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憂楽のアイシャ  作者: 不思議乃九✒️ちるまな編集部


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4/10

第四話 指先に残る声

 榊原が去ったあと、憂楽は路地に出た。


 曇天は相変わらず低い。

 人通りは少なく、風が通るたびに古いビルの壁がわずかに軋む。


(……見間違いじゃなかった)


 さっきガラス戸の向こうに映った黒髪の影。

 あれはアイシャだ。


 しかし、姿はますます薄くなっている。

 まるで“この世界に完全には属していない”ように。


 憂楽の中で、三枚の栞の折れ線よりも深い違和感が広がっていた。


 店に戻ると、スマートフォンが再び震えた。

 着信ではなく、メッセージの通知だった。


 ──差出人不明

 ──本文:ただ、見ているだけ。


(……またか)


 事件が起きるたびに届く謎の短文。

 送り主は不明。

 言葉はいつも“観察者”のような温度で、落ち着いている。


 それが、余計に不気味だった。


 憂楽はメッセージを閉じ、椅子に腰を下ろす。

 カウンターの上の三枚の栞を見つめながら、思考を重ねていく。


(一枚目は折れなし。

 二枚目は一点だけ刺すように折られた。

 三枚目は分岐……。

 そして、今ここには──)


 椅子の上に置かれた“第四の栞”。

 薄く折れた線が一本。

 けれど、方向が他のものと少し違う。


 そして何より──

 “誰の層もない”。


 憂楽はそれに触れた。


 静寂。

 しかし、何も見えないのではなく、“消されている”感覚。


 視界に浮かぶのは、黒い空間と、白い指先。

 その指が、栞の折り目をひとつずつ刻んでいく。


 折る音はしない。

 けれど、確かに誰かがそこに存在している。


(……これは、いるのに、いない)


 その“誰か”は栞に痕跡を残すが、

 自分自身の時間だけは残さない。


 まるで、影のような。


 憂楽は思わず名を呼んでいた。


「アイシャ……なのか」


 返事はなかったが、

 空気がかすかに揺れたような気がした。



 昼過ぎ、店の前にひとりの男性が立っていた。


 四十代前半くらい。

 スーツはきちんとしているが、ネクタイだけが少しずれている。


「古物、見てもらえるんですよね」


 声は落ち着いていたが、どこか焦燥を含んでいる。


「どうぞ」


 憂楽が迎えると、男は内ポケットから封筒を取り出した。


「実家の遺品を整理していて……これだけ、どうにも処理できなくて」


 封筒を開くと、中から出てきたのは──

 白いジャスミンの栞。


 だが、それは今までのものと明らかに違った。


 折れ線が三本。

 細い矢印が、複雑に絡むように刻まれていた。


(……これは、強い)


 触れずとも分かる。

 この栞には、はっきりした“意志”がある。


「ご家族のものですか?」


「ええ。母の……遺品です。

 母は、ずっと榊原の本家と付き合いがあったらしくて」


 榊原。

 まただ。


「榊原家と……どういう?」


「遠縁です。母は本家からあまり良く思われていなくて。

 詳しいことは知らないんですが……」


 男は言葉を選ぶように、顔を伏せた。


「ただ……母の葬儀のあと、本家の人が突然来て、

 “その栞だけは絶対に手放すな”と言われて」


「手放したら、どうすると?」


「“家の線が乱れる”と……」


 憂楽は呼吸をひとつ整えた。


(家の線……)


 ジャスミンの栞に刻まれた折れ線。

 死んだ者の層。

 残った者の層。

 継がれていく線。


 それを“家の線”と呼ぶのなら、

 榊原家は昔からこの暗号を使っていたことになる。


(なら、今回の連続事件は)


 ただの犯人の“署名”ではなく──

 家に対する“復讐”か、

 家を守るための“調整”か。


 いずれにしても、

 榊原家の内部から生まれた線だ。


「この栞……母が亡くなる直前まで持っていました。

 本家と連絡を取らなかった理由も、俺には分かりません」


 男の手は静かに震えていた。


(……折れ線が三本あるということは)


 方向は三つ。

 選択は三つ。


 そして、その中心には必ず“ある人物”が立つ。


 憂楽の指先がわずかに震えた。


(──家の核にいる“誰か”)


 そのとき、男がふと思い出したように言った。


「母が言っていたんです。

 “榊原の花は、摘まれたら終わりじゃない。

 折られたときに、本当の意味が出る”と」


「……折られたときに?」


「はい。花じゃなくて、文の話だったみたいで……

 でも、結局どういう意味なのか、俺にも分からないままで」


 憂楽は息を飲んだ。


 ──折られたときに、意味が出る。


 それはまさに、

 この連続栞事件の核そのものだ。



 男が去ったあと、

 憂楽は店の奥に置かれた椅子へ向かった。


 そこには、いつの間にか白い紙片。


 “第五の栞”。


 折れは──一本。

 しかし、他とは逆方向を向いている。


(二つの方向が交差する、反転の折れ)


 その瞬間、憂楽の背筋にひやりとした感覚が走った。


 事件は外へ広がっていくのではなく、

 反転し、内へ戻ろうとしている。


 まるで、“中心”へと収束するように。


 その中心が誰なのか──

 まだ見えない。


 だが、アイシャだけは知っている。


 憂楽は、店の薄暗い奥を見つめて言った。


「……アイシャ。

 “花を摘んだ手”は、もうすぐ見えるのか」


 返事はない。

 ただ、奥の空気がひとつ波打ったように揺れた。


 その微細な揺れの中に、

 確かな“意志”の層が宿っていた。

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