2
リリクの家は診療所とは別の建物であるにも関わらず、いつでも薬草独特の臭いがした。黴たような饐えたような、慣れないと僅かに顔をしかめそうになる。それはカントが毎回示す反応であったから、リリクはにやにや笑いながらもすぐに三階の自室へカントを上げ、窓を開けてくれた。リリクは診療所の空気に慣れていて自宅は全然臭わないと口にするが、カントには多少辛いものだった。
外気が流れ込むと、それは潮の臭い。僅かに混じる泥臭さが逆に安堵を呼んで来る。
「これ、後でおばさんに渡しておいて貰えない? うちの義母から」
カントは鞄の中から預かってきた手紙をリリクに渡す。中身を見るようなおどけた仕草でリリクがそれを西日にかざし、またお茶会じゃねぇのと悪態をついた。そういうリリクの養母も今日はお茶会らしく、姿が見えない。
そうだろうね、とカントは苦笑気味に頷いた。カントの物心ついたときには既に父はおらず、母は船乗り相手の酒場で給仕をし、金で片のつく恋愛を繰り返していた。母がそうした恋人に海に沈められてカントは孤児となり、やがて「海の子供」として養子へ出るが、そこで目にしたのは陸地で暮らす上流社会人たちの暇なこととお茶会の多いことだ。それが悪いことだとは思わない。需要のあるところに供給が有る。彼等の散財浪費が海に住む者達に広い意味で還元されていることだってあるだろう。
けれどカントは鞄にしろ靴にしろ、駄目になってしまった本にしろ、気軽に与えられると気が重くなる。それにどれだけの価値があるのかを過大評価していた過去を抜けて辿りついた先は、浪費としか感じないものに惜しみなく金を遣う人々の世界だった。それが義母の楽しみであることは承知しているし、意外に気苦労の多い世界でもあるから、発散しなくてはならないことも分かる──が。
承服できない心はどの海に沈めたらいいのだろう。カントは僅かに吐息を落とす。気に入らないことなんかない、と繰り返して胸に呟きつづけている自覚はあった。リリクが手紙を自分の机に放り出し、待っていろと言って姿を消した。例の剣を見せてくれるつもりでいるのだろう。
養父はリリクの義父からの手紙に未だ返信を与えていないが、聖騎士の遺産というべき剣が何故、という疑問を口にしていた。困惑しているのは誰もが同じなのだ。領主様に差し上げるのがよいだろうなという声に浮いていた色濃い迷いを、カントも当然に思えた。養父は昨日から領海の警邏に出ている。十日前後は戻ってこないから、剣を預かるにしても断るにしても、この期間に見物させてもらうのが最良と呼べた。
リリクはすぐに戻ってきた。手にしている細長い包みが剣なのだろう。
聖騎士ダグト公の話をカントは聞いたことがあった。養父も海洋騎士であるし、自身そうした物語が好きだったのだ。足らぬ現実から逃れるように本の中へ、空想の中へ。代価行為であると薄く承知していたものの、英雄譚や冒険譚はカントの心を確実に酔わせてくれた。
敵に死を、神の前には敬虔な祈りを。奪った命の重さの分だけ彼を巻く空気も濃くなるようだという記述をカントは憧れと僅かな畏怖と……そしてごく微量の何かの異分子を以って眺めていた。
自分には出来ない、他人を手にかけることなど恐らく出来ない。技術的なことだけではなくて、精神的なものまで足らない。前を向くよりは足元を確かめたがる性質だということは、自分でも嫌というほど知っている。だから躊躇い無く道を突き進んでいく ── 例えばリリクのような無遠慮だとしても ── 者への感慨は尚更深いのだった。
彼の残した剣というだけで、カントには格別だった。触ってはいけないと言われている、例えば聖杯などに特別に触れてもいいよと言われたような。綴りの向こう側の、遥かに自由な物語達の結晶が自分の手の届く場所にあるというのが不思議でもあり、歓喜でもあった。リリクはカントの様子に僅かに笑った。彼の笑みは時折見惚れるほど甘い。本質は悪食の猫にしても、毛並みの美しさは一級なのだ。
「お前、剣もろくに触れねぇくせにこんなん見たいんだ?」
それはいつもの意地の悪い言葉であったが、カントは鈍く笑って見せるに留まった。他のことは滑り落ちていく水のようなもので、リリクの厭味にも鈍感になっていたのだ。
「いいじゃない、僕は興味があるんだよ。聖騎士公の剣に」
理解できないと言った表情でリリクは肩をすくめた。彼がいつも以上に勿体ぶっているのを察し、カントはリリック、と大きな声を出した。彼の義母が彼をそう呼んでいるせいで、彼はそう愛称されるのを好まない。案の定、リリクは秀麗な顔を思いきり歪めた。子供扱いのように感じるだろうし、照れくさいのもあるだろう。彼は好き放題に言葉を重ねてカントをからかうくせに、自分はそれが大嫌いなのだ。
「急かすなよ。ほら」
リリクが布に巻かれたままの剣を捧げ持つようにし、カントに手渡す。芝居がかったような仕草だと思った。リリクは自分が剣を目にしたい衝動を押さえているのを理解しているのだろう。彼は粗野を振舞っているが神経は細かい。乱暴な喋り方も雑な仕草も、自身の内側を晒してしまうことを恐れているからなのだと、カントはどことなく感じている。その苛立ちを些細な暴力に変えて魚苛めに熱中していられるなら、それはリリクにとっても幸福なことであるはずだとも。
手の中の剣は、思っていたよりも軽かった。木の刀身に銀を張っただけの偽物ではないのかという疑念がふと頭をかすめ、カントは殆ど夢中で布をほどく。羽化を終えた蝶のように鮮やかに、それは姿を見せた。
海へ沈む落日よりも深く、鮮やかな赤がまずは目に入った。朱金でもなければ深紅でもなく、両方の華やかさと陰翳を併せ持つ、退嬰的な美しさだ。細身の優美な刀身を包む鞘には翼を広げる鳥と咲き誇る蘭の花が彫られている。彫刻の陰翳が構図の深みを加えて躍動感と生命感が揺らぐように感じられ、カントは僅かに呼吸さえ忘れた。
魅入られるようでもあった。この剣に備わっている強い声が自分を抜けと手に入れろと直接脳裏へ囁いてくるようだ。肌に吹きつけるようにあたる、力ある魅惑に突き動かされるように、カントは滑り止めにしては精緻な紋様の入った柄に手を掛けた。
おい、と戸惑った声がしたのはその時だった。カントははっとする。自分が夢中で剣を抜こうとしていたのだと思い至ったのは、それから更に一瞬が過ぎてからのことだ。
「玩具じゃないんだぜ、カント。お前が扱うと怪我する、やめとけって」
リリクは何故か怯えたような顔をしていた。カントはそれを数瞬の間見遣って、ぎこちなく唇を緩めた。笑顔になったつもりであった。
「大丈夫、ちょっと抜くだけだから……かなり軽いしね。僕だって騎士の後継者なんだから、全然触ったことがないわけじゃないんだ」
好きではなかったけれど。
リリクは苦く笑った。彼はきっと剣を抜こうと思ったことはないのだろう。カントの生業がいずれ人を死地に立たせるべきものであるとするなら、彼の生業はその逆だ。その自制がリリクに剣を抜かせない。けれど、とカントは僅かに内心で呟く。リリクのその慎重さに苛立ちを覚えるのは何故だろう。いや、それはもしかしたらその名のものではないかもしれない。苛立ちではなく、……優越と言うのかも。カントが手にしようとしない魚を撃つための貝をリリクが無理やり握らせる時、彼の美しい顔立ちに見え隠れする軽侮なのだろうか。
リリク、とカントはくっきりした声を出した。
「大丈夫、僕は養父の剣だって触ったこともあるし、時々は手入れもするんだ。反射神経なんか要らないからね。刀身を見たくない? 鞘がこんなに凄いんだもの、きっと刀身も良いものだと思うよ」
リリクはふんと鼻を鳴らしてそれを受諾した。彼は年下であり、普段は小突き回しているカントが自分を軽く扱ったのが気に入らないに違いなかった。カントは再び柄に手を掛けた。ちらりとリリクを見れば、彼も呼吸を潜めてカントの手元を凝視している。重々しく頷いて見せ、カントはゆっくりと鞘から刀身を抜き出した。やはりそれは鞘と同じく見事であった。細身であることは鞘を目にした瞬間に理解することだったが、その印象を改めて強くする。やや反りかえった輪郭が鋭利だ。
……溜息は、ほぼ同時だった。表現する言葉を思いつかない時にも溜息が出ることを二人は悟った。カントは剣の反りが良く見えるように剣を垂直に持ち、片刃の剣の背を軽く手で支えた。殆ど重さは感じない。軽い、と言うよりは手の一部のように馴染む。紛れもなく名剣だとカントは目を細めた。姿形は幾らでも繕うことが出来るが、剣自身の持つ気配などは作り出せない。
刃止めの金具がしっかりかかっていることを指先で確かめると、カントはリリクから離れて立ち、軽く剣を振り下ろした。切っ先が軽く床につく直前、カントの意思を知っているようにぴたりと動作が止まった。それは滅多にないことであったが、カントは違和感に首をかしげながら握り締めた柄を見た。内側に水でも入っているのか、妙な異動感がある。水にしては重い動きだが、確かに自分の掌の先をぞろ動いた感覚がするのだ。
カントは黙ったまま剣を見つめる。良い剣であった。
沈黙の時間がどれだけだったのか、リリクは数えていなかった。ただ、連れ立って遊びまわっていた年下の友人と自分の間に、何か重く、得体の知れない影が落ちたことだけは理解した。二人は黙っていた。長いこと、黙りこくっていた。やがて漏れた吐息で、呪縛が解けたように身体が動いた。リリクがカントを見ると、彼も同じことをした。視線があって僅かな間を置き、二人とも、温い溜息のように笑った。
「……ちょっとこれ、変なんだ。柄に何か入ってる」
カントが苦笑で凍えたような表情を解しながら言った。リリクは促されるままに剣を受け取る。彼も剣に触れたことがないわけではない。カントのようにいやいやでもなく、リリクは武芸一般というものに親しんでいる。養家が医術の家だからカントの所のように、日常ではないにしろ、修学所では護身術の一環として剣や弓を教える。
カントがそっと壁際に寄ったのを確認して、リリクは軽くその剣を振ってみた。なるほどカントの言う通り、剣を振る度に柄の内側で何かが動く気配がする。カントは粘り気のある水のようなと言ったが、リリクにはもう少し違うものに感じられる。良い気配じゃないな、とリリクは眉をひそめた。気味が悪いというより、人の心に巣食う不安の薄暮を揺すられるような落ち着かなさだ。……けれど。
「お前ん家の義父さん、これ、どうすると思う……?」
カントの瞳が僅かに鈍く光ったような気がした。
「……どう、だろう……でも、これは義父のものではないし……」
言いかけた言葉は次第に消えていった。カントが考え込んでしまったのを見て、リリクは剣を鞘に収め、自分の寝台に腰掛けて窓から差し込む日に照らした。きらめく赤は夕日よりも更に心を掻き立てる何かを放っていた。惜しいな、と単純な思いが浮かんだ。
リリクの義父は剣を所有することに興味を持たない。骨董的な価値もあるだろうから、形見分けの品として飾っておくという選択も出来ただろうが、海洋騎士に相談するという結論は、その答えを導かない。義父はこの剣を手元に置く気はないのだ。
自分の前から消えてなくなる。瞬間的に沸いた苛立ちにリリクは自分で動揺した。自分の性質がどちらかというなら感情的で衝動的なことは分かっている。罪のない、小さなものを傷つけているのはそれが生贄だからだ。自分の中にある飼い馴らせないものに代用品の餌を与えて大人しくさせる為の。
剣を所有することが自分にとって良い結果になるという想像は全く浮かばなかった。強烈に惹きつけられるのと同じに、いけないという警鐘を聞く。この警告の声を聞くことが今までリリクがふらふらしながらも均衡を保持できた一番の理由だろう。あるいは誰の言葉よりも素直に従っているのかもしれなかった。
「惜しいよね」
ぽつんと呟かれた言葉に、だからリリクはぎくりとした。見透かされたような気がしたのだ。カントはじっとリリクのほうを見ていたが、視線は剣に吸いつけられてぴくりともしていなかった。
「義父さんは……多分、領主様に献上してしまうんじゃないかと、僕は思うんだ……」
そんな事をどうやら海洋騎士であるカントの義父は呟いたらしかった。そうかとリリクは頷いた。それは不自然なことでもなかった。領主でなければ聖教会への寄付でもいい。元々聖騎士の持ち物なのだから、最初からそうされても当然だったろう。
「仕方ねぇよ、この剣はもう誰の所有物でも……」
言いかけ、リリクは急激に上がってきた一つの考えに語尾を途切れさせた。頭の中で烈しく「いけない、いけない」と誰かが叫んでいる。
「そう、誰のものでも、ね……」
呻くような、低い声がした。それがカントのものだとリリクは一瞬気付かなかった。分からないほど声はかすれ、僅かに震えているようだった。カントの視線が自分の頬に当たっているのが分かった。彼も、目を合わせることを僅かに恐怖している。リリクは一瞬目を閉じ、そして鞘を握り締めて剣をつくづくに見た。残照が窓から流れ込む。
畏怖、感歎、そして ─── 心の中に、絡みついてくる何か。
欲しい。
(いけない)
欲しい……
(イケナイ……)
そんなことは分かっている、でも、……手に出来なくなるのは……堪えられない損失だから……!
リリクは鞘を掴む手に力を込めた。誰か、それが見えない強制力だとしても、誰であってもこの手から剣を取り上げるとしたら途方もない理不尽と感じるに違いなかった。ごくりという音が自分の喉で鳴った。それに弾かれたようにカントが顔を上げるのが、視界に映った。
リリクは今こそ、思い詰めたような顔をしている友人にまっすぐ視線をあてる。同じようにカントの瞳がリリクにあたった。その中に浮かんでいる餓えたように求める光。そしてその中に映りこむ、同じ表情をした自分自身。うわ言のように、カントが呟いた。
「持ち主はいない、んだ、よね……」
頷いた自分のうなじも、熱を出した時のように感覚がふわふわしている。リリクは現実味を取り戻そうともう一度頷き、いない、と繰り返した。
今度の沈黙は先程よりも遥かに長く、緊張を孕んでいた。二人はお互いを試しあう様に、長いこと動かなかった。目を先に逸らした方が負けだというような頑なさで、友人を殆ど睨んでいた。
不意に視界が暗くなった。太陽が雲に隠れたのだ。その瞬間に、二人はどちらからともなく頷きあった。
「秘密だ」
リリクは畳み掛けるように言った。カントはそれに誓いを立てるように片手を上げてリリクの言葉を増補した。
「二人だけの、ね」
夕方帰宅したリリクの義母は、子供達が妙に蒼褪めているのにすぐ気付いた。どうしたの、と聞くと二人は視線を交し合い、海洋騎士家の養子である少年が重たそうに口を動かした。
─── 剣が、なくなってしまったんです。
剣と聞き返したのは、彼女にとって一瞬記憶から取り戻せないものであったからだ。彼女の義理の息子が補足してくれなければ、思い出せなかったかもしれない。
─── 剣がすごく綺麗だったから、俺達、ちょっと部屋の中で振ってみて……でも部屋じゃ危ないから、海のほうへ行こうって話になって。
息子が俯き加減にそんなことをぽつぽつ語る。途中の桟橋に出ている屋台で喉が乾いたから果物を買い、受け取ろうと剣を屋台に立て掛けるように置いたという。果物を食べやすいように切ってもらい、行こうかと下を見るともうそこに剣の姿は無かった……
彼女は息子とその友人を見る。二人とも下を向いたきりであった。顔を上げられないのだろう。彼女はそう、と優しく頷いて見せた。剣の始末を夫が困惑していたのは確かだし、それの話を突然持ちこまれた方もそうだろう。夫に相談して探さなくてはならないが、無理をすることでもなかった。誰かの持ち物であるなら話は別だが、現在の所、それは夫であったような気がするほど、所有は曖昧であった。
いいのよ、と言ったのは少年達の負担を軽くしてやりたい心であった。「海の子供」と呼ばれている養子制度を通じて家にきた子供達だ。何かの失策失態が再び自分たちをあの泥の海へ追いやるのではないかと恐れているのだろう。
彼女は海の生活者の詳しいことなど何一つ知らなかったが、環境が良くないとは感じていた。彼女はその場所では生きていけぬであろう自分自身を良く知っており、そこへ戻すことが子供達にとってどれだけ辛いだろうかと思うと胸に痛みを覚えるほどに、無知ではあるが善良でもあった。
少年達に微笑みながら、心配しなくていいのよと彼女は言った。不注意だったけど、あなたたちだけのせいじゃありませんからね。息子の友人にも、宥めるように笑みを向け、帰宅を促した。彼の家にはこちらから知らせなくてはならないが、それは捜索を終えてからの報告をつける方が良い。安心しなさいねというと、彼は唇を僅かに上げた。
── ごめんなさい。
それでも出ていきかけた時に彼は振りかえってそう言った。
── 本当に、本当にごめんなさい……
声が今にも泣き出しそうだったから、彼女は殊更満面の笑みで頷いた。彼が日の落ちた街角に消えたのを確認してから扉を閉めると、似たような顔付きの息子が、喘ぐように呟いた。
── 本当に、ごめん、俺……
その声は、あの少年とそっくり同じに聞こえた。懺悔のようにも耳に響いた。