第一話 花は誰のために咲く
駅前の再開発から外れて残った一本の細い路地は、地図アプリの縮尺をだいぶ上げないと名前すら表示されないような場所だった。
古物商《憂楽》は、その路地のいちばん奥寄りにある。
ガラス戸の向こうには、骨董店というには統一感のない品々が並んでいた。
止まったままの掛け時計。巻き癖の抜けない古地図。
青銅の獅子は台座の上で誰にも吠えず、ただ沈んでいる。
店主の憂楽は三十代後半。
かつて論理学を専攻し、英国の大学に籍を置いていた。
「研究者」だった頃の彼を知る者は、いまの彼を見ればきっと首をかしげるだろう。
──なぜ古物商なのか、と。
理由は、ロンドンのある一日までさかのぼる。
憂楽がまだ二十代で、毎日ぎっしりと論文と向き合っていた頃。
行き詰まりから逃げるように、大英博物館へ足を向けたことがあった。
観光客の列に紛れ、半分は気晴らし、半分は現実逃避。
その程度のつもりだった。
ロゼッタストーンの前に立つまでは。
ガラスケースの向こうで黒い石が静かに鎮座している。
古代エジプト聖刻文字、民衆文字、ギリシア語──
三つの文字が、ひたすら執拗に、面として刻まれている。
憂楽が一歩近づいた瞬間、視界の奥で、何かがずれる感覚があった。
文字の一画一画が、別々の方向へめくれ上がっていくように見えた。
歴史の授業で聞いた説明では足りない「何か」が、一気に押し寄せてくる。
石の表面には、傷、擦れ、欠け。
そこに触れた何千という手の温度、海を越えたときの塩気、
運ばれた道の砂ぼこり、展示室の乾いた空気──
それらが文字とは別の「層」として、憂楽の胸へ流れ込んできた。
(世界は、論理だけでは読めない)
そう確信した瞬間、彼の膝は音もなく抜けた。
床に崩れ落ちながら、どこか他人事のように、自分を見下ろしている感覚があった。
ロゼッタストーンは、単なる「解読された石」ではなかった。
誰かが書き、誰かが読み、誰かが運び、誰かが盗み、誰かが展示した。
そのすべてが黒い石の表面に折りたたまれた、「翻訳の塊」だった。
その日を境に、憂楽にはひとつの変化が生まれた。
物に触れたとき、ごく薄いが「時間の層」が読めるようになったのだ。
誰の手に渡り、どれだけ迷われ、どういう空気の中に置かれてきたのか。
それは映像でも言葉でもなく、ただの「感触」に近かった。
帰国した憂楽は、研究者の道を降りた。
論理で世界を読むことをやめ、物の時間を読む古物商になった。
自分のことを心の中では「おれ」と呼びながら、
客の前では自然と「わたし」になるのが、いつのまにか身についた癖だった。
*
その日も、店の奥で古い皿を鑑定していた。
やや深めの磁器皿。
縁が小さく欠けているが、青い釉薬はまだ艶を保っている。
憂楽が縁に指先を触れると、
家族の食卓の気配や、誰かの誕生日、アルバムにも残らない日々の光景が、薄膜のように重なって見えた。
(戦前……いや、それより少し新しいか)
心の中でそんな見立てをつぶやいたとき、扉のベルが鳴った。
「失礼します」
柔らかい声だった。
黒髪の女性が立っていた。肩までの髪は軽く巻かれ、ベージュのコートの前をきちんと留めている。
整った印象だが、その目の奥には疲れの影が見えた。
ただ、憂楽が引っかかったのは外見そのものではなかった。
入口に立ったその瞬間、一拍だけ彼女の輪郭が「薄れた」ように見えたのだ。
「いらっしゃいませ。なにか、お持ちでしょうか?」
憂楽は、客の前での口調に切り替える。
「こちらで……見ていただけませんか」
女性が差し出したのは、古いペルシャ皿だった。
さきほど扱っていた皿とは、格が違う。
釉薬の青は夜の底のように深く、唐草模様がゆるやかに流れている。
百年は下らない。いや、それ以上かもしれない。
憂楽が皿に手を添えると、表面に薄いざらつきが走った。
豪奢な宴席の気配ではない。
棚に飾られていただけでもない。
長い時間、誰かが「手放すことを迷っていた」ような感触だけが、かすかに残っていた。
(悪くない……けれど、すんなりここへ来た皿じゃないな)
興味を胸の奥にしまい込みつつ、憂楽は査定額を頭の中で組み立てた。
「状態も良いですね。本物です。かなり価値があります」
「そう……ですか」
女性は、喜びとも驚きともつかない表情で静かに頷いた。
提示した金額にも、大きく反応しない。
「高く売れた」より、「ここで手放せてほっとした」ように見える。
支払いを済ませ、簡単な書類を書いてもらう。
そのときだった。
視界の端で、白いものがひらりと落ちた。
床に落ちたそれは、いちど見れば忘れない質感をしていた。
白いジャスミンの押し花を、薄い和紙に封じ込めて作った栞。
端は丁寧にカットされ、厚みは名刺ほど。
既製品のようでもあり、どこか手作りの気配もある。
何より──折り目が一切ない。
まっすぐで、まだどこにも挟まれていないような顔をしている。
「これ……落とされましたよ」
憂楽がかがんで栞に手を伸ばした瞬間、
女性の手が、その動きを遮るように伸びた。
細い指が、するりと栞を掬い上げる。
自然な動きに見えたが、どこか反射的な速さがあった。
「それは……ただの忘れ物です。
すみません、わたしが持ち帰ります」
声は柔らかいが、栞を握る指先にはわずかな緊張が宿っていた。
(触れられたくない、か)
憂楽は何も言わず、微笑みだけ返した。
本当に「ただの栞」なら、拾われても気にしないはずだ。
あれは、そういう拒み方ではなかった。
取引は淡々と終わり、女性は名乗らないまま店をあとにした。
扉のベルが鳴り終わったあとも、
店にはわずかにジャスミンの香りが残っていた。
棚にペルシャ皿を移しながら、憂楽は考える。
(折られていない栞……)
和紙の栞は、意図していなければまっすぐのままだ。
だが、さきほどの落ち方は、「どこかから抜けた」というより
「そこに置かれていたものが滑り落ちた」ようにも見えた。
ロゼッタストーンに触れて以来、憂楽は、物の表情を「文」のように読むようになっていた。
三つの文字で同じ内容を記した石が世界を変えたように、
世界のあちこちには「別の書き方をされた同じ気持ち」が散らばっている。
折れた紙。擦れた表紙。欠けた縁。
それらはすべて、「誰かがそこで何かをした」しるしだ。
だが、さきほどの栞は──
折れていない。
擦れていない。
まだ何も「決めていない」表情をしていた。
それが妙に胸に残った。
*
その夜、店を閉めて自宅に戻ると、スマートフォンが震えた。
ニュースアプリの速報。
──「駅近くの路地で刺殺事件。被害者は三十代男性」
画面をタップすると、現場写真が一枚表示された。
警察車両。規制線。シートで隠された人影。
その手前のアスファルトに、白いものが落ちている。
ピンチアウトして拡大すると、それがよく見えた。
白いジャスミンの栞。
中央に、斜めの折り目が一本刻まれている。
(……同じ、か)
憂楽の店で見たものと同じ素材、同じ作り。
ただしこちらには、はっきりと「折り目」がある。
ニュース記事には「白い紙片」としか書かれていない。
だが憂楽には、あの和紙とジャスミンの質感が分かった。
偶然という言葉で片づけるには、背中を撫でるざらついた感覚が強すぎた。
折られていない栞。
折られた栞。
その差は、見た目以上の意味を持っている気がした。
*
翌日。
曇り空の下、路地はいつもより静かだった。
憂楽はいつも通り店を開けた。
が、仕事にはなかなか手がつかなかった。
カウンターの上には、昨日買い取ったペルシャ皿が鎮座している。
青い釉薬の奥に、何かを言いたげな影が見える気がして、憂楽は苦笑した。
「聞きたいのは、こっちなんだがな」
誰にともなく呟いたとき、扉のベルが鳴った。
「おはようございます……また、お願いできますか」
振り返ると、昨日の黒髪の女性が立っていた。
同じコート。
同じ、少し疲れた目。
だが、口元は昨日より固く結ばれている。
「いらっしゃいませ。今日は、本でしょうか?」
彼女の腕には、一冊の古い本が抱えられていた。
厚手のハードカバー。革張り。
背表紙の金文字は擦れて読めないが、手に取る前から「長く眠っていた本」だと分かる。
「祖母の部屋から出てきたもので……
価値があるのか分からなくて」
「拝見します」
憂楽は両手で本を受け取り、そっと表紙を撫でた。
閉じ込められていた空気の気配が、わずかに溢れ出す。
長く開かれなかったページの重さ。
古い部屋の静けさ。
ゆっくりとページをめくる。
そのとき、昨日と同じ白いものが、ひらりと落ちた。
和紙に封じ込められた白いジャスミンの栞。
ただし、今回は決定的に違う。
中央から斜めに、くっきりと折り目が刻まれていた。
矢印のように、一方向を指し示すかのような折れ方。
憂楽がそれを拾い上げた瞬間、指先の感覚がわずかに変わった。
紙の冷たさの奥で、息をひそめた誰かの気配。
「気づいてほしい」と訴えるような、微かな震え。
(昨日の皿とは、ちがう……これは完全に“意図された折れ”だ)
ロゼッタストーンに触れたときと同じ種類の「層」が、
この薄い栞の中にも畳み込まれているのを、憂楽は感じた。
ただの栞ではない。
誰かが「何かを込めて」折った栞だ。
顔を上げると、女性と視線が合った。
彼女の目は、昨日とは違う光を帯びていた。
決意とも諦めともつかない、固い光。
「……あなたなら、読めると思っていました」
彼女はぽつりと言った。
「読める、とは?」
「栞の意味です」
女性は言葉を選ぶように、少し息を吸った。
「あれは自然に挟まれていたんじゃなくて、“置かれた”ものです。
誰かの意志で。
わたしは、そうとしか思えないんです」
「置かれた」という言葉に、憂楽の胸が小さく跳ねた。
ロゼッタストーン。
ペルシャ皿。
白い栞。
どれも、「誰かがそこに置いた言葉」だった。
そのとき、カウンターの隅に置かれていたスマートフォンが震えた。
ニュースアプリの通知。
──第二の刺殺事件。
記事の見出しには「昨日と同じ路地」「被害者は二十代女性」「現場には白い紙片」とだけ書かれている。
添付された写真の端には、
昨日と同じような白い栞が、折れたまま落ちているのが映っていた。
折り方まで、よく似ている。
(……これはもう、偶然じゃない)
憂楽は胸の奥に冷たいものが落ちるのを感じた。
女性はその様子を確かめるように、静かに憂楽を見つめた。
「あなたは、気づくはずです」
小さいがはっきりとした声だった。
「“誰が次か”。
そして──“なぜ折られているのか”。」
栞から立ちのぼるジャスミンの香りが、
古本の紙の匂いに静かに溶けていった。
白いジャスミンは、本来ならページの間で静かに眠るはずの花だ。
いま、血のそばに、わざわざ折られて落ちている。
その花は、いったい誰のために折られ、
誰に向けて「置かれた文」なのか。
憂楽は、ロゼッタストーンの刻線を思い出していた。
黒い石に刻まれた三つの言語は、ひとつの内容だけを示していた。
では、この栞の折り目は──
何を、誰に向けて翻訳しているのだろうか。




