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憂楽のアイシャ  作者: 不思議乃九✒️ちるまな編集部


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7/10

第七話 沈んだ声、浮かぶ線

 翌日の路地は、昨日よりも静かだった。


 曇天が低く垂れ、風はほとんど吹かない。

 まるで、この通りだけ空気が沈んでいるようだった。


 憂楽の店の中には、七枚の栞が並んでいる。


 折れなし。

 単線。

 分岐。

 逆折れ。

 揺れ。

 排除。

 未練。


 どれも折り方は違うが、

 “折った手”だけが同じ。


(ひとりが“家の系譜すべて”を折っている……)


 憂楽は、七枚の栞を順に並べ替えながら考えた。


 折れの順番。

 折れの強弱。

折れの角度。

 折る時に揺れた“迷い”。


 そのどれもが“家の流れ”に沿っている。


(これは、ただの犯人ではない)


 憂楽の胸に、薄く鋭い痛みが走った。


(折っているのは──

 家の中の誰か、ではなく。

 “家そのもの”に最も近い人間)



 扉のベルが静かに鳴った。


「こんにちは……」


 昨日の榊原家の男とは違う。

 別の女性だった。


 二十代後半ほど。

 服装は地味だが、目だけが強い光を宿している。


「こちら……古物を見ていただけると聞いて」


 女性はかすかに震える手で、白い紙片を差し出した。


 ──栞だった。


 ジャスミンの押し花。

 薄い和紙。

 しかし折れは──浅い。

 ほとんど“触れただけ”のような折れ。


「これは……どこで?」


「家の、仏壇の裏です。

 母が亡くなって、片づけていたら……」


(また、榊原家)


 憂楽は座るように促した。


「あなたのお名前をうかがっても?」


「榊原……美弥といいます。

 本家ではなく、分家の方です。

 でも子供の頃から……ずっと“折れた文”ばかり見てきました」


 美弥の声は、どこか壊れそうだった。


「母も姉も……“折られる側”でした。

 誰が折ったのか教えてもらえないまま、

 ただ“従え”とだけ」


「……あなたは折られなかった?」


「はい。母が、わたしの栞は“絶対に折らせなかった”。

 母は、折り手の前に立ち塞がって……

 そのせいで、よく怒鳴られていましたけど」


 憂楽は静かに栞を受け取った。


 指先を触れた瞬間──


 ふっと、

 柔らかい光の層が広がった。


 古い座敷。

 障子越しの朝の光。

 母の手。

 子供の髪を撫でる優しい動き。

 そして、和紙をそっと挟む仕草。


(……これは守るための文)


 “この子は折らせない”。

 その強い意志が刻まれていた。


 憂楽は目を開いた。


「美弥さん。

 あなたの栞は“折られたことがありませんね”」


「ええ……。

 でも、それが“いつか折られる日が来る”と家では言われていました」


「折られるのは、家の線が乱れた時……と?」


 美弥は小さく頷く。


「はい。

 家の線が沈みかけた時、

 折り手が動く、と」


(沈む家……)


 昨日の男も同じことを言っていた。


 線が沈む。

 家が沈む。


 それは“誰かが家系から外れる”ことではない。

 もっと深い意味。


(家そのものが、“役割を果たせなくなる”という意味だ)


 七枚の栞。

 その折れ線の向きはすべてひとつの中心へ収束している。


(中心……)



 そのとき、店の奥でかすかな音がした。


 憂楽が振り返ると、

 薄暗い鏡台の前に──


 アイシャが、いた。


 輪郭は前より鮮明。

 しかし、その顔はどこか疲れている。


「……また来たのか」


「来たのではありません。

 “戻った”だけです」


 アイシャは鏡の前から動かずに言った。


「榊原家の“折り手”。

 それは、誰かひとりの役割ではありません。

 ある“役目”が継承されるだけ」


「役目?」


「ええ。“家を沈ませないための調整”。

 そして今、その役目は“代替わり”の時期に来ています」


 美弥が息を呑む。


「代替わり……?」


「あなたも近いですよ、美弥さん」


 憂楽の背筋が強く震えた。


 アイシャは、美弥を見ているのではない。

 “美弥の背後”を見ている。


「折られなかった栞は、“後継の文”です。

 折り手になる可能性を秘めている」


「わたしが……折り手?」


「可能性の話です。

 ただし、“あの人”がまだ折り切っていないので──

 今は揺れています」


 あの人。


 誰かの顔が、まだ霧の奥にある。


「アイシャ、ひとつ答えろ。

 “折り手”は家の人間なのか。

 それとも……」


「家の線に触れられる者なら、誰でもなれます」


「じゃあ、あなたは?」


 アイシャは微笑んだ。


「わたしは“折られた側”です」


 美弥が絶句し、

 憂楽の胸が強くざわついた。


「あの日、折られた栞の“裏側”にいたのがわたし。

 だから、線が見える。

 読めはしないけれど」


「じゃあ……あなたの本体は?」


 アイシャの輪郭が、一瞬だけ揺らいだ。


「憂楽さん。

 あなたが“層を読む力”の限界に触れかけています。

 その先に行けば、わたしの“層”も見えるでしょう」


(限界の先……)


 シミのように広がる恐ろしさと、

 それでも踏み込むべき確信が同時に胸に刺さる。


「ただ、覚えておいてください」


 アイシャは最後に静かに言った。


「“折られなかった栞”は、

 必ず“誰かの灯り”になります。

 沈む家を照らす灯りです」


 そう言い残し、

 アイシャは鏡の中へすっと沈むように消えた。


 美弥は震える声で言った。


「……憂楽さん。

 わたし、どうしたら……」


 憂楽は静かに答えた。


「美弥さん。“灯り”は消えません。

 あなたの栞は、折られていませんから」


 沈む家の中で、

 折られなかった唯一の栞。


 それは、

 家の終わりと始まりをつなぐ“文”かもしれなかった。

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