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憂楽のアイシャ  作者: 不思議乃九✒️ちるまな編集部


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3/10

第三話 花を摘んだ手

 第三の事件の速報が出た朝、路地の空気はさらに重くなっていた。


 曇り空は低く垂れ込み、夜のうちに降った雨がまだアスファルトの奥に残っている。

 駅前の明るさからひとつ外れた細い通りに、古物商《憂楽ゆうらく》だけが小さく灯りを持っていた。


 カウンターの上には、三枚の栞が並んでいる。


 一枚目──折れのない、白い和紙の栞。

 ジャスミンの押し花が透けて見える。

 あの日、黒髪の女が「忘れ物」と言い張り、憂楽に触れさせなかった栞と同じ意匠。


 二枚目──ひとつの方向へ、くっきりと折れ線の走った栞。

 昨日、古本からひらりと落ちてきたもの。

 触れたとき、第二の現場の湿った空気と、誰かひとりに向けられた息遣いが滲んだ。


 三枚目──折れ目のない、真新しい栞。

 見た目は一枚目とほとんど同じだが、層の沈み方が違う。

 これは今朝、封筒で届いたものだ。

 差出人の欄には、ただ苗字だけが書かれていた。


 ──榊原。


 憂楽は紙切れに簡単な図を描きながら、それぞれに印をつけていく。


「R1……折れなし。

 R2……単方向の折れ。

 R0……“これから”に属する栞」


 自分で書いた分類に、自嘲めいた笑いが漏れる。


(一枚目は、まだ読まれていない文。

 二枚目は、誰かひとりを刺す矢印。

 三枚目は──“差し出された余白”)


 栞に刻まれた折れは、ただの癖ではない。

 憂楽には、それが「誰かに向けられたふみ」として見えている。


 ロゼッタストーンを前に膝から崩れ落ちたあの日から、

 世界は、彼にとって「情報の層」として立ち上がるようになった。


 論理では読めない文が、物の中に沈んでいる。

 それを読むことが、今の憂楽の仕事だった。



 扉のベルが、控えめに鳴る。


「……失礼します。ここで、古いものを見ていただけると聞いて」


 三十代くらいの女性が、戸口で小さく頭を下げた。

 紺のコートに、仕事へ向かう前のようなきちんとした格好。

 だが、その指先だけが不自然に強く握られている。


「いらっしゃい。どうぞ、おかけください」


 憂楽が椅子をすすめると、女性は落ち着かない様子で腰を下ろした。


「古物といえるほどのものか分からないんですけど……これを、見てほしくて」


 差し出されたのは、一冊の文庫だった。

 角が少し丸くなっている。けれど、擦り切れるほど読み込まれた本ではない。


 ページを開いた瞬間、白いものが覗いた。


 ジャスミンの押し花を封じた、和紙の栞。

 折れ目は──ひとつもない。


 憂楽は、無意識に息を潜めた。


「昨日のニュースを見て……あの、“白い紙片”が落ちていたって聞いて」

「はい」


「映像を何度も見直したら、

 もしかして、これと同じものなんじゃないかと思って……」


 女性は、自分の膝の上で両手をぎゅっと組んだ。


「……少し、触れてもよろしいですか」


「お願いします」


 憂楽は栞を両手で受け取り、指先でそっと和紙の端をなぞった。


 視界の奥が、静かに揺れる。


 古い箪笥の匂い。

 障子越しの午前の光。

 畳の上に座る、痩せた老女の背中。

 針と糸の音。

 ジャスミンの花をひとつずつ和紙に並べていく手。


 その手には、今目の前にいる女性のものとは違う、長い時間の皺が刻まれている。


(……これは、この人の層じゃない)


 この栞は、“誰かから渡されたもの”だ。


「お祖母さまのものですね」


 憂楽が言うと、女性の肩がぴくりと震えた。


「……分かるんですか?」


「直接お会いしたことはありませんが」


 栞がすべて教えてくれる。

 そう言いかけて、憂楽は飲み込んだ。


 女性──榊原は、言葉を選びながら話し始めた。


「祖母が、生前にたくさん作っていたんです。

 庭の花と和紙で、こういう栞を。

 わたし、小学生の頃にひとつだけもらって……」


 指先で文庫の角を撫でる。


「そのあと、祖母が亡くなって。

 でも、この栞だけは捨てられなくて、本に挟んだままずっと持っていて」


「それが、こちらですね」


「はい。……ほんとは、ただの思い出の品なんだと思ってたんですけど、

 昨日のニュースを見て、現場に落ちてた“紙片”が映ったとき、

 どうしてもこれに見えてしまって」


 榊原は、不安そうに店内を見回した。


「警察に行くべきかと思ったんですけど、

 どう説明していいか分からなくて……

 “物を見てくれる人が、この路地にいる”って話だけ聞いていて」


 憂楽は、心の中で小さく首を傾げた。


(……また誰が妙な噂を)


 だが、そのおかげで栞はここまで辿り着いた。

 それは事実だ。


 憂楽は改めて栞を見つめる。


 折れていない。

 だが、その「折れていない」こと自体が、ひとつの表情に見えた。


(“まだ決めていない”。

 あるいは、“決めないと選んだ”)


 この栞には、攻撃的な層がない。

 代わりに、長く続いた静かな時間が沈んでいる。


「この栞そのものに、危険な気配はありません」


 憂楽は、できるだけ言葉を柔らかく選ぶ。


「ただ……これは、まだ誰にも向けられていない文です。

 だからこそ、これからどう折られるか──そこに意味が生まれる」


「……どう折られるか、ですか」


 榊原は小さく繰り返した。


「昨日の現場に落ちていた紙片が、本当にこの栞と同じものだとしたら。

 誰かがどこかのタイミングで、この意匠を“文として”使った可能性はあります」


「祖母が……?」


「作ったのは、お祖母さまかもしれません。

 ですが、折ったのは別の誰かです」


 榊原は、ぎゅっと唇をかんだ。


「この栞を、最近どなたかに見せたり……貸したりしましたか」


「いいえ。ずっとこの本に挟んだままにしていて。

 取り出したのは、昨日の夜が久しぶりです」


(じゃあ、これは“原型”か)


 事件現場に落ちていた栞は、この意匠を真似たもの。

 あるいは、同じ「源流」から出た別の栞。


「もし、持っていること自体が不安なら、お預かりすることもできます」


 榊原はしばらく迷ったあと、首を横に振った。


「……いえ。これは、わたしが持っていないといけない気がします。

 祖母が、そう望んでいるような気がして」


 その言葉に、憂楽は目を細めた。


 祖母の層が、この女性の言葉と同じ方向を指している。

 それは、誤解ではない。


「分かりました。では、ひとつだけお願いがあります」


 憂楽は小さな紙片を取り出し、店の番号を書いた。


「この栞に何か変化があったら──

 例えば、誰かの手で折られていたり、別の場所で見つかったりしたら。

 そのときは、すぐに教えてください」


「……はい」


 榊原は紙片を大事そうに財布へしまい、深く頭を下げて店を出ていった。


 扉が閉まり、路地の気配が戻る。


 ガラス戸越しに、黒い影が一瞬だけ横切った。

 黒髪の女──アイシャの姿に見えたが、振り向いたときにはもういない。


 輪郭は、昨日よりも薄かった。



 静けさが戻ると、店内の時間だけが少し早く流れたように感じられる。


 憂楽は、カウンターに置いていたスマートフォンを手に取った。


 ニュースアプリを開こうとして、指が止まる。

 代わりに、いつもの癖でSNS《POSTMAN》を立ち上げた。


 タイムラインの上位は、ほとんど第三の事件で埋まっていた。


《【第三の刺殺】また白い紙片 若い女性が路地で──》

《“白い花事件”って呼ばれ始めてて草》

《現場の近所なんだけど普通に怖いんだが》


 スクロールしていくと、すぐに見慣れたアイコンが目に入る。


 暴露系インフルエンサー“Ω”。


 警察発表前の情報や、裏取りギリギリのリークを混ぜて

 異常な速度でまとめ上げてしまうアカウントだ。


《【第三件、簡単まとめ】

 ・またも若い女性

 ・現場には“折れ線のある白い和紙栞”

 ・一件目、二件目も現場に似た紙片

 ・被害者三名、全員「榊原」の家系と繋がりアリ #白い栞 #榊原家》


 リプ欄は騒がしかった。


《榊原ってあの地主一族じゃね?》

《親戚多すぎて特定ムリw》

《白い栞こわ……誰か現物うpしてくれ》

《Ωまた警察より早くて草》《でも今回ガチでやべえやつだろ》


「……榊原」


 憂楽は小さく呟き、さっきの女性の顔を思い浮かべた。


(被害者三名、全員“榊原の家系”……か)


 第二話で見た、古い唐草模様と同じ苗字。

 今朝封筒で届いた栞にも、その姓があった。


 三つの栞。

 三件の事件。

 同じ家。


 それがほんの噂レベルの情報だとしても、

 無視できる重なりではない。


 憂楽はスマホを伏せ、改めてカウンターの上を見下ろした。


 ──三枚の栞ではなかった。


 さっきまで二枚だけだったはずの場所に、

 もう一枚、白い栞が増えている。


 和紙の手触り。

 押し花のジャスミン。

 折れは、浅くひとつ。


 触れた瞬間、

 榊原でも、祖母の老いた手でもない、冷たい指先の感触が流れ込んできた。


(……まだ“別の誰か”がいる)


 花を摘んだ手。

 折り目を刻む指。

 そして、それを読ませようとしている意志。


 外からは、誰かがまた路地を早足で通り過ぎていく音が聞こえた。


 白いジャスミンの香りが、

 店の空気に、じわりと濃く沈んでいった。

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