地味令嬢は静かに去る ~あなたの光は、私が灯していた~
数ある作品の中から開いていただきありがとうございます(^^♪
一気に読んでいただいても、お気に入りの場面で一度閉じて続きを楽しんでいただいても、どちらも大歓迎です。どうか、ご自分のペースでゆっくりお付き合いください。(*‘ω‘ *)/
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第一章 十年分の朝
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目が覚めると、いつも夜明け前だった。
窓の外がまだ藍色をしている時間に、私はベッドから体を起こす。冷たい石床に足をつけて、深く息を吸う。それだけで、指先に魔力が集まってくるのがわかる。
潮が満ちるような感覚。
私の魔力は、そういうものだった。
貯める、というより、溜まる。溜まったものを流す。流れた先で何かが動く。地味で、目立たなくて、戦場でも社交界でも誰の目にも留まらない種類の力。
——でも、確かに動かしている。
ヴァルクロス侯爵家の屋敷は広い。廊下だけで私の実家の三倍はある。その廊下の両側に、魔道具が並んでいる。照明具、暖房具、来客用の芳香具、厨房の火力調整器、馬車の車輪に組み込まれた衝撃吸収具。そして書斎の——レイモンド様の——魔力増幅器と、遠征用の通信具。
私は毎朝、それらを一つずつ巡る。
手を当てて、魔力を送る。詰まっているところを解す。消耗しているところを補う。まるで屋敷全体の血脈を通わせるような作業を、今日で何年続けているだろう。
十年、だ。
婚約したのが十四歳で、今年で二十四歳になる。その間、一日も欠かしたことはない。
書斎の扉の前で立ち止まる。
中から羽ペンの音がする。早朝から書き物をしているらしい。
レイモンド様はいつもそうだ。誰よりも早く起きて、誰よりも熱心に仕事をする。侯爵家の跡取りとして申し分のない勤勉さで、それは本当のことだった。彼の聡明さも、政治的な判断の速さも、本物だと思っていた。
今でも、思っている。
ただ——
ただ、少しだけ。
扉をノックする前に、私は壁際の魔力増幅器に触れた。中に詰まった魔力の淀みを感じ取り、細い糸を通すようにそっとほぐす。増幅器の天辺の宝石が、淡く白く光る。
扉が開いた。
「エリナか」
レイモンド様は私を見て、すぐに書き物に視線を戻した。
「今日は午後から父上と会合がある。馬車の準備を頼む」
「はい」
「それと、夕刻に客人が来る。迎賓室の暖房が最近弱い気がするから、確認しておけ」
「承知しました」
彼は私の顔を見ていなかった。
見ていない、というより——そもそも焦点が合っていなかった。書類の上を走る視線が、私の方向には向かない。まるで、部屋の空気に話しかけているように。
それも、今に始まったことではなかった。
いつからそうなったのか、もう思い出せない。最初の頃は、少しだけ違った気がする。十四歳の婚約式の日、初めて会ったレイモンド様は、私の手を取って「よろしく頼む」と言ってくれた。その目は、ちゃんと私を見ていた。
でも、十年は長い。
毎朝魔道具を調整するのが当たり前になり、馬車の準備も私がするのが当たり前になり、遠征前の荷造りも、客人への手配も、屋敷中の不具合への対処も——全部が当たり前になった。
当たり前は、やがて透明になる。
私はいつの間にか、この屋敷の空気と同じになっていた。
「レイモンド様」
呼びかけたのは、自分でも意外だった。
彼が顔を上げる。少し、眉が上がった。私から話しかけることが珍しかったのかもしれない。
「……なんだ」
「今夜、お話できる時間はありますか」
少し間があった。
「今夜は客人の接待がある。明日にしろ」
「明日は会合が——」
「では明後日だ」
書類に視線が戻る。
私は一秒、扉の前に立っていた。
——そうですね。明後日に、しましょう。
でも、私はもう知っていた。明後日も、おそらく何かある。そういう十年だったから。
◆
夕刻の婚約破棄は、屋敷の大広間で行われた。
レイモンド様の父である侯爵閣下と、その場に呼ばれた数人の貴族の前で。
私は呼び出しの文を受け取った時から、何となく予感があった。胸の奥に薄い紙を一枚挟んだような、乾いた感覚。
大広間の扉を開けると、レイモンド様が立っていた。隣に、フェリシア・モーランという令嬢がいた。社交界では華やかさで知られる、侯爵令嬢だ。
私たちの目が合った。
フェリシア様は口元に薄い笑みを浮かべて、視線を外した。
「エリナ・クロスフィールド」
レイモンド様の声は落ち着いていた。怒りも、迷いも、感じられなかった。ただ淡々と、書類を読み上げるように。
「本日をもって、お前との婚約を解消する」
——やっぱり。
私の胸の中で、薄い紙が音もなく落ちた。
「よろしければ……理由を、お聞かせ願えますか」
自分の声が、思ったより静かだった。震えていなかった。
「簡単なことだ」彼は私を見た。今日は、見た。
「お前には、侯爵夫人として必要な実績がない。社交界での存在感も薄い。君が侯爵家に与えた具体的な貢献が、十年間で何一つ見当たらない」
何一つ。
その言葉が耳の中で反響した。
「魔道具の管理は使用人でもできる仕事だ。それ以上のことを、君はしてきたか?」
フェリシア様がそっと口を添えた。
「エリナ様、長い間お疲れ様でした。ご苦労なお役目でしたわね」
——ご苦労な、お役目。
何かが、腹の底で動いた。炎ではなく、もっと静かで冷たい何かが。
私は頭を下げた。
「——承知いたしました」
「荷物は明日までに」
「……今夜中に、まとめます」
「そうか、助かる」
顔を上げたとき、レイモンド様は既に書類に目を落としていた。
私が部屋を出るまで、彼は一度も振り返らなかった。
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第二章 最後の夜、石畳の音
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部屋に戻ると、侍女のミラが待っていた。
私の顔を見た瞬間、彼女の目が赤くなった。
「……エリナ様」
「荷造りを手伝ってくれる?」
「そんな、どうして——」
「ミラ」
私は彼女の手を取った。冷たかった。それとも、私の手が冷たいのか。
「泣かないで。私が困るから」
ミラは唇を噛んで、頷いた。
荷物は少なかった。
十年住んでいたのに、不思議なくらい少なかった。ドレスはほとんど侯爵家のものだから持ち出せない。装飾品も、婚約者として贈られたものはここに置いていく。
残るのは、自分で買ったわずかな書物と、着替えの何枚かと——
棚の奥から、古びた革表紙の冊子が出てきた。
日誌だ。
毎日の魔力供給の記録。どの魔道具に、何刻に、どれだけの魔力を通したか。詰まりがあった場所、補修した箇所、遠征前に特別に強化した通信具の状態。数字と場所と日付が、几帳面な文字でびっしりと埋まっている。
何冊あるだろう。数えたら、十二冊あった。
ミラが覗き込んで、息を飲んだ。
「……エリナ様、これは」
「癖みたいなもの。管理の記録よ」
私は十二冊を荷物の一番下に入れた。
どうせ誰も必要としないものだけれど——なぜか、捨てる気になれなかった。
◆
荷造りが終わったのは夜の中頃だった。
ミラを下がらせて、私は一人で廊下に出た。
捨てられた女が、真夜中に屋敷をうろついていると知れたら笑われるかもしれない。でも、足が自然に動いた。
いつもの朝の道を、逆に歩くような感覚だった。
廊下の照明具に手を触れる。魔力の流れを確認して、淀みがあれば直す。暖房具も、芳香具も、厨房の調整器も。
「……どうして、そんなことを」
いつの間にか、ミラがついてきていた。
「もう、この屋敷を出るのに」
私は少し考えた。
「——癖なので」
ミラが泣き出しそうな顔をした。
私は笑いかけた。うまく笑えたかどうかは、わからない。
最後に、書斎前の増幅器と、廊下の突き当たりの遠征用通信具に触れた。
通信具は少し消耗していた。遠征中のレイモンド様との連絡に使う、侯爵家で最も重要な魔道具だ。私が毎週補填していなければ、とっくに機能が落ちていたはずのもの。
手を当てて、魔力を送ろうとして——
——止めた。
なぜ止めたのか、自分でもうまく説明できない。
感情的になったわけではない。怒りで壊してやろうとも思わなかった。ただ、手を当てたまま、しばらく立っていた。
——これは、もう私のお役目ではない。
そう気づいただけだった。
静かに、手を離した。
石畳の廊下に、私の足音だけが響いた。
屋敷を出る直前、振り返った。
巨大な石造りの建物が、月明かりに浮かんでいた。十年分の朝が、あそこにある。夜明け前の冷たい空気も、魔道具の光も、誰にも気づかれなかった時間も。
——別に、いい。
本当に?
——本当に、いい。
少しだけ、嘘をついた気がした。
でも、もう歩き出していた。
馬車が、夜の街道へと消えていく。
◆
ふと、思い出した。
去年の春の夜会のことだ。社交界が苦手な私が、壁際で給仕のグラスを持って立っていた時。視線を感じて顔を上げると、少し離れたところに青年がいた。
金と白が混ざったような、珍しい色の目をした人だった。
じっとこちらを見ていた。侮るような目ではなく、品定めするような目でもなく。ただ、静かに観察するような——何かを見極めようとするような目で。
目が合うと、彼はわずかに頷いた。
それだけで、何も言わなかった。
私も何も言わなかった。
王太子殿下が社交界の隅で地味な令嬢を見るなんて、きっと偶然だったのだろうと、そう思って忘れていた。
——あの目は、何を見ていたのだろう。
馬車が揺れた。
目を閉じると、夜の街道がつづいていた。
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第三章 翌朝、魔力は尽きた
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ヴァルクロス侯爵家の混乱は、夜明けと同時に始まった。
最初に気づいたのは、厨房の料理長だった。
「暖房具が動かない」
次に侍女頭。
「廊下の照明が落ちています」
執事が駆け回る。魔道具師を呼ぶ。魔道具師は首を傾げる。
「魔力が、空ですね。充填されていない」
「昨日まで動いていたはずだ」
「それは……誰かが毎日補填していたからでしょう」
長い沈黙があった。
書斎の増幅器が止まったのは昼前だった。
侯爵閣下が激怒した。増幅器なしでは重要書類の処理速度が三分の一に落ちる。急ぎの案件が山積する。
誰も直せなかった。
侯爵家に使えた魔道具師たちは、使い方は知っていても、補填の仕組みを知らなかった。エリナがいつもやっていたから、構造を学ぶ必要がなかった。
エリナが、いつもやっていたから。
その言葉が、屋敷の中でじわりと広がった。
遠征先のレイモンドへの通信が途絶えたのは、三日後の夕刻だった。
通信具の魔力石が、完全に空になった。
遠征部隊との連絡手段が、一つもなくなった。
侯爵閣下は椅子から立てなくなったという。
宮廷に報告が上がったのは、それから一日も経たないうちだった。
「ヴァルクロス侯爵家の魔道具が全停止」「遠征部隊と通信不能」「原因不明」——その報告書が王太子殿下の執務室に届いた時、アルフォード・テオレス殿下は立ち上がりもせず、ただ一言つぶやいたという。
「やはり」と。
そして補佐官に命じた。
「クロスフィールド伯爵家のご令嬢の居所を確認してくれ。急ぎで」
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第四章 あなたの力を、教えていただけますか
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実家に戻ってから三日間、私はほとんど自室にいた。
両親は何も聞かなかった。父は険しい顔をして、母は私の顔を見るたびに目が潤んだ。それ以上でも以下でもなかった。
私自身は——何もなかった。
怒りも、悲しみも、思ったより来なかった。ただ妙に、体が軽かった。毎朝あの廊下を歩かなくていいと気づくたびに、何か余計なものを降ろしたような感覚があった。
それが悲しいことなのか、それとも正しいことなのか、よくわからなかった。
王太子殿下の使者が来たのは、屋敷に戻って四日目の朝だった。
正式な封蝋のついた書状と、「本日午後にご訪問したい」という打診。
母が蒼白になった。父が二度読みした。
私は書状を返して「承知いたしました」とだけ言った。
(私、何かしてしまったのかしら……)
◆
アルフォード殿下は、本当に午後に来た。
護衛二人だけを連れた、静かな訪問だった。大仰な礼装ではなく、動きやすそうな普段着に近い衣装で。
応接室で向かい合った時、私は殿下の目を見て——去年の春の夜会を思い出した。
金と白の混ざった、あの色の目。
「お久しぶりです、クロスフィールド嬢」
「……覚えていてくださったのですか」
「去年の夜会ですね。壁際で、給仕のグラスを持っていた」
私は黙って頷いた。
「あの時から、気になっていました」
「……光栄です、殿下」
「いや、少し違いますね」殿下は静かに首を振った。
「気になっていたのは、あなたのことではありません。正確には——あなたの周囲の魔道具のことです」
私は少し、首を傾けた。
「夜会の照明具がありますね。あの手のものは、数百人が集まると熱と湿気で魔力の流れが乱れる。普通は夜会の途中で一度は暗くなるものです。でもあの夜は、一度もなかった」
「……」
「不思議に思って観察していたら、壁際にいたあなたが、時々照明具にそっと手を触れているのが見えました」
胃の奥が、冷たくなった。
気づかれていたとは、思っていなかった。
「魔力の循環ができる人間がいる、とは聞いたことがありました。ただ、実際に見たのは初めてだった」
殿下は私をまっすぐ見ていた。去年と同じ目で。品定めでも、侮りでもない——何かを見極めようとする目で。
「今回のヴァルクロス侯爵家の件も、おそらくはあなたが去ったからだと推察しました」
私は答えなかった。
「エリナ・クロスフィールド嬢」
殿下が前に体を傾けた。
「一つ、お願いがあります」
「……」
「命令ではありません。強制でも、取引でもない。純粋な、お願いです」
私は息を止めていた。
「あなたの力を——王家に、貸していただけませんか」
沈黙が落ちた。
窓の外で、鳥が鳴いた。
——お願い、と言った。
命令でも取引でもなく、お願い、と。
十年間、そんな言葉を一度も言われたことがなかったと気づいた瞬間、胸の奥の何かが、静かに、ほどけた。
泣きたくなった。でも、泣かなかった。
代わりに、少しだけ笑った。
「……一つ、条件があります」
「聞かせてください」
「対価を、適切にいただきたい。慈善事業ではないので」
殿下は一瞬、目を丸くした。それから、初めて、表情が崩れた。
声に出して、笑った。
「もちろんです。むしろ、それが当然だと思っていますよ」
私は深く頭を下げた。
「では、謹んでお受けいたします」
殿下がこちらに手を差し伸べた。
私はその手を、取った。
手のひらが温かかった。
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第五章 侯爵の男が知った、本当のこと
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遠征から戻った俺を、城門で父上の使者が待っていた。
その顔を見た瞬間——嫌な予感がした。
通信が途絶えた時点で何かあるとは思っていた。最初は魔道具の故障だと判断した。あってはならないことだが、まあ珍しくもない。予備の連絡手段で何とかなると思っていた。
が、予備の連絡手段も動かなかった。
おかしいと感じたのはその時だ。あんなにきっちり動いていた通信具が、なぜ一斉に——
一斉に。
城門をくぐりながら、俺は考えた。何かを考えかけて、止まった。
考えたくなかった。
◆
宮廷に呼ばれたのは翌日だった。
正式な審問の形式だった。議場に通されると、宮廷官吏と、貴族の代表たちがいた。そして——上座に、アルフォード王太子殿下がいた。
「ヴァルクロス侯爵レイモンド、着席せよ」
俺は座った。背筋が冷えた。
「今日は単純な確認をしたい」殿下の声は穏やかだった。
「ヴァルクロス侯爵家の魔道具管理は、どなたが担当していたか」
「……それは、専属の魔道具師が」
「具体的に名前を」
俺は答えられなかった。
名前を、知らなかった。
エリナが毎朝やっていた。エリナに任せていた。エリナがやるものだと——
「では」殿下が別の書類を取った。
「この記録はご存じですか」
机に置かれた革表紙の冊子を、俺は見た。
見た瞬間に、わかった。
エリナの字だ。
「クロスフィールド嬢が、十年間書き続けた魔力供給の記録です。日付、時刻、対象の魔道具、供給量、修繕内容——全てが記されている」
めくられるページを、俺は見ていた。
見たくなかった。でも、目が離せなかった。
俺の名前があった。
遠征前日の記録に、毎回。
「増幅器、強化」
「通信具、魔力補充」
「遠征用装備、全点検済み」
今年だけではなかった。去年も、一昨年も、五年前も、八年前も。
「ヴァルクロス侯爵の遠征中の通信が一度も途絶えなかった実績が、侯爵位への昇進の一因だったと記録にある。その通信が維持できていたのは、この記録が示す通り、クロスフィールド嬢が毎週魔力を補填していたからだ」
議場がしんとなった。
「増幅器の稼働率についても同様だ。あなたの政務処理の速さは、その増幅器の安定稼働があってこそだった」
——違う。
俺は、増幅器を使いこなす才があった。政務の判断は俺自身の能力だ。通信だって、俺が部隊を正確に動かせたから——
「反論があれば聞きます」
殿下の声は、静かだった。怒っていなかった。ただ淡々と、事実を並べるように。
それが——怒鳴られるより、ずっと、きつかった。
「……俺は」
声が出にくかった。
「俺は、エリナが何をしているか、把握していなかっただけで——」
「ええ」
殿下があっさり頷いた。
「把握していなかった。だから昨日まで、自分の功績だと信じていた。それが事実でしょう」
俺は黙った。
——そうだ。
信じていた。
信じていた、というより——考えたことがなかった。エリナが毎朝廊下を歩いて魔道具を触って回っているのは知っていた。使用人と同じような仕事だと思っていた。それ以上でも以下でもなく、俺が動ける環境は俺の実力で作ったものだと、十年間——
「十年間、当たり前だと思っていた」
声に出していた。
議場の誰かが、何か囁く声がした。
「エリナは何も言わなかった」
そうだ。言わなかった。
一度も言わなかった。疲れたとも、認めてほしいとも、もっと見てほしいとも。
俺も聞かなかった。聞く必要を感じなかった。
——なぜ感じなかったんだ。
なぜ一度も——
「話を戻します」殿下の声が議場に響いた。
「クロスフィールド嬢は現在、王家との契約交渉中です。彼女の能力は、侯爵家ではなく王家に帰属することになるでしょう」
ぐらり、と視界が揺れた気がした。
「ヴァルクロス侯爵家については、魔道具の全停止により生じた損害を精査します。特に遠征部隊との通信途絶による軍事的損失は、相当額になると見込まれる。ご承知おきを」
俺は何も言えなかった。
「以上です」
殿下が立ち上がった。去り際に、一度だけこちらを振り返った。
「一つだけ、個人的な感想を言わせていただくなら——」
殿下の目が、俺を見た。憐れんでも、軽蔑してもいない。ただ、静かに。
「十年間、毎朝あなたのために動いていた人間の名前を、あなたは今日初めてきちんと呼んだように聞こえました」
議場の扉が、閉まった。
俺は椅子の上で、動けなかった。
◆
頭の中で、何かが次々と繋がっていた。
朝の廊下に、エリナがいた。いつも。夜明け前から。
魔道具が止まったことが、俺の就任以来一度もなかった。
遠征先での通信が、途切れたことがなかった。
書斎の増幅器が、いつも最高の状態だった。
全部。
全部、エリナが——
「……俺は」
誰もいない議場で、声が漏れた。
「俺は、何もしていなかったのか」
違う。俺の努力は本物だ。才能だって、判断力だって——
——でも。
でも、土台が。
土台が全部。
取り返しのつかないことをした、という感覚が、遅れて胃の底に落ちてきた。
エリナはもういない。
婚約を解消して、追い出したのは俺だ。
もう、二度と——
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第六章 光は、正しい場所へ
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王家との正式な契約が結ばれたのは、あれから半月後だった。
肩書きは「王宮魔道具管理官」。王宮内の全魔道具の維持と管理を一手に担う、新設されたポストだ。
専用の執務室が与えられた。
扉を開けた瞬間、思わず立ち止まった。
大きな窓があった。南向きで、陽光が真っ直ぐ差し込んでいた。あの屋敷の自室は北向きだったから、こんなふうに朝から部屋が明るくなることを、私は知らなかった。
しばらく、立ったまま光の中にいた。
「お気に召しましたか」
扉の前に、アルフォード殿下がいた。
「……盗み聞きはよくないと思います、殿下」
「ノックをしたら中に入れてもらえなかったので」
「開いていましたけれど」
「あなたが光の中で立っているのが見えたので、邪魔するのが惜しかった」
私は少し黙った。
それから、笑った。
今度は、うまく笑えた気がした。
「……とても気に入りました」
殿下が執務室に入ってきた。並んで窓の外を見た。王宮の庭が、春の盛りで花が開いていた。
「一つ、聞いてもいいですか」
「なんでしょう」
「あの夜会の後から、気になっていたと仰っていましたね。具体的に、どのくらい気になっていたんですか」
殿下がこちらを見た。少し、目が笑っていた。
「どのくらい、とは」
「侯爵家の動向を調べていましたか」
「……多少」
「多少」
「相当」
私は噴き出しそうになるのをこらえた。
「クロスフィールド嬢」
「はい」
「少し時間をかけて、あなたのことを教えてもらえますか。好きなものとか、嫌いなものとか、これからやりたいことだとか」
私は殿下を見た。
まっすぐな目だった。
見ている目だった。ちゃんと、私を。
「……長くなってもいいですか」
「いくらでも」
「では、順番に話します」
窓から、光が降り注いでいた。
私はその中で、初めて自分の言葉を持って、誰かに話す準備をした。
◆
その頃——ヴァルクロス侯爵家では、爵位の査問が始まっていた。
損失の総額は、誰の想定も超えていた。
遠征部隊との通信途絶による機会損失、魔道具の長期停止による業務遅延、取引先の複数が契約を見直した。後任の魔道具師を雇っても、エリナが十年かけて組み上げた循環の仕組みを再現できる者はいなかった。
レイモンドは査問の中で、繰り返し一つのことを聞かれたという。
「あなたは、クロスフィールド嬢が何をしているか、認識していましたか」
その問いに、彼が答えられる言葉は一つだった。
「——いいえ」
その答えが、すべてを語っていた。
私はその報を、執務室で書類を整理しながら聞いた。
ミラが「ご連絡が入っています」と小さな声で言いにきた。表情を気にしているのがわかった。
「そうですか」
私は書類から目を上げなかった。
感情は——思ったより、動かなかった。
怒りも、痛みも、痛快という気持ちも、何も来なかった。
ただ——ああ、やっぱりそうなったか、と。それだけだった。
十年間、私が灯していた光が、消えれば——そうなる。それだけのことだった。
私は窓の外を見た。
庭の花が、風に揺れていた。
明日も、夜明け前に起きるだろう。
でも、これからは。
この場所の光を、灯す。
——それが、私の仕事だ。
書類に視線を戻した時、執務室の扉がノックされた。
「クロスフィールド嬢、よければ昼食を一緒に」
アルフォード殿下の声だった。
私は少し間を置いてから——
「……では、少しだけ」
と答えた。
春の光の中で、私は立ち上がった。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました!
「地味令嬢は静かに去る 」、いかがでしたか?
面白い!と少しでも思っていただけたなら、評価(下の方にある☆☆☆☆☆)やリアクションで応援いただけると、本当に飛び上がって喜びます!
また他の作品でも、お会いできることを楽しみにしております(*‘ω‘ *)




