吐いた。こんな時間だ、どうせ誰もいない。曲がり角を左に曲がり、見えてきた踏切を睨む様に見据える。その向こうには、マンションのエントランスが温かな光と共に私を待っているのだ。


――カンカンカン…。


 漆黒の闇に赤が灯る。警笛が響く。耳を澄ませば、雨音をかき分けるように地鳴りが響く。降り切った遮断機の黄色と黒に、舌打ちが零れた。電車が来るのだ。反射的に辺りを見回すと、右向きと左向きの矢印が二つ、赤く瞬いていた。

 両方向から来るのか。駅の真横にあるこの踏切は、一旦下がると長い。それが電車二本分となると、なおさらである。やはり傘を持ってくるべきだった、と後悔したところでもう遅い。雨はあっという間にバケツをひっくり返したような大雨に変わり、私はもうずぶ濡れだった。

 それでも、これ以上濡れるのは勘弁したい。頬に張り付く髪を振り払い、私は左手にあるスロープの様に緩やかな階段を駆け上がった。改札もない、無人駅は出入りが自由に出来る。ここでしばらく雨をしのごうと思ったのだ。ペンキが所々はげたベンチに腰掛けると、今更ながら体が震えだした。すぐそこのコンビニまでだから、とコートを着て来なかったのが悪かったらしい。くしゃみが三つ連続で飛び出した。

 ベンチの空いたスペースに、トイレットペーパーと雑誌の入った袋を放る。両手が空になった私は、両足をベンチの上に引き揚げてそのまま抱えて丸くなる。こうしていれば、少しは体が暖まる気がした。

 線路が震える音がする。右からも、左からも、一本調子の轟音が聞こえてくる。首を右に向けると、徐々に近付く二つのランプが見えた。左も同じだ。どちらの列車も、この駅を目指して滑りこんでくる。

 一月らしい、身を切るような冷たい風が吹き抜ける。咄嗟に閉じた瞼を持ち上げると、目の前にはもう電車が停まっていた。二両編成の、おもちゃみたいな電車。反対側のホームにも、停まっていた。

 真夜中だと言うのに、車内は人で溢れていた。座席に座って新聞を読む人、つり革に掴まったまま傍らの女性に話しかける男性、網棚から荷物を下ろす人。先頭車両の先っぽから一番に降りてきたのは、藍色の制服を着た運転手だった。

「こんばんは、乗車されますか?」

 彼は、帽子のつばを軽く持ち上げて私に笑いかけた。その間も、電車からはぞろぞろと人が降り、今まで誰もいなかったはずのホームからたくさんの人が乗り込んでいく。

「いいえ、あの…ただの雨宿りなんで。すみません、勝手にホームをお借りして」

「あぁ、向こう側の方でしたか」

 向こう側? ……踏切の向こう側と言う意味だろうか。

「もうしばらくかかりますが、すぐに開きますよ」

 やはり、踏切の事だったらしい。運転手は笑顔でもう一度帽子に触れてから、電車へと帰って行った。

「お姉ちゃん、乗らないの?」

 ぼぅっと電車を眺めていると、そんな声を掛けられた。声のした方を見ると、袴姿の小さな男の子が私を見ていた。……七五三にでも行って来たのだろうか。

 男の子は目が合うとにっこり笑い、こちらへ走って来る。袴姿の男の子、深夜の無人駅、ずぶ濡れの大学生――ちぐはぐなパズルのピースの様だ。同じ場所にあるからと言って、同じ絵を作り出すとは限らない。それは酷く、不格好な組み合わせに思えた。

 男の子は私の正面に立つと、少し考える素振りを見せてから、私が荷物を放った方とは逆の空いたスペースに腰掛けた。ねぇ、と男の子が私を見上げる。くりくりとした丸い両目の下には、それぞれ泣きぼくろがあった。

「乗らないの?」

「…電車に?」

「うん」

 背の低い男の子は、地面に着かない両足をぷらぷらと揺らしている。彼は真正面に停まる電車を、まるで遊園地のアトラクションを見るかのようなきらきらとした期待を込めた目で見つめていた。子供らしいすべすべした肌を車内から溢れた光が白く照らす。

「君は、乗るの?」

「うん」

 この電車は何処へ行くのだろうか。人の乗り降りはまだ止まず、もう既にこの電車二両分以上の人が乗っているように思えた。けれど、車内は満員と言うわけではなく、座席はほとんど埋まっていたが、息苦しい混み具合ではない。

「…乗ってなくて良いの? もうすぐ電車、出るんじゃない?」

「お母さん待ってるの」

 小さな足が揺れると、黒いブーツがすぽんと抜け落ちた。最近の七五三は、ブーツを履くのか。それとも、これが普通なのだろうか。男兄弟も息子もいない私にはその辺の事情は分からない。

 あ、と男の子は声を上げて脱げてしまったブーツを拾い上げる。おや、随分とまぁサイズの合わないブーツである。彼はそれに足を突っ込んでからベンチの上に乗せると、うんうん唸りながら紐を結ぶ。蝶々結びはまだ難しいのだろう、短い指にぐるぐると紐が絡まって泣きそうになっている。

「貸して」

 本来借りるものではないのだが、そう断って、私は男の子のブーツに手を伸ばす。絡まった紐をほどき、結び直してやる。男の子は紐が結ばれて行くのをじっと見下ろしていた。

「結べないなら、マジックテープの靴履きな」

「まじっくてーぷ?」

「べりってやる奴。分かんないなら、お母さんに聞いてみ」

「うん、聞いてみる。お姉ちゃん、ありがと!」

「……ん、また脱げるかもしれないから、足はじっとしとく事」

「はい!」

 良い返事だ。男の子はふくふくとした頬を緩ませて笑った。

「ねぇ、お姉ちゃん」

 しかし、停車時間の長い電車だなぁ、と意識をよそへ向けていた私の腕を小さな手が引く。

「乗らないの?」

「…私の家はすぐそこだから、乗らなくていいんだよ」

「えー、僕もっとお姉ちゃんとお話ししたかったのに。本当に乗らないの?」

「うん、ごめんね」

 ぷくっと男の子は頬をふくらます。なんとも感情表現豊かな子供だ。つまんないの、と男の子は唇を尖らせたまま呟いた。

 電車から運転手が降りてくる。その手には制服と同じ色の旗が握られていた。彼がそれを頭の上で振ると、ホーム内でベルが鳴りだした。発車の合図だろうか。

「武史!」

「! お母さん!」

 ぱっと男の子――タケシくんは笑顔になると、声がした右手を振り向く。私もつられてそちらを見ると、落ち着いた色合いの着物を着た、上品な女性が番傘片手に走って来るところだった。ほんの少しだけ着物の裾を持ち上げ、女性はぱたぱたと走っている。あんな動きにくそうな格好で走っては転ぶのではないかとはらはらしたが、どうやら杞憂だったらしい。女性は一度もつまずく事なく、私達が腰掛けるベンチまでまっすぐやってきた。

 お母さん、とタケシくんが呼んだ女性は、にっこりと笑う。その笑い方は、私の隣に座る彼女の息子そっくりだった。

「そろそろ発車しますよ」

 未だ鳴り響くベルにかき消されないよう、少し大きな声で私がそう呼び掛けると、女性は私に目を向けた。その顔には、タケシくんとは違い泣きぼくろはなかった。

「貴女は乗らないの?」

 またこの質問か。何度目だろう、と苦笑しながら私は首を振る。

「此処で雨宿りしてるだけなんで」

「雨宿り…? あら、あなたずぶ濡れじゃない。風邪をひいてしまうわ!」

「あー…すぐそこが家なんで、帰って即風呂入るから大丈夫です」

「でも、そこまで濡れてしまうでしょう」

「はぁ…まぁ。でも、走るんで」

 悠長に喋っている暇はあるのだろうか。運転手はなおも旗を振り続けているし、ベルは鳴りっぱなし。深夜だと言うのに、近所迷惑な程の大音量で、だ。

「これをお持ちなさいな」

 そう言って押し付けられたのは、唐紅色の番傘だった。いや、でも、と咄嗟の事に断りの文句を思い付かない私の手を酷く冷たい手が握りしめた。その冷たさに驚き強張った掌に、固い傘の柄を握らされる。

「武史の相手をしてくれた方が風邪をひいては、寝覚めが悪いもの。さ、武史、行きますよ」

「はい! またね、お姉ちゃん!」

「あ、いや、ちょっと、傘…!」

 女性はタケシくんの手を引いて、振り返らずに電車に飛び乗った。あとに残されたのは、ベンチに両足を乗せ、中途半端に手を伸ばした格好で固まる私と、漸く旗を振り終えた運転手だけだった。

 ふぅふぅと運転手は肩で息をしながら、旗をズボンのポケットに突っ込む。

「では、発車しますねー」

 そう言って、運転手は運転席へと戻っていく。車内はいつの間にか朝の通勤ラッシュの様に満員で、タケシくんも、タケシくん母の姿も見つけられなかった。不思議な事に、車内の照明は煌々と明るいのに、乗客の姿はどれも影のように黒々としていた。逆光なのか、顔が見えないのだ。辛うじて分かるのは、それぞれが身にまとう服だけだが、それもタケシくん親子の様に着物もいれば、豪奢なドレス、かっちりとした制服、私の様な手抜きの部屋着だったりと様々だった。

 がたりと、運転席の窓が開く。運転手はそこから上半身だけを出し、安全確認の後に車両すべての扉を閉める。最後にホーム――否、私を見て、到着時と同じように帽子をちょいとつまんだ。

「こちらと同時に反対側の車両も出発しますので、踏切も開きますよ。いやはや、お時間取らせて申し訳ない」

 おやすみなさい、と運転手は窓の中に引っ込む。窓はすぐに閉じられ、運転手も黒い影となった。

 じりじりと鳴り続けるベルの音が大きくなる。鼓膜が震え、耳が痺れる。二両編成の電車が、がたんと揺れた。そして、来た時は逆の方向へ、ゆっくりと滑りだす。すぐにそれは轟音と共に速度を上げ、私の視界を切り裂いていく。反対側のホームでも、同じ様に電車が走り去って行く。

 そうして無人駅は再び無人となり、私はひとりベンチの上に取り残された。妙な物悲しさが頬を撫でる。世界からすべての音が消えた様な静寂ののち、ばん! と、誰かが机を叩いた様な音が響いた。

「……雨だ」

 バケツをひっくり返したような、大雨。それがばんばんとホームの屋根を叩いている。先程のベルに負けず劣らず、五月蠅い。こんな騒音を、私の耳は今の今まで捉えていなかった。

 手元の番傘に視線を落とす。そう言えば、タケシくん母は傘を差していなかった。電車は濡れていなかった。運転手も、タケシくん母も、『雨宿り』と言うと怪訝な顔をしていた。

「………帰るか」

 それらが何を意味するかは分からないが、とりあえず自宅に帰る事にした。雨に濡れた体は再びがたがたと震えだし、このままでは本当に風邪をひいてしまう。放り出したままの荷物をコンビニから飛び出した時の様に胸に抱え、私は番傘を開く。……なんだこれ、結構重いな。

 ホームを踏みきりに向かって歩いていると、ふと何かが引っ掛かって足を止めた。魚の骨みたいに、小さな何かが意識に刺さる。それを感じたところまで後退すると、そこには日に焼けた時刻表が貼ってあった。あ、と声が漏れる。

 終電は、午前零時ちょうど。始発は、午前五時二分。そもそも電車なんて、来る筈がないのだ。ここで暮らし出してそろそろ三年になるが、それまでに一度も、こんな時間に踏切の音を聞いた事がなかった。

「なんだか物凄く不思議な体験をした気分だ…」

 思わずそう呟いた私は、ホームの時計を見上げ、再び固まる事となる。

 時刻は午前二時十二分。徒歩五分のコンビニを往復したと言うのに、自宅を飛び出してからまだ十二分しか経っていなかった。


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