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ZERO HOUR【2008年 初期Ver.】2/2



<9.つないだ手が離れるとき>

 晴れ渡った秋の空だった。フィノは孤児院の裏手にある広場で色鮮やかな花々を摘んでいた。

 赤い花、白い花、黄の花。もうそろそろ冬がやって来るから、これらの花々の姿もしだいに見えなくなる。そうなる前に摘んでおきたかった。見せてあげたい人がいるから。

 せっせと摘んでいると、決して小さくはない花々はすぐにフィノの片腕でかるく抱きかかえるほどになった。座り込んでいた足を伸ばし、軽く背伸びをする。もうすぐ夕暮れだ。ラザリスの元へ行かねばならない。

 ラザリスのもとに通い始めて半年以上の月日が流れた。最初は緊張ばかりで身がもたないと思ったこともあったが、楽しいことも嬉しいことも驚いたこともたくさんあった。

 ラザリスはフィノとザザのことをとても気に入ってくれて、庶民のフィノでは滅多にお目にかかれない貴重な芸術作品を見せてくれたり、見たこともなかったお菓子や食物を食べさせてくれたりもした。何もお返しができないことにフィノは恐縮しきっていたが、そうするとラザリスはきまって「お前が笑っている顔が見れればいい」とフィノの心を軽くしてくれた。

 優しい人。もう何度、そう思ったかわからない。温かい人。もう何度、そう感じたかわからない。

 だからフィノはラザリスに花を贈ろうと思った。皇城にもたくさん花は咲いているが、庭師に芸術的に整えられたそれとはまた違った、自由気ままな外街育ちの花たちも生き生きしていてフィノは大好きだったから。ちょっと花瓶にさして、どこでも構わないから飾ってもらえればと。

「いいにおい……」

 フィノは花の香りを肺いっぱいに吸い込んだ。端正込めて作られた皇城の花々とはまた違った香り。上品ではないかもしれないけれど、質素でありのままの瑞々しい香りがする。

「フィノー! そんなとこで何してんだー?」

 振り返ると、親友のイリが手を振っていた。何人かの仲間を引き連れてこちらに走ってきている。

「お花、陛下に差し上げようと思って」

「ああ、そうか! じゃ、俺たちも摘んでやるよ!」

「この前、めずらしいお菓子もらったしな」

「絵本も貸してもらったよ」

「僕も摘んであげる~!」

 そうして、孤児院の子どもらはわいわいと騒ぎながら楽しく花々を摘んだ。あまり摘み過ぎないように注意しながら、最終的にフィノの両腕いっぱいになるぐらいの花束になる。イリたちに途中まで送ってもらい、フィノはザザを肩に乗せて皇城を目指して歩き出した。

 イリたちには言わなかったが、実はこの花はフィノにとってお祝いの意味もあった。ラザリスとキュアルの婚約祝いだ。

 自分の恋心を自覚し、そして同時に諦めることを決心したあの日から一週間。毎夜泣いては、フィノは孤児院の屋根裏部屋から皇城を見つめた。ラザリスのことを考えては胸を痛め、キュアルがうらやましくて何度も目元を拭った。未練たらしく、せめて気持ちを伝えることだけでもと何度も考えたが、臆病者の自分は結局、大好きな人を見守るという建前で逃げた。

 気持ちは伝えたいけれど、叶わないことがわかっている恋。その叶わない恋に告白という音を乗せても虚しいだけだ。そもそもあまりにも身分の違う恋だった。自分は単なる庶民で、想い人はこの国の頂点に立つ者。加えてフィノはキュアルのあの眩しい美貌を目のあたりにしている。もはや愚かとしか言いようがない。

 胸を痛めつつ、それでもこの一週間フィノはラザリスのもとへ通った。彼の顔を見るのはつらかったが、やはりそれ以上に愛しいと思った。少しでもそばにいられることに幸せを感じた。

 けれど最近、フィノは考えることがある。自分はいつラザリスから、「もう来なくていい」と言われるだろうかと。

 ラザリスと会って話をするあの時間に、『いつまで』という期限は決められていない。だから極端な話、明日突然「もう来なくていい」と言われる可能性だってあるのだ。フィノは唯一それだけが怖かった。自分はいつ、ラザリスに必要とされなくなるんだろう?

 もし期限が決められていたならば、減っていく一日一日、一分一分を大事に噛みしめることができる。しかし期限がないことで、ラザリスとの一日一分を大事に噛みしめるどころか恐怖が心を占めている。笑顔でやりとりはしているけれど、心臓は始終嫌な音を立てているし、二人の間にふいに沈黙が訪れたときなど、その恐怖は頂点に達した。だから最近のフィノは絶えず喋り続けていた。どうでもいいことを、ただひたすらに。

 一方で冷静な自分もいた。いっそ自分から、今後の拝謁を辞するおゆるしをいただく――もう来ないようにしますと、願い出ればいいじゃないかと。

 客観的に考えて、今後ラザリスの私生活の隙間にフィノが入れる時間は減っていく。なぜなら彼は結婚し、家庭を持つのだから。ということは、必然的に彼のもっとも近くに存在するのは彼の妻――つまりキュアルになる。いずれは子どもも授かるだろう。そうなれば彼の新しい関心が子どもに向いてもなんらおかしくはない。赤ん坊がどんなふうに腹の中で育つのか、キュアルの腹に耳をくっつけて観察することもあるのかもしれない。普通の男でも妻にせがんで胎動を聞きたがるらしいし、情緒の広がりを見せている今のラザリスならありえない話ではない。

 仲睦まじいラザリスとキュアルの姿。何にも関心が向かなかったラザリスが赤ん坊に夢中になっているさまは、なんと素晴らしいことだろう。想像するだけでフィノの胸はせつなく痛むけれど、それは本当に素敵なことだった。

 フィノは決めた。ラザリスとキュアルの婚約が正式に発表されたら、彼から離れようと。お許しをもらおうと。ラザリスにとっても、きっとそれは悪い話ではない。むしろフィノが水を向けた方が話が早くて彼も助かるだろう。

 形が崩れそうになった花束をフィノは抱えなおした。それから深く息を吸い込み、ゆっくりと吐く。肩に乗ったザザが労わるように頬をすり寄せてきた。フィノの今の気持ちを読み取ったのかもしれない。

「大丈夫だよ。痛いけど、好きな人には幸せになってもらいたいもんね」

 ささやくようにフィノは言った。涙がこぼれそうになったから空を見上げた。

 フィノは笑った。あの日、そう、決めたから。



 やがて皇城に到着し、顔馴染みの門番といつものように少しだけ会話をしてから通してもらう。

(この人たちにも、最後の日にはお礼を言いたい)

 思い返すとなんだか不思議だった。まるでついこの間のことのように思える。楽しい時間が過ぎていくことの、なんと早いことだろう。

 城の中に入ると、間もなくソイルが笑顔で出迎えてくれた。彼はフィノが抱えている花を見て、「綺麗ですね」と心からの賛辞を送ってくれた。フィノも心穏やかに微笑み返した。

 彼に初めて案内してもらったときのことを、ふと思い出す。緊張しっぱなしだった自分にソイルはずっと微笑みかけてくれた。「秘書官様」と呼んだ自分に「’様’は、いりませんよ」と言って、そして今までこうしてラザリスの部屋まで案内しつづけてくれた。道順はとっくに覚えていたけれど、ラザリスの私室まで歩くこの時間はソイルとの信頼関係を築く時間でもあった。

 美味しいお茶を淹れてくれて、美味しいお菓子を運んできてくれて。冗談を交えながら楽しげに話す彼がフィノは好きだった。本当の兄のように感じられたこともあった。

(いつかダーナ孤児院に遊びに来てくださいね。家庭料理やおやつを振る舞いますから)

 フィノは心のなかでつぶやいた。



 ラザリスの私室をノックし、「失礼します」と告げてからソイルがドアノブを回した。しかし予想外に室内には誰もいなかった。

「あれ……?」

「実は陛下はまだ用事が片付いていらっしゃらないんですよ。フィノさんを先にお部屋にお通ししておくようにとのことでしたので」

「そうなんですか。用事……ということは、お仕事ではないんですね」

「ええ」

 そう言うと、ソイルはフィノが抱えていた花束をそっと受け取り、ドアの外に控えていた召使いに活けてくるよう命じる。

 そのやりとりを見ていたフィノは少し驚いた。ソイルのその姿には他者に命じ慣れた淡々さがあって、彼もまたもともとは上流階級の人間であったことを思い出させた。そして同時に、これまでいかに自分が優しく接してもらっていたかがよくわかる。

(僕、ものすごく恵まれてたんだな……)

 だったらなおさら、毎日嘆いているわけにはいかない。今あるもの、得られているものに感謝しなければと思う。

 少ししてお茶が運ばれてきた。花はまだ少し時間がかかるようだ。

「さ、どうぞ。最近冷えてきましたからね。お茶を飲んで温かくしましょう」

「ありがとうございます。いただきます」

「今回お茶の葉を変えてみたんですよ。いかがです?」

 薦められて一口飲んでみると、ふんわりとさわやかで甘い風味が鼻腔を抜けた。

「甘いです。でも甘ったるいわけじゃなくて、すごく飲みやすい。ほっとします」

「それは良かった。このお茶の葉は外街のとある農家から仕入れたんですよ。昔ながらの製法らしくて、その農家にしか出せない味なんです」

「そんなすごいもの、めずしいんじゃないですか?」

 驚きながらフィノがカップの中を見つめると、ソイルは上機嫌で笑った。

「実は我が家のお気に入りの葉なんです。秋の終わりにしか収穫できない葉なので、今しか味わえないんですよ。ぜひフィノさんにも召し上がってほしかったんです」

 にこにこしている彼にフィノは驚き、けれど満面の笑顔を返す。

「なんだかすみません……! でも、嬉しいです。とっても!」

 そうしてしばらくソイルと雑談を楽しんでいると、ドアの向こうから足早で鋭い靴音が響いてきた。

「あ」

 ザザとフィノが同時に顔を上げ、ドアを見つめる。すると横に立っていたソイルが「耳がいいですね~、君たちは」と笑った。そしてドアに向かい、優雅にノブをつかんでお辞儀で出迎える。

「フィノ、待たせたか」

 凛としたラザリスの声が響き、金色の瞳がまっすぐにフィノをとらえる。

 膝下まである漆黒の軍服が、彼が歩を進めるたびに靡く。左胸でその存在を強調しているのは、金の刺繍糸で象られたゼッカー帝国の紋章だ。右腕にはゼッカー一族の家紋が、相対するように銀糸で象られている。腰は幅のあるベルトで締められ、すらりと長い足は丈夫そうな黒のブーツに包まれている。

 フィノは密かに感嘆の溜息をついた。何度見ても、目を奪われてしまう美男だ。出会った頃は瞳の鋭さが恐ろしくて目も合わせられなかったけれど、その瞳の奥に優しい色が覗くことを知ってからはただただ綺麗だと釘付けになった。

「お疲れさまです、陛下」

 椅子から立ち上がり、フィノが微笑んでお辞儀をすると、近づいてきたラザリスはひとつ頷いてからフィノの小さな頭を撫でた。いつから始まったか覚えていないが、ラザリスは挨拶代わりによくこうしてフィノの頭を撫でるようになった。大きくて優しい手。それが今日は滑るように頬まで下りていく。

「寒いか? 頬が少し冷たい」

「いえ、さっきソイルさんから温かいお茶をいただいたので大丈夫です。優しい甘さで、とてもおいしかったんですよ」

 ラザリスがちらりとテーブルのカップに視線を移す。

「ああ、ラプシィか。俺も昼に飲んだ。たしかにうまかった」

 視線をソイルに向けると、彼は微笑んで会釈した。ラザリスは、おいしいという何気ない感想ですら当たり前のように言えるようになったのだ。

「フィノ、今日はどうする。外は少し冷えるかもしれぬ。部屋で本でも読むか」

 ラザリスはそう提案しながらフィノの肩を抱いて窓に近寄った。たしかに外はいつの間にか強く風が吹いていた。昼間は見事な秋晴れだったが、そのぶんこれから冷え込んでくるかもしれない。

「そうですね。じゃあ、この前陛下がお勧めしてくださった本を図書室で……」

 読んでみるのはいかがでしょう、と続けようとしたフィノの耳に、突然ばたばたと複数の足音が聞こえてきた。この部屋に向かって、誰かが慌しく近づいてきている。ザザも警戒して、棚の上からドアの方を睨みつけていた。

 いったい何事だろうと思った瞬間、指の背で叩きつけるような強いノックがあった。皇帝の私室だから最低限の礼儀は保っているが、できるならこのドアを思いきり開け放して突入したいという気配がありありと感じられる。

 フィノは思わずあとじさった。無意識にラザリスの背に隠れるようにしてしまうと、華奢な肩にラザリスの手がまわされ、ぐっと引き寄せられる。

 ドアの向こうから、くぐもった女性の声が聞こえた。

「陛下、サラサでございます! 無礼は承知です! ですが、お願いします! どうか衣装室へお越しいただけませんか?」

 怒鳴るような声にはしかし、逼迫さがにじんでいた。サラサとは一体誰だろう。フィノが固唾をのんでいる頭上で、ラザリスが溜息をつく。下から見上げると、彼は苦々しく眉を寄せていた。そしてひどくうっとうしげにソイルに言い放つ。

「……とりあえず開けてやれ。俺に直接文句を言うまで、頑として立ち去らぬだろうからな」

「かしこまりました」

 ソイルもどこか苦々しい表情だ。フィノは驚いた。皇帝に直接文句を言うだなんて、そんなことができる人間がこの帝国内にいるのだろうか。

 ソイルがドアを開けると、なだれ込むようにして五、六人の女性が入ってきた。身なりからして、どこかの侍女だろうか。城に仕えている召使いより、はるかにいい服装をしている。

 彼女たちはラザリス皇帝の前に並ぶと、まずは一度正式な礼をとった。しかしすぐに懇願するように両手を組むと、どうかお願いします、と必死に言葉を連ねはじめる。

「陛下、どうか衣装室に足をお運び下さいませ。大事なお衣装なのですから、お二人で決められるのが一番です」

「好きにすればいいと言ったはずだ。それの何が問題だ? 実際に着るのはキュアルだろう」

 その名前を聞いた瞬間、フィノの胸を鋭い痛みが襲った。そして彼女たちがなんのことを話しているか、だいたいの予想がついた。

(そうか………。結婚式の衣装決めをなさってたんだな)

 フィノが今日ここへ来たとき、ラザリスは用事で少し遅れるとソイルが言っていた。仕事ではなく用事だと。おそらく衣装のことでキュアルをはじめとした彼女らと話していたに違いない。

 言われてみれば、侍女たちの一番前に立ってラザリスと話している中年の侍女に見覚えがあった。キュアルと庭で出会ったとき、彼女のいちばんそばに付き添い、「お嬢様」と呼んでいた女性だ。

 二人の婚約について、まだ国民に正式発表はされていない。庶民のフィノにはわからないが、きっと縁起のいい日取りを決めたり、招待状を送る諸各国への手配など、事前に準備しておくことがたくさんあるのだろう。当人たちはすでに了承しているのだから特別急ぐこともない。

 フィノは意識して心を無にし、交わされる会話をただじっと聞いていた。

「陛下、たしかに本日のお衣装決めはキュアル様が中心のものですが、妻となられる方が晴れやかに着飾る大事な御式なのです。夫となる陛下のご意見をわたくしどももぜひおうかがいしたく……」

「意見も何も、本人が着たいものにするのが一番だろう。それこそキュアルの意見を最大限尊重していることにはならぬのか」

「それはそうなのですが、違うのです。キュアル様は陛下とご一緒にお衣装をご覧になりたいのですわ。夫となる陛下に、自分の一番美しい姿を見てほしい。選んでほしいと思うのが女心ですもの!」

 ふっくらした体格のサラサは身体を揺らしてそう力説したが、ラザリスはきつく目をすがめる。

「だらだらと何時間も衣装合わせに付き合うような時間は俺にはない」

「そ、それは……! あの、衣装を運ぶ者のちょっとした手違いで……」

「手違い? 手違いも起こるだろうな。あれだけの数だ。帝国中の仕立て屋を呼んだのか?」

「せっかくの晴れ舞台なのです! ですからわたくし、つい張りきってしまって……!」

「張りきるのは勝手だが、あの衣装をすべて着て見せるつもりだと言うなら許さぬぞ。俺はお前たちと違って暇ではない」

「ひ、暇などでは……!」

「時間がありあまっているのは事実だろう。お前たちがキュアルと優雅に昼下がりの茶を楽しんでいる間、俺は一分一秒を惜しんで書類に目を通しているのだからな」

「それは……」

「挙句、やっと仕事が片付いたと思えば、これから三時間付き合えだと? 俺も軽く見られたものだ」

 ラザリスのひやりとする視線と叱責に、サラサたち侍女は徐々に青ざめ、俯き始めた。フィノもさすがに、これはラザリスが気の毒だと思う。かといって、サラサたちの気持ちがわからないわけでもなかった。

 結婚式に着る大事な衣装を、夫となるラザリスと一緒に見たい。意見を聞かせてほしい。いろいろと着回すことで一緒の時間を過ごしたい。夫のために美しく着飾る自分を見て欲しいと思うのは、おそらく普通のことなのだ。ヴィーザーは両性具有だが、女性性が強く出ているキュアルは「お嬢様」として周囲から愛されて育ってきたはずだ。「結婚式の主役ってのは男じゃなくて女なんだよ」と、以前孤児院に出入りしていた若者も言っていたし、となれば、皇帝の結婚とはいえ、やはり妻――王妃となるキュアルがいかに華々しく幸せそうに見えるかは重要なことだった。

 フィノは、キュアルのおっとりした、美しい顔立ちを思い出す。きっとラザリスの前でさまざま衣装を着て、自分に似合う色合いや意匠、装飾品を一緒に考えてほしいだろう。逆に、夫となる人の衣装を自分が見立てたいとも思っているかもしれない。何も意見がなくてもいい。ただそこに、いっしょにいてほしいと願う。それもまた、夫婦になる二人の大事な時間で――。

(いいなあ……)

 美しい衣装が自分なんかに似合うかどうかは別として、好きな人といっしょに自分を着飾る衣装を決めることができるというのはとても楽しそうで、嬉しくて幸せなことだろうなと思う。もしラザリスから「これが似合う」と言われたら、フィノはそれを着たいと思うだろう。万が一にも綺麗だなんて言ってもらえた日には嬉しさで泣き出すのではないかと想像したら、少しだけおかしかった。

 だが、話の展開として、どうやらラザリスはそれを良く思っていないらしい。

 たしかにラザリスの言い分も理解できる。一日の政務をこなしたあと、さらに三時間キュアルの衣装決めに付き合うのは正直大変だろう。二人の親交や関係性がどの程度のものかフィノにはわからないが、もとから恋人同士だったわけではない、いわば政略結婚の二人だ。

 いや、だからこそサラサたちは必死なのだろう。自分たちが仕えてきたたいせつなお嬢様が国母になるのだ。

 彼女たちはきっと誰よりも自分の主を想い、慕っているのだ。でなければあんなに必死に、皇帝陛下に食ってかかるような無礼な真似をするはずがない。

 キュアルが喜ぶことをしてあげたい。笑顔が見たい。そして最終的に、誰よりも幸せになってもらいたい。彼女たちの顔を見ていれば、その想いが痛いほど伝わってくる。

(キュアル様って、素晴らしい方なんだろうな)

 こんなに主想いの侍女たちがいるのだ。よっぽど、キュアルは人間として、ヴィーザーとして魅力的なのに違いない。

 やっぱり適わないなあとフィノは思う。そして勝手な言い分だけれど、身を引いてよかったと痛感した。

「いい加減にしろっ!」

 怒声が鳴り響いて、フィノはびくっと身体を跳ねさせた。

 ついにラザリスの堪忍袋の緒が切れたのだ。そのあまりの迫力に、室内が一瞬で凍りついたようにフィノは感じた。誰もが身をすくませ、固まって、皇帝陛下の逆鱗にふれてしまったことに慄いている。特にサラサは完全に顔色を失っていて、となりにいる侍女と身を寄せ合って震えているほどだ。

 フィノの肩を抱き寄せていたラザリスの手に力がこもる。それは食い込んで痛いほどだったが、フィノは何も言えなかった。これほどまでに険しい顔をしたラザリスは見たことがない。

 全員が息を呑み、何も言わない。否、何か言えるような状態ではない。

「あ、あの……」

 そのとき、張り詰めきっていた空気に小さな穴を開けるような蚊の鳴くような声が響いた。

 視線が一斉にそちらに向く。ドアから顔を覗かせるようにしていたのはまだ少女と言える幼い顔立ちの召使いで、ひと抱えもする花瓶を手にしている。

「あ、花……!」

 フィノが摘んできた花だ。色鮮やかで自由気ままだったそれらが、まるで変身したように上等の花瓶に活けてある。

「フィノの花か」

「はい。今日、孤児院の裏でみんなと摘んで持ってきたんです。陛下が喜んでくださったらと思って……」

 ラザリスは頷くとソイルを呼んだ。優秀な秘書官はすぐに意図を察してドアに向かい、花瓶を受け取ってこちらに戻ってくる。

 フィノは両手を差し出して花瓶を受け取った。見た目こそ綺麗に整えてもらった花たちはしかし、香りは素朴なままだ。鼻腔をくすぐるそれに、フィノはほっと吐息をもらした。

「良い花だ」

 花に顔をうずめるようにしていたフィノの横で、ラザリスも香りを楽しむように言った。その声にフィノが視線を上げると彼はすでに侍女たちに鋭い視線を向けていて、冷たく言い放つ。

「出ていけ」

 最後通牒だった。



 サラサをはじめとした侍女たちはもう口を開くことなく、足早に部屋から出て行った。その後ろ姿には、皇帝陛下を本気で激怒させてしまったという畏怖と、自分たちのせいで主の立場を悪くしてしまったという後悔がにじんでいるように見える。

 フィノは内心、複雑だった。ラザリスがキュアルのもとに行かなかったという昏い喜びと安堵がある一方、もし自分がキュアルの立場だったらひどく悲しく、傷ついただろうという同情。なにより、厚かましくそんなことを考えてしまう自分自身への自己嫌悪。

 花瓶を抱えてフィノが俯いていると、ソイルも「陛下。何かございましたらお声がけください」と言って部屋から出ていってしまった。静かな部屋にはラザリスとフィノ、そしてザザだけだ。

 フィノ、と呼ばれてフィノはラザリスを見上げた。

「この部屋に置こう。どこがいい」

 視線で花瓶のことを問われて、フィノはさっきまでお茶をいただいていた中央のテーブルにそっと置いた。いかがでしょうとラザリスを振り返ると、ラザリスも異論はないと言うように目を細め、頷いてくれる。さきほどまで怒りに染まっていた鋭い金色の瞳は、すでに落ち着きを取り戻していた。

 ふと、フィノは考える。

(相手がキュアル様じゃなくて、誰であっても、陛下はああいう反応をしたのかな)

 考えたところで何がどうなるわけでもない、無意味なことはフィノが一番わかっている。けれど考えずにはいられない。

(もし。もし僕がキュアル様の立場だったとしても、「お前の好きにすればいい」って言いましたか?)

 その後の展開は今しがた目にしていた。フィノはざっくりと胸をえぐられる前に慌てて思考を止め、テーブルに置いた花瓶のなかで自慢するように背を伸ばしている花びらの一枚にふれた。

(良かったね、綺麗にしてもらって。……僕も、君たちみたいに素敵な衣装に身を包んだら、ちょっとはそれなりに見えたのかな)

 すぐに考えるだけ無駄だと思って、小さく自嘲の笑みがこぼれたときだ。ラザリスに肩を抱かれて促され、フィノはラザリスと並んでソファーに腰掛けた。

 しかし、何を話していいかわからない。あんなやりとりの直後で図書室には誘いづらいし、かといってすぐに楽しい話題も思いつかない。気が利かない自分に歯がゆくなりながら、ふいにサラサたちから報告を受けたキュアルのさみしそうな顔を想像してしまって、気づいたときには口を開いていた。

「あの……ほんとうに、お衣装のこと、よかったんですか? キュアル様はたぶん、陛下に来て欲しいと思っていらっしゃったと思います」

 するとラザリスは明らかに顔を顰めた。

「フィノまで言うのか? 俺は行かぬ。面倒だし、興味もない」

「そんな……」

「面倒だろう。仕立て屋にあれこれ薦められて、楽しいのはキュアルや侍女たちだけだ」

 想像ではなく事実だとラザリスは言った。どうやら彼はここに来る前、彼女たちの懇願どおり衣装室に赴き、少しだけ衣装決めに付き合ったらしい。そのうえで、これに三時間付き合うのかとうんざりしたというのだ。

「それに実際、キュアルはどれを着ても問題はない」

 それは遠回しに、キュアルは美しいと言ったも同然だった。フィノの心は勝手につきんと痛んだが、彼女の清廉な美しさは否定しようのない事実だ。そうですね、とフィノは微笑んだ。

「キュアル様はお美しい方ですから、きっと何をお召しになってもお似合いです。もしかしたらどれも似合いすぎちゃうから、かえって決められないのかもしれないですね」

「だとすれば、それこそ俺の出番はない。サラサたちがいる」

 ラザリスは肩をすくめた。そんなしぐさもするようになったんだなと、フィノは感慨深く思いつつ、少しのせつなさを感じる。こんなふうにいろいろな顔を見せてくれるようになったラザリスをこれからいちばん近くで見ることができるのは、自分ではなくキュアルなのだ。

(もっともっと、おそばにいたかった……)

 フィノはラザリスの広い背中が大好きだった。いつもそばで見ていた、頼もしい背中。国を背負う者の背中。あの凛と伸びた背中に、本当は思いきり抱きつきたかった。抱きつくことができる自分でありたかった。

 自分はいつだって願うだけで、臆病で未練がましく、まだ一歩も前へ進めていない。けれどこの初恋に感謝して、これからほんの少しずつでも前を向いていけるように努力しようと思う。御成婚のパレードのときには、たくさんの「ありがとう」を贈りたい。

 ラザリスがどんどん前へ進んでいくように、自分もしっかり前を向いて歩くんだ。ときどきは転んでしまうこともあるだろうけれど、泥をはらってまた笑おう。そうしてまた、少しでも前に行くために――。

「フィノは金髪だからな。淡い碧が似合う」

「……え?」

 唐突すぎて、一瞬なにを言われたのかわからなかった。目が合ったラザリスは少し目を細めていて、どこか愛しげな手つきでフィノの髪のひと房を手に取る。

「お前は性格が控えめだから、派手な色より落ち着いた色の方が合うと思ったんだが。碧は嫌いか?」

「い、いえ……」

「だったら碧だな。そうだ、最近冷えてきたし羽織るものを買ってやろう。次はそれを着て来ればいい」

「え……? あの、陛下……」

「どうせなら首に巻けるものもあった方がいいか。それなら明日、行商を呼ぼう。フィノに似合うものを選んでやる。もちろんフィノの好みも聞くから心配するな」

 心なしか気分が高揚しているように見えるラザリスの様子に、フィノは大きく混乱した。 

 なぜ、どうして、ラザリスはそんなことを言うのだろう。だって今さっき、婚約者の衣装決めは面倒だし興味もないと言ったのに。それなのにどうして、フィノは碧が似合うと言ったり、ラザリス自ら服まで選んでくれようとするのだろう?

 キュアルはたしかに美しい。どんな衣装でも似合うから自分が意見を言う必要なんてないとラザリスは言った。でも大事なのはそこではなく、衣装決めを通して二人いっしょの時間を過ごすことが大事なのだとサラサたちは言っていたではないか。

 それなのに陛下は僕のために明日行商を呼んで、服を選んでくださる? 僕の好みも確かめて?

 その意味を、僕はどう受け止めればいいの?

「………どうして?」

 混乱しすぎてわからない気持ちが、ぽつりと音になってこぼれる。

「陛下、どうして、ですか……? どうしてそんなこと……」

 愕然とラザリスを見つめることしかできないフィノに、ラザリスはわずかに首を傾げる。

「決まっている。お前は特別だ」

 息を呑む。

 せっかく決心したのに。頑張ろうと思ったのに。諦めようと、感謝しようと誓ったのに。

 どうして僕の気持ちを揺さぶるの? 決心が鈍るようなことを言うの? 期待させるようなことをするの?

「……陛下は、ひどい人」

「ひどい? なぜだ」

「わからないから、ひどいひと」

 どうしてわからないの。今あなたは、妻になるキュアル様よりも僕の方が特別だと、そう言ったんだよ。

 陛下。僕をどうしたいのですか? お願いだから「特別」だなんて言わないで。僕のこの想いを置き去りにして、結婚してしまうくせに。

「ひどい、ひと……」

 そんなことを言われたら――もしかしたらあなたも、僕を好きなんじゃないか、なんて。そんな愚かできわまりない期待を抱いてしまう。

 だからお願い。お願いです。これ以上、僕をあなたに縛りつけないで。お願い。お願い――。

 フィノのなかで、ぱりんと小さな音を立てて何かが砕け散る。

 翌日。フィノはラザリスの前から姿を消した。




<10.自分の足で>

 ラザリスは殺気だった気配を隠しもせず、きつく目を眇めて窓の外を睨んでいた。

 外は豪雨だ。待つことしかできないこの状況が嫌でたまらない。かと言って自分が動くわけにはいかなかった。迅速に状況を把握し、無駄なく指示を出すためには、自分はこの部屋で情報が集まるのをじっと待ちつづけなければならない。ラザリスはぎりぎりと歯を軋ませた。

(フィノ、どこにいる――?)

 空はすでに深夜のように暗く、暗雲が垂れ込めている。低く雷鳴が轟いた。それはまるで、大嵐が来る前兆のように。



 フィノ・ラピアスが大鷹とともに姿を消した。

 事の発端は、いつもの時間になってもフィノとザザが姿を現さないことを訝しんだ門番兵の報告だった。仕事を終えたラザリスはソイルが淹れたお茶を飲んでいて、たしかにいつもより遅いなと考えていたところだった。

 異変と判断したのはそれから三十分ほど経った頃。ラザリスは総括司令官のレーガー・マッケンジーを呼び出し、ただちに兵を孤児院に向かわせた。また、それとは別で兵を出し、皇城周辺にフィノがいないか探させる。

 フィノにかぎって、どこかで道草を食っているとは考えにくい。とすればなんらかの緊急事態が起きたと考えるのが自然だ。たとえば道の途中で怪我を負って動けなくなっているとか、あるいはフィノの方が怪我人を見つけて救護につきっきりになっているとか。ラザリスに遅れることを伝えたくても、なんらかの理由でできなかった可能性はある。

(何者かに襲われたとは考えたくないが……)

 嫌な想像に、途端、胸のあたりが落ち着かなくなった。頭を小さく左右に振り、ラザリスは拳を握り込む。爪が皮膚に食い込んだが、痛みはまったく感じない。

 ラザリスはテラスへ出た。ひゅうっと冷たい風が全身を撫でていく。つい先日まで陽気な秋晴れが続いていたのに、昨晩からやけに冷え込んで今日は一日曇天だった。この調子なら、おそらく明日も青空は見込めないだろう。もしかしたら雨も降り出すかもしれない。

「陛下、失礼します」

 待っていたレーガーの報告に、ラザリスは足早に机に戻ると「話せ」と短く命じた。レーガーは素早く敬礼したあと、苦い表情で話し始める。

「ダーナ孤児院の院長ダーナ・オクトから話を聞いてまいりました。本日、フィノ・ラピアスはいつもの時間に皇城へ向かったとのことです」

 ラザリスは金色の眼を鋭くする。

「そのときフィノを見た者は?」

「ダーナのみです。いつものように院長室に顔を出してから、ザザとともに出かけていったと」

 ラザリス、ソイル、レーガーの三人しかいない部屋で、しばらく沈黙が支配する。

 ラザリスはテーブルに置いてある花瓶を見つめた。昨日フィノが孤児院の裏手で摘んできた花だ。花はどこか元気がないように見えた。今朝ちゃんと水を替えさせたのに、すでに三日、四日経ったように頭を垂れてしまっている。ラザリスはそんな花をじっと見つめながら考え、やがて口を開いた。

「ソイル。国交門を閉めるよう指令を出せ」

「国交門を……!?」

「特命だ。誰も入れず、誰も出すな。それからアズウェイを呼べ」

 忠実な部下二人は大きく目を見開いた。国交門を閉めるというのは――たとえそれが一時的であったとしても――帝国を完全な鎖国状態にするということである。止めるのは人だけではない。食物、物資、資源そのほか、とにかく物流のすべてを完全に断ち切る。それこそ前例のない、異常事態だ。 

 いくらなんでもそこまで、と無礼を承知で異論を口にしようとしたのだろうソイルはしかし、とっさに口を閉じた。幼い頃から誰よりも近くで見てきたラザリスの金色の眼に、今まで見たことのない何かを感じ取ったのだろう。

 アズウェイというのは医師である。まだ30代前半ながら天才的な技術をもった医師で、実力はこの帝国で一、二位を争う。しかしその人を食ったような性格で、昔からラザリスとは相性がよくなかった。そのアズウェイを呼ぶということは、フィノに万が一のことがあったときのことも想定しているということだ。どんなに身分の高い貴族でも、アズウェイに直接、診てもらえることなどほとんどない。なぜならば彼はゼッカー一族の直系――要するにラザリス直属の医師だ。

 ラザリス・ヴォン・ゼッカーはそこまでするのだ。フィノ・ラピアスという庶民の少年に。



(これは、執着だ)

 今まで見たこともないほどの気迫を纏っている主君を前に、ソイルは思わず唾を飲み込んだ。

 自分の手の内に在ったものが突然無くなった、それを決してゆるさない者の眼。独占していたものを不意に奪われた者の、憤りと怒りの姿。どんなことをしてでも取り返すという執念。そしておそらくラザリスのこれは――無意識。

(いつの間にかあなたにとって、そこまでフィノくんの存在は……)

 このときソイルは初めて、ラザリスにとってのフィノ・ラピアスの立ち位置を真に理解した気がした。そして、彼の執着や執念の根幹にあるものの正体も。

 いったい誰が予想できただろう。ソイルはラザリスと出会ってから、いつだって無表情の彼しか目にしてこなかった。政務に真摯で、優秀で、偏りなく冷静に指示を出す姿は歴代皇帝のなかでも間違いなく群を抜く賢君だったが、彼は圧倒的に人間味がなかった。他者を否定しない代わりに共感することもなく、彼自身も自分は情緒が育っていないと自覚していた。が、別にそれでも問題はないと考えていたのだ。フィノ・ラピアスに出会うまでは。

 そのラザリスに、ここまで執着する人間ができた。自分の感情をあらわにする対象ができたのだ。そこにたとえ身分の差があっても、同性であっても、今までのラザリスを知っているソイルにとってはそんなことはごく些細なことに思えた。

 ラザリス・ヴォン・ゼッカーはフィノ・ラピアスから感情を教えられ、生々しくなった。ひとりの『ひと』として芽吹きはじめているのだ。

 ソイルは思わずとなりに並ぶレーガーを見た。彼もまたソイルを見ていて、これまで同じくラザリスをそばで見守ってきた者として頷き合う。

 行方がわからなくなったフィノ・ラピアスを探し出したい。そのためには最高権力を使ってでも国交門を閉じると言ったラザリスの命令に、ソイルは「かしこまりました」と答え、足早に部屋から出て行く。

(フィノさん……!)

 フィノを想う気持ちはソイルとて負けてはいない。知り合ってからの時間は短いが、これまで弟のように可愛がってきた少年だ。

 人がもつ優しさと温かさ、そして思いやりを、当たり前の美しさでもっていた少年。身体は小さいけれど、純真でまっすぐな彼からソイルもまた忘れがちだったそれらを思い出させられた。フィノの拝謁はソイルにとっても間違いなく癒しだった。

 廊下を足早に進み、いつの間にか駆けだしていたソイルは、勢いのまま執務室のドアを開け放した。そして、何事だというふうに振り返った同僚たちに叫ぶ。

「陛下の特命だ! いますぐ国交門を閉ざせ! それからアズウェイ医師をここに!」

 


 一気にあたりが騒がしくなった。ソイルの指示を受けた者たちが一斉に動き出したのだろう。ドアの向こうから伝わってくる気配をひしひしと感じながら、レーガーは主君を見つめていた。

「レーガー。内街、中街、外街に分かれて少数精鋭で隊を出せ」

「はっ」

「街中をくまなく探せ。聞き込みもだ。地理的に内街の調査がもっとも早く済む。終わり次第、内街の隊は外街の調査に加勢。お前はここに残って指示を出せ」

「御意。ところで陛下、万が一、調査が深夜にまで及んだ場合はいかが致しますか」

 すでに陽は沈んでいる。夜の捜索は効率が悪く、今夜は特に冷えるだろう。少し前にやはり雨も降り出した。兵の安全を確保することも総括司令官であるレーガーの責任だ。

 ラザリスはまばたきの少ない金色の眼でレーガーを射抜いた。

「――2時間でフィノに会わせろ」

 万が一など許さない、ということか。御意、と目礼しながら、レーガーはフィノ・ラピアスの笑顔を思い浮かべた。

 フィノ・ラピアスはレーガーが孤児院に送るたび、「ありがとうございました」「レーガーさんもお気をつけて」と気遣うことを忘れず、姿が見えなくなるまで手を振ってくれた。控えめに微笑むその顔は愛らしいという表現がぴったりで、複雑な事情をもつ孤児とは思えないほど健気で純粋だった。

 いつだったか、レーガーは庭を散歩するラザリスとフィノを見かけたことがある。そのときの驚きと、冬の陽だまりを感じさせるような安堵感は今でも鮮明に思い出せた。まるで二人は――変な例え方かもしれないが――心を通わせた若い夫婦のように見えたのだ。寄り添い、笑い合い、教え、教え返されて。友情や親愛とはまた違う、明確な愛情がそこにはあったように思う。

 あのときの二人を、また見たい。自然に肩を寄せ合い、微笑んでいたあの二人を。

(フィノ……!) 

 レーガーは風を切って敬礼すると、濃赤の軍服を翻し、猛然と部屋を出ていった。



 庶民の少年ひとり探すぐらい、何のことはない。フィノ・ラピアスはすぐに見つかるだろう。突然慌しくなった皇城内を駆けまわる兵らを横目に、使用人たちの誰もがそう楽観視していた。迷子の少年を見つけるには人数が多すぎる、大袈裟だと笑ってしまうほどに。

「過保護な陛下。そんなに心配なさらなくても大丈夫よ」

「そうだそうだ。どこかでちょっと寄り道でもしてるんだろう」

「お天気はちょっと心配だけど、きっとすぐに見つかるでしょう」

 そんな会話が微笑ましげな笑い声とともに行き交う。

 しかし、彼らの予想に反して事態は最悪なものへと変化しようとしていた。レーガーの命で編成された部隊が各方面へ出発していくらも経たない頃、ゼッカー帝国の上空に暗澹たる雨雲が現れ、次の瞬間にはバケツをひっくり返したような豪雨が襲った。これは本当に雨の音かと疑うほどで、風も轟轟と吹きすさぶった。もはや石つぶてのような雨粒は窓を叩きまくり、丈夫なはずの窓枠はしきりにガタガタと耳障りな音を出している。

「忌々しい……!」

 ラザリスは舌打ちした。運が悪いにもほどがあるだろう。これだけの豪雨なら身体に当たるだけで痛みを伴うし、視界を妨げる。なにより心配なのは行方知れずのフィノのことだった。もし今フィノが外にいるならばどれだけ不安になっていることだろう。あっという間に華奢な身体から熱を奪い、気力と体力を蝕んでいるかと思ったら居ても立っても居られなかった。

 しかし本当に、この空の変わりようはどうだ。たしかに昨晩からやけに冷え込むとは思っていたが、気象部はここまで天候が激変するなどとはまったく警告していなかった。ということは、彼らにとってもこれは異常事態に違いない。

 今までに経験したことがないほどの、突然の急激な気候変動――いや、待て。

「ソイル。今すぐキュアルを連れて来い」

 皇帝からの緊急呼び出しとあって、キュアルはすぐにやってきた。フィノの件とは別で、突然の豪雨の対処を命じられ部署や部隊も城中をばたばたと走り回っているせいで、異常事態が起こっていることはすでに承知だろう。しかしキュアルは平素と変わらず、凛としたさまで優雅にラザリスに一礼した。そしてラザリスが口を開く前に、美しい声で前置きをする。

「陛下。失礼を承知で先に言わせていただきます。この天候の乱れはわたくしたちヴィーザーの影響によるものではありません」

 ラザリスの私室に呼ばれた時点で、用件が何なのかおおよそ察しはついていたのだろう。

 ヴィーザーは国の宝。それは単なる比喩ではなく現実で、彼女たちの心身の状態は恐ろしいまでに天候を左右する。ヴィーザーたちが嘆き悲しめば空は荒れ狂い、ヴィーザーたちが喜びを感じれば大地は芽吹いて作物は豊かに育つ。ここ数十年のうちにここまで大きな気候変動の記録がなかったということは、その時代を支えたヴィーザーが皇族に守られ、平穏無事に過ごせていたという証拠だ。

「わたくしの方からお話をしてもよろしいでしょうか?」

 キュアルの瞳は真剣だった。おそらくこの緊急事態に対してヴィーザーであるキュアル自身も戸惑っていて、ラザリスと冷静に話をするなかでなんらかの糸口を見つけたいと考えているのだろう。

 キュアルは大貴族ミーク家のひとり娘。美しくおっとりした無害なお嬢様だと思われがちだが、実は非常に頭が良く、見識も広いことをラザリスは知っていた。出自こそ違えば女ながらに役人になっていたのではと思ったことすらある。

「いいだろう。そちらの意見も聞きたい」

 キュアルは頷いた。そして静かに息をつくと一度考えるように視線を手元に落とし、再び顔を上げてラザリスと視線を合わせた。

「ちょうど、天候が乱れはじめる直前でした。ひどい耳鳴りのようなものを感じましたの」

「耳鳴り?」

「ええ。耳から頭のなかをピーンと突き抜けていくような、あの不快感です。そのあと、頭を直接かき回されるような変な感覚があって……。痛みはありませんの。ただ、めまいがするように頭がくらくらして」

 言葉で表現するのが難しい、という顔でキュアルはつづける。

「そのあとなぜかとても悲しくなって、涙がこぼれたんです。あれはまるで……悲鳴のようでしたわ。そういう悲しい感情が突然身体の中に入り込んできて、混乱した途端にあの豪雨でした。こんなことは生まれて初めてで、わたくしすぐにチェルとイージィの様子を見に行きましたの。そうしたら二人とも、わたくしとまったく同じような感覚に見舞われていました」

 チェルとイージィというのは、3人いるヴィーザーのうちの残り2人だ。特にチェルはヴィーザーとしての能力がいちばん低く、自己防衛できなかったことで、今回の影響をまともに受けて今は横になっているらしい。

「チェルはひどい吐き気が治まらないようです。イージィも少し顔色が悪かったですわ」

 キュアルは美しい面に難色を示して、深く息をついた。だが、さっと気丈に顔を上げる。

「はっきりしたことはわたくしにもわかりません。ですがこの天候の乱れは、単純な空のきまぐれでないことは確かだと思います」

「では、何かの力が働いていると?」

 ラザリスが鋭い視線でキュアルを見つめる。するとキュアルも、自分もまだ信じられないがという様子で重く頷いた。

「ええ。とりあえず、ヴィーザー3人分よりもはるかに大きな力が働いていることは確かですわ」

 よく見てみれば、キュアルとて万全な体調とは言い難い様子だった。いつも陶器のように透きとおっている肌は白を通り越して青褪めているように見えるし、普段はヴィーザーのなかでも年長者として気丈にふるまっているが、彼女自身この事態にひどく動揺しているのは明らかだった。このままではキュアルたち3人のヴィーザーまで体調を崩し、さらなる悪展開が起こりえぬともかぎらない。

 ラザリスは思わずため息をついた。フィノの行方がわからなくなったことだけでも一大事なのに、立て続けに、ヴィーザーが動揺するほどの前代未聞の事態が起こるなど。

(……フィノ、今どこにいる?)

 どこかの軒先でひとりうずくまり、この豪雨を凌いでいるのか。あるいは誰かといっしょに部屋の中で雨がやむのを待っているのか――。

 ぎら、とラザリスのなかで炎が燃え上がった。もし今、フィノが誰かといっしょにいるとして、その人物がフィノを助けてくれたというなら構わない。が、もしそれがフィノを連れ去った張本人だとしたら――ラザリスは今すぐそいつを八つ裂きにしてやりたい衝動に駆られた。あの小さくて愛らしい存在を、自分の手から奪った者を。

 フィノの髪にふれ、頭を撫で、額にキスを贈り、頬を撫でて慈しむのは自分でなければならない。自分だけでなければならないのだ。ギリッと奥歯を噛んだ。焦燥と苛立ちで身が燻りそうだ。

 豪雨のことは無論急務だった。迅速に原因究明をしなければならないし、国内で被害が出ないよう各所に兵を派遣しなければならない。しかしラザリスにとってはフィノのことこそ急務だった。あの存在を今すぐこの手に取り戻さないことには落ち着けない。安心できない。皇帝として等しく民のことを考えねばならない今、しかしラザリスはどうしてもフィノを最優先したかった。

 ラザリスは組んでいた両手にうずめていた顔を上げる。

「話はわかった。ただちに調べよう。……それから、キュアル。無理なことを承知で言う。お前たちの力で、フィノの身に少しでも危険が及ばぬよう祈ってくれ」

「フィノ?」

 ラザリスが手短かにフィノが行方不明になっていることを伝えると、キュアルは「まあ、そんな大変なことが」と手を口に当てた。ついで、ふと思い出したというように口を開く。

「そういえば陛下。あの子のことですが……」

「失礼します!」

 そのとき、キュアルの言葉を遮るようにレーガーが入ってきた。形ばかりのノックのあと、足早にラザリスの前までやって来たレーガーはキュアルに気づくと深く一礼する。今ばかりは悠長に雑談する余裕もない。

「フィノ・ラピアスの件で、現状報告を」

「続けろ」

「内街の調査は終了しましたが、手がかりになるような情報はまったくありませんでした。中街の調査はようやく半分が終了。外街の調査はまだ3分の1も進んでおりません。この豪雨で予想よりも時間がかかっています」

 ラザリスはきつく目を眇めた。

「……レーガーは捜査を続けろ。キュアルは引き続きチェルとイージィの様子に気を配りつつ、少しでもこの忌々しい雨がやむように尽くせ。ソイルは学者らを呼んで、この気象の原因を調べさせろ」

 はっ、と部下たちが返事をしてすぐに動き出す。キュアルも深く頷いた。すぐ後ろに控えていたサラサたち数人の侍女は主人の体調を気遣ったが、キュアルは大丈夫だというように毅然と顔を上げて首を振った。こんなときだからこそヴィーザーとして民のために尽くさねばという、彼女なりの強い思いがあるのだ。

 そのとき、レーガーやソイルと入れ違いに男がひとり入ってきた。

「――おーおー。殺気立ってるねえ」

 低く、よく通る甘い声。人々は彼のこの声音をいい声だと評価するが、今のラザリスにとっては神経を逆撫でするような声だった。

 ラザリスはキュアルに下がるよう命じた。彼女はラザリスとまだ何か話したいようなそぶりだったが、サラサたちに強く押される形で仕方なく退室していく。

 ぱたん、と静かにドアが閉じ、ラザリスと男の二人きりになってしまうと、男はふらふらと酔っているような足取りでラザリスの目の前までやってきた。

「お前の『かわいこちゃん』が行方不明なんだってな。それで? ラザリス皇帝陛下は権力振りかざして、ちっちゃな猫ちゃん一匹見つけるのに街中大捜索か。よっぽどその『かわいこちゃん』がお気に入りなんだな。お前が俺を呼ぶなんざ尋常じゃねえ」

 にやにやと笑い、軽薄な口調のこの男の名はアズウェイ・ルーベル。帝国で一、二を争うほどの実力をもった天才的な医者には到底見えない。

 容姿を一言で表現するなら色男に間違いはない。長めの黒髪は緩く曲線があり、切れ長の瞳、通った鼻筋はどれも形良く、芸術品のようだ。酷薄そうな唇からは、どろっと溶けた蜜のような甘い声が紡がれる。長身で長い手足はすらりと伸び、体型だけで見れば医者などよりよっぽど役者か服飾の仕事が向いている。いつだったか、ラザリスはアズウェイに正面きって「お前は医者などより色街で稼いだ方がいいんじゃないか」と言ったことさえあるのだ。この自分が。

 フィノを『かわいこちゃん』とふざけて呼んだアズウェイを、ラザリスは無表情で見つめた。しかしその視線には怒気と殺気が含まれていて、そのことを敏感に察知したアズウェイは一瞬「おや?」という顔をしたあと、にやりと目を細めた。

「お前、馬鹿だろ。庶民相手に、なに本気になってやがる。放っておけよ。代わりならいくらでもいるだろ」

 瞬間、ラザリスの頭にカッと血がのぼった。自分のなかにこれほどの激情があったのかと思うぐらいの何かが突き破るように飛び出してきて、ラザリスはアズウェイに飛びかかって胸倉をつかみあげる。

 庶民。代わりならいくらでもいる。聞き捨てならなかった。フィノの存在を見下し、貶める言い方がなにより許せなかった。フィノはフィノだ。それ以上でもそれ以下でもない。

 フィノは唯一で、唯一がフィノ。誰にも替えることなどできない、純粋で真っ直ぐな少年だ。

 ラザリスをラザリスとして見てくれた。話してくれた。感じてくれた。楽しかったり嬉しかったりしたときは笑うのだと。悲しかったり痛かったりしたときは泣くのだと。そんな当たり前のことを、言葉と表情と気持ちで教えてくれた。人や、物や、生き物や、景色、そのほかすべて、いわば世界の美しさを教えてくれた。大事で大切な、愛しいひと。眩しい笑顔を向けてくれた愛しいひと。

「今すぐその口を閉じろ」

 射殺すように睨むと、アズウェイは怯むどころか意外そうに片眉を上げ、そのあとひどく愉快げに笑った。

「お前のそんな顔は初めて見たな! ……いい顔、すんじゃねえか」

 しばし二人はそのまま睨み合った。アズウェイの胸倉はいまだラザリスに強くつかまれている。

「……ラザリス。どうしてそこまでそいつに肩入れする? そいつはお前の何だ? ただの庶民でないなら、ただのオトモダチだろう」

「……」

「いいか、お前はこの国の皇帝なんだぞ。ガキが行方不明になってんのは気の毒だが、お前が今すべきはこの国に起こってる緊急事態に全力を注ぐことであって、ガキひとりを血眼になって探すことじゃねえだろ」

「……」

「ヴィーザー3人がうろたえるほどの緊急事態だぞ。本当にわかってんのか」

 わかっている。皇帝である自分が今、何をするべきか。何を優先するべきなのか。

 だが、それでもラザリスはフィノを優先したいのだ。この国とフィノを天秤にかけるべきではないとわかっている。それでもまずフィノを見つけ出さなければラザリス自身が前に進めない。あの眩しい存在を両腕に抱きしめて安心しないかぎり。ふんわりとやわらかい金髪の匂いをかぎ、肌のぬくもりを感じないかぎり、ラザリスはこれ以上平静をたもてない。

(フィノを抱きしめたい。フィノが愛しい。いちばん愛しい)

 いつも不思議だった。フィノが面白そうにしていると、なぜこんなにも心が弾んだのか。フィノが楽しそうにしていると、なぜこんなにも心が躍ったのか。フィノが喜んでいると、なぜこんなにも抱きしめたい衝動に駆られたのか。

 フィノが笑う姿を見るたびに、これまで他人に共感できなかった自分もいつの間にか笑顔になっていた。

 どうして気付かなかったんだろう。こんなにもフィノを愛していると、身体が、心が訴えていたのに。誰でもない自分自身が、強く訴えていたのに。

 フィノはラザリスの心の平和だった。だからそれが失われてしまった今、ラザリスの心はひどく不安定で、苛立って、焦って、もどかしくて、寂しくて、悲しくて、どうしていいかわからなくなっている。

 フィノに会いたい。抱きしめたい。自分の立場も身分も何もかも取り払って、フィノだけを探しに行きたい。そうだ、探しに行くべきだったのだ。自分の足で。

――陛下! また明日も来ますね!

 今度は、俺がフィノに会いに行く番だ。

「……悪いか」

「あ?」

 ラザリスはアズウェイの胸倉をつかむ手にぐっと力を込め、堂々と言い放った。

「俺はフィノが大事だ。あいつが泣いているなら抱きしめてやりたい。帰りたいと思っているなら迎えに行ってやりたい。この国よりも、俺はフィノを優先する。文句があるのか!」

 アズウェイはぽかんと口を開けていた。いつも飄々としているくせに隙がない彼のそんな顔を見るのは初めてだ。

 豪雨が窓を叩く轟音だけが満ちた部屋で、やがてアズウェイが、ぶはっ、と爆笑した。

「アッハッハッハッハッハ! こりゃいいや!」

 腹を抱えて笑いそうな勢いにさらに怒りが募ったラザリスは、つかんだ胸倉を力任せにさらにつかみ上げようとした。するとアズウェイは「待った待った! さすがに死ぬ!」と降伏を訴え、ばんばんと手を叩いて解放を要求する。 

 アズウェイはそれからしばらくごほごほと咳をしていたが、顔を上げた彼の表情はいつもの皮肉めいた笑みのなかにやけに清々しい雰囲気があった。

「お前の命令なんざ知らねえよって言ってやるつもりだったが……気が変わった。何かあったら呼べよ。チェリーがまだ調子悪いっつーから、俺は奥にいるがな」

 奥、というのはヴィーザーの部屋がある皇城の奥の一帯を指す。

「……チェルも気の毒だな。こんな男に診られたら治るものも治らない」

「逆だろ。この俺が診てやってんだ。あいつも本望だろうさ」

「思い込みでなければいいが」

「んなわけあるかよ。この世であれを一番可愛がってんのは俺だぞ」

 さりげなくチェルは自分のものだと主張すると、アズウェイは「じゃあな」と部屋から出ていこうとした。だが、つかもうとしたドアノブはアズウェイがつかむより先に反対側から開けられる。

「おや。これはこれは、グレイヴ大臣サマ」

 そこにいたのは、眉間に皺を寄せたソルバー・グレイヴだった。いつもの厳つい表情で、一部の隙のない様子で佇んでいる。騒ぎを聞きつけ、遅ればせながらやって来たのだろう。グレイヴはちょうど同じぐらいの身長のアズウェイをじろりと一睨みすると、すっとラザリスに視線を移した。

「陛下、この天候急変の原因究明と街の被害状況の把握のため、急ぎ会議を開きたく思います。どうやらヴィーザー様の体調も優れないようですし、つきましては……」

「あーはいはい! わかってるから、こいつはいま一人にしといてやって下さい。調査ならこいつの優秀な部下がもう動いてるでしょうから!」

 部屋に入ろうとしたグレイヴを妨害し、ぐいぐいと廊下に押し出そうとしたのはアズウェイだった。グレイヴに捕まったらもう会議室から出られない――自分で自由に動くことはできないととっさに判断したのだろう。彼にしては大変めずらしく、ラザリスに助太刀しようとしてくれているらしい。

「な、何を……! アズウェイ、何のつもりだ!」

「何のつもりも! あいつはいま忙しいっつってんだよ!……っ……クソジジィ……相変わらず筋力あんなあ! こんのバケモンが……!」

「そこをどけ! 私は陛下に話がある!」

「アンタにはあっても、あいつにはねえっつの!」

「……くっ……! 若造が! どかんか!」

「だーっ! いーいーかーら! 出ろっつのっ!」

 バタンッ! という大きな音でドアは閉まった。廊下でまだ激しく言い争う声が聞こえたが、ラザリスは無視して背を向け、急いで外に出る支度をする。愛しいひとを迎えに行くために。



「なんのつもりだ、アズウェイ!」

 怒りを露にするグレイヴの肩に強引に手を回しながら、アズウェイもまた額に青筋を立てて引きつった笑いをこぼした。

「とにかく落ち着けって、ジジィ」

「落ち着けだと? 貴様、誰に向かって……!」

 アズウェイはもてる全力でグレイヴを抱き込み、引退したとはいえ元騎士の鍛えられ身体を無理矢理引きずっていく。グレイヴももはや怒り心頭に発していて、周囲ははらはらと見守ることしかできない。

「いや、とりあえずほんとに落ち着けって。これから事態は急展開するだろうからな」

「なんだと?」

 コツ、と足を止め、アズウェイはグレイヴから離れて向き直る。その真顔から、グレイヴを茶化すような色はいっさいなくなっていた。

「グレイヴ。アンタは奇跡ってのを信じるか?」

「奇跡? なんの話だ」

「あるいは運命」

「だからなんの話だ!」

「……無理……としか考えられないが……。いや、法律を変えるってこともできないことはないしな…」

「アズウェイ!」

 ひとり考えに耽っていたアズウェイは、グレイヴに視線を移す。

――この国よりも、俺はフィノを優先する。文句があるのか!

 思い出して、おかしくなった。本当におかしくてたまらない。

(まさか、あいつがいっぱしに恋なんてものをする日が来ようとは)

 アズウェイはニヤリと口角を上げた。そして、

「急展開も急展開さ。あいつはこれから、一世一代の告白をしに行くんだからな。邪魔しなさんな」

 その顔は実に愉快そうだった。




<11.名前を継ぐ者たち>

 広大な空間に、何重も波紋が広がるように靴音が響く。その靴音にソイルの必死な声が重なった。

「陛下、なりません! このような豪雨の中にお出になるなんて危険です!」

「構わぬ」

「ですが……!」

「構わぬと言っている」

 ソイルは足早に歩を進めるラザリスの背を戸惑いながら追いかけることしかできなかった。

 ラザリスが自らの足でフィノを探しに行くと言って部屋から出てきたとき、ソイルをはじめとした部下たちは仰天した。我らが皇帝が自ら? この豪雨のなかを? たったひとりの少年のために?  

 ラザリスはすでに身支度を整えていて、防水製の頑丈な上着を羽織り、左腰には細身の剣まで携えていた。その姿はまるで見目麗しい若き剣士のようだったが、側近たるもの、このまま黙って見過ごすわけにはいかない。

「陛下、フィノさんのことがご心配なのはわかります。ですが、どうか今しばらくのご辛抱を!」

「ソイル」

「フィノさんは我々が必ず探し出してみせます。かならずです! ですからどうか陛下はここでお待ちください。外は本当に危険です。陛下の御身に何かあったら、私は……!」

「ソイル」

 カツ、と軍靴を鳴らして立ち止まり、ラザリスはまっすぐにソイルを見つめた。

 冷静で、けれど燃えるように熱い何かを宿した金色の瞳。今まで見たことのない表情。目が合ったラザリスは静かに、しかしゆるぎない力強さで言った。

「俺が迎えに行ってやりたいのだ」

 ソイルは言葉を詰まらせた。主君がフィノのことを特別に想っていることを知っている。誰よりも知っている。だからこそ、そんなふうに言われたら何も言い返せない。

 息を大きく吸い、再び足早に歩き出した背中の、なんと凛々しいことだろう。ソイルは眩しいものを見るように目を細め、ぐっと奥歯を噛んでから駆け出してその背を追う。もう何も言うまい。

 城の入口にはすでにレーガーと数名の近衛兵が馬を率いて待機していた。そこにラザリスが合流する。気づけば後方から自然に皇城の者たちもぞろぞろと集まってきていた。みな不安そうに、心配そうに皇帝の動向を見守っている。

「すぐに出られるか」

「準備は整っております」

 レーガーがよく通る声で答える。ラザリスは頷いてから、レーガーが促した黒馬に跨った。フィノと出会った――即位2周年の祝祭の日に乗っていたラザリスの愛馬だ。美しい毛並みをもつこの黒馬は非常に賢く、子どもの頃から知っているラザリスによく懐いた。ラザリスの準備が整うと、レーガーと数名の部下もすばやく乗馬する。

 異様な緊張と興奮の空気があたりに満ちていた。ソイルは馬に跨り、見上げるほどの高さにいる主君を見つめる。外はいまだ豪雨が衰えず、地響きのごとく雷鳴も轟いている。これからさらに悪化する可能性だってあった。そんな、ある種、戦場のような場所に主君を送り出すことになろうなど、一体誰が想像しただろう。

 ソイルはたまらず、ラザリスに向かって叫んだ。

「陛下! やはり私もまいります! 行かせて下さい! 誰か、私にも馬を!」

「ならぬ。ソイル、お前はここに残れ」

「なぜですか! 足手まといにはなりません! 行かせてください!」

 主君が赴くところには、かならず自分も同行してきた。主君と同じものを目にして、同じものを肌で感じてきた。ならば今回だってそうだ。ラザリスの行くところにはかならずソイルもついていく。フィノを探したいというならソイルも全身全霊をかけて探したかった。それが自分の役目であり、ラザリスがもっとも信頼している側近であるという誇りでもあった。

 必死に訴えるソイルに、だがラザリスは頑として首を縦に振らなかった。

「ならぬ。残れ」

 ソイルが沈痛な面持ちで主君を見つめていると、ラザリスはそんなソイルを見つめ返したあと、わずかに目を細めた。それは優しげな眼差しだった。

「ソイル。お前はここに残り、俺に代わって指示を出せ。お前にしかできぬことだ」

 ソイルは目を見開く。

「お前だから頼んでいる。やってくれるか」

 ソイル・ルーグラントを全面的に信頼している。そう言われたのも同然の言葉に、ソイルは強く胸を打たれた。

 皇帝という重責を担って生まれた彼のことを、幼い頃から間近で見てきた。自分なりにそばに寄り添い、成長を見守り、支えてきた。信用されているとは思っていたが、信頼されているかどうかは確信がなかった。

 しかし今、まっすぐに自分を見つめてくれる主君の、ラザリスの瞳はもう疑いようがなかった。彼にはちゃんと伝わっていた。涙が出そうになるほど嬉しかった。彼に頼ってもらえる自分に成れた、そのことがこんなにも誇らしく、嬉しい。

「……かしこまりました!」

 ソイルが力強く頷くと、ラザリスも安心したように頷き返した。それから、あたりをぐるりと見渡す。

 ラザリスは静かに息を吸うと、「みな、聞いてくれ」と話し始めた。いつの間にか城の入口は集まった者たちで人だかりになっていた。

「俺には今、どうしても行きたいところがある。皇帝として、統治者として、国の一大事を少しだけ二の次にすることを、今だけゆるして欲しい」

 全員、身じろぎひとつせずラザリスを見つめていた。皇帝の言葉を、表情を、しぐさひとつとっても目で追って、固唾をのんでいる。

「迎えに行きたい人がいる。行かせてくれ」

 その切実な声は、この豪雨のなかでもはっきりと響いた。人々は静まり返り、ただただじっと、ラザリスを見つめている。

 ラザリスが小さく息をつき、レーガーに視線を移した。

「行くぞ」

 レーガーが頷き、門番兵に門扉を開けるように指示を出す。ギギギィ……と大きな音を立てて、分厚い大扉がゆっくりと開かれ始めた。途端、開いた隙間から激しい豪雨が音の洪水と化して襲ってくる。

「――陛下! お気をつけて!!」

 突然、誰ともわからない男の声が響いた。すると、

「陛下、お気をつけて!」

「いってらっしゃいまし!」

「レーガー様! 陛下をよろしくお願いします!」

「陛下!」

「ラザリス陛下!」

 堰を切ったように次々と大きな声援が飛ぶ。それはラザリスをゆるし、背中を押してくれる人々の気持ちそのもの。ラザリスのとなりに並んだレーガーが笑っていた。ちらりと視線を寄越されて、ソイルも返事をするように笑みを返した。

 我が皇帝はまっすぐに豪雨の先を見据えていた。その頬に光っているように見えたのは吹き込んできた雨粒だったのか、それとも。

「行ってくる」

 ラザリス・ヴォン・ゼッカーは右手を高く上げた。



 土砂降りの豪雨だ。レーガーを先頭に、ラザリスは懸命に馬を走らせる。

 レーガーがフィノを孤児院に送っていた道は、フィノが皇城にやって来るときと同じ道だという。だからまずはその道を辿ってみようと思った。

 皇城の玄関を出て橋を渡り、内街へ。石畳で整備された道を転ばないように気をつけつつ、周囲にフィノの痕跡がないか目を凝らす。内街を抜けると次は中街。あらゆる店と商人たちの家々が連なる街並みの様子は特に変わりなかった。どの家も窓という窓を閉め、完全に沈黙している。

 中街を抜けてしばらく走ったところでレーガーが声を張り上げた。

「陛下! この先がダーナ孤児院です!」

 豪雨のなかではどんなに近くにいても大声で喋らなければ聞こえない。それほどまでに凄まじい豪雨をかき分けるようにしてラザリスは前方を見つめた。孤児院はもう目の前だ。

「孤児院に入る! ダーナと話がしたい!」

 ラザリスにはなぜか確信めいたものがあった。ダーナ・オクトに話を聞けば何かがわかる、と。

 水溜まりを突っきり、マートルの弔いのときに一度訪れたダーナ孤児院の玄関口に愛馬を寄せる。そこにはちょっとした屋根があり、賢い愛馬は手綱で誘導する前に、少しでも主人が雨に濡れることのないようじょうずにラザリスを下ろしてくれた。雨を含んだ全身がずっしりと重い。よくこの重さに耐えて走ってくれたと、ラザリスは長い首を叩いて愛馬をねぎらった。愛馬は優しい目で、嬉しそうに顔をすり寄せてくる。

 玄関扉の中央に取り付けてある鉄製の輪をつかんだレーガーが、コツコツ! と扉を鳴らした。すると驚くほど早く扉が開き、縋るような目をした細身の修道女が現れる。しかし彼女はずぶ濡れの一行を目にすると落胆したように肩を落とした。フィノが帰ってきたのではと思ったのかもしれない。

 彼女たち孤児院の人間にとっても、フィノが行方不明になったということは気が気でない状態だった。いつものように元気に出かけていったはずなのに、「フィノが皇城に来ていない」と知らされたときはどれだけ驚き、不安になったことだろう。子どもたちには心配をかけまいといくらでも誤魔化しが効くが、事実を知る大人たちはラザリスと同じく居ても立っても居られなかったはずだ。しかもこの豪雨で、彼女たちはろくに外に出られない。「フィノ・ラピアスはこちらで捜索する」「過剰に心配せず、報告を待て」とレーガーをとおして通達してあったが、待つことしかできない焦燥と歯がゆさはラザリスがいちばん知っている。

「夜分に申しわけない。ラザリス・ヴォン・ゼッカー皇帝陛下がフィノ・ラピアスの行方について、直接話をしたいとお望みだ。院長のダーナ・オクトはいるか」

 子どもたちに気づかれないように、という配慮でレーガーが囁くように伝えると、修道女はハッとなった。ついで、大柄な総括司令官の背後にまさしくその皇帝がいることに気づくと慌てて一礼し、「どうぞお入りください」と素早く答える。

 どうやら子どもたちはすでに各々の寝所に行かされているようだ。皇帝の訪問を知らされた修道女たちはぱたぱたと動き回り、身体を拭くための厚手の布を両腕いっぱいに運んでくる。それらで手早く身体を拭いていると、幾分も待たずにダーナが姿を現した。

「陛下、ようこそおいでくださいました。お出迎えが遅くて申しわけありません」

「いや。遅くにすまぬ」

 老齢のダーナは少し曲がった腰を労わりつつ、最大限の敬意を示して深く一礼する。

「――かならず御越しになると思っておりました」

 その言葉と表情には深みがあった。ラザリスはダーナとしばらく無言で目と目を交わす。

 院長室に案内され、冷えきっていた身体に熱い飲み物をふるまわれた。先を急ぐラザリスは最初それを断ったのだが、「お話はお身体を温めながらでもできますわ。お風邪を召されてしまうことの方が大変です」というダーナの落ち着いた声に不思議な迫力を感じて、素直にそれを受け取った。

 湯気のたつ甘いお茶を一口含むと、自然とほっと溜息がこぼれた。芯から冷えきっていた身体が生き返るような心地になり、少しばかり気持ちに余裕も出てくる。

「レーガー様方。大変申しわけございませんが、陛下と二人きりでお話がしたいのです。御席を外していただけませんか?」

 レーガーがうかがうような視線を寄越してきた。ラザリスが頷くとレーガーは目礼し、部下を引き連れてしずかに部屋を出ていく。

 しかしダーナはなかなか口を開かなかった。なにかを考えるように手元に視線を落とし、黙り込んでいる。こうしている間にも、時間は刻一刻と過ぎていく。フィノの命運がかかっているかもしれない。ラザリスは焦燥に駆られ、これ以上待ちきれずに口を開きかけた。そのとき。

「――陛下。はじめに教えていただきたいことがあります」

 目が合ったダーナはひどく真剣な瞳をしていた。平素から慈愛にあふれ、微笑んでいるそれではない。ラザリスはまばたきもせずにその瞳を見つめ返す。

「フィノのことをどう思っていらっしゃいますか。陛下にとって、フィノはなんですか。今の陛下の、ありのままのお気持ちをお聞かせくださいませ」

 言葉は静かだったが、有無を言わせない何かを感じる。そうか、とラザリスは気づいた。ダーナは母親の瞳をしているのだ。彼女はいま、子を思う母としてラザリスに問いかけている。

 ラザリスは身体の力を抜いた。頭では考えなかった。言葉は自然と生まれ出たから。

「俺は、フィノが愛しい」

 フィノの髪のなめらかさ。フィノの瞳の美しさ。フィノの頬の柔らかさ。抱きしめたときの、あの安心する気持ち。愛しい気持ち。すべてが可愛く、すべてが愛しい。そう思えたのはフィノが初めてで、そしてきっとこれからも、フィノでしか感じられない確信がある。

「ダーナ、率直に言う。俺はフィノにとなりにいてほしい。伴侶としてフィノが欲しい」

「……お言葉ですが、陛下。フィノは男の子ですわ。お世継ぎは産めませんのよ」

「承知だ。だが俺は、世継ぎのせいで、子どものせいでフィノを諦めたくない。かならずそばに置く。誰よりも大事に、たいせつにする」

「皇妃様を……別の女性をお迎えしてでもですか?」

「俺が愛するのはフィノだけだ。たとえ皇妃を迎えなければならなくとも、俺はフィノだけを見るだろう。フィノだけをそばに置くだろう」

「フィノが嫌がったらどうなさるのですか。妾など嫌だと」

 ラザリスは睨むようにダーナを見据え、吠えた。

「ならば皇妃は迎えぬ! 世継ぎなどいらぬ! 俺はフィノしか、この腕に抱かぬ!」

 地位がなんだ。国がなんだ。世継ぎがなんだ。

 俺はフィノをこの腕に抱きたい。一生涯そばにいたい。そばにいてほしい。たったそれだけ。たったそれだけだ――!

 二人はしばらく睨み合った。ダーナも決して怯まず、まるで挑むように強い瞳でラザリスを見つめてくる。が、ふいにその糸が緩んだ。ダーナは優しげに目を細めると、ふんわりと慈愛に満ちた表情で微笑んだのだ。しかしラザリスは眉を顰めるのをやめなかった。そしてもっとも聞きたかったことを問う。

「ダーナ。お前はフィノの居場所を知っているな」

「存じております」

「どこだ! 教えてくれ!」

 ラザリスがとっさに前のめりになると、彼女はラザリスの肩にそっと手のひらを置いた。

「陛下、どうか落ち着いてくださいませ。あの子なら大丈夫です。ですから……ちょっとだけ私の話を聞いてくださいませんか。フィノの出生についてです」

「出生?」

「はい」

 ダーナは一度、目を閉じた。そしてゆっくり瞼を開け、ラザリスを見つめる。

「フィノのことを愛しいとおっしゃってくださった陛下ですから、聞いていただきたいのです」

 そうして、ダーナの話は始まったのだ。



 フィノがいま14歳ですから、9年ほど前の話になります。あれは秋の終わり頃。ちょうど今のような季節でした。私が院長室で書き物をしていると、突然来客があったのです。

――先生、お客様です。

 誰だろうと思って、とりあえず院長室に通してもらいました。

 やって来たのはすらりとした細身の女性でした。目を瞠るほど美しい女性で、一瞬、それこそ女神様がいらしたのではないかと錯覚してしまうほどに気品のある女性でしたわ。彼女は美しい金髪でした。腰まである長い髪は柔らかそうで、緩く巻かれているのがまた綺麗でした。

 ですが、彼女はとても震えていました。ひどく緊張していたんです。俯いていて、もともと白いのだろう顔が、まるで陶器のように白くなっていました。

 私は彼女にお茶を飲ませて、とりあえず落ち着かせました。そして名前を聞いたのです。

――お名前をうかがってもよろしいかしら?

 すると彼女は外見通りの美しい声音で、パメラ・ラピアスと名乗りました。そう、フィノの母親ですわ。

 彼女はなかなか話し出しませんでした。踏ん切りがつかないという様子で、何度も口を開きかけては迷ったように閉じる、その繰り返しでした。何度も何度も、迷って迷って、ここに来たのでしょうね。私は辛抱強く、彼女が話し出すのを待ちましたわ。しばらく経ってから、彼女は意を決したように口を開きました。それはとても深刻なお話でした。

 彼女は、『自分はもう回復の見込みがない病にかかっている』『夫に先立たれ、親兄弟も親戚もいない』『だから自分が死んだあと、我が子がひとり残ってしまうことが心配で仕方ない』と言いました。

――私の子……私の大事な子が、ひとりぼっちになってしまうんです……。

 震える声で、泣きながら彼女――パメラはそう言いました。我が子というのは、もちろんフィノのことですわね。いくつなのと聞いたら、5歳だと言っていました。可愛くて元気で、笑顔が眩しい、光のような子なのだと。

 パメラは、私に後見人になってほしいと言っているのだとすぐにわかりました。フィノを、大事な我が子を、自分の死後、この孤児院に引き取って欲しいのだと。

 私は彼女を助けたいと思いました。病を治すことはできないけれど、パメラが大事に愛した子を、フィノを引き取ろうと決心したんです。

――泣かないで。大丈夫。力を貸すわ。

 その日以来、パメラは月に一度、フィノと一緒に孤児院にやって来るようになりました。たぶん、自分の家から孤児院までの道のりをフィノに覚えさせる目的もあったのでしょう。

 そうそう。その頃からちゃんとザザもいたんですのよ。孤児院の玄関の上にエンブレムがございますでしょう? あれの上に陣取って、まわりを見張っているんです。最初は気付かなかったのですが、パメラがフィノを連れてやって来るときにだけ現われて、親子が帰って行くときに同じように去っていくものですから、変だなと気づいたんです。

 いつだったか、フィノに言ったことがあるんです。あのめずらしい大鷹はフィノが孤児院に来たときだけやって来るのよ、不思議ね、と。そうしたらフィノはにっこり笑って、ザザは僕の友達なの、と言ったんです。

――あれ、ザザっていうの! 僕の友達なの!

 もちろん、そのときは本気にしませんでした。あんなに怖そうな大鷹が友達だなんて普通は思いませんから。自分が孤児院に来たときだけ姿を現すという偶然が嬉しかったのだろうと、そんなふうに受け取りました。とんだ大間違いでしたけれどね。

 フィノはとても可愛らしい子でした。ふふ、もちろん今も可愛いですけれどね。5歳にしては随分小柄でしたが、足がとても速くて、すばしっこくて。パメラと同じ、綺麗な金髪で。あの子は母親似なんですわ。もう少し大きくなれば、もっともっとパメラに似るでしょう。

 私はパメラとたくさん話をしました。他愛ない世間話はもちろん、フィノのことや、亡くなられた彼女の夫のことも聞きましたわ。パメラは夫のことを本当に愛していました。そして、その人との子どもであるフィノを誰よりも誰よりも愛していたのですわ。

――生まれ変わっても、またあの人の妻になりたい。生まれ変わっても、またフィノの母になりたい。そんなふうに思えるんです。先生……私は幸せ者ですわ。

 ですが、彼女はときどき塞ぎこんだり、何かに怯えているような印象を受けることがありました。最初は人見知りが激しいだけなのだろうと思っていたのですが。

――パメラ、具合でも悪いの?

――いいえ! なんでもありませんわ、先生。

 その理由がわかったのは半年後のことでした。フィノが6歳になったと嬉しそうに話していたパメラが、ある晩突然、孤児院にやって来たんです。

――先生。こんな時間にすみません。

 ひどい顔色でした。しゃべるのもひと苦労といった感じで、生気がまったく感じられなかったのです。パメラの死期が近いのだと私は直感しました。

 パメラを寝台に寝かせ、私はとにかく彼女を休ませようとしました。ですが彼女はそんな私の腕を信じられないぐらい強く掴んで、話があると必死に訴えるんです。

――先生……! お話があるんです……! お願いです……!

 その姿があまりにも切羽詰まったものだったので、私はとりあえず彼女を横たわらせて話を聞くことにしました。

 パメラは初めて孤児院にやって来たように幾度も言葉を詰まらせては迷い、苦しそうな瞳を向けてきました。私は彼女の手を握り、ただ待ちました。

 唇を震わせたパメラは、抑えきれなくなったのか最後には泣き出しました。かわいそうとしか言えない泣き方でした。声を殺して、喉をひくつかせて泣くのですわ。私はたとえようのないぐらい心が痛かった。どれだけの苦痛と迷いと不安が彼女を蝕んでいるのだろうと。

 ひとしきり泣いたパメラはやがて意を決したように、今から話すことは絶対に誰にも言わないでほしいと、何度も何度も念を押してから話し始めました。

――先生。絶対に、絶対に約束してください。先生だから、先生だからお話するんです。

 その内容は、パメラとフィノの血のことでした。



 サァァ……という静かな音が部屋に響く。雨の音だ。どこか悲しげなその音をどこか遠い思いで耳にしながら、ラザリスはダーナを見つめていた。ダーナは落としていた視線をゆっくり上げ、ラザリスと目を合わせる。

「我が国の第3代皇帝の時代に、有名な『ヴィーザー惨殺事件』があったことは、もちろん陛下もご存知かと思います」

「ああ、『暗黒時代』だな。ヴィーザーが3人もいながら治安が悪く、作物も実らなかったことに腹を立てた当時の皇帝ドットが、激昂のままヴィーザーを惨殺した。馬鹿な話だ」

 第3代皇帝ドット・ヴォン・ゼッカーは、到底皇帝とは呼べないほどの愚皇だったと歴史書には記されている。酒に溺れ、女を侍らせ、欲のままに世を荒らした典型的な愚皇だ。歴史の専門家のなかには、愚皇として有名な第5代皇帝フォルドー・ヴォン・ゼッカーよりも悪辣だったと言う者もいる。

「それがなんだ? なにか関係があるのか」

 ダーナはそれには答えず、話を続ける。

「ではその『暗黒時代』に、食べるものもなく、荒れに荒れる天候に果てしない恐怖を抱いた人々を救った者たちがいたことは?」

「……なに?」

「その者たちは素晴らしい知性と不思議な力をもっていたといいます。彼らは世に絶望した人々を癒し、護り、新たなヴィーザーとして生まれる宿命を背負った赤子を探し出してくれた」

「待て、ダーナ」

「新たなヴィーザー『アーシャ』の誕生で、雨雲は割れ、ゼッカーの大地には再び光が射した。人々はこのときの救世主たちに心から感謝し、崇めた。ですが……」

 いや、馬鹿な。とうにあれらは……。

「第5代皇帝フォルドー様がこの救世主たちに目をつけた。永遠の幸せを願い、彼らがもっていたあふれるほどの知識と不思議な力を私欲に使おうと」

 ガタガタガタ、と窓枠が鳴る。

「救世主たちは、たちどころに、崇められる立場から狩られる対象物と成り果てた。捕まり、売られ、買われ、連れ去られて。……救世主たちは嘆いた。絶望した。そして、自ら命を絶った」

 まさか。

「多くの大鷹を連れたその一族は、第7代皇帝の時代に絶滅しました」

 地鳴りのような雷鳴が、低く、不気味に轟いた。

 ラザリスは愕然としていた。まさかそんな秘密があったとは予想だにしていなかった。そうだ。言われてみれば特徴が合致している。どうして気付かなかったのだろう。城の書庫にある歴史書はすべて読んでいたのに。

 ラザリスは目を見開いたままダーナを見た。

「フィノは、左目が緑で、右目が青だ」

「パメラもでしたわ」

「ザザを……大鷹を連れている」

「ええ。さらに言うと、フィノがこの孤児院にやって来てからというもの、虐待されたり育児放棄されたりという悲しい理由でここへ来た子は一人もおりませんのよ」

 神秘的な両の瞳。大鷹の存在。不幸を回避する力。

 ラザリスは窓の外に視線を向けた。いつの間にか豪雨と呼べる勢いは消え去っていたが、雨自体はまだ降りつづき、しとしとと窓を撫でている。

「では、この雨は…」

 ラザリスはキュアルの言葉を思い出す。

――あれはまるで……悲鳴のようでしたわ。そういう悲しい感情が突然身体の中に入り込んできて、混乱した途端にあの豪雨でした。

――はっきりしたことはわたくしにもわかりません。ですがこの天候の乱れは、単純な空のきまぐれでないことは確かだと思います。

――とりあえず、ヴィーザー3人分よりもはるかに大きな力が働いていることは確かですわ。

 ラザリスは目を見開いた。かつて読んだ歴史書に書かれていた文章が頭をよぎる。

 『『幸福と英知の象徴』と謳われた彼らのなかには、まれにヴィーザー3人分よりはるかに強い力をもっている者もいた』

 突然ダーナに右手を強く掴まれ、ラザリス我に返った。目が合った彼女は老齢とは思えない力で、懇願するように、祈るようにラザリスに訴えてくる。

「陛下。あの子はいま、とても悲しいのですわ。悲しくて悲しくて、空に向かって悲鳴をあげることしかできないのです。力が抑えきれないのですわ」

 ダーナの、母の瞳に、涙が浮かぶ。

「あの子はあなたのことが好きなのです。けれど、陛下は御結婚をなさいますね?」

 どうして知っているんだとは思わなかった。そんなことはどうでもいい。

「あの子は、陛下が好きで好きでたまらないのですよ」

 俺は。俺はあのとき、フィノになんと言った?

――悲しいことがあったのか?

 あのとき、フィノは俺になんと言った? どんな顔をしていた?

――ご婚約、おめでとうございます。

 ガタンッと音を立ててラザリスは立ち上がっていた。

 俺はなんてことをしたんだ。自分で自分をどうにかしてやりたい。ぎりぎりと奥歯を噛み、拳を握り、爪が肌に食い込んで血が滲んでも足りなかった。

 とにかく今、自分にできること。今すぐやらなければいけないことは。

「フィノを迎えに行く」

 はっきりと宣言すると、ダーナは深く安堵したように微笑んだ。そしてどこか悪戯っ子のような瞳をして、

「陛下。いいことを教えて差し上げます。フィノはヴィーザーでもありますのよ」

 もう、なんと言っていいのかわからなかった。なにも言葉にできない。熱い、痛いと思った瞬間には大粒の涙があふれていた。

 ラザリスは両手で顔を覆った。そして、笑った。初めて、こんなにも、嬉しくて泣いた。それはまるで、太陽に例えられた自慢の父のような笑顔で。

 と、ひどく慌てたようなノックが聞こえた。何事だと顔を上げたのと同時に、レーガーが飛び込んでくる。

「陛下! 玄関のエンブレムのところにザザが!」

 反射的にラザリスは走り出していた。開け放たれていた扉から外に出ると弱まっていた雨は完全に消え失せ、黒い雨雲は次々に風に流されていくところだった。

 やがて空が開け、大きな月が姿を現す。その輝きは神々しいほどで、白い光はあらゆるものすべてに静寂と深い眠りを与えるかのようだ。

「ザザ……!」

 ザザは、いた。エンブレムの頂点で月光を浴び、まるでこの世に君臨した何かのように、威厳ある姿で。

 ザザが下を向く。その鋭い眼が自分を捕らえたその瞬間、ラザリスは叫んでいた。

「ザザ! フィノはどこだ!」

 猛禽類の獰猛な眼が、ラザリスを凝視する。

 またか。また、お前は俺を試しているのか――!

「言え! フィノはどこだ!!」

 瞬間、ザザが風に乗った。激しく風を切る音を発してラザリスのすぐ脇を滑空していく。ラザリスはすぐさま振り返り、駆けた。愛馬に跨り、飛び去っていく大鷹を追う。

 頭のなかで声が響いた。

――我が名はザザ・フォルクス。ラザリス・ヴォン・ゼッカー、そなたを我が主のもとに案内してやる。ついてくるがいい。

 フォルクス。そうだ、フォルクス! 歴史書でその名を見た。あの絶滅した一族と共に在ったという、『光を射す鳥』だ――!

 ラザリスは駆けた。駆けて駆けて、駆け抜けた。愛する者を一刻も早くこの両腕で抱きしめたい。願うのはたったそれだけ。

――リジィ、ひととはね、いとしい生き物なんだよ。お前にもそう思える誰かが、早く現われてくれればいい。

 ラザリスは幼い頃に聞いた父の言葉を思い出していた。




<12.一緒に帰ろう>

 ラザリスの愛馬が駆ける。空を支配していた重たい雨雲はゆっくりとその姿を散らしはじめ、代わりに現われた白く輝く月がゼッカーの大地を優しく照らす。豪雨のせいで地面は大いに水気を含んでいた。あまり飛ばすことはできない。ぬかるんだ土で足を滑らせて転倒したら、元も子もない。

 前方を優雅に飛んで行くザザのあとを、ラザリスとレーガーたちはひたすら追っていた。

「外街からかなり外れています。この先には『迷いの森』しかありません」

 間もなく、レーガーが言ったとおりラザリスたちの眼前には『迷いの森』と呼ばれる深い森が現われた。この森はその名の通り、一度入ったら出ることが難しいことで有名で、地元の者はまず足を踏み入れない。森のなかは昼間でも暗く、そしてこれはあくまでも噂だが――何かが『出る』ことでも有名だった。

 フィノはここにいるのだろうか。ラザリスは上空のザザを見上げる。ザザはまっすぐに『迷いの森』を目指していた。間違いない。フィノはあの森にいる。ラザリスは愛馬の腹を蹴った。もうすぐだ。もうすぐフィノに会える――!

 『迷いの森』の入り口と思しき場所に近づいてくると、ザザはその上空で何度も旋回した。森のなかに入るつもりなのだろう。

「レーガー。お前たちは森の外で待機していろ。中には俺ひとりで行く」

「ですが、陛下!」

「夜が明けても俺が出てこなければ、城に遣いを出せ。いいな」

 レーガーは苦渋の顔でラザリスを見たが、強い意思を瞳に湛えている主君の気持ちを汲みとったのか、ゆっくりと頷いた。レーガーと近衛兵たちが手綱を手前に引くと、土を蹴る音を出しながら彼らの馬が足を止める。ラザリスだけは手綱を引くことなく、ザザに続いて森に入った。

「陛下! お気をつけて!」

 レーガーの声がラザリスの背中を押す。森に入っても速度を落とさないザザの姿を、ラザリスは懸命に目を凝らして追った。

(見失ったら終わりだ)

 ラザリスには確信があった。森はかなり暗い。ザザを追うので精一杯だ。『迷いの森』などと呼ばれる場所に好んで入る者などいるわけもなく、当然、道はまったくの獣道である。

(フィノは本当にここを通っていったのか?)

 ラザリスが疑問に思うほど、森は奥深くに行くほど生い茂っていた。ゆっくり歩いて行ったにしても、枝葉で切り傷を負わない方が難しい。人間を襲う動物がいないともかぎらない。しかし、ザザは迷いなく突き進んでいる。考える時間も迷っている時間もないラザリスは、ただひたすら走り続けるしかなかった。

 そうして、どれほど走っただろう。突然パッと視界が開けた。暗い森の中にいたせいで白い月の光が目に突き刺すように飛び込んできて、あまりの眩しさにラザリスは左手を掲げる。

(ここは……?)

 じんじんするような眩しさに片目を眇めながら辺りを見回した。森を抜けたのかと思いきや、そうではない。円形状にぽっかり空いた空間の先にはまだ深い森が続いているから、これは推測だが、おそらくこの森を上空から見たとき、森の中央部分が穴状に空いているのだろう。つまりラザリスは今、その穴の部分にいることになる。

 白い月の光に満ちた不思議な空間のなか、ザザがふわりと緩やかに降下した。そして少し先に見える大木の麓に舞い降りる。

 ラザリスは目を見開いた。勢い良く愛馬から降りて、前方に駆け出す。

「フィノ!」

 叫ぶと、大木の麓にうずくまっていた小さな身体が動いた。顔を上げたそれは確かにフィノで、信じられないものを目にしたようにラザリスを見ている。

「へい、か……」

 フィノが言いきる前に、ラザリスはフィノを強く抱きしめていた。渾身の力を込めて抱きしめる。

 言葉が出なかった。フィノを抱きしめ、感触を確かめ、体温を感じる。髪の匂いをかいで、優しい匂いに安心して、息がつまってどうしようもなかった。フィノだ、フィノだ、フィノだ――!

 ラザリスが感極まっていると、ぎゅうぎゅうに抱きしめられて苦しかったらしいフィノが背中を叩いてきた。ラザリスは慌てて腕の力をゆるめ、改めてフィノの顔を確かめる。

 やわらかな前髪をかき上げて覗き込んだフィノは、左右で色が違う、特徴的で神秘的な瞳をしていた。まるで宝石のように綺麗な瞳だ。ラザリスが目の前にいることがまだ信じられないといった表情で、どこかぼうっとラザリスを見上げている。

 愛しい。その気持ちが次々と湧き上がって、ラザリスの全身に広がっていった。フィノの目元を優しく指で撫でる。真っ赤に腫れていた。だいぶ泣いたのだろう。間近で見つめ合った途端、フィノの澄んだ瞳に大粒の涙があふれ、瞬く間にこぼれ落ちていく。

「……へ……か……。陛……下……」

 か細い声と、激情を堪えるようにくしゃくしゃに歪んでいくフィノの表情に、強く胸を打たれた。ラザリスはもう一度小さな身体を抱きしめ、横抱きでしっかりと抱き上げる。

 この小さい身体に、フィノはたくさんの悲しみと迷いと不安を詰め込んでいた。そう思ったら胸が痛んで張り裂けそうだった。心が痛くて、身体が痛くて、痛くて痛くてたまらない。

「フィノ……フィノ……」

 耳元でそっと名前を呼びながら頬を寄せた。フィノもラザリスの首にしっかりと両腕を巻きつかせ、額を合わせてくる。そうしてしばらく抱き合った。何も言わず、何も考えず、お互いの体温だけを感じ合う。

 やがて少しだけ余裕ができたラザリスは顔を上げ、フィノの額にひとつキスを落とした。大木の麓に背を預けて座り、フィノを自分の膝に乗せて後ろから抱きしめる。

 フィノは柔らかな毛布を纏っていた。見覚えのあるそれにラザリスは微笑む。

「マートルの葬儀のときに、俺がフィノをくるんでやったやつだな」

「……お気に入りなんです」

 毛布に口元をうずめ、幼いしぐさで頷いたフィノが可愛らしくてたまらず、フィノの頬に自分の頬をこすりつける。

「……あの、陛下。どうして、ここに?」

「迎えに来た」

「え……?」

「お前を迎えに来たんだ、フィノ」

 驚いたように目をまん丸にしたフィノの表情がおかしくて、ラザリスは思わず声を上げて笑った。

「フィノのそんな顔は初めて見るな」

 ラザリスが喉を震わせながら笑うと、フィノはさらに呆然としながら、

「……陛下のそんな顔も、初めて見ます」

 と、つぶやく。ラザリスはおかしくて、なおも笑った。

 フィノの形のいい頭を撫で、何から話をすればいいだろうかと考えた。いろんなことがあって、いろんな事実を知って、とにかく濃厚すぎる一日だったのだ。ラザリスの優秀な頭でさえ、処理に手間取っている。

 ラザリスはフィノの頬にそっと手を添え、ゆっくり撫でた。

「……フィノ。ここに来る前に孤児院に行ってきた。ダーナから話はすべて聞いた。フィノがヴィーザーだということも、血の話も」

 びくっとフィノの身体が跳ねて、瞬く間に硬直したのがわかる。深く俯いたのは、叱責を受けると思ったからだろうか。ラザリスは頬にふれているのとは反対の手でフィノの手をそっと掴み、安心させるように握った。

「大丈夫だ。何も心配はいらぬ。怖がる必要もない」

 そう声をかけたが、フィノの震えはなかなかおさまらなかった。ラザリスは根気よくフィノの背中を撫で続ける。

「……フィノ、顔を上げてみろ。俺はいま、怒っているように見えるか?」

 促すと、俯いたフィノは迷うような素振りをしたが、やがて恐る恐る顔を上げた。目が合った彼の顔は泣き出す寸前だ。

「怒っているか?」

 ラザリスは目元を細め、穏やかに聞いた。するとフィノはこぼれた涙を振り払うように何度も首を横に振り、

「いいえ……!」

 そう言って、ラザリスの首に両腕をまわし、ぎゅっと抱きついてきた。その身体をラザリスはしっかり受け止め、抱きしめ返す。

 背中を優しく叩いてやると、フィノは甘えるようにぐりぐりと頭を押しつけてきた。両頬に手を添えて視線を合わせる。きらりと光る神秘的な瞳のなかに、微笑んでいるラザリスが見えた。

「――本当の名を、教えてくれるか」

 囁くように懇願する。フィノはまた瞳に涙を浮かべた。

「怖がらないでいい」

 想いが正しく伝わるよう、額と額を合わせる。瞳で優しさを。両手で温かさを。そして、言葉で愛を。

「フィノ、お前の本当の名を教えてくれ。お前の口から聞きたい」

 フィノがゆっくりとまばたきをした。ひとすじ流れ落ちた涙。けぶるような睫毛が震えている。

「……僕……僕の、名前は……」

 しゃくりあげた健気な喉は、必死にラザリスの懇願に応えようとしてくれていた。今までひた隠しにしてきた真名を、ひた隠しにしなければならなくなった原因である皇族に打ち明ける、その恐怖と闘っている。

 それは最大限の、信頼の証。 

「……僕は、フィノ、ラピアス、オーブ……クアリゾンテ……!」

 言いきった瞬間、ラザリスはフィノに口づけていた。一歩を踏み出してくれた愛しい人に。

「フィノ……フィノ……! 好きだ……好きだ……!」

 思いのたけをすべて込めて伝えると、フィノは声をあげて泣き出した。目を見つめ、何度も何度も口づけを交わした。そうすることでしか、この胸に詰まった想いのすべてを昇華できなかった。そして、自分が無意識に傷つけてしまった彼の心を慰める方法はこれ以外にないと思った。

「フィノ、俺が好きか」

 フィノは涙でぐしゃぐしゃになった顔を何度も縦に振る。

「俺の妻になってくれるか」

 フィノは驚いたように目を見開き、けれど苦しげに顔を歪める。

「で、でも……陛下は、キュアル様と……」

「婚約は破棄だ。俺はお前を妻にする」

 力強く断言すると、フィノは言葉を詰まらせた。ぼろっと大粒の涙がこぼれる。

「フィノ。いいと言ってくれ。俺の妻になると。一生涯、俺のそばにいると」

 フィノは息もできない様子で、ぼろぼろと泣いた。泣いて泣いて、ひくつく喉でなんとか言葉を発しようと懸命に、健気に、何度も何度も首を振る。

「はい……はい……っ!」

 そして誓いのようにラザリスに口づけた。それが答えだった。



「どうしてこの場所ががわかったんですか?」

 涙を拭いて落ち着いたフィノに問われ、ラザリスは近くの木から事の成り行きを見守っていたザザに目をやり、ここまでの経緯を伝えた。ザザが留まっている木の下にはラザリスの愛馬が草を食みながらおとなしく待っており、フィノは立ち上がってゆっくり近づいていく。

 ラザリスの愛馬は賢いが、少々気難しい。ラザリスでなければ背に乗ることも、下手をすればふれられることも拒むのだが、目の前まで近づいたフィノには自分から挨拶するように頭を下げた。ラザリスが驚いているうちにフィノは笑い声まであげて鼻筋を撫でている。

「何を言っているのか、わかったりもするのか」

「言葉はわかりません。でも、感覚で意思が伝わることはあります」

 感覚と言われて、ラザリスは思い出したことがあった。

「さっき、俺は初めてザザの声を聞いた。ザザとはいつもあんなふうに意思疎通をしているのか? そもそも大鷹とクアリゾンテの関係性はいつからあるんだ。歴史書には第3代皇帝の時代に唐突に彼らが救世主として出てくるが……」

「クアリゾンテの一族は、ゼッカー帝国がストックマグナ小国と呼ばれていた頃からいたそうです。それで、僕がクアリゾンテの名前を継いでいるのと同じように、ザザはフォルクスという名前を受け継いでいます。だから本当の名前はザザ・フォルクス。フォルクスっていうのはストックマグナ小国時代にいた大きな神鷹の名前で、その神鷹フォルクスは人間に姿を変えられるぐらい強力な力をもっていたそうです」

「初めて聞く話だな」

 ラザリスは感嘆の声をあげた。文献には記されていない、おそらくクアリゾンテ一族しか知らない歴史だ。

「はじまりは、そのフォルクスという名の神鷹が人間のヴィーザーと恋に落ちたことでした。そのヴィーザーの名前がクアリゾンテといって、二人の間に生まれた子どもは全員、左目が緑で、右目が青でした。お父さんのフォルクスが青い瞳で、お母さんのクアリゾンテが緑の瞳だったからです」

 フィノは自分の目にふれる。

「神鷹であるフォルクスはその名のとおり、神でした。だから妻のクアリゾンテとの間に子どもが生まれるたびに大鷹を生み出し、我が子と一対にして一生護らせた。これが僕とザザ、つまりフォルクス一族とクアリゾンテ一族の始まりです。この話は、クアリゾンテ一族の子が小さい頃に御伽話として聞くんだとお母さんが言ってました」

 だから僕のお母さんもよく話してくれたんですよ、とフィノは微笑む。たしかに御伽話だが、こうして親が子どもに絵本の読み聞かせをするように口伝えていくことで、クアリゾンテの意思と歴史が後世に受け継がれてきたのだろう。自分たち一族の誇りを乗せて。

「ザザは人間の言葉を理解できるんです。でも、話すことはできない。その代わり、直接頭のなかに語りかけてくることはあります。陛下がおっしゃったのはそういうことですよね?」

「ああ、そうだ。頭のなかに……脳に直接声が響いてくるような、不思議な感覚だった」

「ザザが話しかけてくることはめったにないんです。大抵は無視しますから」

 僕が主なのにひどいですよね、とフィノは笑った。

「でも、ちゃんと僕のことを見てくれてるんですよ。気配に敏感だし、僕が落ち込んでるとすぐに気づきます。……たぶん、僕が泣き疲れたのを見計らって陛下のところに行ったんですね」

 ね、ザザ。フィノがそう言うと、ザザは面倒そうに欠伸をした。フィノのことが一番なくせに、なんでもなさそうな態度をするのがまた、ザザらしい。

「あの豪雨は、フィノのなかの、クアリゾンテの力だったんだな」

「……ごめんなさい。力が抑えきれなかったんです。自分でもどうしていいかわからなくて」

 眉を下げ、うっすらと涙を浮かべたフィノをラザリスは抱きしめた。

 フィノのせいではない。むしろ、あの豪雨は無自覚にフィノを傷つけてしまったラザリスが引き起こしたものだった。だから謝るべきはラザリスであってフィノではない。

 ふと、気づいた。あんなに激しい豪雨があったにも関わらず、ここの大地はほとんど濡れていないのだ。木々も、かすかに小雨が降ったような雨雫はあるが、葉もさほど落ちていない。

「フィノ、ここはどうして雨が降った形跡がないんだ? 街はひどい豪雨だったはずなのに」

 気づいてみればフィノの服も毛布も、雨に降られた様子はない。するとフィノは困ったような、少し悲しげな顔をして、「それはこの場所が『迷いの森』と呼ばれることに関係してます」と言った。

「実はこの森は、皇族に追われたクアリゾンテ一族が逃げ込んで、自ら命を絶った場所なんです。そして、命を絶つことができなかったわずかな人が、ひっそりと隠れて暮らした場所」

「では、地元の者たちが恐れて近寄らないのは……」

 フィノは頷いた。

「クアリゾンテの力が残ってるからだと思います。不思議なんですけど、この森の入り口はとても暗くて不気味なのに、中心地のこの場所は決まっていつも穏やかな気候を保ってるんです。夏でもそんなに暑くないし、今も寒くないでしょう?」

 言われてハッとした。まだ秋とはいえ冬が近い季節、しかもラザリスはずぶ濡れに近い状態だったのに、まったく寒くない。気づけばなにもなかったように服も乾いている。

「もう少しあっちに行くと、また開けた場所に出るんです。僕とお母さんはそこに住んでました。この場所は、小さい頃からの僕の遊び場です」

 あっち、とフィノが指差した先にはまた森が続いている。だが、特に目印のようなものはない。

「方向がわからなくなるということはないのか」

 『迷いの森』と呼ばれるぐらいだ。過去にこの森に足を踏み入れ、迷った者がいるからこそその名が付けられたはずだ。

「普通の人は確実に迷うと思います。でも、僕やお母さんはなんの疑問も持たずに森のなかを歩いてましたよ。たぶん、僕らがクアリゾンテの力に共鳴してるからだと思います」

「導かれている、ということか」

 でなければ、生き残ったクアリゾンテ一族の血を引く者たちは到底今まで生き延びることなどできず、簡単に捕まってしまっていたに違いない。そしておそらくこの場所がつねに穏やかな気候を保っているのは、自刃するしか道がないとすべてを諦めた一部のクアリゾンテ一族が、自分たちが土に還る場所を、永遠の眠りにつく場所を、せめて安らかな楽園にしたかったからではないだろうか。そしてもし、生き延びたクアリゾンテの者がいたのなら、自分たちの血を受け継ぐ誰かがいたのなら、決して自分たちのような哀しみを負わず、絶望を経験せず、幸せに在れますようにと、そう願った。平穏を望む彼らの最後の意思が、『迷いの森』を生み出し、今日までフィノを護ってきたのだ。

 すべてはラザリスの憶測でしかない。しかしそうとしか思えなかった。ラザリスは改めてフィノを抱きしめ、腕のなかの存在に感謝する。

「……先祖が、酷いことをした。申しわけなかった」

「陛下……」

「クアリゾンテの力を、よりによって私利私欲に使おうとした。皇帝として失格だ。愚かで、どう償っていいかわからぬほどに」

「陛下……」

 落ち込むラザリスに、フィノは黙って寄り添ってくれた。

 かつては、追われ、追い詰める関係性だった二人。この最悪な歴史を、先祖がしたことだからと終わらせることは簡単だが、それではだめだという強い思いがラザリスにはあった。きっとフィノも同じだろう。報復や復讐を望むのではなく、ただ誠意をもって弔いたい。もう大丈夫だから、みんな安心して眠ってほしいと、そう願う気持ちを伝えたい。

「……お花を、手向けたいと思うんです」

「花?」

「はい。僕と陛下で、両腕いっぱいの綺麗な花を。そうすればきっと、伝わります」

 瞳にうっすらと涙をためたフィノが、ぽっかりと開いた空間全体を眺めながら微笑む。そんなフィノを見て、ラザリスも頷いた。

「そうだな。フィノが言うなら間違いない」



 ダーナにこの場所のことは伝えていたのかとラザリスが聞くと、フィノは頷いてから心配そうな顔をした。養い親に心配をかけていることを思い出して、心苦しくなったのだろう。

「先生には、お母さんと住んでいた場所に一度戻りますと言いました。ちゃんと帰ってくるから心配しないで、と」

 合点がいった。だから孤児院で話をしたとき、ダーナにさほど慌てた様子がなかったのだ。同時に、最初にレーガーの部下が孤児院に聞き取りに行ったときの「フィノはいつものように皇城に向かった」という証言が嘘だったとわかる。すべてはフィノのために、彼女なりに考えて取った行動なのだろうが、一歩間違えれば処刑ものだ。ラザリスは溜息をついた。まったく、母という生き物は子を護るためならなんでもするのだなと苦笑いする。

「では、場所について具体的なことまでは教えていなかったんだな? 母親と住んでいた場所と言っただけで」

「はい。僕、ここのことは誰にも言ったことないんです。この場所は、言ってみればクアリゾンテ一族のお墓でしょう? だから僕が勝手に誰かにここのことを話しちゃいけないと思ったんです」

 クアリゾンテ一族の墓。まさにそうだろう。俯いたフィノを慰めるように、ラザリスは額にキスを落とした。顔を上げたので、その可愛らしい唇にも。

「……ここに来て、ひとりになりたかったんです。陛下のことが大好きだって気づいて、苦しくなって、我慢できないぐらい悲しくなって。とにかくひとりになって、気持ちを落ち着かせようとしました。必死だったので自分のことしか考えられなくて。……僕がお城に行かなかったことでもし陛下がお怒りになったら、今度こそ諦められるかもしれないって、そんな投げやりなことも考えてました」

「……心配した。心配なんて言葉では追いつかぬぐらい心配した。フィノが誰かに連れ攫われたのではないかと気が気でなくて」

「ごめんなさい」

 フィノはラザリスに抱きついた。

「いや、俺も悪かった。無自覚とはいえフィノを傷つけた。すまぬ」

 謝りながら、こめかみと、涙の残る目尻にキスを贈る。フィノは抱きつく腕に力をこめた。

「僕、よっぽど切羽詰まった顔をしてたんだと思います。孤児院を出るとき、先生に理由を言いなさいって言われたんです。いま胸の中にある苦しいものを全部私に吐き出してからにしなさい、泣くだけじゃ身体から出ていかない苦しさもあるんだからって。……だから僕、先生に話したんです。陛下のことが好きになっちゃって、でも、陛下はヴィーザー様と結婚することが決まってるから、どうしようもできないって。この気持ちをどうしたらいいのか、わからないって」

 小さな子どものように泣いて、嘆いて。気持ちを吐き出したフィノの頭を撫でながら、ダーナはただ話を聞いてくれたのだという。

「ダーナには、自分がヴィーザーだということは言っていたのか?」

「いいえ、今まで隠してました。でもそのときに言われたんです。お母さんから全部聞いてたって」

 ふふ、とフィノは眉を下げて笑った。

「驚いて、僕、固まっちゃったんです。そうしたら先生はにっこり笑って、心配ないわ、って。……安心しました。お母さんが先生に話してたのならなんにも心配ないって」

 心から安堵したようなその表情にラザリスも微笑む。

「ダーナはおそらく、俺たちの関係が動くと確信していたのだろうな。まったく……これも母の勘というやつなのか? 脱帽だ」

 ラザリスがおかしそうに笑うのを見て、フィノも笑った。

「……ダーナは俺を認めてくれたのだろうな」

「認める?」

 あどけない柔らかな頬を、ラザリスは突っつくようにさわった。

「フィノの夫になる男としてだ」

 フィノは一瞬で顔を赤くした。まったく本当に可愛らしい。愛しい。フィノを見るたび、近くでその体温を感じるたびに、あふれ出てくるのはその想いだけだ。

 ラザリスはフィノを宝物のように毛布でくるみ、抱き上げた。

「城に帰ろう。今日からそこがお前の家だ」

 口づけを交わした瞬間、まるで二人を祝福するかのように、満天の星空のなかにいくつもの流れ星が過ぎ去った。



 フィノを背中から抱き込むようにして愛馬に乗り、森を出る。レーガーたちは今か今かと気を揉みながら待っていたようで、二人が笑顔で森から出てくると諸手を挙げて喜んだ。レーガーなどは嬉しさのあまり、どさくさに紛れてラザリスからフィノを奪い取ろうとしたほどだ。もちろん主君に激しく睨まれた。

「心配をかけてごめんなさい」

 頭を下げて謝ったフィノを責める者はいなかった。怪我がなくて良かった、無事でいてくれて良かったと全員が安堵し、うち一人はフィノが無事である報告をしに孤児院に戻った。

 空が白みはじめている。青と紫がまじりあった夜の空から、次々に星たちが姿を消そうとしている。ラザリスたちが馬を走らせて少し経った頃には、山々の間から太陽が顔を覗かせるまでになっていた。今日はきっと晴れだ。澄みきった青空が広がる、気持ちのいい日になるだろう。

 移動は順調に進んだ。人々がまだ動き出す前の早朝、がらんとした中街と内街も問題なく通り過ぎ、やがて皇城の玄関口が見えてきたとき、ラザリスは怪訝に目を細めた。

 平時は閉まっているはずの扉がわずかに開き、そこに人々がたむろしているのだ。目を凝らすとそれは甲冑を纏った兵だったり軍服姿の役人だったり、皇城のなかで仕事をしているはずの使用人たちまでうろうろしている。一体なにをしているんだとラザリスが眉を顰めたとき、すぐそばを並走していたレーガーがおかしそうに噴き出した。

「みな、徹夜したんでしょうな」

「徹夜?」

「陛下の御帰還を、今か今かと待っていたのですよ」

 ラザリスは目を瞠った。じわじわと、くすぐったいような気持ちが臍のあたりから湧き上がってくる。嬉しいのに気恥ずかしいような不思議な感覚で、そうか、これが照れるという感情なのだなとラザリスは気づいた。

 思わず手のひらで口元を覆うと、レーガーが「陛下?」と、うかがうような声をかけてくる。

「いや、なんでもない。……俺は幸せ者だな」

 目を細めると、レーガーは同意を示すように大きく頷いた。

 やがて扉の前にたむろする人々の顔が認識できる距離まで馬が近づくと、あちらもラザリスたちに気づいて大きな声を上げはじめた。大きく腕を振ったり、城の中に知らせに走る者もいる。

「陛下だ! 陛下がお帰りになった!」

「陛下、よくぞご無事で……!」

「お帰りなさいませ!」

「心配しておりましたのよ、陛下!」

「レーガー様も御戻りだ!」

 人々は一斉にラザリスたちに向かって大歓声を上げ、手を叩いた。なかには号泣して手巾が間に合わない者もいる。それは瞬く間に音の洪水になり、まるで祝祭のような盛り上がりようだった。

 ラザリス一行は馬に乗ったまま玄関をくぐり、次の間につづく木製扉のところでようやく地に足を下ろす。

「フィノ!」

「おまえ、どこに行ってたんだ! 心配したんだぞ!」

 飛びかかるようにして駆け寄ってきたのは門番兵や若い役人たちだった。彼らはみな涙目で、ラザリスに抱きかかえられて馬から降りたフィノに詰め寄ってくる。責めているというより、心配で心配でたまらなかったのだろう。中年の門番兵など「本当によかった」とおいおい泣いていて、いま自分の目の前にいるのがこの国の皇帝だということにも気づいていない。そんな彼らに、毛布でくるまれたままのフィノも涙目になっていた。

「本当にごめんなさい。心配かけて」

 男たちはそれからもおいおい泣いていたが、気を利かせたレーガーが間に入ったことでなんとか落ち着いた。総括司令官によしよしと背中を撫でてもらえる経験など、二度とないだろう。

「――陛下!」

 聞きなじみのある声が聞こえた。声がした方を振り返ると、長い廊下を全速力で走ってくる人影が見える。ソイルだった。彼はラザリスとフィノの目前まで一目散に走ってくると、その勢いのまま、突進するように抱きついてきた。

「え……!」

「な……っ?」

 ラザリスとフィノは同時に声を上げ、特にラザリスは抱きかかえたままのフィノもろとも後ろに倒れ込みそうになった。寸前でなんとか踏ん張り、危機は脱したものの、ソイルは力のかぎりぎゅうぎゅうに抱きついてくる。苦しい、とラザリスはうめき声をあげた。このままでは間に挟まれたフィノもつぶれてしまう。

「ソイル、力を抜け……! フィノが……!」

「陛下! 書類は山のように溜まってますからね! 覚悟なさって下さい!」

「は?」

「フィノさん! もうやんちゃをしてはいけませんよ! 御飯は食べたんですか!」

「え?」

 ぽかんと口を開けたラザリスとフィノはゆっくりと身体を離したソイルの顔を見た。

 あのソイルが泣いていた。泣き腫らした目は真っ赤になっていて、しかし彼は次の瞬間、にっこりと満面の笑みになった。

「お帰りなさいませ!」

 ラザリスは笑った。フィノは大泣きしてソイルに抱きついた。



 私室に向かって歩くラザリスの靴音が、広大な廊下に響く。部下の顔に戻ったソイルはラザリスの後ろに付き従い、現状についての要点を手早く、かつ的確に報告した。

「――では、国交門はただちに開きます。一晩とはいえ完全に封鎖してしまいましたので、しつこく抗議をしてくる者も出てくるとは思いますが」

「よい。話がこじれた場合は俺までもってこい。事を荒立てたくないからな。昨晩の未曽有の豪雨の影響を鑑み、あくまで安全確保を最優先した緊急措置だったと説明したうえで損害に応じた保障費を出す」

「そのために日頃から良好な関係性を維持してまいりましたからね。……国交門を開け。今すぐだ」

「承知しました」

 ソイルの命令に、控えていた秘書官補佐のひとりが足早に廊下を引き返していく。

 皇城内はいつもとは違った興奮状態に満ちていた。ラザリスが無事に帰還したこともあるが、ラザリスが抱いて連れ帰ってきたフィノという存在が何なのか、あちこちで噂になっているからだ。おそらく今頃、フィノのことを知らない者たちは知っている者にこぞって話を聞いているだろう。なんといっても、我らの皇帝が御自らの足で、あの豪雨のなか捜しに行った少年なのだから。

 フィノはまだ一度も皇城の床に足をつけていなかった。毛布で大事にくるんだまま、ラザリスが決して手放さないからだ。昨晩一睡もしなかったラザリスもそれなりに疲労は感じているが、泣きどおしだったフィノはもっと疲れているだろう。腕の中を見ると、毛布にくるまれたフィノは抱きかかえられる揺れもあって、心地よさそうにうとうとしている。

 そのフィノが、ある人物の一声で覚醒した。

「――陛下、お帰りなさいませ」

 有無を言わせないような、重量感のある声音。足を止めて声がした方を振り返ると、そこには鋭い目つきのソルバー・グレイヴがいた。相変わらず隙がない。戦場で命の奪い合いを経験したことがある者特有の、どこか殺伐とした雰囲気。この帝国でラザリスの次に権力をもつ男。

 腕の中のフィノが震え出した。小さな身体をさらに縮こまらせてラザリスに縋りついてくる。

 フィノを抱きなおし、ラザリスは牽制するようにグレイヴを見据えた。愛する者を脅かす者は誰であってもゆるさない。近づかせない。仮にフィノを軽んじるような発言を一言でも発したら、たとえ彼であってもゆるしはしないと考えたとき――ふと、ラザリスは気づく。

 グレイヴがめずらしく疲れているように見えたのだ。よくよく見ればいつも丁寧に整えられている髪はわずかに乱れ、服も一目でわかるほどの皺がいくつもある。なにより目元には隈のような翳りがあった。

 グレイヴが重々しく口を開く。

「……本当に、よく御無事でお帰りくださいました。昨晩豪雨のなかを出ていかれたと知ったときは身が竦む思いでした」

「グレイヴ……」

「陛下に万が一のことがあっては、亡きハイドマンド様にどうお顔向けしていいかわかりません。あの方がどれだけ貴方様を可愛がっていらしたか……。私自身も、幼い頃から貴方様の成長を誰より間近で見守ってきたひとりです」

「……心配をかけた」

 ラザリスが詫びると、グレイヴはもう一度深く頭を下げた。無事に帰ってきてくれたのだからもう何も言うまい、というそぶりだ。しかし、次に顔を上げたグレイヴの視線はひどく剣吞なものだった。

「――そちらが、フィノ・ラピアスですな?」

 グレイヴの声音が変わった。ラザリスの腕の中の存在に、ひたと焦点を当てている。

 口中に苦味が広がる。その身を心から案じていたラザリスとは対照的に、グレイヴにとってフィノは憎き相手といっても過言ではない。なにしろ大事な主君を豪雨のなかに駆り出した原因だ。腕の中でいっそう震えをひどくしたフィノの恐怖を感じてとったラザリスは忠実な部下を睨みつけた。彼の心情を理解できないわけではないが、ラザリスとしてもここで引くわけにはいかない。

「口を慎め、グレイヴ。お前がねめつけているのは未来の皇妃だ」

 背後でソイルが息を飲む気配がした。グレイヴの眉が怪訝そうにぴくりと動く。

「意味がわかりかねますな。ご説明をいただいても?」

「言葉どおりだ。俺はフィノを妻にする。何も問題はない」

「何も問題ない……?」

 ラザリスが不敵に目を細めると、真意を見極めるようにグレイヴは顎を引き、何かを考える顔をした。その表情がハッとしたものになり、「まさか、その少年は」と口を開きかける。

「――お話の最中に失礼します」

 そのとき気品のある美しい声がその場に響いて、全員が一斉にそちらを振り返った。

 皇城の奥に続く回廊から優雅に歩いてきたのはキュアル・ミークだった。藤色の長い髪を揺らし、微笑を湛えて歩いてくるその姿はまさに女神のような輝きで、存在自体が『国家の繁栄と光の象徴』と謳われるにふさわしい。キュアルの姿を認めた途端、ラザリス以外の全員がすぐさまその場にかしずき、ヴィーザーに敬意を表した。

「キュアル様、お部屋を出られて大丈夫なのですか」

「お気遣いありがとう、グレイヴ大臣。もう平気よ。……陛下、お会いできてちょうどよかった。お話ししたいことがありまして、こちらまで出向きましたの」

 ラザリスが皇城を留守にしていた間、キュアルたちヴィーザーは昨晩の異常事態の影響――フィノの力だ――により体調を崩し、それぞれ私室で休んでいると報告を受けていた。そんな彼女がわざわざここまで、それもこんなに早くラザリスに会いに出向いてくるとは相当な何かがあるはずだ。

 にっこり微笑んだキュアルが、つい、とラザリスの腕の中の存在に目を向けた。さきほどのグレイヴのこともあって反射的に警戒したが、キュアルはふんわりしたいつもの雰囲気で音もなく近づいてくると、ラザリスとグレイヴの間に自然に入り込んでくる。そしてラザリスが大切そうに抱えている毛布のかたまりにそっと声をかけた。

「フィノくん、こんにちは。よかったら顔を見せてくれないかしら?」

 キュアルは柔らかな声で言った。怖がらせないように、怯えさせないようにという配慮が伝わってくる声音だ。驚いたのは周囲だ。ヴィーザーがただの庶民の少年に真っ先に声をかけるなど。

 フィノは毛布に顔をうずめ、縮こまってさらに震えた。キュアルはそんなフィノに優しく微笑みかけ、だいじょうぶよ、と語りかける。

「怖がらないでいいわ。何もしないし、怖いことは何も起こらない。わたくしを信じて」

 姉のような、あるいは母のような温かみのある声音はわずかにフィノの恐怖を溶かしたようだ。フィノは巣穴からちらりと外界を窺い見る小動物のように、恐々とラザリスを見上げてきた。縋るようなその瞳にラザリスは思わず顔を近づけ、額と額をふれ合わせる。またもや周囲が息を呑む気配がした。

「……陛、下。降ろして、ください」

 蚊の鳴くような声でフィノが訴え、ラザリスはそこでようやく愛しい人をそっと床に下ろした。くるんでいた毛布を肩にかけ直し、華奢な肩を護るように抱いてやると、フィノは幾分安堵したのか小さく息をつく。

 皇帝にここまで慈しまれるこの少年は一体何なんだという疑問と怪訝が周囲に満ちていた。

 


 フィノは震える胸をなんとか動かして息を吸い、吐いた。脳裏に母の声が蘇る。

――いい、フィノ。お城にいるヴィーザーとは絶対に顔を合わせちゃダメ。

 フィノは手のひらを強く握った。

(大丈夫。大丈夫だよ、おかあさん)

 閉じたまぶたに力を込めていると、肩に置かれた手にさらに強く引き寄せられた。顔を上げると、目が合ったラザリスが優しい瞳でフィノを見つめている。宝石のように光る金色の瞳が、俺がついている、と励ましてくれているようだ。

 フィノはそこでようやく微笑んだ。大丈夫。この人と一緒だから大丈夫。怖いものなんてもう何もないんだから。

 フィノはゆっくり向き直り、目の前のヴィーザー、キュアル・ミークとまっすぐに視線を合わせる。途端、耳鳴りのような甲高い音、あるいは音の振動のようなものが頭を突き抜け、全身を駆け巡る。

「風……?」

 背後でソイルがつぶやいた。部下やサラサたち侍女もきょろきょろとあたりを見回している。窓は開いていない。閉めきった建物内で風が起こるなど通常はありえない現象だ。

 キュアルをまっすぐに見つめ返すフィノの心は穏やかだった。肩を抱いてくれているラザリスの手のひらから彼の体温が伝わってくる。額が熱い。とくん、とくん、という規則的な鼓動が、全身に響くように律動している。血が――共鳴している。

 いつの間にか目を閉じていたキュアルは小さな風が上空に舞い上がって霧散しまうと、眠りから覚めたようにゆっくり目を開けた。そして満を持した花が開花するように、ふわっと微笑む。それはそれは嬉しそうに、まるで少女がときめくように頬を紅潮させて。

 次の瞬間、誰もが驚愕した。なんとキュアルがフィノに向かって腰を折り、優雅にお辞儀をしたのだ。サラサをはじめとした侍女たちはもちろん、ソイルたち秘書官、グレイヴまでもが愕然と目を見開いた。サラサなどは悲鳴じみた声さえ上げている。

「お嬢様! なんてことを……!」

 しかし当のキュアルは心から嬉しそうな満面の笑顔だった。侍女たちの非難の声などまったく聞こえないというように、彼女の視線はフィノだけに注がれている。そして次の言葉に、今度こそ周囲は卒倒しそうになった。

「――お会いすることができて光栄ですわ、クアリゾンテ様」

 恭しく告げられた名に、誰もが言葉を失った。ある者は硬直し、ある者は口に手を当てて目を見開いている。今しがた耳にした言葉は幻聴だったのではないかと、現実が呑み込めない者たちはただただ目の前の光景を見つめることしかできない。

 突然正体を暴露されたフィノも焦燥を通り越して愕然としていたが、グレイヴの張り上げた声にびくりと肩を跳ねさせた。

「クアリゾンテですと? 馬鹿な! あの一族は第7代皇帝の時代に滅びたはずですぞ!」

 しかしキュアルは冷静だ。

「いいえ、間違いありませんわ。フィノくんの瞳をよくご覧になって、グレイヴ大臣。クアリゾンテ一族特有の、左目が緑で、右目が青でしょう。わたくしと目があったときははっきり共鳴もしましたし、なにより――あちらには彼の守護者もいる」

 そう言ってキュアルは天井の一角を見上げた。つられるように全員が同じところを見上げると、そこにはザザがいた。前傾姿勢のその様子はこちらを観察しているようにも見えるし、いつでも攻撃できるよう虎視眈々と獲物を狙っているようにも見える。

「――フィノくん。あなたのザザは、フォルクスの名を継ぐ者でしょう?」

 キュアルの言葉は問いかける形ではあったが、その声音は確信に満ちていた。フィノは驚きつつも、何度も頷く。周囲が何度目かのざわつきに満ちた。

「フォルクス? クアリゾンテ一族を守護していたという、『光を射す鳥』のことですか?」

「ええ。ですから、みなさま迂闊な発言は控えた方がよろしくてよ。フォルクスは人間の言葉を理解するのですから」

 ふふ、とキュアルが意味深に笑うと、人々はごくりと生唾を呑み、様子をうかがうようにザザを見上げた。ザザはキュアルの言葉を裏付けるかのように両翼を大きく広げ、威嚇するような鳴き声をあげる。途端、侍女たちは飛び上がって悲鳴を上げた。

「フォルクスはもともと獰猛で攻撃的ですわ。主の言うことしか聞かず、主しか護らない」

 そこまで言うと、キュアルは一息ついてからじっとフィノを見つめてきた。その瞳は思わず後ずさってしまいそうなほど熱心で、フィノは戸惑う。

「……本当に」

「え?」

 つぶやいたキュアルの声は震えていた。

「本当に、こんなふうに巡り会えるだけではなく、お話までできるなんて、本当に奇跡としか言いようがないわ。わたくしたちヴィーザーはかならずクアリゾンテ一族のことを学ぶの。彼らが人々を愛し、大地を光で照らしたことは、わたくしたちヴィーザーにとっては憧れと羨望なのよ。ヴィーザー数人でやっと成し遂げることを、クアリゾンテ一族の優秀な者はたった1人で成し遂げることができたとさえ言われている。……昨晩のあの豪雨は、フィノくんの力だったのね?」

 フィノは思わず俯いた。自分ではどうしようもなかったとはいえ、自分の力を制御できなかったのはフィノ自身の責任であり、周囲に多大な迷惑や心配をかけてしまったことは事実だ。どう償えばいいかわからず小さくなっていると、肩に置かれたラザリスの手が励ますように抱き寄せてくる。

 あまり気にしてはだめよ、とキュアルが囁くように言った。ついで、フィノを安心させようとしてか、ソイルが教えてくれたところによると、昨晩の豪雨や雷による負傷者は幸いなことに皆無だったそうだ。フィノは心から安堵して長い溜息をついた。

「わたくしたちヴィーザーは人々に崇められる存在。どんなときでも心健やかに、寛大でいなければならない。周囲からの重圧で押し潰されそうになったときは、同じヴィーザーのチェルとイージィの3人で、よくクアリゾンテ一族の話をしたものよ。わたくしたちも心をしたたかに、皆の笑顔を護れる存在でいなければと」

 キュアルの微笑みを見つめ返しながら、フィノは、ああ、やはり彼女たちもヴィーザーとしての自分の存在に苦悩し、迷った時期があったのだと理解した。

「フィノくん。クアリゾンテは……あなたで、最後かしら?」

 キュアルの静かな問いに、フィノは一度大きく深呼吸したあと、はっきりと告げた。

「はい。僕がクアリゾンテ一族の、最後の生き残りです」

 そうだ。僕は最後の生き残り。僕はこのさき一生、クアリゾンテの名を背負っていくんだ。お母さんとお父さんがくれたこの名前を。お母さんたちとお父さんたちがくれた、この名前を。

 ラザリスがフィノの頭を撫でてくれる。その行為は小さい子どもにするようでありつつ、フィノの心をたしかに温かくした。彼の手はいつだってフィノを安心させてきた。

 キュアルに視線を移したラザリスが、しずかに彼女に呼びかける。

「いろいろと準備をしていたが、婚約は破棄だ。手間をとらせた、すまぬ」

 その謝罪は、単純に婚約を破棄するということに対してだけではないだろう。一度決まったことを白紙に戻すことで彼女が準備してきた時間のすべてを台無しにしてしまうことや、彼女に背負わせることになるすべての傷に対しての謝罪だった。しかし当の本人であるキュアルはさして気にしていないというようなそぶりで、「どうかお気になさらず」と明るく笑う。

「そうですわね、では、わたくしが本当に結婚するときにはわがままをたくさん言いますから、陛下は皇帝としてそれらを叶えてくださいな」

 それで帳消しにいたしますわ、と悪戯っ子のように微笑んだキュアルに、ラザリスは苦笑しつつすぐに了承した。彼女の本音は知る由もないが、聡い彼女のことだ、敬愛する皇帝に気負わせることのないよう、わざとおどけて冗談を言ったのだろう。

 話は終わったとばかりに、ラザリスが再びフィノを抱き上げた。そして改めて私室に向かおうと足を踏み出したところで、「お待ちください」と低い声が引き留める。

 声の主はもちろんグレイヴで、彼は固い表情のまま、しかしどこか信じられないという口ぶりでラザリスに確認してきた。

「……皇妃になさるとおっしゃいましたな。『何も問題はない』と」

 意味深な口ぶりに、ラザリスはグレイヴがすでに気づいたことを確信したのだろう。ラザリスは不敵に口角を上げると、そうだ、と頷いた。

「文句はあるまい? 血筋も、これ以上ない身分だ」

「……」

 グレイヴは表情を崩さず、しかし押し黙ったまま一言も反論しなかった。フィノがちらりと見上げると、ラザリスはおかしくて噴き出しそうになるのを堪えているように見えた。こんな人間らしい表情のラザリスは初めてで、フィノは驚きに目を瞠る。やがて、重く長い溜息ののちに、やれやれ、といったふうにグレイヴが首を振った。

「まったく……。実の親子でありながら、陛下とハイドマンド様はお顔立ちの美しさや御気性は正反対だと思っておりましたが……。そういう顔は本当に、御父君そっくりです」

 本当に、という言葉を強調したグレイヴの言葉に、ラザリスはついに耐えきれなくなったとばかりに声を出して笑った。声を出して笑う皇帝など今まで見たことがなかったフィノや人々は仰天し、あっけにとられる。

「ちょ、ちょっと待ってください! 話が見えませんよ!」

 どこからか困惑の声が聞こえて、ラザリスは不敵に振り返った。その顔はとっておきの秘密を教えてやると言わんばかりんの魅力的な表情で、一瞬で周囲を釘付けにした。

「――フィノは、ヴィーザーだ」

 あのときの、みなのひっくり返ったような顔は一生忘れられぬ。

 愉快げなその言葉は、のちのラザリスの口癖になった。



 ようやく私室に戻り、風呂で疲れをとったあと、ラザリスとフィノは重い身体を寝台に沈ませた。羽毛の寝具がここまで心地いいと思ったことはない。フィノを腕に抱えて髪を撫でると、フィノもすぐに力を抜き、ラザリスにすべてをゆだねてくる。

 額と唇にキスを贈ると、フィノもお返しにようにキスで返してきた。そうして幾ばくもしないうちに瞼が重くなってくる。フィノも満足げに深く息をついていた。お互い一睡もしていなかったのだから眠くて当たり前だ。

「……孤児院にはソイルが使いを出した。明日一日ゆっくりして、明後日いっしょに顔を見せれば問題ないだろう」

「はい……」

「そのとき、ダーナにフィノをもらう挨拶をせねばな」

 眠たげな声で笑ったラザリスの胸に、フィノが顔をうずめてきた。恥ずかしかったのだろう。可愛くて、ラザリスはかすかに笑いながら額にもう一度キスを贈る。

「フィノはいつ、自分がクアリゾンテであることを知った? パメラが亡くなる直前か?」

「いえ……。僕が言葉を理解できるようになったぐらいのときだったと思います。お母さんは僕に本当のことを教えないでも、クアリゾンテの名前を継がせなくても構わないんじゃないかって、そう思ったこともあったそうです。知らない方が幸せなこともあるからって。でも僕はクアリゾンテの血が濃くて、感情が高ぶると無意識に突然雨を降らせたり雷を呼ぶことがあったんです。だからお母さんは僕の将来のことを考えて、自分が何者なのかをちゃんと教えておく必要があったんだと言ってました。自分の力のことを知っておけば、ある程度コントロールすることもできるから」

「なるほどな」

 知らない方が幸せなこともある。その言葉を、パメラはどんな気持ちで我が子に伝えたのだろう。

 クアリゾンテの名を、自分たち一族が確かに存在していたことを、クアリゾンテの者として後世に残したい気持ちや誇りはきっとあっただろう。一方で母としては、受け継ぐにはあまりにも特殊すぎる血、我が子の将来を大きく左右するその血統は忌むべきものでもあったかもしれない。

 彼女の本音はわからない。永遠に知ることは叶わない。けれど最終的に、自分が何者であるかを知ったフィノはザザに導かれるようにしてラザリスと出会い、護られた。そしてこれから一生涯、ふたりは寄り添って生きていく。

「……もう一度、かならず、あの森へ行こう。フィノの母君たちに、会いに行こう」

 瞼が落ちる直前に伝えた言葉は、爽やかな朝の光の中にやさしく溶けていった。




<最終話 AT ALL HOURS>

 開け放った窓から入り込んできたやわらかな風が、頬を撫でる。遠くで、チチチ……と可愛らしく鳴く鳥の声が聞こえた。穏やかな昼下がり。

 優しく髪を撫でてくれる細い指の感触。ラザリスが愛してやまない人の温かい手。ふと目を開けると、愛しい妻の姿がそこにあった。

「目が覚めた?」

 囁く声は甘く、美しい。そしてその声と同じく美しい、長い金髪を手に取って、ラザリスはそれを弄ぶように自分の指に巻いた。

「……夢を見た。豪雨の日にいなくなったフィノを森まで迎えに行って、帰ってきたときの」

 懐かしい夢だった。愛しい妻をこの腕で抱きしめた、あの日の夢。

「早いものだ。あれからもう2年か」

 つぶやき、ラザリスはゆっくりと上半身を起こした。ラザリスが眠っている間ずっと膝枕をしていてくれた愛する人に、口づけを贈る。あの日から毎日毎日、繰り返してきた。

「愛している、フィノ」

「僕も愛してます」

 もう一度、口づけを交わした。



 ノックの音につづいて、「失礼します」という声がした。ソイルの声だ。ラザリスが返事をするとすぐにドアが開き、茶器を手にした秘書官が現れる。

「食後のお茶をお運びしました」

「ああ」

 ラザリスは頷き、先にソファーから立ち上がってフィノに手を差し出した。フィノはごく自然にその手を取って立ち上がる。窓からまたやわからかな風が吹いてきて、フィノの腰まである長い金髪を揺らした。誘われるように手を伸ばしてその髪にふれながら、ラザリスは最近ダーナがよく口にするようになった言葉を思い出した。

――あの子はパメラに生き写しだわ。

 孤児院の子どもたちを膝に乗せて笑い、おしゃべりを楽しむフィノを見て微笑んだ彼女の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。

「今日のお茶はキュアル様からいただいたんですよ。フィノ様が以前キュアル様のお部屋で召し上がったものと同じだそうです。とても気に入ったようだったから、と」

 ラザリスとともにテーブルについたフィノはぱっと表情を明るくし、両手を合わせる。

「サラサさんのお知り合いがお茶を作り始めたそうなんです。キュアルにお勧めされて飲んでみたらとっても美味しくて、またいただきたいですって言ったのをきっと覚えててくれたんですね」

 フィノは期待に満ちた表情でソイルが丁寧にお茶を淹れるのを待っている。ラザリスはそんな妻の様子を眺めながら、「それは楽しみだな」と目を細めた。

 お茶を蒸らすのに数分かかるとのことで、その間にとソイルは一冊の本をフィノに手渡した。

「フィノ様。こちらはグレイヴ大臣からのお預かりものです」

 手渡された本の表紙を見たフィノは何かに気づいたようににっこりと微笑む。

「何の本だ?」

「海の図鑑。孤児院の子どもたちが海を見てみたいって言ってたんだけど、ゼッカーに海はないでしょう? どうしようと思ってグレイヴ大臣に相談したの」

「なるほど、それで図鑑か。ゼッカーは山に囲まれているからな。外国に行かなければ海は見れぬか」

 なんでもないことのように言ったラザリスにフィノは首を傾げる。

「海を見たことがあるの?」

「ある。小さい頃、父上に連れられて外国へ行ったことがあるからな。……そうか、考えてみればフィノは海を見たことがないか」

「うん」

「ソイル。再来月、東国に行く予定があったな」

「はい。再来月のなかばにシュシュ国に表敬訪問の予定がございます。ルゥ陛下に第三皇子がお生まれになりましたので、御祝いの御訪問も兼ねて」

「シュシュには海がある。ちょうどいい機会だ。フィノ、行くだろう?」

 名案だとばかりにラザリスが告げると、フィノは子どものように喜んだ。グレイヴが選んだ図鑑を早速開き、二人で眺めながら海という未知の場所や生き物について話す。フィノは自分が海を見てみたいという気持ちもあるが、それ以上に孤児院の子どもたちに海がどんなものかということを詳しく話してあげたいのだと言った。自分のことより他者のことを考える性格は出会った頃から変わっていない。

 サラサの知り合いが作ったというお茶はたしかに美味で、香りを楽しみながら妻の笑顔を見ているとラザリスも自然と笑顔になった。あっという間に時間が過ぎていってしまう。

「なーんかイイ匂いすんなあ」

 突然声が聞こえて、3人は同時に振り返った。アズウェイが勝手にドアを開け、ずかずかとこちらへ歩いてきている。廊下にいたはずの衛兵が申しわけなさそうに何度も頭を下げていて、彼らの制止を聞かずに強引に押し入ったのは明らかだった。アズウェイはフィノのとなりにどかりと座った。

「アズウェイ。何か言うことはないのか」

「なにか? いただきますとか?」

 ラザリスは溜息をついた。傍若無人とはこのことだ。アズウェイはまるで店員に話しかけるように「俺にも一杯」とソイルに注文する。皇帝の私室でこれだけやりたい放題をして、今もなお無事でいるのはこの男ぐらいだ。

「てか、酒はねーの? 一本ぐらい隠してあるだろ」

「ありませんし、さすがに真っ昼間からお酒は出せませんよ。アズウェイ医師」

「固いこと言うなよ。どうせ飲むなら昼でも夜でも同じだろ」

「全然同じじゃありません」

 優秀な秘書官と皮肉屋の天才医師がぽんぽんと軽快に言葉を交わす。その姿をしばらく黙って見ていたフィノが、なにかに気づいたように口を開いた。

「……アズウェイ、機嫌が悪いの?」

 その瞬間、ぴたっとアズウェイの動きが止まった。どうやら図星のようだ。ソイルは、おや、と片眉を上げ、ラザリスは「機嫌が悪いなら違うところで発散してこい。邪魔だ」と容赦なく言い放った。

 アズウェイは面白くなさそうに顔を歪めた。そしてムシャクシャすると言わんばかりに髪をかき乱し、荒い息をつく。めずらしい。アズウェイは基本的に自分の素の感情を晒すことを良しとしない。たとえ何かに腹が立っても飄々とかわす男だ。

「アズウェイ、本当にどうしたの?」

 心底心配そうに話しかけたフィノにさすがのアズウェイも気が緩んだのかもしれない。しばらくして投げやりっぽく心情を明かした。

「……チェリーがガキばっか構って、つまらん」

 全員、ぽかんとした。何拍か間があって、徐々に羞恥で居たたまれなくなったらしいアズウェイはこれまためずらしく顔を赤くしながら、「あー! くそ!」と悪態をつく。

「それが父親の台詞か? 自分の子だろう」

「るっせーぞ! 予想外なんだよ、文句あんのか」

「考えればわかることだろう。チェルだぞ? 子どもが生まれたら猫可愛がりするに決まってる」

「その猫可愛がりの度合いが予想外だったっつーの! おい、フィノ。母親ってのは皆あんななのか? 一日中ガキにくっついて離れやしねえ。母性本能にもほどがある!」

「自分の子どもなんだから可愛いのは当たり前だよ。イクスはまだ1歳にもなってないんだし、今が一番目を離せない時期なんだよ」

 孤児院にいた頃は小さな子どもの世話もしていたフィノだ。赤ん坊の成長過程もある程度は知っている。

「それにしたってガキを優先しすぎだ! ヤッてるときだってガキが泣いた途端に俺に見向きもしないでベッドから出て行くんだぞ?」

「アズウェイ医師……」

 なるほど、本当の不満はそっちか。要するに愚痴を言いにきたわけだ。

 フィノは最初こそ驚いて目を丸くしていたが、やがてくすくすと笑い出した。ラザリスもあきれつつ、まったく平和なことだと息をつく。結局のところアズウェイの主張は「もっと妻と一緒にいたい」「もっと自分だけを見てほしい」というものなのだ。大きな子どもが地団駄を踏んでいる姿が脳裏に浮かんだ。

 ふと、ラザリスは先日のお茶の席でのことを思い出した。政務に一区切りがついたラザリスがフィノの顔を見に私室に訪れたとき、フィノはヴィーザーのひとりであるチェルとお茶を飲んでいた。彼の膝には件の愛息子がいて、彼は息子をあやしながらこんなことを言っていた。

――あのね、イクスが生まれたらアズウェイがたくさんヤキモチをやいてくれるようになったの。アズウェイには悪いけど、僕すごく嬉しいんだ。それに、ガキガキって口悪く言うけど、実はアズウェイの方がイクスに甘いんだよ。この前寝かしつけを頼んだら最初は面倒くさそうにしてたのに、あとから部屋を覗いたら抱っこして何度もキスしてたんだから。

 フィノより小柄な彼はそう言って、幸せそうに笑っていた。年齢はフィノとたいして変わらないのに、すでに立派な母親の顔だった。フィノもそんなチェル親子を眩しそうに見つめていて、まるで自分のことのように喜んでいたのだ。だから、

「でも、アズウェイはイクスが大好きだよね?」

 にっこり微笑んだフィノがそう問いかけると、アズウェイは一瞬意表を突かれたような顔をしたが、すぐに至極真面目な顔をして、

「当たり前だ。チェリーと俺の子だぞ」

 と断言した。アズウェイの背後で、ソイルがこっそり噴き出している。ふふ、とフィノは微笑んだ。

「すっかりお父さんだね、アズウェイ」

「はあ? 今そんな話してねえぞ」

「文句ばかり言うくせに、結局は息子が可愛いんだろうという話だ」

「んなことはわかってる」

「わかってるのか? それなら無自覚な親馬鹿だな」

「親馬鹿? 俺が? 馬鹿言うな!」

「馬鹿はお前だ。いいから黙れ。うるさい」

「ラザリス! お前ぜったい前より口悪くなったろ」

 噛みついてくるアズウェイにうんざりして、ラザリスはフィノを促してテラスに向かった。背後でアズウェイがまだ喚いていたが、ソイルに任せておけばいい。フィノとの貴重な休憩時間をこれ以上邪魔されたくない。

 テラスに出ると心地良い風が吹きぬけた。いい天気だ。空は青く澄んでいて、降り注ぐ陽光はほどよく温かい。気持ちいい、とフィノも笑った。華奢な肩をやさしく抱き寄せ、二人ならんで活気に満ちた城下街を眺める。

 14歳でラザリスに娶られたフィノは、今年16歳になった。少年だった頃の面影はあるものの、今では髪も伸び、顔立ちは美しく大人びて、まさに慈愛あふれる女神のような姿だ。最初は着慣れなさそうにしていた裾の長い衣装も、成長するにつれて清楚な美しさに拍車をかけるものになっている。

 クアリゾンテの名をもち、ヴィーザーでもあるフィノを、人々はいつしか『奇跡の皇妃』と呼ぶようになった。当初フィノはその呼び名に気恥ずかしそうにしていて、時には重圧も感じていたようだったが、ラザリスが「ありのままのフィノでいればいい」と伝えてからは心が晴れたのように笑顔を見せるようになっている。

 一方、ラザリスは21歳になった。これまで堅実に政務に向き合ってきたことが評価され、諸外国のなかでも若き賢君として名が知られるようになった彼は、フィノを妻に迎えてから積極的に街の視察にも足を向けるようになった。『太陽の皇子』と呼ばれた前皇帝・ハイドマンドとはまた異なる形ではあれど、国民を想い、政務に尽力する姿はますます人々から慕われ、同時にとても愛されている。

 ラザリスとフィノが夫婦になってから、皇城はよりいっそう笑顔であふれた。ラザリスが政務に精を出している間、フィノは時折レーガーとともに城中をめぐり、たとえば庭の花を慈しみながら庭師とおしゃべりをしたり、厨房の料理人と新しい献立を考えたり、廊下ですれ違う使用人たちと気さくに挨拶を交わして、困っている者がいないか聞いてまわった。地位や立場に関係なく、誰とでも平等に接するフィノは城中の者から愛されて、彼が姿を現すところには自然と人が集まった。

 また、充分な警護が可能な場合はキュアルとともに街に下り、人々と顔を合わせたり直接話を聞くことも習慣になった。これは、皇城の奥深くで護られていることだけがヴィーザーの存在価値ではないというキュアルの長年の想いから始まったことで、病人はヴィーザーを目にすることで活力を取り戻し、子どもたちは恩恵を受けてますます健やかに育った。聡明な彼女の発案によって改善されたこともいくつかあり、キュアルは今ではイリに続くフィノの親友のひとりである。

 たった2年の間にもさまざまなことが起こり、変化した。時にはうまくいかないこともあり、そのたび苦悩もあったが、それでもひとりひとりが一歩ずつ確実に、国のため、となりにいる誰かのために手を取り合い、励まし合ってきた。そんな毎日だった。

 ラザリスはフィノの腰を抱き、耳の横に小さくキスをする。くすぐったかったのだろう、フィノは身じろぎしながら可愛い声でくすくすと笑った。

 フィノは優しい匂いがする。心が落ち着く。春の陽だまりに似ているのだ。フィノの肩口に顔をうずめ、ラザリスはフィノをいっそう慈しんで抱きしめる。

「――リジィ?」

 妻しか呼ぶことを許していないラザリスの愛称を、優しい声でつむいでくれる。小さな手で背中を撫で、胸にすり寄ることで愛を伝えてくれる。互いのぬくもりだけで満たされるものがある。

 ふと、ラザリスは顔を上げた。

「そういえばザザの姿が見えぬな。どうした?」

 ラザリスが政務に出ている間、つねにどこからかフィノを見守っているはずの大鷹の姿が見えない。たしか今朝、二人で朝食を摂っていたときはこのテラスにいたはずだが。

「リジィが昼食で戻ってきたときに、入れ違いで外に行ったみたい。多分散歩にでも行ったんだと思うけど……」

 そうして二人で空を見上げたとき、真向かいの山間の方角からザザらしき大鷹がこちらに向かって飛んで来ているのが見えた。ちょうど帰ってきたみたい、とフィノが明るい声で指をさす。

 しかしよく見てみると、ザザのとなりに何かがいた。なんだろう、何か小さいものが――鳥だろうか?――ザザと並走するように飛んでいる。

「……なんだ?」

 二人で凝視しながら見ていると、間もなくしてザザとその小さな鳥はフィノとラザリスの目の前、テラスの柵に優雅に舞い降りた。凛々しい表情をしたザザのとなりに、ちょこんとおまけのようにくっついていたのは小鳥ではなく、まだ子どもの鷹だった。ザザと一緒にいるということは大鷹だろうか。小さいとはいえ、すでに鋭い嘴と鉤爪をもっている。

 ザザが誰かを連れてきたのも初めてなら、こんなに小さな大鷹を見るのも初めてだ。突然の来訪者にラザリスは首を傾げた。

「ザザの子か?」

 母親は誰だか知らないが、生物である以上、子孫を残すことはごくご普通の、自然の摂理である。考えられるなかでもっとも可能性が高そうな考えを口にしたラザリスはとなりのフィノに視線を向け、しかしその瞬間、ぎょっと目を丸くした。

 フィノは泣いていた。くしゃくしゃに顔を歪め、信じられないようにザザを見つめている。

「……ザザ……ほんと……? ほんとうに……?」

 喉をひくつかせながらフィノはザザに両手を伸ばし、額と額を合わせる。

「フィノ、どうした。何があった?」

 突然の妻の涙に驚いたラザリスが慌ててフィノを抱きしめると、フィノは首を左右に振りながらしがみついてきた。わけがわからないながら美しい髪を撫で、フィノ、と優しく名前を呼んでいると、異変を察知したらしいソイルとアズウェイもテラスに顔を出す。

 フィノはラザリスの胸に顔をすりつけながら途切れ途切れに言った。

「リジィ……僕、シュシュには……行け、ない……」

「シュシュ? 表敬訪問の話か? 行きたくないのなら無理に行かなくてもよい。強要はせぬ」

 唐突な話に首を傾げつつ優しい声でラザリスが言うと、フィノはなぜかまた左右に首を振った。違うということだろうか。話の筋がまったく見えず、ラザリスはソイルやアズウェイと顔を見合わせる。

「フィノ」

 愛しい人の名を呼びながら、ラザリスは流れ落ちる涙を拭ってやった。するとフィノはゆっくりと顔を上げ、目が合うなりにっこりと微笑む。それはこれ以上ないほどの満面の笑顔だった。

「リジィ、家族ができたんだよ。僕たちの赤ちゃん!」

 気づいたときには、ラザリスはフィノを抱き上げ、声を出して笑っていた。フィノも嬉し涙で瞳を潤ませ、声を上げて笑う。ソイルとアズウェイも歓声を上げ、肩を抱き合って喜んでいた。

 そうして4人で大喜びしていると、2年ぶりにザザが話しかけてきた。ラザリスはその言葉を聞いてさらに喜び、その吉報はまたたく間にゼッカー帝国中に広がった。

――この者の名はロワゾ・フォルクス。そなたと主の子を守護する者だ。



 人とは、あたたかいもの。

 人とは、やさしいもの。

 人とは、かけがえのないもの。

 生命とは、すばらしいもの。

 そのことを、19歳の孤高の皇帝は孤児院育ちの14歳の少年から教わった。のちに彼らは愛し合い、皇帝は愛妻家の賢君と呼ばれ、皇妃は自身の不思議な力を民のために使った。二人はいのちの灯火が消えるその瞬間まで愛を誓い合い、決して手を離すことはなかったという。

 ラザリス・ヴォン・ゼッカーと、フィノ・クアリゾンテ・ヴォン・ゼッカー。

 その夫婦の愛は歴史が通り過ぎた今もなお、ゼッカー帝国の歴史書のなかで褪せることなく続いている。




本作品は2008年に執筆し、当時運営していたブログにて連載・発表しておりました。今回、幾分か読みやすいよう加筆修正はしましたが、話の大筋は変えておりません。

私にとって生まれて初めて書いた長編オリジナルBLですので、いろいろな意味で思い入れの強い作品です。

(なお、この『ZERO HOUR』には未完成の2020年Ver.もありますが、こちらは2008年Ver.を改稿したものになります。)

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