第七話 沈んだ声、浮かぶ線
翌日の路地は、昨日よりも静かだった。
曇天が低く垂れ、風はほとんど吹かない。
まるで、この通りだけ空気が沈んでいるようだった。
憂楽の店の中には、七枚の栞が並んでいる。
折れなし。
単線。
分岐。
逆折れ。
揺れ。
排除。
未練。
どれも折り方は違うが、
“折った手”だけが同じ。
(ひとりが“家の系譜すべて”を折っている……)
憂楽は、七枚の栞を順に並べ替えながら考えた。
折れの順番。
折れの強弱。
折れの角度。
折る時に揺れた“迷い”。
そのどれもが“家の流れ”に沿っている。
(これは、ただの犯人ではない)
憂楽の胸に、薄く鋭い痛みが走った。
(折っているのは──
家の中の誰か、ではなく。
“家そのもの”に最も近い人間)
◆
扉のベルが静かに鳴った。
「こんにちは……」
昨日の榊原家の男とは違う。
別の女性だった。
二十代後半ほど。
服装は地味だが、目だけが強い光を宿している。
「こちら……古物を見ていただけると聞いて」
女性はかすかに震える手で、白い紙片を差し出した。
──栞だった。
ジャスミンの押し花。
薄い和紙。
しかし折れは──浅い。
ほとんど“触れただけ”のような折れ。
「これは……どこで?」
「家の、仏壇の裏です。
母が亡くなって、片づけていたら……」
(また、榊原家)
憂楽は座るように促した。
「あなたのお名前をうかがっても?」
「榊原……美弥といいます。
本家ではなく、分家の方です。
でも子供の頃から……ずっと“折れた文”ばかり見てきました」
美弥の声は、どこか壊れそうだった。
「母も姉も……“折られる側”でした。
誰が折ったのか教えてもらえないまま、
ただ“従え”とだけ」
「……あなたは折られなかった?」
「はい。母が、わたしの栞は“絶対に折らせなかった”。
母は、折り手の前に立ち塞がって……
そのせいで、よく怒鳴られていましたけど」
憂楽は静かに栞を受け取った。
指先を触れた瞬間──
ふっと、
柔らかい光の層が広がった。
古い座敷。
障子越しの朝の光。
母の手。
子供の髪を撫でる優しい動き。
そして、和紙をそっと挟む仕草。
(……これは守るための文)
“この子は折らせない”。
その強い意志が刻まれていた。
憂楽は目を開いた。
「美弥さん。
あなたの栞は“折られたことがありませんね”」
「ええ……。
でも、それが“いつか折られる日が来る”と家では言われていました」
「折られるのは、家の線が乱れた時……と?」
美弥は小さく頷く。
「はい。
家の線が沈みかけた時、
折り手が動く、と」
(沈む家……)
昨日の男も同じことを言っていた。
線が沈む。
家が沈む。
それは“誰かが家系から外れる”ことではない。
もっと深い意味。
(家そのものが、“役割を果たせなくなる”という意味だ)
七枚の栞。
その折れ線の向きはすべてひとつの中心へ収束している。
(中心……)
◆
そのとき、店の奥でかすかな音がした。
憂楽が振り返ると、
薄暗い鏡台の前に──
アイシャが、いた。
輪郭は前より鮮明。
しかし、その顔はどこか疲れている。
「……また来たのか」
「来たのではありません。
“戻った”だけです」
アイシャは鏡の前から動かずに言った。
「榊原家の“折り手”。
それは、誰かひとりの役割ではありません。
ある“役目”が継承されるだけ」
「役目?」
「ええ。“家を沈ませないための調整”。
そして今、その役目は“代替わり”の時期に来ています」
美弥が息を呑む。
「代替わり……?」
「あなたも近いですよ、美弥さん」
憂楽の背筋が強く震えた。
アイシャは、美弥を見ているのではない。
“美弥の背後”を見ている。
「折られなかった栞は、“後継の文”です。
折り手になる可能性を秘めている」
「わたしが……折り手?」
「可能性の話です。
ただし、“あの人”がまだ折り切っていないので──
今は揺れています」
あの人。
誰かの顔が、まだ霧の奥にある。
「アイシャ、ひとつ答えろ。
“折り手”は家の人間なのか。
それとも……」
「家の線に触れられる者なら、誰でもなれます」
「じゃあ、あなたは?」
アイシャは微笑んだ。
「わたしは“折られた側”です」
美弥が絶句し、
憂楽の胸が強くざわついた。
「あの日、折られた栞の“裏側”にいたのがわたし。
だから、線が見える。
読めはしないけれど」
「じゃあ……あなたの本体は?」
アイシャの輪郭が、一瞬だけ揺らいだ。
「憂楽さん。
あなたが“層を読む力”の限界に触れかけています。
その先に行けば、わたしの“層”も見えるでしょう」
(限界の先……)
シミのように広がる恐ろしさと、
それでも踏み込むべき確信が同時に胸に刺さる。
「ただ、覚えておいてください」
アイシャは最後に静かに言った。
「“折られなかった栞”は、
必ず“誰かの灯り”になります。
沈む家を照らす灯りです」
そう言い残し、
アイシャは鏡の中へすっと沈むように消えた。
美弥は震える声で言った。
「……憂楽さん。
わたし、どうしたら……」
憂楽は静かに答えた。
「美弥さん。“灯り”は消えません。
あなたの栞は、折られていませんから」
沈む家の中で、
折られなかった唯一の栞。
それは、
家の終わりと始まりをつなぐ“文”かもしれなかった。




