マリアローズはずるをした
マリアローズは恋をした。
さらさらの銀髪が、彼の足取りに合わせて揺れている。
その後ろ姿を両の目が無意識に追いかけ始めたのは、いつ頃か。
わざわざ思い出そうとしなくても、マリアローズは知っていた。
伯爵邸で開かれた春のガーデンパーティで、銀髪の彼──テオドール・フレイはみんなの注目の的だった。
同年代の子どもたちが遠巻きに眺める中、テオドールは大人たちとなにか難しげな話をしていて、1人だけ違う世界にいるようだった。
なんでもフレイ侯爵の1人息子はとても優秀で、賢く、魔術の才にも恵まれているのだとか。
まだ学園にも入学していないのに、その評判は皇都中に知れ渡っている。
人見知りのマリアローズは、そんな有名人が同じパーティ会場に現れたと知って、胸の内でほっと息を吐いていた。
あのテオドール・フレイがいるのなら、自分のことを気にする人はいないだろう。
幸い今日の会場であるブラン伯爵邸の庭園は広く、子どものマリアローズが周囲の目から身を隠せるくらいの物陰もたくさんある。
なにより、マリアローズはこの庭について誰よりも詳しい自信があった。
本来自分はお行儀よく席について、同年代の女の子たちと楽しくお茶を飲んでいるべきだ。
だけどマリアローズは限界だった。
一刻も早く、ひとりきりの時間がほしい。
今だけこっそり抜け出して、パーティが終わる頃にしれっと戻ってこよう。
こんなに人の多いところは久しぶりだし、お父様もそれくらいは許してくださるわ。
優しい父の顔を思い浮かべると少しだけ心が痛んだが、動き出した足はもう止まらない。
そうして抜け出した先、庭木に囲まれてひっそりと佇む小さなガゼボ。
朝から緊張の糸が張り詰めっぱなしだったせいか、人の目から解放された途端、どっと疲れたような気持ちになった。
ベンチの背もたれに身を預けたら、瞼はひとりでに閉じていく。
「ああ、お父様……きっとパーティが終わるまでには起きますわ」
だから今は、どうか眠らせて。
心地よい春の風に誘われて、マリアローズはゆるやかに眠りに落ちた。
*******
温かなまどろみの中。
ふと空気が揺れる音を感じ、マリアローズは目を開け、絶句した。
ベンチに投げ出した手のひらに、大きな蜂が止まっている。
「……」
さーっと血の気が引いて、背筋を嫌な汗が伝っていく。
驚いた時、咄嗟に声が出ないタイプで良かった。
マリアローズは本気でそう思った。
(……動いてはだめ。だめよ、マリア)
どうか自分が生き物だと気付かれていませんように。
そして早く飛び立って、どこかへ行ってくれますように。
虫は苦手ではないけれど、痛いのは嫌だ。
蜂を刺激しないようじっと息を潜め、刺さないで、刺さないで、と願い続けて何秒経っただろう。
必死の形相で蜂とにらめっこをするマリアローズの前に、救世主が現れた。
短く何かを呟き、ふっと息を吐いただけで風を操り、蜂を追い払ってくれたその人は、つまらなそうな顔でこう言った。
「ブラン伯爵令嬢。閣下が探していましたよ」
視線を下に落とした物憂げなアメジストの瞳に、淡々とした低い声。
銀の髪が光をすくってきらきら光る。その輝きひとつひとつを見逃したくなくて、目が離せない。
ただ蜂を追い払ってもらっただけ。それだけなのに何故か、彼がまばたきをするたび、マリアローズの胸は高鳴った。
「ブラン伯爵令嬢?」
「あ……ありがとうございます。フレイ様」
慌ててお礼を言って、マリアローズは目を閉じる。
(ああ。この人も、ひとりになりたかったんだわ)
「では、失礼いたします。ここは静かで過ごしやすいですから、ごゆっくり、どうぞ」
なんだか頬が熱いし、一生懸命紡いだ言葉も早口になってしまう。
マリアローズは恥ずかしくて、そそくさとその場を後にした。
そして知ったのだ。
他の大勢の女の子たちと同じように、自分もまた、呆気なく恋に落ちたこと。
憧れのテオドール・フレイ。
幼いマリアローズには、あまりのも眩しく見えた。
それから数年の時が過ぎ、背もちょっぴり伸びて、マリアローズは学園に入学した。
テオドール・フレイは一つ上の学年で、当然教室も離れている。
きゃあきゃあと囀る同級生たちの横で、マリアローズは相変わらず、ひっそりと息を潜めていた。
(……今日もきれいだわ)
自分は特別かわいいわけでも、特別賢いわけでもなく、ちっぽけで鈍臭い、彼と釣り合うわけもない存在だった。
それでも彼を目で追ってしまうのは、どうしても諦められないのは──振り向いてほしいと願ってしまうのは、許されないことだろうか?
(でも、手を伸ばしてみなければ、届くかどうかなんてわからないもの)
うんと背伸びをして、それでも無理ならば、諦めよう。
恋する乙女には、傷つく覚悟なんていらないわ。
全部だめだったその時に、その時の私が泣けばいい。
そうよ、マリア。
だからちょっとくらいは、卑怯にもならなくちゃ。
そうしてマリアローズは頑張った。
苦手な勉強も投げ出さず、お茶会にもなるべく顔を出して、刺繍の腕をうんと磨いてみたりして。
持てるすべてを使い、一年かけて生徒会役員の座を手に入れた。
今年の生徒会長は、誰もが認めるテオドール・フレイ。 マリアローズは書記だ。聞こえてくるたくさんの情報を整理して書き留める仕事は、思っていたよりも得意だった。
「フレイ様、紅茶が入りましたわ。フレイ様もいかがですか?」
「……ああ、ありがとう」
ポットを手に声を掛けると、テオドールはこちらを見ることもなく、静かにうなずいた。
マリアローズはできるだけ丁寧に紅茶を注ぎ、そっとお茶菓子を添える。
生徒会の中でもマリアローズのお茶はそれなりに好評なのだが、テオドールが褒めてくれたことはない。
けれど彼の固く引き結ばれた唇が、紅茶を飲むとわずかに緩むことを、マリアローズは知っている。
テオドールの好きな茶葉、温度、飲み物がほしいタイミング、今日の気分に合うお菓子。
我ながら今日も、完璧な取り合わせ。
マリアローズは空になったポットを片付けながら、そっと目を閉じた。
安堵と、かすかな喜び。
凪いだ水面のような心中に、感情がふわふわと浮いている。
それらがゆっくりと消えていくところまで見守ってから自分の仕事に戻るのが、マリアローズの密かな楽しみだ。
(よかった。今日も、美味しいと思ってくださった)
亡き母から受け継いだ、特別な力。
マリアローズは、目を閉じることで周囲の感情を感じ取ることができる。
テオドールの心はいつも静かだった。
そして、退屈している。自身を取り巻く誰にも興味がなく、きっと生徒会長という座も何とも思っていない。
望まれたからそこにいて、期待された通りの役目を果たしているだけ。
彼の目はずっと魔術の繊細な輝きにのみ向けられている。
テオドール・フレイがマリアローズを見ることはなく、マリアローズもそれでいいと思っている。
「うるさい」場所が心底苦手なマリアローズにとって、テオドールの隣は居心地がいい。
それに、彼はとても綺麗だ。
結局のところは一目惚れなので、一番大事なのはそこだった。
テオドール・フレイという美しい人の近くに少しでもいられるのなら、マリアローズはなんだってするだろう。
彼は自分のことをじろじろ見る人間が嫌いだ。
だから必死で我慢して、なるべく彼に興味がないふりをする。
彼の隣に立つならば、頭が悪くてはいけない。つまらない話を聞かせるわけにはいかないし、彼の言葉には上手に返せなければならない。
静かに、淑やかに、賢く。
彼の求めるように動き、必要のない時は余計なことをしない。
テオドールの近くにいる時だけ、マリアローズはよく目を閉じるようになった。
テオドールにとって、マリアローズが傍にいることが当然のようになればいい。
そうなれば、みんな幸せ。
そうでしょう?
そうして時が立てば立つほど、マリアローズはテオドール・フレイの「理想」に近づいていく。
そんな、ある日。
「ブラン伯爵令嬢」
「はい、フレイ様」
テオドールはマリアローズをお茶会に招待した。
一緒にお茶を飲みお菓子を食べて話すだけなら、生徒会室でもできること。
マリアローズは緊張しながらも、念入りに身支度をして指定の場所にやって来た。
簡単な挨拶を済ませて席に着くと、早速テオドールが口火を切る。
「どうやら僕らの家の間で、縁談が持ち上がっているようだね」
「……そのようですね」
縁談、という言葉に、マリアローズの心臓が跳ねた。学園在籍中に婚約を結ぶことは珍しくない。フレイ侯爵家とブラン伯爵家であれば家柄で見ても釣り合いは取れるし、生徒会での交流もあるのだから、ごく自然な流れのように思える。
「父上が言うには、当人同士で意思を確認しておくのも大事だろうということらしい」
穏やかに話すテオドール。なんだか正面から彼を見るのは久しぶりな気がして、ひどく喉が乾く。
「僕としては──」
テーブルの下でスカートの裾を握る手に力が入った。
その続きを、私は知っている。
答えるべき言葉も用意できているのに。
どくどくと脈打つ音がうるさい。これでは彼にも聞こえてしまうのではないか?
「──きみさえよければ、このまま進めてもらおうと思っている」
ぜひ、よろこんで。わたくしもこの縁談に賛成ですわ。
そう答えようとして、震える唇からすぐに言葉が出てこなくて。
マリアローズは、きつく目を閉じた。
「あ……」
どっと冷や汗が出る。違う。早く答えなくては。
慌てて目を開けて、必死に言葉を紡ぐ。
「わたくしも。わたくしも……賛成、ですわ」
テオドールは、やはり穏やかに笑みを浮かべる。
「そう。それはよかった。嬉しいな。父上も喜ぶだろう」
マリアローズは困惑していた。緊張からか焦りからか、無意識にまばたきが多くなる。
その度に、流れ込んでくる感情。
(これは何?)
混乱しながら顔を上げると、テオドールと目が合った。
彼は、まっすぐにマリアローズを見ている。
テオドオール・フレイが、私を見ている。
そこで初めて、マリアローズは自分はテオドールをちゃんと見ていなかったことに気がついた。
太陽の光を反射してきらめく銀髪と滑らかにカーブを描く唇、優しい瞳。
さっき感じた彼の感情は、緊張、祈り、そして安堵。それから──親愛と、喜び。
(彼が私に好意を抱いている?)
それは強烈に甘い猛毒のようだった。
(ああ、いけないわ)
そんなことは。そこまでのことは望んでない。
(それは、私のような者が、向けられていいものじゃなかった)
マリアローズは知っている。
自分は特別かわいいわけでも、特別賢いわけでもなく、ちっぽけで鈍臭い、彼と釣り合うわけもない存在だった。
それでも彼を目で追ってしまうのは、どうしても諦められないのは、振り向いてほしいと願ってしまうのは、許されないことじゃない。
けれど。
マリアローズのしたことは、きっと許されるべきではないのだ。
マリアローズは知っている。
テオドールに恋をした大勢の女の子たちが、どんなふうに彼を想い、傷ついて、諦めていくのか。
心を読み、彼が自分を選ぶように仕向けて。
この力がなければきっと、マリアローズだって、彼女たちと同じだったはずなのに。
マリアローズはずるをした。
それが一体どれほどのことだったのか。
今になって、重い罪悪感がマリアローズにのしかかる。
尚も美しく笑っているテオドール・フレイを前に、マリアローズは天を仰いだ。
(おお、神よ。なぜ、私にこのような力を与えたのですか?)
自分の罪が恐ろしくて、今すぐにこの場から逃げ出してしまいたい。
幼い頃のようにこっそりと庭の奥へ身を潜めることができたならどんなにいいだろう。
しかし、マリアローズに逃げ場はなかった。
淡い恋心から自分で蒔いた種は今やすくすくと成長し、彼女の体を椅子に縛り付けている。
そして、マリアローズは知っている。
婚約の打診に「YES」と答えた時点で、マリアローズの運命は確定した。
あのテオドール・フレイから、マリアローズが逃げられるわけがないのだ。
「さて。改めて、これからもよろしく──マリアローズ」
ああ。
名前を呼ばれることがこんなに嬉しいなんて、知りたくなかった。




