第三話 花を摘んだ手
第三の事件の速報が出た朝、路地の空気はさらに重くなっていた。
曇り空は低く垂れ込み、夜のうちに降った雨がまだアスファルトの奥に残っている。
駅前の明るさからひとつ外れた細い通りに、古物商《憂楽》だけが小さく灯りを持っていた。
カウンターの上には、三枚の栞が並んでいる。
一枚目──折れのない、白い和紙の栞。
ジャスミンの押し花が透けて見える。
あの日、黒髪の女が「忘れ物」と言い張り、憂楽に触れさせなかった栞と同じ意匠。
二枚目──ひとつの方向へ、くっきりと折れ線の走った栞。
昨日、古本からひらりと落ちてきたもの。
触れたとき、第二の現場の湿った空気と、誰かひとりに向けられた息遣いが滲んだ。
三枚目──折れ目のない、真新しい栞。
見た目は一枚目とほとんど同じだが、層の沈み方が違う。
これは今朝、封筒で届いたものだ。
差出人の欄には、ただ苗字だけが書かれていた。
──榊原。
憂楽は紙切れに簡単な図を描きながら、それぞれに印をつけていく。
「R1……折れなし。
R2……単方向の折れ。
R0……“これから”に属する栞」
自分で書いた分類に、自嘲めいた笑いが漏れる。
(一枚目は、まだ読まれていない文。
二枚目は、誰かひとりを刺す矢印。
三枚目は──“差し出された余白”)
栞に刻まれた折れは、ただの癖ではない。
憂楽には、それが「誰かに向けられた文」として見えている。
ロゼッタストーンを前に膝から崩れ落ちたあの日から、
世界は、彼にとって「情報の層」として立ち上がるようになった。
論理では読めない文が、物の中に沈んでいる。
それを読むことが、今の憂楽の仕事だった。
◆
扉のベルが、控えめに鳴る。
「……失礼します。ここで、古いものを見ていただけると聞いて」
三十代くらいの女性が、戸口で小さく頭を下げた。
紺のコートに、仕事へ向かう前のようなきちんとした格好。
だが、その指先だけが不自然に強く握られている。
「いらっしゃい。どうぞ、おかけください」
憂楽が椅子をすすめると、女性は落ち着かない様子で腰を下ろした。
「古物といえるほどのものか分からないんですけど……これを、見てほしくて」
差し出されたのは、一冊の文庫だった。
角が少し丸くなっている。けれど、擦り切れるほど読み込まれた本ではない。
ページを開いた瞬間、白いものが覗いた。
ジャスミンの押し花を封じた、和紙の栞。
折れ目は──ひとつもない。
憂楽は、無意識に息を潜めた。
「昨日のニュースを見て……あの、“白い紙片”が落ちていたって聞いて」
「はい」
「映像を何度も見直したら、
もしかして、これと同じものなんじゃないかと思って……」
女性は、自分の膝の上で両手をぎゅっと組んだ。
「……少し、触れてもよろしいですか」
「お願いします」
憂楽は栞を両手で受け取り、指先でそっと和紙の端をなぞった。
視界の奥が、静かに揺れる。
古い箪笥の匂い。
障子越しの午前の光。
畳の上に座る、痩せた老女の背中。
針と糸の音。
ジャスミンの花をひとつずつ和紙に並べていく手。
その手には、今目の前にいる女性のものとは違う、長い時間の皺が刻まれている。
(……これは、この人の層じゃない)
この栞は、“誰かから渡されたもの”だ。
「お祖母さまのものですね」
憂楽が言うと、女性の肩がぴくりと震えた。
「……分かるんですか?」
「直接お会いしたことはありませんが」
栞がすべて教えてくれる。
そう言いかけて、憂楽は飲み込んだ。
女性──榊原は、言葉を選びながら話し始めた。
「祖母が、生前にたくさん作っていたんです。
庭の花と和紙で、こういう栞を。
わたし、小学生の頃にひとつだけもらって……」
指先で文庫の角を撫でる。
「そのあと、祖母が亡くなって。
でも、この栞だけは捨てられなくて、本に挟んだままずっと持っていて」
「それが、こちらですね」
「はい。……ほんとは、ただの思い出の品なんだと思ってたんですけど、
昨日のニュースを見て、現場に落ちてた“紙片”が映ったとき、
どうしてもこれに見えてしまって」
榊原は、不安そうに店内を見回した。
「警察に行くべきかと思ったんですけど、
どう説明していいか分からなくて……
“物を見てくれる人が、この路地にいる”って話だけ聞いていて」
憂楽は、心の中で小さく首を傾げた。
(……また誰が妙な噂を)
だが、そのおかげで栞はここまで辿り着いた。
それは事実だ。
憂楽は改めて栞を見つめる。
折れていない。
だが、その「折れていない」こと自体が、ひとつの表情に見えた。
(“まだ決めていない”。
あるいは、“決めないと選んだ”)
この栞には、攻撃的な層がない。
代わりに、長く続いた静かな時間が沈んでいる。
「この栞そのものに、危険な気配はありません」
憂楽は、できるだけ言葉を柔らかく選ぶ。
「ただ……これは、まだ誰にも向けられていない文です。
だからこそ、これからどう折られるか──そこに意味が生まれる」
「……どう折られるか、ですか」
榊原は小さく繰り返した。
「昨日の現場に落ちていた紙片が、本当にこの栞と同じものだとしたら。
誰かがどこかのタイミングで、この意匠を“文として”使った可能性はあります」
「祖母が……?」
「作ったのは、お祖母さまかもしれません。
ですが、折ったのは別の誰かです」
榊原は、ぎゅっと唇をかんだ。
「この栞を、最近どなたかに見せたり……貸したりしましたか」
「いいえ。ずっとこの本に挟んだままにしていて。
取り出したのは、昨日の夜が久しぶりです」
(じゃあ、これは“原型”か)
事件現場に落ちていた栞は、この意匠を真似たもの。
あるいは、同じ「源流」から出た別の栞。
「もし、持っていること自体が不安なら、お預かりすることもできます」
榊原はしばらく迷ったあと、首を横に振った。
「……いえ。これは、わたしが持っていないといけない気がします。
祖母が、そう望んでいるような気がして」
その言葉に、憂楽は目を細めた。
祖母の層が、この女性の言葉と同じ方向を指している。
それは、誤解ではない。
「分かりました。では、ひとつだけお願いがあります」
憂楽は小さな紙片を取り出し、店の番号を書いた。
「この栞に何か変化があったら──
例えば、誰かの手で折られていたり、別の場所で見つかったりしたら。
そのときは、すぐに教えてください」
「……はい」
榊原は紙片を大事そうに財布へしまい、深く頭を下げて店を出ていった。
扉が閉まり、路地の気配が戻る。
ガラス戸越しに、黒い影が一瞬だけ横切った。
黒髪の女──アイシャの姿に見えたが、振り向いたときにはもういない。
輪郭は、昨日よりも薄かった。
◆
静けさが戻ると、店内の時間だけが少し早く流れたように感じられる。
憂楽は、カウンターに置いていたスマートフォンを手に取った。
ニュースアプリを開こうとして、指が止まる。
代わりに、いつもの癖でSNS《POSTMAN》を立ち上げた。
タイムラインの上位は、ほとんど第三の事件で埋まっていた。
《【第三の刺殺】また白い紙片 若い女性が路地で──》
《“白い花事件”って呼ばれ始めてて草》
《現場の近所なんだけど普通に怖いんだが》
スクロールしていくと、すぐに見慣れたアイコンが目に入る。
暴露系インフルエンサー“Ω”。
警察発表前の情報や、裏取りギリギリのリークを混ぜて
異常な速度でまとめ上げてしまうアカウントだ。
《【第三件、簡単まとめ】
・またも若い女性
・現場には“折れ線のある白い和紙栞”
・一件目、二件目も現場に似た紙片
・被害者三名、全員「榊原」の家系と繋がりアリ #白い栞 #榊原家》
リプ欄は騒がしかった。
《榊原ってあの地主一族じゃね?》
《親戚多すぎて特定ムリw》
《白い栞こわ……誰か現物うpしてくれ》
《Ωまた警察より早くて草》《でも今回ガチでやべえやつだろ》
「……榊原」
憂楽は小さく呟き、さっきの女性の顔を思い浮かべた。
(被害者三名、全員“榊原の家系”……か)
第二話で見た、古い唐草模様と同じ苗字。
今朝封筒で届いた栞にも、その姓があった。
三つの栞。
三件の事件。
同じ家。
それがほんの噂レベルの情報だとしても、
無視できる重なりではない。
憂楽はスマホを伏せ、改めてカウンターの上を見下ろした。
──三枚の栞ではなかった。
さっきまで二枚だけだったはずの場所に、
もう一枚、白い栞が増えている。
和紙の手触り。
押し花のジャスミン。
折れは、浅くひとつ。
触れた瞬間、
榊原でも、祖母の老いた手でもない、冷たい指先の感触が流れ込んできた。
(……まだ“別の誰か”がいる)
花を摘んだ手。
折り目を刻む指。
そして、それを読ませようとしている意志。
外からは、誰かがまた路地を早足で通り過ぎていく音が聞こえた。
白いジャスミンの香りが、
店の空気に、じわりと濃く沈んでいった。




