第八話 折れ線の中心
夕暮れは街の輪郭を柔らかく溶かしながら、憂楽の足取りだけを静かに急かしていた。
榊原家の離れ——あの部屋で見た“折れ目”のパターンが、頭の奥で規則正しく呼吸している。
折り畳まれた栞。
折り畳まれた押し花。
折り畳まれた“指先”。
七話までで掴んだ何かは、まだ輪郭を持たない影のかたちで、ゆっくりと憂楽の背中を押していた。
古物商《憂楽》に戻ると、棚に置きっぱなしにしていた封筒がひとつ、まるで待ち伏せしていたように照明に照らされていた。
「……榊原美弥さん、か」
送り主を見るだけで、胸の奥に冷たい風が走る。
美弥は“折られなかった者”。
榊原家に生まれながら、一度も“調整”を受けていない唯一の女だった。
封筒の口を開けると、そこにはたった一枚の栞。
——白いジャスミンと、くっきり折られた線。
だが折れ方が違う。
今まで見てきたどの折れ線とも違う。
折れが“途中で止まっている”。
指先で触れた瞬間、憂楽の異能が静かに目を覚ました。
……折り手が迷った跡。
……決定が揺れている。
……中心が二つ、ある?
(二つ……?)
その瞬間、憂楽は悟った。
——榊原家における“折り手”は、ひとりではない。
積み重なった違和感が、ひとつの像を結ぶ。
憂楽は棚の引き出しから、今まで集めた六枚の栞を取り出した。
照明の下に、一直線に並べる。
一枚ずつ折れ線が違う。
一枚ずつ角度が違う。
だが——折れ線は、すべて“どこかで交わろうとしていた”。
それは偶然では終われない整合だった。
「……中心がある」
憂楽の声は驚くほど静かだった。
折れ線の角度を数学的に延長していくと、
すべての矢印が、ひとつの座標へ収束していく。
榊原家の中庭でもない。
仏間でもない。
家長の書斎でもない。
——“誰も近づかない場所”。
——“榊原家の沈み”。
その名を思い出した瞬間、憂楽は息を飲んだ。
「そこが……中心か」
そしてこの“中心”に矢を向けた最後の折り手は——
憂楽がこれまで“最も疑わなかった人間”だ。
だが、もう一枚の栞がその確信を決定づけた。
それは、アイシャが持っていた“折られた栞”。
触れられる前に奪い戻され、憂楽が一瞬だけ見た線。
あの線の角度——思い出すだけで、脳裏に焼き付いている。
その折れ線も、まっすぐ“中心”へ向かっていた。
つまり——
《アイシャもまた、中心を知っていた》
いや、知っていたどころではない。
彼女だけが、その場所を“避けようとしていた”。
すべての折れ線が中心へと向かうなか——
アイシャの折れ線だけは、その手前で“わずかに逸れて”いた。
憂楽は椅子に腰を下ろし、目を閉じた。
七話までに掴んだすべての情報が、ここに収束する。
榊原家の折り手。
美弥の立ち位置。
アイシャの意図。
そして“折り目”が示す中心。
だが——このまま核心へ踏み込む前に、
憂楽は静かに目を開き、棚の上の六枚の栞を見つめた。
ここで言葉を置くべきものがある。
憂楽は、読者のほうを振り向くように、
ゆっくり口を開いた。
「ここまで読んだあなたなら、もう分かるはずだ」
折れ線の中心とは何か。
榊原家の“折り手”は誰なのか。
美弥は何を背負い、何を選ぼうとしているのか。
そして——アイシャはなぜ“折り目を避けたのか”。
すべては、栞に刻まれていた。
「——ここから先はあなたの番だ」
憂楽の声が静かに響く。
「この物語の核心を、どうか読み解いてほしい」
読者への挑戦状は、淡々と、しかし確かな温度を持ってそこに置かれた。
そして憂楽は立ち上がり、決意を胸に、あの中心へ向かう準備を始めた。




