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 夕日の残滓がようやく海の彼方へ消えようとしていた。もう帰らなきゃ。そんな事をカントは呟くが、中々腰が上がらない。体は正直だ、望みと違うことを強いる時、酷く重たく感じるから。カントはふうっと溜息になる。こんなことじゃいけない、ということも分かっている。養父の名を汚さないような十分な功績を上げた上で騎士位を受け、海洋騎士となり、優しく厳しく自分を養育してくれた養父の恩に応えなくては。

 再び、溜息。カントは苦笑になった。夕日よりもなお赤い剣を軽く振り、立ち上がる。小高い丘から見下ろすと、一面燃える海がまぶしく目を焼いた。名前を呼ばれて振り向けば、金髪の友人が怒ったような顔で立っていた。リリクと呟いた声は、自分でも可笑しいくらいにぽかんとしている。

「お前、毎日来てるだろ」

 リリクはやはり苛立っているのだった。

「あんまり頻繁にするなよ。剣のことは誰にも喋らないけどさ、お前がこんなにしょっちゅうふらふら出歩いてたら目立つって」

 カントはごめんよと口先だけで謝った。謝罪の薄さに更にリリクは顔を歪めた。美しい造形は眉をひそめただけでも相当胸に応える。心底から厭うような顔つきだった。カントはごめん、と強く言った。

「リリク、僕、ちょっと煮詰まり気味なのかもしれない……」

 哨戒から帰宅した養父はカントとリリクの「過失」を責めはしなかった。結局のところ紅剣の所持について、誰にも権利はなかったのである。謝罪に来たリリクを返した後、養父はカントに剣の扱いに気をつけるようにとは言ったが、紅剣を失ったことには頓着をしていなかった。だが、それも済んで部屋へ引き取ろうとしたカントに養父が切り出したのは近隣の大都市マージにある騎士団への入隊の勧めだった。カントがどうしても武芸一般が苦手なのを、養父なりに案じていることは分かる。それは理解できる。

 だが、カントはそれを切り出された瞬間に、血の気が引く音がこめかみを下っていったのを聞いた。剣も弓も、苦手と言うよりは遙かに苦痛に近かった。カントとて、まるきり努力しなかったわけではない。むしろ、自分が不得手な部分であることをよく理解していたから、必死で鍛練を積んだ。父の知り合いの騎士たちや、配下の剣士たちに幾度指導を頼み、その数と同じだけ失望させてきたのだろうか。いや、失望だけならまだいい。養父の期待に応えられない落胆を、自分の胸で飼うだけならいい。それは内省であって、自分の中でどうにか宥めすかして眠らせるものだから。

 カントは怖いのだ。自分が養父の名声に傷を入れているのではないかという懼れ。彼らが自分を見下げるのと同じように、養父の見る目のなさを苦笑するのでないかという怯え。けれど、とカントは泣きたくなる。僕は、ちゃんとやってる。自分に課せられた義務と期待を裏切らないように必死に、それこそ血を吐くような思いで練習用の剣を握り、鏃の付いていない矢羽を持つ。やっているんだ。やれることは全部! そして、それでも、思うようには動いてくれない身体。

 だが一条の光明もまた見えた。紅剣はどういう理屈なのか分からないが、格段に扱いやすい。剣がまるで意志を持っている錯覚さえ覚えるほど、易々と、軽々とカントの思い描く軌跡を、すさまじい速さでなぞってくれる。理想の剣の道筋を自分の身体が描き出すことなど、カントには望外のことであった。そして紅剣以外ではまるで同じ、ただの勘の鈍い子供 ──

 カントはゆるく首を振った。リリクが自分の肩を軽く叩いて背を返した。カントは剣を鞘に納めて友人をを追った。

「適当なところにしておけよ、カント」

 リリクが低く呟いた。

「あんまり頻繁に出し入れするのは良くないぜ。結局盗んだのと同じだからな、分かってンだろ」

「……うん……」

 盗んだのと同じと念を押されればその通りであった。共通の秘密を抱え込んで二人は、それまで以上に行動を共にするようになった。傍目からは仲がよいと見えるだろう。間違いではなかったが、今はやや内実がずれ始めているのをカントは感じ、そしてリリクも然りであろう。

 剣のことは秘密だ。二人しか真実を知らない。だから漏れるときはお互いしかないと心の底でカントが考えていることを、リリクも分かっている。それが分かるのは、彼も同様だからだ。――― お互いに、相手方が喋ることとつまらない過失で他人に罪が露呈することを恐れていて……結局のところ、紅剣を素直に返すつもりがないのだった。

 それに、最近クハイスの周辺に夜盗が出る。金品だけならよいが命まで取られてはと、子に厳しく言いつける親も少なくない。薄暮を過ぎれば子供の姿はほぼ見かけなくなる。リリクもカントも、年齢だけで目立つのだ。

 何度目かもしれない溜息を落とすとカントは紅剣を丁寧に布にくるみ、巨木にぽかんと空いたうろへ入れた。この木は街道から外れてはいるが姿は見え、長い年月に中が朽ちて空洞になっている。人はまず近寄ってこないし周辺は草の波、誰かに偶然にでも発見されることはない。ただ、街道を降りて何もない場所へ歩いていくように見えるから、回数が重なれば奇妙に思われるだろうとリリクが言うのは道理だ。分かっているのだ、そんなことは。

 カントは一瞬目を閉じる。剣に魅入られているというならそうかもしれない。剣を手にしているときは心が躍る。自分の身にかかる周囲の期待と、その裏返しの落胆を忘れることが出来る。カントに武術を教える者たちは可哀相だと彼は自分で思う。出来の悪い、人なつこくない弟子はきっと重たい荷物と一緒だから。溜息はきっと、つく方も辛いだろう。だが、つかれた方が辛くないわけではないのだ。自分も他人にも、憐憫など何の役にも立たないのも分かっていて。

 そんなことを最近頻繁に考えてしまうのは、この剣の魔術というものかも知れなかった。カントは意地悪をしている。それをリリクには知らせない。紅剣を木へ隠すとき、目印となる窪みに重なるように立てかけることは自分一人だけの所作だ。だからカントには分かるのだ。リリクが口で何と言おうと、紅剣に自分と同じように魅入られていることが。俯き加減に足早に遠ざかろうとするリリクの背は、夕暮れの薄闇に滲み、いつもより小さく見えた。

 街道へ戻ると二人は同時にそこを振り返った。燃えるような太陽の残滓に浮かぶ黒い影はひどく長く、暗く見えた。二人とも黙って家路を辿った。紅剣を搾取して以来、二人でいるときの会話はめっきり減った。共通の秘密を持つことで得られるはずだった強い絆は、いつの間にか別のものへすり替わっているような気がした。

 こんなはずじゃなかったのに。カントが思うように、リリクも考えているだろうか。けれど、お互いにもう戻れないと思い詰めてしまったのは確かだ。

 紅剣に別の色を与えるとしたら、とカントは思う。それは多分、後悔の暗灰青。光の射さない、海の色。

 こんな事を考えるのはよそうと何度も思い、それでもふらふらと思考の波に打ち寄せられて同じ場所を巡っている。煮詰まっているというなら本当だったし、違うというなら真実かも知れなかった。リリクはこの剣を欲しいと思っていないのだろうか、とカントはちらりと友人の横顔を見上げる。先ほどからずっと不機嫌に黙りこくっているリリクの輪郭は整って、出来の良い彫像のようだ。紅剣を隠したとき、リリクもそれに賛同したはずだった。あのとき、確かにお互いの瞳の中に同類の光を見た。そのはずだったのに。自分が紅剣にかまけているのを不機嫌に見ているのは、それが気に入らないからだ。リリクは思っていることを素直に表情に出す。

 カントが紅剣にのめり込んでいくのを制止しようとするなら、それはあの剣の持つ魔力をまるで理解していないということだ。……自分だって、隠れて剣をもて遊んでいるくせに。それとも単純な嫉妬だろうか。カントにはいずれ、騎士への道が用意されている。リリクは殺傷から一番遠い位置に腰を据えなくてはならない。性質は真逆を向いている。カントは騎士には向かず、リリクは知識を詰め込むのが不得手だ。

 だが、お互いに巡り会った相手が良すぎて悪い。泥臭い海の上での生活など倦み果てていたのに、恵まれてみれば狭苦しい。窒息しそうな日常。押しつぶされそうな……養父母の、慈愛と赦しの眼差し。二人とも、自分の望む未来は手に入らない。だが、もし、カントの手に紅剣があれば、カントの希求は叶うことになる。鞘を作り替えればあれを腰に吊ることも可能だろう。

「カント、お前、何考えてる……?」

 不意にかすれた声がして、カントは現実に引き戻された。リリクは秀麗な顔を歪め、街道の石畳だけに目線をやりながら呟いた。

「俺は、あの剣のこと、誰にも喋る気なんかねぇよ。ただ、あれはお前の剣じゃない。俺のでもない。お前だけが勝手に振り回したりすんな」

「……どういう、意味」

「別に。お前が忘れてるようだから言っとくけど、あれは俺の剣でもあるんだからな。今から謝っても義父に頼み込んでもらえるのは俺のほうなんだぜ。わかってんのかよ」

 カントは自分がはっきりと青ざめるのが分かった。リリクのこれは、体の良い脅しというものでないだろうか。リリック、と呟いた声が震えている。

「僕は、ただ……」

 何を言い訳しようとしているのだろうとカントは途中で言葉を切る。その代わりに、自分の胸の辺りを強く掴んだ。いいよ、とリリクが言った。

「何でもねぇよ。……そのうち、もっと上手い方法を考えようぜ」

 リリクは素早く争論を避け、唐突に走りだした。町へと駆け戻っていく彼の影が細く長く伸びていくのを見送りながら、カントはそれだけは許さないと、小さく、重く、呟いた。







 数日がぎこちなく通り過ぎていった。周囲はまたお馴染みの喧嘩だと二人の亀裂を笑って眺めている。リリクはそれに安堵を覚えている。深く追求されるのは、怖い。修学所の講義が終わると黙って荷物をまとめて出ていく、友人の後ろ姿はやけに尖っている。カントの良いところと悪いところは感情の起伏が少ないことだったが、沈んだままで静寂を保たれてしまうといたたまれない。結局、自分から話しかけることも出来ずにリリクは意地になってカントから目を背け続けた。

 リリクは感情にまかせて舌打ちをし、鞄を掴んで教室から出た。海の上に渡された桟橋を足早に戻る。日暮れには少し早いが、ずいぶん光は弱まっていた。リリクは不意に、カントともに喚き立てながら泥の魚を苛めることに熱中していた日々のことを思い出す。少しも楽しくもなかったし、心高ぶる事もなかった単調な日々が、唾を吐きたいほど嫌いなくせに、泣きたいほど懐かしくて美しく思えるのは何故だろう。そこから通過した僅かな時間が、それまで積み上げてきたはずの、自分たちの間に架かった橋を落としてしまった。

 ……元から「海の子供」としての連帯と、お互いの抱えている胸のくすみが同じ色をしていたこと以外に、自分たちを繋いでいたものなど無かったくせに。そんな偽悪でさえ、今は悲しいほど麗しく思えるのだった。

 リリクは苛々と爪を噛み、立ち止まった。自分より小柄な友人の影が、長くなってきた影になって足を縫い止めた。

「やあ、リリック」

 呟いたカントに、ふいと顔を背ける。カントはそれを無視すると低く言った。

「僕、マージへ行くことにしたよ。騎士見習いになるんだ」

 リリクは僅かに遅れてそうかと言った。その話は以前聞いたことがあった。カントは迷っている風だった。それを散々向かないだの鈍くさいだのと罵った手前、リリクは何を言っていいのか分からず沈黙する。カントはそれを察したように微かに唇で笑った。

「いいんだよ、リリク。僕が決めたことだから。……僕はただ、君に願い事があったんだ」

 何だよ、と言いかけてリリクはカントの望みが何であるかを思い当たった。

 意識するより早く、顔が歪んだのが分かった。カントが何故こんな事を言いだしたのかが分からないわけではない。彼があの剣を振るうのを何度か目にしたが、普段の鈍重な仕種とは別人のように機敏で無駄のない身体の動きをする。それが紅剣によってもたらされているのだと、カントの口から聞いたことはないが、自明であるように思われた。理屈は分かる。餞別にしてやって彼の喜ぶ顔くらい見てもいいだろうというリリクの中の理知よりも、反射的な怒りの方が遙かに大きく、激しかった。

「あれはお前のじゃねぇよ。お前一人が持っていくなんて、絶対に俺は許さないからな!」

 カントがぴくりと頬を痙攣させた。リリクは絶対に駄目だと叫んだ。

「お前が持ってたって役に立たねぇよ!」

 吼えてからしまったと思うが、眼前に立つカントは恐ろしいほど冷淡だった。リリクが熱を持って激しく責めれば、彼も逆に意固地に冷えていく。カントの表情にあるのはそんな凍土であった。

「── 役に立たないのは君の方だろ」

 一瞬返す言葉が喉で消えた。リリクは怒りのあまりに自分が青ざめていくのが分かった。

「なん……だって……」

「だってそうだろ? 僕はあの剣の使い道を知ってる。僕はあの剣を使うことで生きていけるんだから。でも君は、剣を振るわれた人を救うのが役目だろ。君の方こそ持ち腐れじゃないか」

 リリクは返答に詰まって喘いだ。カントがじっとこちらを見ているのが分かる。だからリリクは渾身の力を視線に込めて、睨み返した。自分たちの間にあるのがもはや憎悪なのだと信じるのに十分だった。

 世の中の全てに代用品があるとしても、あの剣だけは替えがきかない。リリクはやっと自分の胸から聞こえてくる、高らかな歌に耳を傾ける。それは欲しい欲しいと歌っている、強く強く訴えてくる、奥底からの疼き……──駄目だ、とリリクは言った。カントが頬を歪めた。彼のそんな顔を、初めて見た。

「とにかく、駄目だ、カント。許さない。お前がもし勝手に持ち出したりしたら俺は、……剣のことを話すからな!」

 あとは、リリクは返答を聞かない。カントの脇をすり抜けて家へと駆け出した。





 ── 長い時間が滝のように流れ落ちていった後、リリクはようやく凍えたようになっていた唇を動かした。

「嘘、だ」

 リリクは首を振る。脳裏が真白く塗りつぶされて、やがて赤く鼓動を打ち始める。その音が次第に大きくなり、耳元で直接がなりたてる。

 嘘だ。嘘だ。そんなの、嘘だ。

 リリクは音を振り切るように激しく首を振り、均衡を崩してよろめいた。養母がまぁ、と大きな声を上げる。大丈夫と支える腕を思わず振り払い、リリクは身体ごと投げ出すように、椅子へ座った。頭を抱えて耳を塞いでも、まだ使者の言葉が耳に残っている。くっきりと全部が刻印されたように脳裏へ黒く染め抜かれている、あの言葉。いや、他の細かいことは消えてしまった。衝撃で、頭が割れそうに痛い。

(カント様をご存じないですか)

 夕飯も済んだ頃に訪ねてきた海洋騎士家の使いは開口一番にそんなことを言った。使者の外套は夜露にじっとりと湿っており、長い間外を探索したことを暗に提示している。

(まだ戻られていないのですが、街道から外れた辺りで悲鳴がしたという話があって……)

 瞬間リリクの脳裏に浮かんだのは、大気を赤く染める、血飛沫の残像だった。そんな物を見たことはないくせに、何故か心の深くに鮮やかな映像がある。人の根元が血と肉に連なるせいだろうか。赤い、と思った時に思考はすぐにあの紅蓮の剣に結びつき、── そして、友人の元へと流れ着く。

 相手が十分な悪であると明らかなとき、彼は一体躊躇うだろうか。正義を振りかざすことを? そんなはずはないとリリクは懸命に自分を落ち着かせようと深呼吸をした。彼は確かにあの剣に引きずられるように、急激に追い立てられていたが、だからといって、見知らぬ人に手をかけるような少年ではない。彼は確かに体を動かすことが人一倍苦手だったが、その代わり努力することの貴重さを知り、その結果幅広い知識や教養や善良な見識を身につけていた。

 その考えはいくらかリリクを落ち着かせた。そうだ、とリリクは自分に向かって必死で繰り返す。あいつはそんなことはしない。彼は限度と節度を知っているから……ほうっと息をつくと、同時にやっとその呪文がリリクの胃へ落ちたような気がした。

 使者には夕方彼と桟橋で別れたとリリクは答えた。それは事実ではあった。カントと別れて一人で家へ戻り、後は家の中にいたのは確かだ。手弦を失って帰る使者の姿が扉に消え、リリクは顔を手で覆いながら身を折り曲げた。

 カント。お前、どこにいった? まさか襲われたのか。いや、襲われたとするなら返り討ちにしただろう。人を手に掛けてしまったのか。剣を振るう喜びを覚えるように? それはとても恐ろしいことに思われた。震えが止まらない。尋常でないリリクの様子を怪訝にのぞき込む養父母に、ぎこちなく笑顔を向けてリリクは目を閉じる。

 ── お前じゃないよな、カント?

 多分、それは本人には一生聞けないだろう。

「大丈夫、ねぇ、リリック、顔色が悪いわ……」

 狼狽える養母の声にも首を振り、リリクはごめん、と呟いた。話せないことが多くなるとリリクは逆に饒舌になったが、この事件のことはなるべく避けて通りたかった。嫌でもカントの、あの時の、あの目つきを思い出すから。リリクの不用意で下手くそな強迫を見据えた暗い目つき。

「本当に、何でもないんだ……」

 懸命に自分に命じて微笑みを作ると、養母はやっと笑った。そうね、という声が暖かい。自分はこれを裏切ることは出来ないだろうとリリクは思い、それが出来たらどれだけ痛快だろうかとも思った。

「これからは、なるべく早く帰っておいで、リリク」

 養父の重い声が言った。リリクは頷いた。カントが消えたことは明日には修学所にも広まる。修学所事態が暫く休校になることもあり得た。

「なぁ、リリック。早く帰ってくるついでに、診療所の手伝いをしてみないか……勿論、無理にとは言わないが」

 養父の言葉にリリクは顔を上げた。養父は妻と同じく暖かに笑っていたが、言葉に籠もっているものは真剣だった。リリクは曖昧な吐息をつく。カントもまた、騎士団への入隊を勧められたと言っていた。自分たちはもう選ぶべき時間に差し掛かっているのだ。未来への道を。

「お前が医者になりたいかどうか、そこでちゃんと考えればいい。私たちはね、診療所の後継者が欲しかったのではなくて、子供が欲しかったのだから。子供が親の跡を継がないことなど、何処にでもある話だ」

 義父の言葉は優しい。リリクは不意に泣きたくなる。

「医者になるための勉強などは、興味があれば自然にどうにかなるものだ。診療所だって、人にやったっていい。お前の役目はリリック、私たちを看取ってくれることや可愛い孫や曾孫を与えてくれることだから」

 リリクは頷く。診療所の後継という役割を果たせなくても構わない、お前がいてくれればいいのだという言葉が彼をやわく、窮屈な場所へ押し込める。もっと喧々と勉強しろ跡を継げと言われる方がどれだけ楽だろう。反射的な反発で、怒りのままに全てを発散できるのだから。優しさに触れる度、自分がそれを返す資格がないような気がしてならない。慰撫され、十分すぎるほどの愛情でくるまれてなお、それを怒りに変えてしまう自分の中の何者かは一体どんな鬼なのか。

 苛立ちはいつからこんなに自分に近くなったのだろう。リリクは誰もがうっとりと眺める形の良い頬と唇を、思い切り醜く歪める。心の中にいつでも不満足な鬼がいて、それが衝動的で破壊的な何かを欲しがって吼えている。けれど、それが具体的な恐怖になったのがいつからかははっきりと分かった。……紅剣を自分たちのものにした、あの日から。

 カントの目が次第に暗く、そしてどこか浮かされているように熱を帯びていくのが怖い。……そして、あの剣に魅了されて取り込まれてしまいそうな彼を見ていると、そっくり自分が鏡に映っているような気がして怖い。リリクにはそれは二律背反である故に、出口のない恐怖であった。

 震えているリリクを気遣い、養父母は早く寝なさいと彼を寝室へ勧めた。リリクは素直に従うふりで上へ上がり、そっと窓から抜け出す。夜道を走りだすと、月だけが彼についてきた。





 カント。お前は選んでしまったのだろうか? 剣と共に生き、剣と共に屍の上を歩く道を? そんなのは、お前には向いていない。これが思い過ごしであるように願いながら、それでもリリクはカントが剣を持ち出して使ったのだという確信があった。それこそがカントの望みであったのだから。麗しい小説、遠い歴史の物語の中に彼が何を夢想していたのかは分かる。心逸り身の浮くような英雄譚 ――― 血の赤い華で飾られた。

 ぶるっとリリクは震えた。紅剣の存在を確かめなくては生けない。もしカントが剣を使ったのなら、剣はそこにはない。剣があればカントは受難したのだ。どちらであって欲しいのか、リリクには分からない。けれど、どちらでも自分を襲うのが激しい後悔だということは分かった。

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