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 くそったれ、という言葉と共に落とされた溜息が終わらない内に、ぱちゃんと泥が跳ねた。一面泥のまったりした平面が続く中、カントの視線の先に白く蠢くものがある。夕暮れの残照に微かに鱗の線が浮かび、すぐに消えた。魚が反転したのだ。

 そうすると保護色となっている体色のまま、魚は泥に同化して消えた。泥海の中へ逃げ込んだのだろう。

 カントは苛々と唇を噛んでいる、隣の少年を見つめた。リリクは美しい頬を癇癪のままに歪めていた。南部臨海州の特徴となっている赤黒く焼けた肌でない、こんなに綺麗な肌は滅多にこの辺りでは見かけない。白い肌は黄昏時に照らされてやや赤く染まっている。普段薄い金色の髪も、こんなときは豪奢な黄金に変わった。

 金色の髪を丁寧に切り揃えて刺繍の入ったブラウスと揃いのベストを身に付け、深い葡萄色の外套を肩から羽織ったリリクは完全に自分の美しさを知り尽くしているようだとカントは思う。彼の白い肌に似合う色、整った容色に映える柄、そんなものたちに囲まれている彼の様子は本当に貴公子然としており、カントはいつも見惚れてしまうのだ。

 カントの視線をいつものように受け流してリリクはまた足もとの貝殻を拾い、素早くそれを泥の海に投げ込んだ。

 ぴしゃっという泥跳ねの音がして、先ほどと同じく白い魚鱗が現れる。

「うまいね、リリク」

 カントは呟く。リリクはふん、と鼻を鳴らして彼を小馬鹿にしたように笑い、あいつらは、と言った。

「呼吸しに泥の中から出てくるだろ。だから、あぶくが下から上がってくるんだ。大きなのが下からがばって開いたらそれがやつらの口さ。それに、俺が上手いんじゃなくてお前が下手なんだぜ、カント」

 言いながらリリクの手は再び貝殻を拾った。どうやら拾い上げたのには中身が入っていたようで、それを放り投げては新しい貝を探している。石ころよりも貝殻のほうが多い町では、死んで中に泥砂の詰まった貝殻が石の代わりだ。桟橋の上には運ぶ途中に積み荷から落ちた貝殻がたくさん落ちている。

 いくつか拾った貝殻をリリクはカントの手に握らせた。お前もやれよ、ということだ。カントはいくつかを彼を真似て泥の海に投げ込むが、魚に当たったものはなかった。

 馬鹿、下手、とリリクは散々悪態をつき、カントの額を指で強く弾いた。痛いよ、とカントは顔をしかめて見せるが、リリクはお構いなしだ。げらげら声を上げて笑ったかと思うと、また苛々した表情に戻って泥の魚を貝で打つことに熱中している。

 ばちん、という一際大きな音がして、魚が痙攣した。リリクが夢中になって苛めている魚たちは腹の側だけが白い。もがいている白く美しい魚鱗に赤いものがまみれ始めて、どうやら体を貝が切ったのだとカントにも分かった。

 リリクは急激に醒めた、白けた顔つきになった。舌打ちをして放り出してあったままの鞄を手に取り、カントのことなど忘れたように駆け出す。カントは慌てて自分の鞄をつかみ、その後を追った。リリクの足は速い。彼はすっきり伸びた手足が華奢な印象を与えるが、それに反して運動能力は高かった。風を追い越すような勢いで走っていくリリクの背を追うことを諦め、カントは足を緩めた。

 やや乱れた呼吸を整えながら、カントはこの町を囲む泥の海へ、その彼方の傾いた夕日へ目をやった。太陽の最後の強烈な光は全ての風景を焦茶色の影にしており、海に一時全てが同化した風でもあった。泥の海の上に一面、びっしり浮かんでいるのは小舟、水上生活者たちの家だ。縦横に走っている桟橋が差し詰め道代わりの、桟橋を中心にして広がる小舟の町。どれもこれも薄汚く小さな舟だが、それらが寄せ集まって群れているのは壮観とも言えた。

 カントは小さく溜息をつく。彼はこの舟の町の出身であった。8年前、8才の頃に母親が死に、海洋騎士ハイラン・エルグストのガクユーン家に養子に入った。海の子供ハイラグ・ラットと呼ばれる水上生活階級からの養子制度はこのクハイスの町特有のものだ。

 クハイスは南部沿海州と呼ばれる地域の中では北西に位置し、一面の泥を誇る干潟と、沖まで張り出した桟橋の路地に建つ家々が特徴の海商都市である。直接接岸できない不便はあるが、この近海は潮の流れの機嫌が難しい。また岩礁と浅瀬の多い地域であって、クハイスが広がる湾岸が殆ど唯一安全に積み荷のやり取りができる場所でもあった。何より、南部大陸の巨大都市マージと片道僅かに一日だ。

 陸と海の交通の要所であることがクハイスの泥海にびっしりと桟橋を渡し、海上都市とでも呼ぶべき景観を作り上げている。「陸」には富豪と支配階級の屋敷、海上の「町」には労働者と市民、そして文字通りに海の上の小舟に住む水上生活者のほぼ3種類に階層は分けられた。人口の殆どは海商に従事し、何らかの形でその恩恵を受けている。故に海上生活者の子供たちのうちで身寄りのない子供は「町」の孤児院へ収容されて将来の労働層として教育されたし、その中から更に運の向く子供は「陸」の人々の養子になる道があった。それが「海の子供」である。

 相互扶助の精神は海洋産業従事者の間に時折見られるが、その際たる形とも言えよう。犯罪歴がないこと、他に身寄りがないことなどいくつかの条件はあるが、そうやって養子にいく子供は珍しくはない。カントも、そしてリリクも「海の子供」であった。

 陸から眺める桟橋の群れと小舟の森は追憶をいつも呼び覚ました。辛い記憶のほうが多いくせに、離れてみると不思議と懐かしい場所のような気もした。魚の臭いも泥の臭いも、その腐ったような饐えた臭いもしない陸の屋敷の中にいると、時折無性に泥に飛び込んで、何かを叫び出したくなる。無意味なことだと分かっている、とカントは海を眺めながら思った。

 海からあがる魚があるから飢えていたわけではないが、あの泥の魚ばかりでは辟易した。沖の桟橋まで行って綺麗な海水を汲み、丁寧に洗っても中々泥臭さが抜けず、美味い魚でもなかった。

 けれどあの泥の中の魚が安楽に泥から出てきて干潟でまどろんでいるのを見ると、心の底から意味のない怒りが上がってくる。

 それでもカントは生来感性が鈍い、良い言い方をするならおっとりしたところがあったから、先ほどのように苛立ちのままに傷を付けたなら心が痛む。

 だが、リリクは違った。彼の苛立ちも自分のそれと同じ種類のものであるとカントは嗅ぎ付けているが、リリクは美しい猫が悪食であるがごとくに怒りを暴力に変えることを躊躇しなかった。それがあの泥の魚であることは救いだ。───彼とて、その先があってはならないことを承知している。

 カントは溜息をつきながら家路をゆったりとたどる。桟橋というには大きな橋は、この通りが直接陸へ通じていることを意味している。実際、路地へ入らなければ海上であることをそれほどは感じないのだ。比較的浅い泥海の底にしっかりした土台を静めてあるから、陸の家と構造的に変わったところは余り無い。強いて言えば、高い階層をもつ建物は重いというよりは立錘の均衡が悪いという点で嫌われて、殆ど見かけないことだけだろうか。ぼんやりそんなことを考えながら近道の桟橋へ乗り換え、カントは声を上げた。横から突き出てきた腕が、彼の裾をつかんだのだった。

「……なんだ、リリクか。帰ったのかと思った」

 驚いて声を上げた腹いせにそんなことをいうと、嫌味の加減を分かったのか、リリクは秀麗な顔を歪めて笑った。

「うすのろ。お前みたいなのが海洋騎士じゃあクハイスも終わりだな。没落の放つ残照の如くに輝けり、か? 俺の趣味じゃねぇ」

「君みたいな医者も滅多にいないと思うよ」

 溜息と共にカントは言った。カントは海洋騎士ではなく、リリクも医者でない。二人ともまだその見習いの見習い程度のものだが、将来はそうなるのに決まっていた。お互いの養家がその筋なのだ。けなしあって二人は同時に溜息になった。この話は面白くはない類いに入った。

 帰ろうよ、とカントはリリクを促した。既に日は落ちかけている。二人の通う修学院では日が落ちた後の補講は絶対にしない。それに、リリクはともかくカントは成績は良かった。

 お互いに縁組み先が逆だったら良かったのだとカントは思う。リリクの成績と来たらひどいという言葉が優しいほどだし、カントは運動は苦手だ。海洋騎士というのは海上全般にかかわる警護役とも言える職で、運動どころかおおよその武芸一般を身に付けた上で操柁と潮と星の読みを要求される。最後の部分は知識に関わることだからカントは比較的自信があるが、何しろ武芸という言葉を聞くだけで憂鬱になる。

 リリクはこれの反対で、運動は何をさせてもずば抜けており、特に弓が上手くて目が良かった。が、どうにも腰を落ち着けて考えることが苦手だ。自分とリリクの特性が入れ代わっていたならこの気鬱さは少しは晴れるだろうか、とカントは考えながら、先を行く友人の影を追う。

 リリクは彼を待つ間に拾っていたらしい貝殻をまとめて泥海に捨てながら、やけばちに靴の踵を鳴らして歩いている。その様子は先ほどの印象と余り変わらない。リリクは一時の不機嫌や癇癪でカントから離れても、必ずカントの元へ戻ってきた。

 おそらく、リリクの中にある苛立ちと同じ種類のものを自分が飼っているのを彼は分かっているからだとカントは思っている。それを口にしないまでも、空気として発散してもいい相手だと、リリクはカントを見切っているのだ。……そういう相手だとたかを括られているのは面白くはない。

 カントが溜息をついたとき、それが契機であったようにリリクが振り返った。その動作の素早さに気圧されてカントは怯んだ。リリクは手を伸ばしてカントの鞄を奪い取った。

「ほら、もう陸に灯りが入るぜ! 急げよ、カント!」

 そんなことを叫んでリリクはぱっと駆け出した。待てよと叫んでカントは再び彼を追う。リリクが振り回している鞄には養父母から買ってもらった大切な本やノートが入っているのだ。

「返せよ、リリック!」

 声を上げながらカントは年上の友人を追った。全く、いつもこんなことばかりだ。彼は苛立ったとき、自分をひどくからかって発散する。カントは唇をゆがめる。桟橋の終わりにようやく彼に追いつくことができた。軽く呼吸が途切れている自分に比べてリリクは微かに頬を紅潮させているだけだった。彼は造作は物語の中の貴公子然とした美形だったから、その仄かな赤みさえ美しかった。きれいに整った彫像のような顔立ちだ。けれど、その容貌がかえって苛立ちを高めるときもあるのだった。

「返せよ、リリク」

 カントは呼吸を宥めながら手を突き出す。リリクは唇の端で薄くにやつきながら、どうしようかなと鞄を振り回した。返せったら、と更に声を上げながらカントはリリクの手から鞄を奪い返そうと彼の周囲をぐるぐる回った。リリクは満面の、意地の悪い笑みになりながら手をかざし、踊るような足付きでカントの襲撃を軽くいなす。

 不意に、あ、とリリクが声をあげた。カントも一瞬置いて似たような声を上げた。多少ゆるくなっていた鞄の取っ手が外れ、本体のほうが泥海に落下したのだ。重い音を立てて鞄が海に落ちる。泥の比重の関係でしばらくは浮いているが、いずれ沈んでいくだろう。

「あ、悪い……」

 一瞬の茫然が二人の間を過ぎた頃、リリクが呟いた。カントはその言葉で我に返った。あの鞄の中の本もノートも、養父母に買ってもらった大切なものだ。何か考えるより先に、体が動いていた。カントは自分の外套を脱ぎ捨てると、泥の海へ飛び込んだ。この辺りはそれほど深くはない。リリクが自分を呼んでいたが、それには構わずに鞄へ向かって泥をかき分けて進む。鞄をつかんで同じように戻ってくると、桟橋の上からリリクが手を差し伸べて鞄、と怒鳴った。カントは先に鞄を渡し、桟橋の横に着いた梯子で上へあがった。

 体は泥だらけだった。リリクがすまなそうに顔をしかめ、再び悪い、と言った。

「俺、お前の家まで行って説明とかしようか」

「いいよ。父さんも母さんも、僕のやることあんまり言わないんだ。鞄の取っ手、古くなってたのは確かだったし……」

 おそらくその通りになるだろう。カントの養父である初老の海洋騎士は穏やかな人柄だったし、その妻であり養母である女は子に恵まれなかった現実の辻褄を、カントで合わせようとしている。

 それから、気の重い、だるい沈黙になった。カントは振り返って泥海と、その彼方に最後の光を投げる太陽を見た。気鬱な溜息が二人から同時に漏れた。






 ただいま、と呟きながら家に入ると、養母が奥からぱっと飛んできた。相変わらずリリクのことをいつでも視界に置きたいのだ。

「お帰り、リリック。ねぇ、今日はねぇ……」

 洪水のように始まる語り口を適当に頷いて聞き流し、リリクは部屋へあがった。家のすぐ裏手には養父の開いている診療所がある。建物が別のせいかあまりこの家は薬臭くない。それがリリクには妙な安堵感になる。いずれ自分は養父の後を次いであの診療所の主にならなくてはいけない。いけない、と呟くと更に心が重たくなるのを自覚した。カントは時折自分とカントの立場が入れ代わっていれば良かったのだと呟くが、それは的確であった。自分は運動は何でも好きだが、成績など考えたくもない。

 自分は向かない。医者になる適性がないのだ。それは成績のこととは関連なく、診療所にいる患者たちが養父に頼むような縋るような視線を向けるのを見る度に、自覚される。……あの、他人からの縋るような目、悲しげな信頼を見る度に、どこか、追い詰められるようないたたまれなさが襲ってきて、叫び出したくなる。

 長い溜息をリリクはついた。カントは似た境遇の「海の子供」であった。彼と最初に出会った頃、同じ「海の子供」が修学所にも何人かいたのだが、お互いに引き合うように共にいるのはカント一人だ。

 理知的な瞳と静かな物言いがすっかりあの子供を大人びさせ、上流というものへ馴染ませているが、その目の奥に自分と同じ不満、微かな苛立ちを感じている。自分たちは似ているのだ。何かに鬱屈し、脅え、吠え出さぬように自分を抑えているのが。

 けれど今日は悪いことをしてしまった。あんなつもりではなかったのだ。さほどカントが怒っていなかったのが幸いでもあるが、とにかく明日、また謝っておこうとリリクは頷く。

 ……カントを溜まってきた苛立ちの捌け口にしているのは、悪いことだ。それは自分でも分かっている。けれどこうして何かをしてしまう度に彼の機嫌を必要以上に上げておこうとも思う。悪態をつき、散々からかっていてもカントと離れない。もしかしたら、より相手に依存しているのはリリクのほうかもしれなかった。……面白い考えではなかった。

 夕食の支度ができたという声に合わせてリリクは階下へ降りた。養父も既に診療を終えて帰宅しており、養母の手料理を口にはこびながら、しばらくは雑談が続く。最近は学校はどうだと聞かれてリリクは口の中でぶつぶつ言った。養父母は一斉に朗らかに笑った。

「まぁまぁ、無理をすることはないのよ、リリック。もし何か他にやりたいことがあるんだったら、お医者なんかよりもずっと素敵よ」

 養母の言い方は、リリクを傷つけまいとする優しさに彩られて心地はいい。リリクは曖昧に笑う。養父がそうだな、と優しい声を出した。

「まぁ、医者というのも世の中には儲けることが簡単だという奴もいるが、気苦労の割には報われないからな。お前が嫌ならそれでかまわんよ」

「あ、……俺、別に、医者が嫌じゃないから」

 リリクはいつもと同じ嘘をつく。養父母はリリクに優しい。医者の後継が欲しくて養子にしたはずのリリクがどうにもならない成績でも責めることがない。お前にやりたいことがあればいいんだよと言ってくれる。

 ─── 違う!

 リリクは叫びだしたい気持ちになる。

 違う、違う、俺は医者になりたくなんかない、人の命を扱うなんて、出来ないんだ!

 何よりも怖いのは、その生命を賭けた信頼を患者が寄せてくることで、最期を見取った遺族が養父に向かってありがとうと頭を下げることだ。その痛々しい沈黙を、自分は甘受できそうにない。だがリリクの言葉に養父母は表情を緩めた。口では何といっても、リリクが裏手の診療所を継いでくれると思うのが彼らの楽しみなのだから。リリクは心の中で溜息ばかりをつく。こんなときに、明らかに環境の良くなかった海上での生活を思い返しているのは不遜だろうか。

 風はいつでも泥臭く、魚も同じ臭いがした。運搬車からこぼれた貝を拾い、魚を捕り、どうにかこうにか食いつないでいた日々。酔うとからんで殴る父親、泣き叫ぶだけの母親、あの二人が馬車に轢かれて世を去ったとき、自分の胸によぎったのは安堵だった。明らかにリリクはほっとしたのだ。

 だが、今ならあの二人はいない。海の上に小舟を浮かべて生活することがどれだけ気楽で気儘なことなのか、良く知っている。そのうちに好きな女でも出来たら船を引き払って都市で仕事を探したっていい。そんな、夢想というものをいじり回しているのは何故。現実に不満などない。生活に不服などない。ありはしない。何もかも恵まれて、養父母も診療所で働く看護士や看護婦たちも自分に優しい。めこぼしをくれないのは教師くらいだ。だがその教師たちも自分の整った顔で微笑みを向ければ、その矛先がゆるむ。

 ───こんな顔。

 リリクは自分で利用している狡さも承知の上で、それもまた、鬱の種であることを知っている。カントだって、時々は自分の横顔を眺めては感嘆の吐息をついているのだから。

 再びカントのことへ思考が戻ってリリクは微かに溜息になる。明日、きちんと謝罪した方がいいだろうが別れ際の重苦しい空気はどうにもならない。カントは寝れば忘れるリリクと違って、慎重でじっくり腰を据えるほうだ。悪くいえば、しつこい。それを思うと気が重かった。

 夕食が終わると養父母の話に適当に混じって時間を潰し、それから部屋に上がるのがいつもの習慣だった。カントのところも似たような事情らしいが、この家も後継者がいなくてリリクを養子に入れた上、二人とも子供が好きだ。俺は子供じゃないと思うのも片隅で、自分を引き取って育ててもらっていることには感謝を素直に感じるから、リリクは大概をつまらないと思いながらもつき合っている。

 この日、養父が話を始めたのはつい先日亡くなった大陸の聖騎士の話であった。

 ───ある聖騎士が戦死した。聖騎士とは聖職を勤めながら神聖王国の騎士として国を守る者たちのことである。随分と以前、養父はこの男に施したことがあったらしい。怪我をしていたのを助けてやったのだ。巡礼に出る聖職者に施しをするのは市民の義務だと養父は苦笑するが、男は聖騎士の称号を与えられた後でも養父への恩を忘れなかった。時折は手紙を寄越していたし、何度かクハイスにも顔を出していたのを覚えている。騎士としての力量の頂点を緩やかに下りつつある年齢だったが穏やかで、自分を律し終えた大人だけがもつ風格があった。

 だが彼は一度戦場に立つと人が変わったように勇猛勝つ果敢であり、敵に対して容赦がなかった。剣の腕も素晴らしかった。戦功の話を彼は殆どしなかったが、腰につられた見事な紅剣のことだけは、リリクも覚えている。

 戦死といわれてリリクは軽い感慨を覚えた。元より悲しみを覚えるほどの接触があったわけでもない。ただ知り合いが消えた、その消滅の実感が湧かない。ふうん、と半ば義務に近い感触に相槌を打つと、養父は苦笑してリリクの膝を軽く叩いた。

「それで、お前に頼みがあるんだよ」

 リリクは顔を上げる。聖騎士の話しは言われれば思い出す程度のことでしかなかったからだ。きょとんとした顔をしたのを養父母が暖かに笑った。リリクは照れ笑いになりながら頭を掻いた。

「お前の友達に、ガクユーン殿の子息がいただろう。明日、修学所へ行ったら手紙を渡して欲しいのだ」

「いいけど……どうしたの、義父さん?」

 手紙を受取ながらリリクは首をかしげる。養父はあいまいに頷いて長細い包みを居間の奥から持ち出し、リリクに渡した。リリクは開けてもいいかを目で問うた。養父が頷く。固く縛られた口を緩めて一振りすると、リリクは思わず目を見開いた。

 何かが吹きつけてくるような熱気が一瞬頬を撫でた気がして、リリクははっとする。これは、見たことがある。あの騎士の腰にあった……養父を見ると、初老に差しかかった医師はリリクに目を細めて頷いた。リリクは喘ぐような吐息を漏らしてそれに見入った。

 ───それは一振りの剣であった。落日を固め、抜き出したように赤い。鞘に彫り込まれた精緻な紋様は羽ばたく鳥に、咲き誇る蘭の花だ。どちらも遠い昔に滅びた漢氏という民族の様式をもっている。目を奪うほど美しく、気高い香気を放つ剣であった。何かが吹きつけてくるとリリクが思ったようにその波動、剣の持つ得体の知れない圧迫感が迫ってくる。胸に、強く、強く強く。

 恐怖にかられてリリクは視線を放した。怖い。この剣は、何かいやな気配がする。見つめていると心の奥底にしまいこんだ何かを引きずり出されそうだ……呻いた声は、どこか歓喜に似ている。

「いい剣だな、素人目にもわかる」

 養父が呟いた。リリクは茫然からまだ完全に回復していない思考を動かして頷いた。この剣を何故持っているのだろうとやっと思い至って養父を見ると、養父は苦笑した。

「彼の遺族から形見ということで、私のところへ。何故これをうちへ送って来たのか、全く理解に苦しむが……」

 そうだろうとリリクは思う。

 この剣の息苦しくなるほどの完璧さは、敢えて手放す選択をさせるものではなかった。遺言でもあれば別だろうが、こんな剣を医者のところへ送ると指定するのはおかしな話でもある。聖騎士仲間か神聖教会への寄付か、その辺りが妥当でないか。

「まぁ、私ではどうにもならないからな。ガクユーン殿に見ていただいて、寄付をするなりご領主様に差し上げるなりするさ」

 クハイスの名士の社交やお互いの養子が仲が良いこともあって、比較的養父はカントの家と行き来がある。が、ガクユーン家と言ったらこのクハイスでも屈指の名騎士家、正面からまともに郵便にしたり謁見を願ったりするとこの話、いつ出来るかも分からないのだ。裏口からではあるが、この方が手っ取り早く、確実でもある。リリクは頷き、手紙を懐に入れた。カントに話しかける切っ掛けになってくれるのも実際、ありがたいものであった。

 翌日あったカントはそれほど不機嫌そうではなかった。鞄は新しいものへ替わっている。手紙を渡して昨日はごめんと言うと、カントは薄く笑って肩をすくめた。リリクのようにころころ感情で変わらない目の色を淡々とさせながら、逆に褒められたよ、と苦笑している。

「教科書とかノートとか、大切にしてくれて、だってさ……服は洗えばいいからって」

 そうか、とリリクは簡単に答えた。服もノートも本も、安いものではないのだ。それをいいと言える家に今二人ともがいることが、幸運なのは間違いない。……船の生活者だったらどれか一つでも欠損したら嫌というほど殴られるし、相手の家にどなり込むこともあるかもしれない。

 手紙なんて珍しいねとカントが言ったから、リリクは昨日の失敗の分を埋めるように言葉を並べ立てて剣の話をする。聖騎士ダグト公だね、とカントは頷いた。

「知ってんのか」

 やや鼻白んでリリクは言った。まぁ、とカントは頷いた。

「有名な話さ。神の聖句を口にしながら悪魔の如く敵を屠る騎士、その前に如何に敵があれどその後ろには人がない。そう言われるくらい、凄まじかったって……どんな気分だろうね、人を殺すなんてさ」

 カントの声はいつものように穏やかで静かだったから、最後の言葉も聞き逃すところであった。リリクはおい、と軽い声を出した。脅えたのかも知れなかった。

「そんな怖いこと言うなよ。お前、時々すげえ目付きになるな」

「───僕もそうだけど、リリクだってものすごく苛々しているときがあるよ。僕はただ……そんなことにつき合いたくないだけさ」

「同感」

 リリクは冷めた声で言った。カントは肩をすくめて剣を見たいなと言った。リリクは頷いた。今度遊びにこいよと言うと、カントは今度は嬉しそうな顔をした。もうすっかり機嫌を直しているようだった。

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