ヴァルトレイク寮水浸し事件③
■□■ 証言② リカルド・ブラックウッド伯爵令息 ■□■
証言台にあがったリカルドの様子に、ブラッドは思わずぎょっとした。
明らかに顔色が悪かったし、唇は小刻みに震えている。
眼鏡の反射によりはっきりとは見えないが、視線もどこか危うげにさまよっているようだ。
クラウスと裁判長が「日を改めるか」と問いかけたものの、リカルドは証言をすると選択した。
だが証言もどこかあやふやで、脱線しがちになっていた。
弁護人のクラウスが質問を投げて方向修正し、なんとか証言を終えるような有様だった。
リカルドはレジナルドの報告を受けても、証言を一切かえなかった。
結晶化によってついた筋に関しては「頭でっかちなアズライエル寮の妄言」だと一笑した。
ヴァルトレイク寮の生徒たちは「頭でっかち」の発言に声あげて笑いつつも、リカルドの変貌にははっきりと動揺を見せている。
クラウスの質問が終われば、ルシアンがゆっくりと立ち上がった。
周囲の空気が変わっていくのをはっきりと肌で感じ取る。
血気盛んなヴァルトレイク寮の生徒たちでさえ、背筋を伸ばし、固唾をのんでルシアンの行動を見守っている。
ルシアンは証言台に歩いて行くと、台の上にリカルドの部屋から拝借したアヘンチンキの瓶を載せた。
途端にリカルドの顔に怒気が宿るが、ルシアンは笑顔を崩さない。
「さて、お伺いします、リカルド先輩。随分と顔色が悪いようですが、どうなさったんでしょうか?」
リカルドは唇を戦慄かせ、その視線はじっとアヘンチンキの瓶を見つめている。
握りしめた拳は、ブラッドの位置からでも小刻みに震えているのが分かるほどで、ますます様子がおかしかった。
「蝋のように青白い顔色、手足や唇の小刻みな痙攣。
……それに、眼鏡越しでは見落とされがちですが、近づいてみれば瞳孔が開いているのが分かります。
典型的なアヘン中毒の症状ですね?」
「異議あり!」
クラウスが勢いよく立ち上がった。
「本事件とは関係のない質問です!」
「証言の信用性と、なぜ水濡れ事件の犯人を仕立てあげる必要があったか。それに関わる重要な質問です」
鋭くルシアンが切り返すと、裁判長はクラウスの異議を却下した。
ルシアンはわざとらしく裁判長に一礼し、再びリカルドに向き直る。
「アヘン中毒に陥った場合、集中力が低下し、以前は当然のように出来たことすら難しくなります。
あなたは、夏季休暇前に貯水タンクの水栓を抜かなくてはいけない、という事を失念していたのではないですか?
だが夏季休暇が終わる直前になって気が付いた。
そして本来であれば水栓を半分ほど開き、数日かけて行う排水を一気に行おうとした。
……その結果、排水管の隙間から水が漏れ出してしまったのではないですか?」
ルシアンは問いかけながら、証言台の上に載せたアヘンチンキの瓶を爪先で叩く。
リカルドの視線は瓶に釘付けになっており、唇の震えはますます酷くなっていく。
質問をされていることさえ耳に届いていないのか、ただじっと瓶を見つめたまま動かない。
「ルシアン・レイヴンシャー、その小瓶はなんですか?」
たまりかねて裁判長が口を開くと、ルシアンは大仰におどけて見せた。
「おっと、失礼いたしました。これは証拠品として提出しようとしていたものです」
ルシアンが小瓶を証言台から持ち上げた瞬間、リカルドが獣じみた声をあげる。
ブラッドは素早く壇上に躍り出ると、ルシアンに掴みかかろうとするリカルドの腕をねじあげた。
「うあぁあああああああ!!!! 放せ!!!! 放せッ!!!! この手を放せ、クソがぁあああ!」
叫ぶリカルドは普段の柔和な態度はすっかり消え失せ、理性の欠片も見当たらない。
ここへ来て、ブラッドはようやくルシアンの意図を理解した。
アヘンチンキを盗み出したのは、一時的な救済措置などではなかったのだ。
リカルドを禁断症状に陥らせ、ろくに証言も出来ない状況に追い落とす。
──それが目的だったのだ。
「畜生!!!! 放せ! それは俺のものだッ!!!! 放せ、放しやがれッ!!!!」
怒鳴り散らすリカルドにヴァルトレイク寮の生徒たちもただ呆然とした表情だ。
対照的にルシアンは優雅な笑みを浮かべており、アヘンチンキの瓶を見せつけるように揺らしながら、舞台役者のように声をはる。
「夏季休暇中に帰郷したあなたは、家族にアヘン中毒であることを知られるわけにはいかなかった。
接種は最小限に押さえて過ごしていたんでしょう。学校に戻った時には、かなり追い詰められていたのではないですか?
そんな状態であったから、水栓を一気に解放すれば水漏れになってしまうことも忘れていた。
結果、部屋が水浸しになってしまった貴方は、部屋に隠していたアヘン玉も使いものにならなくしてしまった。
それはそれは、大損害だったでしょうね?」
ルシアンとの距離が離れると、リカルドはアヘンを求めてますます腕を振り回して言葉にも満たない奇声をあげる。
その叫びでさえ、ルシアンの指揮によって奏でられる音の一つのようだった。
「裁判長。提案があります。リカルド先輩には至急、専門家の助けが必要のようです。
よって裁判を迅速に終結させるため、エルドレッド先輩の証言を今すぐにお願いしてもよろしいでしょうか?」
裁判長もあまりにも異例な事態に、顔色を無くしながら頷いた。
ルシアンはそれを受けて、傍聴席にいるエルドレッド・コネリーに向き直る。
「エルドレッド先輩にお伺いいたします。
あなたは夏季休暇の最終日にリカルド・ブラックウッドが水栓を全開にするところを目撃しましたか?」
それは悪魔の取引だった。
ルシアンの琥珀色の眼はらんらんと輝き、爪は喉元にかかっている。
もはやリカルドの醜態は言い訳のしようもないだろう。
で、あるならば。
エルドレッド自身の手で鉄槌を降りおろせと、と。
ルシアンの意図はこうだ。
──リカルドが水栓を開いたと証言すればお前の偽証は見逃してやる。
聴衆の前で友を売り渡すか、共に嘘つきと誹られるか、どちらを選ぶ?
エルドレッドは俯き、だが決断は早かった。
「……その通りだ。私は、リカルド・ブラックウッドが夏季休暇の最終日に水栓を全開にしたことを目撃した」
「貴様ぁああああああああッ!!!!」
唾を飛ばしての絶叫。リカルドは悪鬼にとり付かれたかのような、凄まじい力を発揮した。
ブラッドの手を振り払い、……その瞬間、肩が脱臼するのをものともせず、エルドレッドに向かって突撃する。
ダンっと大きな音を立てて、証言台を叩いたのはルシアンだ。
その手にはまだ、アヘンチンキの茶色の瓶が握られている。
ルシアンはアヘンチンキの瓶をわざとらしくゆらゆらと揺らして挑発する。
リカルドの血走った目はアヘンチンキの瓶を捉え、獣のように吠えながらすぐに矛先を切り替える。
「よせッ!!!!」
ブラッドが制止しようと踏み出すが、その腕に誰かが縋りつく。
そこにいたのは、リカルドの部屋に現れた幽霊だった。
青白く歪んで崩れかけた顔は、よく見れば美少年と言われた面影が残っている。
少年はブラッドの腕に必死に爪を立てて制止する。破滅へと向かうリカルドを、そのまま地獄へ叩き落とせ、と。
リカルドはルシアンに飛び掛かると、アヘンチンキの瓶をもぎ取った。
荒い息を吐きながら蓋を開け、一瞬、躊躇のように動きが止まる。
だが次の瞬間、彼はそのまま瓶を仰ぎ、液体を喉奥へと叩き込んだ。
「ぐあああああああああああッ!!!!」
エタノールに溶かされたアヘンが喉を焼く。
それは業火を飲み下したような激痛だった。
リカルドは喉をかきむしりながら転がり回り、滅多やたらに手足をふりまわして悲鳴をあげる。
眼は瞳孔が異常なほど収縮し、口からは大量のよだれが溢れ出る。
禁断症状を起こした者が高純度のアヘンチンキを飲み干してしまえばどうなるか。
喉を焼く刺激に暴れていたリカルドは、ある瞬間、ふと静けさを取り戻す。
理性を取り戻したのか? 遠巻きに見守る生徒たちがそう錯覚したほどだった。
「あ、ぁああ、……ふ、はは、ははは」
天井を見つめるその瞳は、まるで神の啓示でも受けたかのように潤んでいた。
リカルドは涙を流しながら笑い始め、まるで抱きしめるように自らの身体を抱きしめ、身悶えるように嬌声をあげた。
しかし長く続かなかった。
リカルドの唇が目に見えて紫にかわり、歯の根があわずカタカタと音をたてはじめる。
全身から水を被ったように汗が噴き出し、唇の震えは全身を犯すように波及する。
汗みずくの全身を震わせて、息をしようと必死にもがく。
だが意思に反して、彼の体は確実に死へと向かっていく。
呼吸は浅くなり、くぐもって獣が鳴くような音をたてながら、なお細まり命の最後の一滴を奪い去る。
やがてリカルドは動かなくなった。
だらりと舌がはみ出した唇は真っ白な泡に覆われて、脱臼したまま暴れた腕はあらぬ方向に曲がっている。
誰もがその壮絶な死を目の前に、言葉の一つさえ出なかった。
ただルシアンだけは、琥珀色の目を細めて、地に伏した獲物を満足げな顔で見つめていた。
その死にざまは、どこか溺者のようでもあった。
***
「本当にありがとうございました。弁護して頂けなかったらどうなっていた事か……」
ノクスホーク寮へ尋ねてきたジャスパーは深々と頭を下げた。
助けて欲しいと駆け込んで来た時よりも遥かに顔色も良くなっている。
ルシアンはジャスパーの顔を無遠慮に見つめた後に、浅く息を吐き出した。
「そうだねぇ。これに懲りたら悪戯はアリバイが作れる状況でやるといい」
「……なんだと?」
ブラッドは訝し気に問い返したが、ジャスパーは押しつぶしたようなうめき声を漏らして俯いた。
「どういう事だ?」
ジャスパーとルシアン、双方の顔を見て問いかける。
口を開いたのはルシアンだった。
「アヘンチンキが隠されていたのは、壁の隠し戸の裏だった。そうだろう?」
「ああ、その通りだ」
「アヘン玉が隠されていたのも同じ場所だっただろうね。
そういった隠し場所は重要な書類などを保管しておくことを前提として作られる。雨漏りなどで書類が濡れたりしないよう加工が成されるものなんだ。
つまりその中身が濡れていたという事は、隠し戸の場所を知っていた人物が、戸をあけて水をかけた事になる」
ジャスパーはようやく顔をあげた。
「気付いていて、見逃してくれていたんですか?」
「君の罪状は”複数の寮室を水浸しにした”というものだった。アヘン玉の損失に関しては含まれていない。
恐らく君は、水音かあるいは天井の染みから水漏れが起こっている事に気が付いた。それに便乗してアヘン玉を台無しにしてやる事を思いついたんだろう?」
「……その通りです」
「それは、……ユーリという少年のかたき討ちか?」
ブラッドが尋ねると、ジャスパーの瞳に沸々と憎悪が蘇るのが見てとれた。
「あの部屋で何が行われていたんだ?」
重ねて問うと、ジャスパーはゆっくりと口を開いた。
「1年前に特待生のイヴ・フォレストという女子生徒が”複数の生徒たちと不純な関係を持っている”と起訴された事件がありました」
「起訴された女子生徒が裁判を待たず自殺してしまった、という件だな」
ブラッドの言葉にジャスパーが頷く。
「彼女は寮長の部屋に連れ込まれて、アヘン漬けにされて、好き放題に弄ばれていたんです。
彼女が限界に近づいたころ、連中は事件が表ざたになるのを恐れ、彼女を追放するために裁判を起こした。
彼女は、……負けることが分かってた。心も体も踏みにじられて、その上、裁判で見世物にされるなんて耐えられない。
だから、自ら死を選んだんです」
ルシアンは目を細め、じっと告白を聞き入っている。
「その次に目をつけられたのがユーリでした。アイツもアヘン中毒にされて散々に遊ばれた。
中毒のせいで体調を崩して、頭も上手く回らなくなって、……自分が壊されていく事に気付いていた。
だから、あらぬ罪で訴えられて見世物にされる前に自分で決着をつけるって。
──貯水タンクに、リカルドを呼び出したんです。
アイツはリカルドを殺すつもりだった。僕も一緒に行くと言ったけれど、犯罪の片棒を担がせる訳にはいかないと言われて……」
「けれど遺体で発見されたのはユーリだった」
ルシアンが言葉を引き継ぐと、ジャスパーは唇を噛みしめながら頷いた。
「”連中”と言うのは? リカルド以外のメンバーは誰だったんだ?」
ルシアンが問いかけると、ジャスパーは悔し気に首を横に振る。
「はっきりとは分かりません。でも、エルドレッドは関わっていたと思います。それに、多分、教員の誰かも」
「そうか。なら君は今後しばらくは用心に用心を重ねて行動することだね。隠し戸の秘密に気付いたのが僕だけとは限らない」
「そう、ですね。気を付けます。本当にありがとうございました」
ジャスパーは深々と頭を下げると、立ち去っていった。
後には払拭しがたい重苦しい空気が残っている。
気分を変えようと立ち上がると、スピリットケトルのアルコールランプに火をつけ、湯を温める。
当然、水は井戸から汲んできたものを使っている。
鉛の危険性を聞いて以来は、手を洗うにも水栓を利用することを避けていた。
「いつからリカルドがアヘン中毒だと気付いていたんだ?」
「……ああ、僕が編入する際に何人かマスター候補はいたんだよ。その中にリカルドも混ざっていた」
ブラッドの問いかけに、ルシアンの反応は少しばかり鈍かった。
あからさまな態度には出ていないが、ひりつくような空気が漏れている。
棚にならぶ茶葉の入った缶を引き出し、いくつか匂いを嗅いでみる。
今は癖の強いものよりも、爽やかな味わいのものがいいだろう。
つい先日、ルシアンが持ち込んだ夏摘みダージリンを選択する。
最近になって、ブラッドも紅茶というものが美味しいと思うようになってきた。
紅茶を淹れるのも日に日に上手くなっている。
「事前の顔合わせをした時に、瞳孔が開いていることに気が付いてね。
表向きには3年生であるからと理由に断ったけれど、正確にはあの有様を見て身の危険を感じたからさ」
「それは正しい判断だったな」
「君を選んだことがかい?」
「そうは言ってない」
ブラッドは紅茶をカップに注ぎトレーにのせてルシアンのもとへ運んでいく。
ルシアンはカップを受け取ると、目を伏せてまだ若い茶葉の香りを吸い込んだ。
ゆっくりと目を開いたルシアンからは、先ほどまでの剣呑な空気は薄れている。
「ふむ。いい香りだ。随分と上達したじゃないか。君が就職先に困ったら、僕の護衛役に雇ってやろう。
それとも今から執事になる勉強でもしてみるかい?」
「冗談じゃない」
吐き捨てるように言えば、ルシアンは珍しく穏やかに琥珀色の目を向けてきた。
「僕の方は冗談のつもりじゃないさ。まぁ、卒業までは一年ある。ゆっくりと考えてみるといいさ」
その提案も、あるいは悪魔の取引だろうか。
だがその日の紅茶は、いつもより華やかで甘く、口の中で柔らかくほどける味がした。