第四話 指先に残る声
榊原が去ったあと、憂楽は路地に出た。
曇天は相変わらず低い。
人通りは少なく、風が通るたびに古いビルの壁がわずかに軋む。
(……見間違いじゃなかった)
さっきガラス戸の向こうに映った黒髪の影。
あれはアイシャだ。
しかし、姿はますます薄くなっている。
まるで“この世界に完全には属していない”ように。
憂楽の中で、三枚の栞の折れ線よりも深い違和感が広がっていた。
店に戻ると、スマートフォンが再び震えた。
着信ではなく、メッセージの通知だった。
──差出人不明
──本文:ただ、見ているだけ。
(……またか)
事件が起きるたびに届く謎の短文。
送り主は不明。
言葉はいつも“観察者”のような温度で、落ち着いている。
それが、余計に不気味だった。
憂楽はメッセージを閉じ、椅子に腰を下ろす。
カウンターの上の三枚の栞を見つめながら、思考を重ねていく。
(一枚目は折れなし。
二枚目は一点だけ刺すように折られた。
三枚目は分岐……。
そして、今ここには──)
椅子の上に置かれた“第四の栞”。
薄く折れた線が一本。
けれど、方向が他のものと少し違う。
そして何より──
“誰の層もない”。
憂楽はそれに触れた。
静寂。
しかし、何も見えないのではなく、“消されている”感覚。
視界に浮かぶのは、黒い空間と、白い指先。
その指が、栞の折り目をひとつずつ刻んでいく。
折る音はしない。
けれど、確かに誰かがそこに存在している。
(……これは、いるのに、いない)
その“誰か”は栞に痕跡を残すが、
自分自身の時間だけは残さない。
まるで、影のような。
憂楽は思わず名を呼んでいた。
「アイシャ……なのか」
返事はなかったが、
空気がかすかに揺れたような気がした。
◆
昼過ぎ、店の前にひとりの男性が立っていた。
四十代前半くらい。
スーツはきちんとしているが、ネクタイだけが少しずれている。
「古物、見てもらえるんですよね」
声は落ち着いていたが、どこか焦燥を含んでいる。
「どうぞ」
憂楽が迎えると、男は内ポケットから封筒を取り出した。
「実家の遺品を整理していて……これだけ、どうにも処理できなくて」
封筒を開くと、中から出てきたのは──
白いジャスミンの栞。
だが、それは今までのものと明らかに違った。
折れ線が三本。
細い矢印が、複雑に絡むように刻まれていた。
(……これは、強い)
触れずとも分かる。
この栞には、はっきりした“意志”がある。
「ご家族のものですか?」
「ええ。母の……遺品です。
母は、ずっと榊原の本家と付き合いがあったらしくて」
榊原。
まただ。
「榊原家と……どういう?」
「遠縁です。母は本家からあまり良く思われていなくて。
詳しいことは知らないんですが……」
男は言葉を選ぶように、顔を伏せた。
「ただ……母の葬儀のあと、本家の人が突然来て、
“その栞だけは絶対に手放すな”と言われて」
「手放したら、どうすると?」
「“家の線が乱れる”と……」
憂楽は呼吸をひとつ整えた。
(家の線……)
ジャスミンの栞に刻まれた折れ線。
死んだ者の層。
残った者の層。
継がれていく線。
それを“家の線”と呼ぶのなら、
榊原家は昔からこの暗号を使っていたことになる。
(なら、今回の連続事件は)
ただの犯人の“署名”ではなく──
家に対する“復讐”か、
家を守るための“調整”か。
いずれにしても、
榊原家の内部から生まれた線だ。
「この栞……母が亡くなる直前まで持っていました。
本家と連絡を取らなかった理由も、俺には分かりません」
男の手は静かに震えていた。
(……折れ線が三本あるということは)
方向は三つ。
選択は三つ。
そして、その中心には必ず“ある人物”が立つ。
憂楽の指先がわずかに震えた。
(──家の核にいる“誰か”)
そのとき、男がふと思い出したように言った。
「母が言っていたんです。
“榊原の花は、摘まれたら終わりじゃない。
折られたときに、本当の意味が出る”と」
「……折られたときに?」
「はい。花じゃなくて、文の話だったみたいで……
でも、結局どういう意味なのか、俺にも分からないままで」
憂楽は息を飲んだ。
──折られたときに、意味が出る。
それはまさに、
この連続栞事件の核そのものだ。
◆
男が去ったあと、
憂楽は店の奥に置かれた椅子へ向かった。
そこには、いつの間にか白い紙片。
“第五の栞”。
折れは──一本。
しかし、他とは逆方向を向いている。
(二つの方向が交差する、反転の折れ)
その瞬間、憂楽の背筋にひやりとした感覚が走った。
事件は外へ広がっていくのではなく、
反転し、内へ戻ろうとしている。
まるで、“中心”へと収束するように。
その中心が誰なのか──
まだ見えない。
だが、アイシャだけは知っている。
憂楽は、店の薄暗い奥を見つめて言った。
「……アイシャ。
“花を摘んだ手”は、もうすぐ見えるのか」
返事はない。
ただ、奥の空気がひとつ波打ったように揺れた。
その微細な揺れの中に、
確かな“意志”の層が宿っていた。




