第二話 白い文(ふみ)の行方
翌朝の《憂楽》は、いつもより息を潜めたように静かだった。
路地に差し込む冬光は弱く、冷えた空気が棚の奥まで染みている。
憂楽は、カウンターの上に置いたままの栞を見つめていた。
──白いジャスミン。
──薄い和紙。
──中央の斜めの折れ。
軽く触れただけで伝わる、微かな“意図”の震え。
物に触れて時間の層を読む憂楽には、それがはっきりと分かる。
(これは……誰かが「決めた」折れだ)
押し花を潰さぬよう配慮しながら、
紙だけを折り曲げるのは、意図していなければできない。
(折られていない栞、折られた栞、そして昨日の事件)
憂楽がそう考えていたとき、扉のベルが鳴った。
「……昨日の件、続けたいと思って」
昨日の女性──まだ名前を名乗っていない黒髪の客が立っていた。
同じコート。
同じ疲れを帯びた目。
だが、今日はその輪郭が一瞬だけ揺れた。
憂楽には、その揺れが気になって仕方なかった。
まるで光の焦点がずれるような、刹那の“薄れ”。
「おはようございます。今日は、本でしょうか?」
女性はうなずき、両腕に抱えた古い本を差し出した。
革張りの重厚な装丁。
背表紙の金文字は判読できないが、長い間どこかに閉じ込められていた気配が漂う。
「祖母の部屋から出てきたもので……」
憂楽は本を受け取り、ゆっくりと開いた。
──ひらり。
白い栞が落ちた。
昨日のものと同じジャスミン。
同じ和紙。
ただし折れはひとつ。
くっきりと斜めに折られた矢印のような形。
「……やはり」
憂楽の指先に、“昨日とは違う層”が流れ込んだ。
押し花を挟んだまま折ると、花が砕ける。
これは丁寧に、慎重に「避けながら」折っている。
(誰かが明確な方向を示している……)
「読めますか」
女性の声は、昨夜よりわずかに震えていた。
「昨日も言いました。栞は“置かれている”んです。
自然に挟まれたものじゃなくて、誰かがわざわざ……」
「あなたは、何を知っている?」
憂楽の問いに、女性は一瞬躊躇い、
胸元から細い封筒を取り出した。
「これも、読んでください」
中から出てきたのは、二つ折りの栞だった。
折れは二本。
片方は昨日のような鋭い斜線。
もう一方は、浅く、迷いの混じった折れ。
(……二方向? いや、二つの“選択”?)
憂楽が折れ目に指を触れた瞬間、
ふたつの層が混ざるような奇妙な感覚が胸に走った。
──誰かに手渡される直前の、強い躊躇い。
──それを振り払うように刻まれた決意の折れ。
押し花よりも、和紙よりも、
“感情”のほうが濃かった。
「わたし……狙われているんでしょうか」
女性の声は驚くほど静かだった。
恐怖よりも、自分の中の答えを確認するような響き。
「昨日、あなたが栞に触れたとき……
わたしには、それが“未来のひとつ”を読んだように見えました」
「未来なんてもの、そう大きな話じゃない」
そう言いながら、憂楽は否定しきれなかった。
物の層は“過去”であるはずなのに、
栞にだけは、はっきりと“次”の気配がある。
ロゼッタストーンの黒い面に刻まれた三言語が
ひとつの意味を同時に語ったように──
この栞は、過去と未来を同時に抱いている。
「わたしの名前……言ってませんでしたね」
女性が、静かに言った。
「アイシャ、と呼ばれています。本名ではありません」
その響きには、どこか遠い国の光が揺れているようだった。
「アイシャさん。
あなたはなぜ、この店へ?」
「憂楽さんの噂を聞きました。
“物の裏側を読む人がいる”と」
憂楽は、無言で視線を落とした。
(またか……)
噂など流していない。
だが、時々こうして誰かが迷い込んでくる。
必要なときだけ、道が開くかのように。
「助けてほしいんです。
わたしに……あと何日残されているのか。
そして──」
アイシャはそっと視線を上げた。
「“次に折られるのは誰か”。」
その一言が落ちた瞬間、
店内の空気がかすかに揺れた気がした。
折れ。
矢印。
迷い。
決意。
そして、栞を“置く”誰かの存在。
(これは……単純な連続殺人じゃない)
憂楽の頭の奥で、長く眠っていた演算が静かに動きはじめた。
物は“文”だ。
誰かがそこに置いた、感情の翻訳。
ならば、この折れは──
「憂楽さん。
もう一枚、持っています」
アイシャがバッグの奥から取り出したのは、
まっすぐなままの栞だった。
昨日、店で落とした栞と同じ。
折れがひとつもない、美しいまっさらな和紙。
(折られていない……)
憂楽の背筋に、冷たいものが走った。
折れがないということは、
まだ「誰にも向けられていない」。
だが同時に──
**折られる可能性がもっとも高い**という意味でもある。
「憂楽さん。
わたしは、どの栞が“わたし自身”なのか分からないんです」
アイシャは静かに言った。
「わたしは巻き込まれているのか、
狙われているのか、
あるいは──」
言葉を切った刹那、
憂楽のスマートフォンが震えた。
──第三の事件。
現場に落ちていたのは、
**二つ折りの栞**。
憂楽が顔を上げると、
アイシャは唇を固く閉じて、彼をまっすぐに見た。
「これで分かりました。
狙われているのはわたしじゃない。
“わたしたち”です」
その言葉が落ちた直後、
憂楽の背後で、やわらかな音がした。
棚に置いていた“無傷の栞”が、
床の上に落ちている。
──折られていないままで。




