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木のうろから紅剣の包みを取り出して、カントは重く頷いた。既に日は落ちかけて、紅剣と同じ色に空気ごと染めている。もう少し遅くなればきっと養家は心配して捜索を出すかも知れない。だからあまり時間がないのを承知もしながら、カントは包みをふりほどき、紅剣を抜いた。やはりそれは、圧倒的な存在感と蠱惑を振りまく剣であった。欲しい欲しいと身体の奥底から上がってくるものがある。カントは無理矢理首を振って、自分を落ち着かせるために深く呼吸をした。
夜盗。それは多分、とても好都合なのだ……──
剣を握りしめていると飛ぶような高揚や、刹那的な衝動が駆け上がってくる気がする。カントはそれが何であるか、もう長い間知っていたと思った。それは自分の望み。そうなりたいと願い、必死で希求しながらも叶わないものであると理解していた、心の奥からの、真実の声。
カントはぎゅうっと目を閉じる。物語の中の英雄のように。あるいは旅渡りの詩人の歌う勇者のように。毅然と大地を踏んで立ち、己の道を切り開いていけたら。心のままに、何にも縛られず、ひたすら、自由に、自由に……!
リリク。カントは友人だった少年の名を呟いて、顔を歪めた。僕たちは、とてもよく似ている。だけど本当は君が、君の方が、僕よりも何十倍も賢くて、保身家だ……それが彼に対する非難だったのか、憧憬だったのかはカントには遂に判別が出来なかった。
カントは剣を腰に吊って街道の方へ歩き出す。夜盗がどこでどう悪事を働いているかは分からないが、この剣を遠目にも目にすれば必ず吸い寄せられてくるだろう。そう考えながら歩くカントは、自分が薄く笑っているのに唐突に気付く。家で騎士たち相手に実剣で手合いをうっていた時怖くて殆ど動けなかったくせに、大地に足を踏むだけで沸いてくる高揚が自分でも不思議で、そして誇らしかった。カントが再び笑みになった、その時だった。
「君が主人となるって事で、じゃあ、いいのかな」
後ろから男の声がした。それはあまりに唐突で、突然だった。カントは驚愕と共に飛びすさり、剣の柄に手をかけた。あ、と思う間もなく自分の手が剣を抜き出す。白銀の抜き身が夕日にぎらぎら反射したのが目を焼いた瞬間、戸惑いも迷いも全てが塗り潰された。
カントは唇を開いた。何かを叫んだ。俊速に自分の手が剣を水平になぎ払う。まるで奇跡のような、完璧な軌道だった。
ふっと影が飛び下がったのが見えた。やがて少し離れた場所に人影を見いだして、カントは構えたままで誰だ、と低く問うた。体つきからして、男のようだった。
「僕? 僕はその剣のおまけさ。巡り会うべき主人の良き理解者にして忠実なる下僕、そして巡り会うべきでない主人の導き手」
意味が分からない。カントは首を振って見せた。男はじっとカントを見ていたが、やがて肩をすくめた。
「全く君たちと来たら、譲り合ってるのか押しつけ合ってるのか知らないけど本当に長くかかったなぁ……待ちくたびれてしまったよ。ああ、君には資格がないわけではなさそうだけど、でも期待薄というところだね。それよりはまだ、君のあのお友達ごっこの相手の方がましだったような……」
それがリリクのことだとすぐに分かった。カントはお前、と叫んだ。苛立ち、怒り、そんな激しく熱いものが胸の底から吹き上げてきて、喉を焼きそうだ。怒鳴られた方はさほどそれには関心を寄せなかった。聞こえてるよ、と薄く笑うと、最近は駄目だなぁと呟く。カントはますます自分の中の嵐が激しく吠えるのを感じながら、もう一度男を呼んだ。
「資格ってなんのことだ。リリクの方がましだったってどういう意味だよ!」
「資格は資格さ。お友達ごっこの彼の方がまだ剣の好みだというだけの話。ま、君はあんまり深く考えなくてもいい。その剣が怖くなって逃げ出すのか、とことん破滅するのかは君自身が決めることさ……」
男が吐息で笑った気配がした。カントは剣を抜いたまま素早く突進した。衝動の囁きが甘く耳へ吹き付けてくる。素直にそれに従ってカントは男の胴を払った。今度こそ、それは完全に男の命脈を立つはずだった。
だが、やはりそれは男には当たらなかった。すうっと彼の姿が周囲に滲んだかと思うと、虹のようにあっけなく消えたのだった。カントは取り残されて、一瞬ぽかんとする。その耳に、男の笑い声が微かにした気がした。カントは剣をおさめようとした。あの男が何であったのかを理解は出来なかったが、それよりも夜盗を自分の手で狩り出すことの方が優先だと思い直したのだ。だからすぐにカントは気付いた。自分の周囲でざわめいている、不穏な空気に。剣を構えなおして誰だ、というと背後の草むらが揺れた。ふとそちらへやった視線の隅を、動くものがよぎってカントは再び視界を戻す。
ぱっと目に飛び込んできたのは剣の切っ先だった。身体が反射的に回った。かかとでくるりと体の向きを変えると、初撃を外した男が信じられないといった顔つきで振り返るところだった。草むらが騒がしい。人数がいる。
「小僧!」
吠えかかられて、カントは確信する。彼の狙っていたものが飛び込んできたのだと。
剣を握り直す。足下からごうごうと、逆巻き昇ってくる衝動の色は、夕日よりも闇よりもなお赤い。紅蓮の色だ。これは血の色。鼓動がけたたましく興奮を叫んでいる。胸が痛い、歓喜のために!
カントは笑う。笑いながら彼の獲物たちに襲いかかっていった。
……月が、とカントは思った。月が、出ている。綺麗な月が。辺りは一面血の沼、鉄臭の濃い空気が立ちこめていて、気分が悪い。……けれど。
カントはようやく呼吸をして、肉塊からずるりと剣を引き抜いた。それは既に人の形を失っている。切り刻み、叩き潰したのは確かに自分なのにどこか現実味が薄くて、淡い夢のようだ。まだ荒い呼吸をなだめすかしながら剣を鞘に収めると、切り替わったように興奮が沈んでいくのが分かった。下を見やれば、人の形さえ失ったもの。カントは口元を押さえる。急激な吐き気に翻弄されるようによろよろとそこを離れた。
草むらで耐えきれずに吐き、座り込む。月は中天にかかり、既に夜は深い。震えは寒さのせいでなく、恐怖のせいでもなかった。思わず喘ぐほどの歓喜が余韻を噛みしめるように小刻みに痙攣しているのだ。カントは顔を歪めた。懼れと、歓喜と、その両方のために。
剣が。この剣が。
良いのか、悪いのか。
呼ぶ幻の、壮絶な光景。
待って。
僕はこんな……でも……しかし。
剣を納めなくては。それだけが不意に闇のような思考から姿を現して、カントは一人、頷いた。まだ震えている手のせいで、上手く切っ先が鞘に入っていかない。焦れて顔を歪め舌打ちをしたとき、耳に妙な音を聞いた。それは背後からの足音のようだった。そろそろと、忍び寄ってくる気配。カントは納めようとした剣を握り直した。敵か、残党か? けれどそのどちらかであるなら、あの圧倒的な愉悦を再び味わうことが出来る……!
カントは素早く振り返り、剣をなぎ払おうとして目をしばたいた。佇む影は月光の下でひどく霞んで見えたが、間違いなくカントの知己であったからだ。
「リリク……? 何故、ここに……」
ぽかんとした声であった。リリクが美しい顔を思い切り醜く歪めた。彼は気に入らないのだ。何が、と思う側からカントは自分の顔が強ばっていくのに気付いた。
「剣のことは、謝らないよ」
呟くと、リリクは僅かに遅れて溜息をついた。吐息が重く自分たちの間に流れたのが分かった。
「僕は君よりも資格がある」
カントは吐き捨てるような自分の声に、僅かに言い訳めいた色が付いているのを認める。二人の秘密だ、といったときにこの剣は二人の共有物になった。その条約を今、自分の方から一方的に破棄しようとしている。
「俺は、カント……」
リリクが何かを言いかけ、沈黙した。月が不意に、雲に消えた。
「僕は、リリク……」
カントは口を開きかけ、そこから零れるものが全て言い訳でしかないだろうと見切って口を閉ざした。剣と離れ、あの快楽や歓喜と離れ、もたらされるであろう夢見た英雄の物語から永久に乖離して生きていくことは、もう不可能に思われた。カントの内側で、誰かが必死で叫んでいる。欲しい、欲しい。一度現実になりそうだった夢を、どうして諦めなくてはいけないのだと。
「カント。剣を返そう。俺たち、間違ってたんだ」
リリクが低く言った。普段騒ぎ立てる性質の彼にこんな落ち着いて冷たい声音があることを、カントは初めて知った。嫌だ、とカントは首を振る。それは出来ない。もう出来ない。駄目なのだ。もう、戻れない──
「いやだ」
カントは泣き出しそうな自分の声が、愛しくなる。
「僕はこの剣があればきっともっと強くなれる。この剣があれば絶対に今までみたいな無様な真似はしない。剣があれば僕は自分の理想を追える。剣があればきっと、きっと」
「それは」
「いやだ!」
カントは叫び、剣を手にして後ずさる。一度見えてしまった希望の白が、周囲の黒を更にくっきりと見せた。嫌だともう一度叫び、カントは剣を強く掴んだ。
「僕は誰よりも強くなりたい! 誰からも同情されたり馬鹿にされたりするのはもう嫌だ、剣があれば僕はそれになれる、僕は強くなりたいんだ!」
「お前の力じゃないだろ!」
リリクが吠えるように叫んだ。カントは胸の真奥を突き刺されて一瞬身をすくめた。
「それはお前の力じゃない! お前が自分で手に入れたものじゃないだろ! そんなの、意味なんか、ないじゃないか!」
カントは喘いだ。リリクの言うことはどこまでも正しく、正しいからこそ憎かった。
「そう──かも知れない、リリク。けど、だったら、僕はいつかそれを自分の力にしてみせる! 自分一人の力で生きていって見せる、リリク! 君みたいにずるずると養家の世話になんてなるもんか!」
海の子供として海洋騎士の養子となったのも自分の力ではない。相手がカントを気に入ったのだ……愛玩動物を選ぶように、愛情の対象を選び、カントは選ばれた。それだけだった。愛情をかけてもらえれば嬉しく、期待に添えなければ辛かった。どんなに努力しても足らないものが多かった。
何故! カントは月のない夜には泣き叫びたくなってそれを押し殺しながら毛布の下で丸くなったことを思い出す。養子になる以前の胸の悪くなるような日々の方が生きやすかったのだろう。清流で生きていく魚がいて、泥海でのたうつ魚がいて、それはお互いに、違うものにはなれはしないのだ。永久に。
カントは剣を鞘に収め、目の前の少年を見つめた。彼は身体全体をわななかせていたが、やがてぎりぎりの低い声を出した。
「お前が、一人で生きていくって? 出来るもんか、そんなこと……お前はうすのろくて、鈍い、ただの子供じゃねぇか」
嫉妬だと反射的に思った。リリクはカントが剣を持っていこうとするのが許せないのだ。それを思うとカントはうっすらと笑うことが出来た。それはリリクに向けた憫笑というものといえた。
「ただの子供なのはそっちだろ、リリク。君だって、養家の期待することは何一つ出来ないくせに」
意地の悪い言葉に、リリクが詰まった。カントは笑い、行けよ、と言った。
「もう行っちまえ、馬鹿なリリック。僕たちは最初から分かり合えてなんか、なかったんだ」
リリクは黙っていた。カントは行けよ、と繰り返した。風が吹いて、草むらを撫でた。ざわめきと共に、濃厚な血の臭いがした。リリクは顔を歪めていた。これ以上はないというくらいに、苦しげだと思った瞬間、彼は身を翻した。
街の方へかけさっていく彼の背に、カントは叫んだ。
「リーリーック!」
影は立ち止まらなかった。
「僕は、君が、大嫌いだったよ! さよなら、可哀相なリリック!」
そう怒鳴ってカントは剣を掴み、街とは反対の方向へ走りだした。自由へ。生きにくくて呼吸のしやすい、泥海のような世界へ。
彼は元来た場所へ戻っていった。
──そしてクハイスから、永遠にカントの姿は失われた。
夕日が沈もうとしていた。窓から見下ろすと診療所の入り口に妻が診療の終了を告げる札をかけているのが見える。ゆるく椅子に沈みながら机に向かって診療の記録を書く。アナイスはただの風邪。リークの骨はそろそろくっつく。ミルキの婆さんはまぁ、年を取れば耳が遠くなるのは当たり前なんだがなぁ。小さく笑ったとき、扉が叩かれた。きっと妻だ。
「あなた、お茶を入れたわよ」
思った通りにそれは妻であった。普段はさほど感じないが、光量の少ない部屋にいると肌に刻まれた皺は彼女の年齢を如実に語った。仕方がない。自分もまた、緩やかに老境というものへ向かって歩いている。亡くなった養父が肩が上がらないと言っていたのを実感できる年齢になったのだ。季節の変わり目には手を振り上げないと届かない位置には物は置かれない。次第に肉よりも脂気の抜けたものが好きになってくる。若い頃の必死の勉学のせいで酷い近視になってしまった目が、最近はよく見える。これは老眼という奴との相殺の結果か。
妻の顔貌に過ぎ去った年月を一瞬で思うのも、老いとま向かう年齢になってきた証拠かも知れなかった。出会ったときはお互いに若かった。大都市マージの医療学校で知り合った時自分は20で彼女は18、医者の卵だった自分と薬の調合士の卵だった妻はすぐに恋に落ち、結婚した。街に戻って養父の診療所を継ぎ、二人で力を合わせてきた。やがて養父を、そして養母を看取り、二人になった。自分たちの間に子供は授からなかった。子供は神が下さるもの、決して人の範疇ではない。だからそれについては諦めているが、妻と二人で日の終わりに茶を飲んでいると、ふと、子供がいたらと思うことも真実であった。夫の書いた診療記録を見ながら、妻がそれに合わせて薬の調合を書き足していく。そんな共同の作業も、この30年変わらない日常だった。ふと妻が顔を上げた。
「誰か来ているようね?」
確かに扉が叩かれている。急患だろうかと窓から見下ろすが、扉を叩く人影はしっかりと自分の足で立っており、具合の悪そうな連れもいない。怪訝に思いながらも階下へ降りて細く扉を開くと、そこにいたのは黒髪の少年だった。齢は13から15の間くらいだろう。僅かに怯えたような表情が何故か胸に残る。
「リレクトル=アクスランド先生?」
彼は頷く。少年は良かった、と笑った。
「僕はヴァン=リドーといいます。父の遺言で、先生にお渡しするものがあるんです。父の名は、ナセール=リドー」
「……いや、私は」
そんな方は存じ上げないと困惑のままに口にしかけたとき、少年はあの、とそれを遮った。
「父からあなたに、これを渡してくれと頼まれました」
少年は長いマントの奥から細長い包みを引き抜き、それをほどいた。落日よりも尚赤い剣が、眼前にあった。一瞬呼吸が止まったような気がした。30年以上の時間が一息に逆巻き、巻き戻されていく。カント。呟いた声はかすれて震えていた。
「ええ、父はそう言えば分かる、と」
少年の声に我に返り、深く頷く。カント。消えてしまった子供。少年がそれと、と手紙を差し出した。
「父から、先生へ手紙を預かっています。読んでいただけませんか」
「もちろんだとも」
扉を開けて少年を中へ迎え入れながら、リリクは胸に手を当てた。
『親愛なるリリック
君は私のことを怒っているだろうか。多分そうだろうとも思うし、そうであって欲しいのかも知れない。私がクハイスから逃げ出した16才の頃、私も君も、とても苛立っていた。それが若さなのだと言うことにも気付かないほど、私たちは苛立っていたね。そして私は短絡で、君は慎重だった。思い出せばきっと誰もが資質が反対だと言うだろうけど、私はそれが真実だったと思っている。
不思議なことにリリック、私は君に別れ際あれだけ酷いことを言ったにも関わらず、君は絶対に医者になりえたと信じている。君は優しく、そして強い。その優しさを表現する方法を知らなかっただけなのだと。でも、それが若いということなのだろうね。それだけでも価値があるのだから。
少し私の話をしても良いだろうか。
私はクハイスから逃げた後、剣を手にして戦場を点々とした。剣の魔力は絶大で、私は偽名を使って傭兵稼業を続けた後に騎士になり、騎士団の副長にまでなることができた。でもそれも、全ては君の言ったとおりにあの剣の力で、私の力ではなかった。私は割合それに早く気付いていたが、剣を捨てられなかった。踏ん切りがなかなかつかないのは、昔からのことだ。けれどもうそれも終わる。半年前の戦で私は左足を失い、その部分からの腐食で恐らくもうすぐ死ぬだろう。だから君に剣を返したいと思っている。君には必要ないものであることは承知しているが、それが筋だからだ。忠告をするならば捨ててしまった方が良いとも思うけれど。
あの時、私は君のいう言葉が正しいと分かっていた。正しいから許せなかったのだ。私は君に怒っていたし、きっと君も私のことを怒っていただろう。今でもそうかもしれない。
けれどリリク。私は時々月を見ると思い出す。あの晩の、君の泣き出しそうな顔を。そして夕日を見ると思い出す。クハイスの海に貝を投げて君と遊んだことを。それが全部美しく見えるのは何故なのか、私には分からない。けれど、美しいと思えるものを見ているとき、私は不思議に何もかも許せるし、許されているような気分になるのだ。
親愛なるリリック。もし君が不快であるならこの手紙をどうか捨てて欲しい。だが、最後に再び呼ばせてもらえないだろうか。
我が友と。
さらば、我が友よ。そして君の幸福を切に祈ろう。君の成功を信じていよう。君に神の恩寵が降るようにと、私は君を想う。君のために。
カント=イーレ』
リリクは手紙を閉じて目をつむった。彼がどんな人生をそれから生きたのかを知って、何故か満たされたような気持ちになる。長い溜息をつくと、目の前の少年が微かに怯えたような顔つきで、何か、と聞いた。
「いや……お父上は、亡くなったのだね……」
はい、と少年は頷く。戦場での傷が元で、という簡単な説明にも頷いて、リリクは手紙を丁寧に畳み、封筒に納める。
「剣は確かに受け取ったよ。ありがとう」
カントの忠告に従って街の骨董屋にでも売り払ってしまえばいい、とリリクは内心で頷く。金はこの少年に持たせてやるのが良いだろう。あの剣はカントが持っていったときから彼のもので、自分には必要なかった。
「君も遠路をご苦労だったね、しばらく私の家でゆっくりしていきなさい」
「いいんですか?」
「もちろん」
リリクは微笑む。昔から整った顔立ちは年齢を重ねた今でもそう悪い笑顔にはならなかった。お父上の跡を、と聞くと少年は複雑そうに笑った。
「僕は……剣もそううまくないし……父は僕がこれから食べる分を残して、残りを孤児院へ寄付したんです。僕もそれには賛成したのでいいのですけど、僕は出来れば医者になりたいので、マージの医療学校へ行くつもりです」
リリクは目を細める。カント、お前が何を考えているか、あてて見せようか?
「──もし君がよければ、ここで診療の手伝いをしてみないか? この裏がすぐに住居になっているから、そこから通えばいい。給金も当然払うよ」
少年は少しの間、ぽかんとしていた。やがてその頬に赤みが差してくる。それは破格の話ではあったのだ。でも、と言いかけた少年にリリクは殊更優しく笑い、肩を叩いた。
「医療学校は金がかかる割に、いい場所じゃない。卒業した私が言うのだから。それよりは実践から学んだ方が得るものが多いはずだ。私の妻は薬草の調合士でね、そちらも興味があるなら手伝えばいいから」
「でも、僕、そんな……」
「いいんだ──本当に、いいんだよ」
リリクは柔らかく言い、そして既に姿を隠して残滓だけを水平線の彼方に投げる日の方向を見た。美しいと思えるものを見ているときは不思議に何もかも許せるし、許されているような気分になる……そうだな、カント。本当に、そうだ。綺麗な夕空だ。お前といつか、見ていたような。
「……君のお父上と私は親友だった。たとえ30年以上会わなくても私たちは、お互いがお互いを案じていることを、分かっていたよ……」
それも今更真実に思われた。少年は僅かに笑って頷き、父もそう思っていたと思いますと付け加えた。
「だから私は、親友の残した君に出来るだけのことをしてやりたいと思っている。彼に罪を押しつけてしまった私の償いを、私は君で取り戻したいのだろうね。私の我が儘につき合ってくれる気になったら、ここへ来てくれれば仕事を教えるから」
少年ははい、と頷いた。
朝の診療室で少年が白衣に着替え、照れたように佇んでいるのをリリクが発見するのは10日後であり、ヴァン=リドーがリリクの養子になるのは3年後。そしてヴァン・リドー=アクスランドが南部大陸一の名医と謳われるようになるのは、およそ20年後のことである。