第九話 折り線の地図
榊原家の“沈み”——その言葉そのものが、長い時間を吸い込みすぎた地下の空間を思わせた。
憂楽は懐中電灯を手に、家の裏手にある古い物置の横を通り抜ける。
夜の空気は澄んでいたが、どこか紙の湿気のような匂いが鼻先にまとわりついた。
榊原家の沈みは、離れの床下へ潜る小さな入口から始まる。
梁の低さ、冷えた空気、そして何より——“音が吸われる”。
憂楽はそこで初めて、折れ線が示していた中心がこの空間であると確信する。
床下の奥へ進むと、一本の古い木箱が置かれていた。
その上に、白い和紙の切れ端——栞の素材と同じ紙質。
(ここが……中心だったんだ)
憂楽は木箱の蓋をそっと開けた。
中にはざらついた和紙が束になって入っていた。
そのすべてに“折れ線”が刻まれている。
角度はさまざま。
方向も違う。
だが——ひとつだけ確かな共通点がある。
**折れ線が“誰か一人の癖”ではない。**
「……複数の折り手がいた」
憂楽の声が沈みの空気に落ちていく。
榊原家の儀式“調整”。
本来は家系の長が行うと伝わってきたそれは、代々の当主だけではなく——
当主の補佐、嫁、そして“後継候補の姉妹”までもが、折り手として加わっていた。
つまり榊原家の折り目は、**“家”そのものの指紋だった。**
憂楽は栞を並べながら、それぞれの折り癖を読み取っていく。
——浅く折る者。
——深く畳む者。
——端をずらして折る者。
——わずかに震える折り目。
折り手の指先の力、迷い、ためらい。
それらは一つの物語を語り出していた。
(ここまでは、誰でも辿り着ける……)
だが、ここからが憂楽だけの領域だった。
憂楽は木箱の和紙にそっと触れた。
すると、異能が静かに立ち上がる。
——“折り目の下にある時間”が押し寄せてくる。
折った指の震え。
畳まれた和紙の温度の残滓。
折る前に迷った秒数。
躊躇の息遣い。
折り目に刻まれているのは、統一した“儀式”ではなく、
**その都度、折り手が抱えていた感情そのもの**だった。
そして——その中に“異質”があった。
ひとつの折れ線は、他とは明らかに異なる。
折り目の深さは均一。
指の迷いが一切ない。
角度が正確すぎる。
(……これは“人間の折り方”ではない)
憂楽はゆっくりと息を吸い込み、記憶を蘇らせた。
——アイシャの栞。
あの折れ線は、人の指先の揺らぎが一切なかった。
まるで“罫線の上を擦っただけ”のような正確さ。
(アイシャは……折っていない)
折ったのではなく——
折れ線を“なぞった”。
つまり、折り線の“正解”を知っていた。
ここで、憂楽は榊原家の真相に突き刺さる。
「折り手は、三人いた」
一人目は、榊原家の現当主。
深く、迷いのない折れ方。
二人目は、美弥。
——“途中で止まった折れ”。
三人目は——
アイシャが“なぞった折れ線”。
つまり、
**アイシャは折り手ではない。**
折られた存在。
折り目を刻まれた存在。
——家に“調整”された側。
八話まで見えていた像が、ここで完全に形を持つ。
美弥は“折られなかった者”。
家の“後継候補”。
まだ誰の線にも触れていない。
一方アイシャは——
生涯で一度だけ、折られている。
その折れ目を“矯正”するように、彼女は折れ線を避けていた。
(折られた過去を……見られたくなかったんだ)
憂楽は沈みの冷たい木の床に座り込み、ゆっくりと和紙を重ねた。
そして折り線の角度を延長する。
すると——
**すべての線が“ひとつの折れ線”へ吸い込まれる。**
榊原家の中庭でも、仏間でも、書斎でもない。
中心は沈みではなく——
「……家系図だ」
木箱の下に敷かれていた古い和紙の紙片。
それは家系図の一部だった。
その真ん中には、名前がない“空白”。
そして、そこへすべての折れ線が吸い込まれていた。
空白の横には、かすれた文字がある。
——“灯”
(……灯)
美弥の名前と同じ「美弥」の“弥”は
“女へんに爾”(ふえる・伸びる)を意味する。
灯と弥。
二つの漢字は古く、対になることがある。
(美弥は“灯”の後継だった……)
つまり、
**榊原家は代々“灯り”を折ってきた。**
光が強すぎる者を折り、調整し、家に馴染ませる。
美弥はまだ折られていなかった。
アイシャは——光を折られた。
だから、折れ線を避けていた。
(中心は、“灯り”そのものだったんだ)
憂楽はゆっくり立ち上がる。
ここまでで、真相の90%は解けた。
あと残っているのは、“美弥はなぜ栞を送ったか”。
そして——
**アイシャがなぜ“姿を引きずっていない”のか。**
この問いだけがまだ解けていない。
だが、核心は見えている。
沈みの出口へ向かいながら、憂楽は静かに呟いた。
「——アイシャ。君はやっぱり、榊原家の“灯り”だったんだな」
そして扉を押し上げたとき、外の空気が一気に流れ込んだ。
すべての折れ線の意味が、ひとつの光へ収束する。
憂楽のモノローグが始まる。




