?週目
僕が梶山倉庫に着いたのは、まだ日が昇る気配もない時間帯だった。
昨日の夕方に派遣会社から連絡があったので、また、例のコンテナが梶山さんに持ち込まれたことは間違いない。
もちろんそんな時間にコンテナ卸しの仕事があるはずもなく、僕が向かったのは、別の目的のためだ。
梶山倉庫の敷地は普段から限定的に開放されている状態なので、自転車をいつもの場所に乗り付けても誰かに咎められることはなかった。
倉庫の建物は結構しっかり施錠されているし、警備会社と契約もしているので、不審者が入り込む余地はない。
もっとも、隣接する広い駐車場内であれば今の僕のように特に問題はなく入り込める。
僕の目的は、その駐車場の隅に止められた一台の四トントラックにあった。
なぜ、こんな冒険をしてやろうと思ったかは、自分でもはっきりしない。
たまたま早く目を覚ましてしまったからか、それとも寝付けなかったからか。
どっちみち僕はあのコンテナに対する関心でおかしくなりかけていたのかもしれない。
前期テストも散々な結果で終わりそうだ。
僕は寝ても覚めてもこの謎に囚われていた状態だったのだから。
その生煮えの状態を抜け出したいと、普段なら考えもしないような無茶をしたのも、あるいは自己保身だったのかもしれない。
ただのこじらした好奇心のような気がしないでもないけど。
最近、仲の良かった友達にも少し忠告されるようになっていた。
いつも何かを探しているようにキョドっていると。
だから、心配事があるなら話してみろよ、とか。
ああ、僕はおかしくなってきているのか。
第三者に言われて自然と納得してしまうのが悔しかった。
だからこそ。
だからこそ、なのかもしれない。
だからこそ、僕は夜の駐車場に踏みこむことになったのだ。
見慣れたコンテナを牽引するトラックが、西側にひっそりと停車していた。
運転席はカーテンがかけられて中は見えそうにない。
すぐそばに近寄っても運転手に気づかれることはないだろう。
トラックから少し離れたところに小さな外灯がつけられていて、もうすぐ夜明けという陽のささない状況でも区別することは可能だった。
僕は懐中電灯を手にして、そっとそちらに近づいた。
背筋が急に痒くなり始めた。
じんましんがいきなり発生したみたいに。
冷静になってみるとそれは怖気って言われるやつだったに違いない。
身体をねじった程度で痒さが消えることはなかった。
どうしてそんな風になったのかすぐには理解できなかった。
僕は夜の駐車場を静かに歩く。
コンテナにもトラックにも何の異変もない。
…はずだった。
何かがコンテナの天井の上にいた。
暗闇の中で何かが立っていた。
猫背気味の人のような影をしている。
でも、人のわりに上着を着ていないし、ズボンさえも履いている様子はない、本当に全裸だった。
しかも、外灯のかすかな明かりだけでわかるぐらいに細っこくて、白くて、枯れ枝のような手足が伸びていた。胴体だけが四肢の何倍も太いから違和感だけが強い。
その人の胴体は、肉もなく肋が浮き出て、皮が濡れた布のごとく貼り付き、尋常でないぐらいに痩せていた。
しかし、腹だけは餓鬼のごとくにだらしなく膨らんでいる。
内蔵が詰まっているというよりも、贅肉による中年太りのような醜さだった。
その人は、うつむいてじーっと下―――コンテナの天井を見つめている。
探し物があるという様子ではない。
ただつっ立っているだけという感じだった。
身じろぎ一つしやしない。
どうしてあんなところに立っているのかさえわからない。
その姿は狂気に彩られているかのごとくだった。
けど、僕はもう耐えられなかった。
あの変なやつに関わり合いたくなかった。
わかってしまったのだ。
密封されたコンテナの中のダンボールを押しのけ、あの隙間を作ったのはあいつだ。
あの隙間に潜んで中国からやってきたのはあいつだ。
運転手のプルーンを盗んで齧ってコンテナの中に残したのはあいつだ。
吐き気を催す異臭の源はあいつだ。
僕を頭のおかしい人間にしたのもあいつだ。
一刻も早くここから逃げ出そうと僕が踵を返そうとしたとき、あいつがこっちを見た。
大きな口が三日月みたいに開く。
満面の笑顔だった。
目はあった。鼻もあった。ボサボサだけど髪もあった。
でも、生きていなかった。
そして、なにより僕と目が合って、それを決して逸らそうともしなかった。
僕のことを見ている。
死んでいるのに僕を見ている。
黄色く濁った青い滲みの走った双眸で。
妖妖と。
中国人の人足はこいつのことを知っていたに違いない。
だから、あんな雑な仕事をしてでも一刻も早くコンテナを送り出そうとしていたのだ。
僕は振り向いて走り出した。
今までの人生でそこまで一生懸命に走ったことはなかったと思う。
だって、体育の時間のマラソンや徒競走で死ぬような目にあうことって普通はないから。
でも、その時は僕にもわかった。
今、走らなければ僕は恐ろしい目にあう。
後ろから、もう理解もできなければ聞き取ることもできない声が聞こえてきた。
「オッウ、ンーッ!ウッオンーッ!オッウ!」という風に聴こえる、何か人でないもののうめき声らしき怪音。
僕を追って来ているのか、タタタタタタと奇妙な足音のようなものも付いてくる。
自転車にまたがり(すぐ逃げられるように鍵を掛けていなかった。かけていたらどうなっていただろう)、僕は一切何も考えず梶山さんの敷地を通り抜け、隣接していた幹線道路をただ闇雲に家に向かって走り続けた。
赤信号もあったが、そんなものは無視した。
車も通らない時間帯だったけど、多分、車にぶつかりそうになったとしてもペダルをこぐことをやめることはなかったと思う。
そんなことをしてもし追いつかれでもしたら…。
僕が少しでも足を休めるとあの足音が遠くから近くに寄ってくるのがわかる。
気が狂いそうな徒競走もどき。
自宅の前にたどり着き、もし、あれに家の位置を知られたらどうなるかということを考えることもなく、僕は家の中に飛び込んで後ろ手に玄関の鍵をかけた。
しばらくしても玄関に何かが近寄る気配はなかった。
僕が背中を預けていた扉から身を起こそうとした時、
扉がダンダンダンと叩かれ、ゴツゴツゴツと下側が蹴られる音がした。
あいつが玄関先で暴れているのだ。
僕は頭を抱えて三和土に座り込んだ。
怖すぎて怖すぎて何もできなかった。
激しく連打される扉の裏で何が起きていたのか想像もしたくなかった。
それから数分して、音も何も聞こえなくなった。
僕はそれでも耳を塞ぎ続けた。
肉食獣に追われるバカなダチョウのように。
……
僕は朝になって、母親に肩をゆすられて目を覚ました。
三和土でうずくまって寝ていたらしい。
あまりに奇妙だったので、何かの病気にかかったのかとすごく心配されてしまった。
どういうわけか、母は明け方の騒ぎについて気づいてもいないようだった。
あんなにも大きな音が鳴り響いたというのに。
でも、僕は僕が体験した出来事を報告することもなく、ただ寝ぼけていたとしてごまかした。
もう二度と思い出したくもなかったから。
それから、昼まで自分の部屋で寝て、起きてすぐに派遣会社の電話番号について着信拒否の設定をした。
もう絶対に梶山倉庫の仕事はしたくなかったし、それを思い出させるような派遣会社との関係も切りたかった。なぜなら、金輪際、あのコンテナの中に入りたくもなかったからだった。
それどころか、僕はかろうじて電灯さえ点いていれば我慢できたはずの、暑くて暗くて狭い場所に入ることができなくなっていた。
あの夏のコンテナのような場所に入ると、我知らず背筋が寒くなり、逆に飲み込む空気は熱い湯気のように喉を焼き、呼吸さえも困難になってしまうのだった。
そしてこの症状は心療内科に通うようになっても、それから何年もの間回復することはなかった。
僕はときおりあの時のことを思い出す。
それは大体夏の非常に蒸し暑い夜のことだ。
また、僕は道で通りすがるトラックに曳かれたコンテナを見てもあいつを思い出す。
あの、人間が一時間も篭っていられない暗室の中に潜んで、反吐がでるほどに気持ちの悪い不気味なものがうちの国の夜に密航してきているのだと。
それは夜明け前にどこからともなくにじみ出て、僕らの知らない場所に消えていく。
だけど、それが本当に僕らの知らない場所なのだろうか。
僕らのよく知る世界に実は忍び寄っているのかもしれない。
例えば、大きな工場の倉庫の一角とか…。
例えば、大きな大学の教室の隅とか…。
そんなことを考えると、僕の喉が激しい熱を帯びて、もう呼吸すらもしたくなくなるのだ…。