第五話 声のない証言
午後の通りは、朝よりさらに人影が薄かった。
憂楽の店の前は、小さな風の通り道みたいになっていて、
曇天の隙間から落ちる光が、路地の奥で細く揺れている。
カウンターには五枚の栞。
それぞれの折れ線は、まるで違う楽譜の音符のように沈黙していた。
折れなし。
単線。
分岐。
逆方向。
そして──“無音”。
五枚目の栞には、折れが一本だけある。
だが、それは線というより「ためらい」に近い。
折れ目の強さも、角度も揃っていない。
(……この折れ、意志が揺れている)
誰かが意図して刻んだ痕跡ではなく、
“誰か”の迷いがそのまま封じ込まれたような折れだった。
憂楽が指先で軽く触れると、視界に微細なざわつきが走る。
薄暗い部屋。
古い鏡台。
写真立ての影。
布団の上にふらりと落ちた白い和紙。
そして、手を伸ばし──
折るか折らないか、そこで止まった指。
(この人は……折れをつけられなかった)
折る意志と、折れない意志。
どちらも強くない。
ただ、迷っている。
憂楽は静かに目を開けた。
(五枚目の栞は……“未遂の証言”だ)
◆
扉のベルが鳴る前に、気配が来た。
顔をあげると、
見覚えのある黒髪の女性──アイシャが、
店の入り口に立っていた。
輪郭はやはり薄い。
光に馴染みすぎて、視界の端で揺らめく透明な影のようだ。
「……読んでいるんですね」
アイシャの声は、風の音より静かだった。
しかし、言葉ははっきり響いた。
「読んでいる、とは?」
「栞の“線”です。
あなたにしか読めないでしょう?」
アイシャが店に近づくと、
憂楽は三歩ほど距離を取った。
──彼女には触れられない。
触れた瞬間、きっと“層そのものが消えてしまう”気がした。
「あなたは……どこまで知っている」
「わたしは、“線を見ているだけ”。
あなたが“層を読む人”なら、
わたしは“線を追う人”です」
憂楽は息を飲んだ。
線と層。
まるで、それぞれが違う辞書で同じ言葉を読んでいるようだ。
「榊原家の線は、長いです。
千切れたこともあるし、
絡まったこともある。
だから“折れる”んです」
「……あんたは榊原家の人間なのか?」
アイシャは、かすかに微笑んだ。
「そうとも言えるし、そうでないとも言える。
わたしは“外側”にいます。
でも、線は見える」
(外側……?)
その曖昧な答えが、逆に意味を濃くした。
「事件の犯人を知っているのか」
「犯人……そう呼ぶ人もいるでしょう。
でも、あれは“調整”です」
憂楽の眉がわずかに動く。
「調整……?」
「線が乱れている。
誰かが整えようとしている。
それだけです」
淡々とした声。
怯えも怒りもなく、
ただ、そこに“観察者としての確信”があった。
「では、四件目と五件目は?」
「四件目の線は“過去に向いた”。
五件目の線は“未来に向いた”。
事件は……まだ始まったばかりですよ」
アイシャの言葉の最後は、
風の音に紛れるように軽かった。
◆
「……お前、いったい何者だ」
憂楽が問うと、アイシャは表情を変えずに答えた。
「わたしは、あなたが読む“文”の終点を知っているだけです」
(終点……?)
その言葉に含まれた圧は、
憂楽の胸に重く刺さった。
「あなた、気づいていますよね。
あの五枚の栞──
“すべて同じ手で折られていること”に」
憂楽の息が止まった。
ほんのわずか。
しかし、その一瞬にすべてが動いた。
五枚の折れ。
強さも、角度も、迷いも、矢印も違う。
だが、折れの“入り方”だけが──
(……同じ癖だ)
力を入れる位置。
折り始める角度。
保持する指の間隔。
どれも、同じ人間の癖。
(じゃあ……事件の全ての“文”を書いているのは──)
「気づいたようですね」
アイシャが静かに言った。
「憂楽さん。
この事件は“ひとり”が折っているんです。
たったひとりが、すべての文を書いている」
憂楽の喉が乾いた。
──犯人は複数ではない。
──すべて、同じ手。
ただし、その“手”が誰かはまだ見えない。
「ひとつだけ教えておきます」
アイシャは、栞の並ぶカウンターへ視線を落とした。
「五枚目の“揺れた折れ”……
あれは、他の四枚とは違う意味を持っています」
「どう違う」
「折れたのではなく──
**折れようとして、やめたんです**」
憂楽の心臓が跳ねた。
折り目をつけようとした人間が、
その瞬間だけ“思いとどまった”。
「五枚目は“証言”なんです。
折らなかった人の、声のない証言」
「誰が……ためらった?」
「それは言えません。
わたしは“線を見る人”ですから。
それを“読む”のは、あなたの役目です」
アイシャは、店の奥の暗がりへと視線を向け、
消えるように言った。
「憂楽さん。
あなたの“層読む力”は、
そろそろ“限界”に届きます。
けれど──
限界の先でしか見えない文がありますよ」
風が通る。
アイシャの影がすうっと薄れていく。
憂楽が息を吸った瞬間、
彼女はもうそこにはいなかった。
ただ、カウンターに残された五枚の栞だけが、
新しい“線”の気配を静かに灯していた。




