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憂楽のアイシャ  作者: 不思議乃九✒️ちるまな編集部


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第五話 声のない証言

 午後の通りは、朝よりさらに人影が薄かった。


 憂楽の店の前は、小さな風の通り道みたいになっていて、

 曇天の隙間から落ちる光が、路地の奥で細く揺れている。


 カウンターには五枚の栞。

 それぞれの折れ線は、まるで違う楽譜の音符のように沈黙していた。


 折れなし。

 単線。

分岐。

 逆方向。

 そして──“無音”。


 五枚目の栞には、折れが一本だけある。

 だが、それは線というより「ためらい」に近い。

 折れ目の強さも、角度も揃っていない。


(……この折れ、意志が揺れている)


 誰かが意図して刻んだ痕跡ではなく、

 “誰か”の迷いがそのまま封じ込まれたような折れだった。


 憂楽が指先で軽く触れると、視界に微細なざわつきが走る。


 薄暗い部屋。

 古い鏡台。

 写真立ての影。

 布団の上にふらりと落ちた白い和紙。

 そして、手を伸ばし──

 折るか折らないか、そこで止まった指。


(この人は……折れをつけられなかった)


 折る意志と、折れない意志。

 どちらも強くない。

 ただ、迷っている。


 憂楽は静かに目を開けた。


(五枚目の栞は……“未遂の証言”だ)



 扉のベルが鳴る前に、気配が来た。


 顔をあげると、

 見覚えのある黒髪の女性──アイシャが、

 店の入り口に立っていた。


 輪郭はやはり薄い。

 光に馴染みすぎて、視界の端で揺らめく透明な影のようだ。


「……読んでいるんですね」


 アイシャの声は、風の音より静かだった。

 しかし、言葉ははっきり響いた。


「読んでいる、とは?」


「栞の“線”です。

 あなたにしか読めないでしょう?」


 アイシャが店に近づくと、

 憂楽は三歩ほど距離を取った。


 ──彼女には触れられない。


 触れた瞬間、きっと“層そのものが消えてしまう”気がした。


「あなたは……どこまで知っている」


「わたしは、“線を見ているだけ”。

 あなたが“層を読む人”なら、

 わたしは“線を追う人”です」


 憂楽は息を飲んだ。


 線と層。


 まるで、それぞれが違う辞書で同じ言葉を読んでいるようだ。


「榊原家の線は、長いです。

 千切れたこともあるし、

 絡まったこともある。

 だから“折れる”んです」


「……あんたは榊原家の人間なのか?」


 アイシャは、かすかに微笑んだ。


「そうとも言えるし、そうでないとも言える。

 わたしは“外側”にいます。

 でも、線は見える」


(外側……?)


 その曖昧な答えが、逆に意味を濃くした。


「事件の犯人を知っているのか」


「犯人……そう呼ぶ人もいるでしょう。

 でも、あれは“調整”です」


 憂楽の眉がわずかに動く。


「調整……?」


「線が乱れている。

 誰かが整えようとしている。

 それだけです」


 淡々とした声。

 怯えも怒りもなく、

 ただ、そこに“観察者としての確信”があった。


「では、四件目と五件目は?」


「四件目の線は“過去に向いた”。

 五件目の線は“未来に向いた”。

 事件は……まだ始まったばかりですよ」


 アイシャの言葉の最後は、

 風の音に紛れるように軽かった。



「……お前、いったい何者だ」


 憂楽が問うと、アイシャは表情を変えずに答えた。


「わたしは、あなたが読む“文”の終点おわりを知っているだけです」


(終点……?)


 その言葉に含まれた圧は、

 憂楽の胸に重く刺さった。


「あなた、気づいていますよね。

 あの五枚の栞──

 “すべて同じ手で折られていること”に」


 憂楽の息が止まった。


 ほんのわずか。

 しかし、その一瞬にすべてが動いた。


 五枚の折れ。

 強さも、角度も、迷いも、矢印も違う。


 だが、折れの“入り方”だけが──


(……同じ癖だ)


 力を入れる位置。

 折り始める角度。

 保持する指の間隔。


 どれも、同じ人間の癖。


(じゃあ……事件の全ての“文”を書いているのは──)


「気づいたようですね」


 アイシャが静かに言った。


「憂楽さん。

 この事件は“ひとり”が折っているんです。

 たったひとりが、すべてのふみを書いている」


 憂楽の喉が乾いた。


 ──犯人は複数ではない。

 ──すべて、同じ手。


 ただし、その“手”が誰かはまだ見えない。


「ひとつだけ教えておきます」


 アイシャは、栞の並ぶカウンターへ視線を落とした。


「五枚目の“揺れた折れ”……

 あれは、他の四枚とは違う意味を持っています」


「どう違う」


「折れたのではなく──

 **折れようとして、やめたんです**」


 憂楽の心臓が跳ねた。


 折り目をつけようとした人間が、

 その瞬間だけ“思いとどまった”。


「五枚目は“証言”なんです。

 折らなかった人の、声のない証言」


「誰が……ためらった?」


「それは言えません。

 わたしは“線を見る人”ですから。

 それを“読む”のは、あなたの役目です」


 アイシャは、店の奥の暗がりへと視線を向け、

 消えるように言った。


「憂楽さん。

 あなたの“層読む力”は、

 そろそろ“限界”に届きます。

 けれど──

 限界の先でしか見えない文がありますよ」


 風が通る。

 アイシャの影がすうっと薄れていく。


 憂楽が息を吸った瞬間、

 彼女はもうそこにはいなかった。


 ただ、カウンターに残された五枚の栞だけが、

 新しい“線”の気配を静かに灯していた。

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