レモネード毒薬混入事件①
全7話程度の短期連載、ヴィクトリア朝の学園を舞台にしたサスペンス×ホラーの新シリーズとなります。
初日は2話投稿、以降は毎日12時に1話ずつ投稿いたします。
「アマルダ嬢、あなたをレモネード毒薬混入事件の犯人として起訴いたします!」
食堂に高らかに響き渡ったその声は、まるで朝を告げる雄鶏だった。
声をあげたのは名家のご令嬢であったので、少なくとも”雄”の部分は誤りだ。
ただその行動の愚かしさを測るならば、さしたる差異はないだろう。
訴えを受けたアマルダ嬢は、憐れにもその場で泣き崩れた。
無理もない。この学園に置いて罪人として告発される事は、社交界からの追放に等しいのだ。
にも関わらずそれは、定期的に……貴族たちの退屈しのぎとして開催される。
今回その”憐れなコマドリ”に選ばれたのがアマルダ嬢という訳だった。
「学級裁判は3日後に行います。
アマルダ嬢、貴女には規則に則り弁護人をたてる資格があるわ。
……もっとも、自らの破滅を望むような愚か者がいるとは思えないけれどね」
せせら笑う令嬢とその取り巻き達。
食堂に集った者たちは、気の毒に思いながらも、無関心を装っている。
『学級裁判』、またの名を──『追放ゲーム』。
ルドウイーク学園に存在する悪しき風習の最たるもの。
それは訴えられた時点で負けの決まっている出来レースだ。
故に、弁護人を買って出る奇特な人物などいよう訳もない、……筈だった。
「なんとも下らない茶番劇だが、役者が揃ってないのは頂けないな。
ここは一つ花を添えて、弁護人はこのルシアン・レイヴンシャーが引き受けよう」
席を立った瞬間に、周囲の空気ががらりと変わる。
鴉の濡れ羽色のごとく艶めいた漆黒の髪に、蜂蜜を煮溶かしたような琥珀色の瞳。
儚げな美少年を思わせる風貌ながら、変声期を終えた声は存外に低くよく通る。
誰もが息をのみ固唾をのみこんで見守る中、唯一声をあげたのは、……
「おい、ふざけるな!! どういうつもりだッ!!!!」
椅子を倒しながら勢いよく立ち上がった俺だった。
***
「アマルダ嬢はセリスフォード寮の2年生たちを中心としたお茶会に参加していた。
当日はやや汗ばむ陽気であったため、レモネードが用意されており、これを運んで来たのがアマルダ嬢だった。
レモネードを飲んだ8人中、8人ともがその日の晩に酷い腹痛を訴えたことから事件が発覚。
ポッドに少量残っていたレモネードを、アズライエル寮3年生が分析した結果、ヒ素が確認された。
レモネードを用意したのはアマルダ嬢であり、お茶会参加者の中で唯一レモネードを口にしなかったのもアマルダ嬢である。
──よって、レモネード毒混入事件の犯人はアマルダ嬢であることは明白だ」
ルシアンは優雅に長椅子に寝そべりながら、事件報告書を読みあげる。
「なるほど。確かに面白いほどに証拠が揃っているように見えるな」
「だったら、さっさと弁護人を辞任しろ」
長椅子からはみ出した足を蹴り飛ばしてやりたい衝動を押さえながら、俺は唸るような声を出す。
名はブラッド・ゲイブル。
ヴァルトレイク寮、『士官予備科』に所属する2年生だ。
18歳にして190センチに届く恵まれた身長に、日々の鍛錬により無駄を削ぎ落した体躯。
短く刈り上げた髪は汚泥のようなこげ茶で、感情に乏しいアイスブルーの瞳も相まって周囲から恐れられている。
実際、1年生の時に出場した剣技大会で3年生をボロボロに打ちのめした事もあり、恐ろしいという評価はあながち間違ってもいないだろう。
そのブラッドをまったく畏れもしない男。
それが今、目の前で悠々とくつろいでいるルシアン・レイヴンシャーだ。
「僕は証拠が揃っているように”見える”と言っただけだ。逃げ出す理由はどこにもない」
びっしりと文字の書き込まれた報告書をテーブルに投げ出してルシアンが笑う。
気だるげな仕草でさえ気品が漂う生粋のお貴族様。
フォークより重いものは持ったことがないような繊細な指先は、広がった書類の上を撫でている。
数枚の紙はテーブルから落下したがそれを拾う気配はない。
そんな傲岸不遜な態度にブラッドは大きく息を吐き出した。
「──最初に話した筈だ。学級裁判には決して関わるな、と」
「話は聞いたさ。だが承諾した覚えはない」
頭でっかちなお坊ちゃんの脳天に拳を落としたい気持ちを飲みくだす。
「いいじゃないか。別に君に迷惑がかかる訳じゃないだろう?」
「俺はお前の”マスター”だ。お前の行動に責任を持つ立場にある。まさかそれも話を聞いていただけで承諾していないとは言わせんぞ」
低く威嚇する声を絞り出しても、ルシアンは楽し気に目を細める。
ブラッドがこの小生意気なガキ、ルシアン・レイヴンシャーを引き留めなければいけない理由。
それはルドウイーク学園のもう一つの悪しき風習『メンターシップ制度』に由来する。
学園にはもともと『ファギング制度』が存在する。
「ロースクール在籍中に上級生のもとで雑用・補佐を務めることで階級と礼儀を学ぶ」というものだ。
全寮制である学園において、先輩後輩の上下関係は決して越えられない壁である。
先輩は”マスター”であり、後輩は”召使い”となり、あらゆる要求に懸命に応える事を義務付けられる。
この『ファギング制度』を受けて育った下級生はどうなるか。
彼らは自分たちが上級生になった途端、とんでもない暴君へと変貌する。
悪循環でしかない風習だが、この絶対的な上下関係こそが学園の秩序を作っているのだと言われている。
ところがこのルドウイーク学園の秩序を学んでいない生徒も存在する。
それがハイスクールになって他校から編入して来た生徒たちだ。
とくにルシアンはターム制を利用し、4月に編入してきたという異例中の異例だった。
そういった生徒には学園の秩序を学ぶため上級生が”指導者”となるべく選ばれる。
本来、士官予備科であるブラッドと、高等教養科のルシアンは寮自体が別だった。
だが、こうして同室にされているのは、ブラッドが指導者に任命されたせいだった。
そして、”マスター”であるブラッドが”召使い”のルシアンに強く出られない理由……
レイヴンシャー家がこの国に代々続く名門の伯爵家であり、ブラッドが新興貴族の男爵家である故だった。
「……分かったよ、マスター。それじゃあ調査に行くから付き合ってくれ。俺の行動に監督責任があるんだろう?」
「そういう意味じゃないッ!!!!」
窓ガラスを揺らすほどの怒声をあげたブラッドを、だがルシアンは軽やかに笑うだけだった。
***
■□■ 事前調査① ブレンダ・マッキンリー子爵令嬢 ■□■
「あの日のお茶会は午後2時を少し過ぎたころに始まりました。
そこで私たちは最初にレモネードを頂いてから、午後の時間をゆっくりとガゼボで過ごしましたの。
18時を過ぎた頃合いにジョセフィーヌ嬢が席を立ち上がったので、解散となりましたわ」
まず始めに聞き取りを行ったのは、お茶会に出席し、被害者となった8人の女学生たちだった。
女学生たちは当然のこと、ルシアンの介入を快く思っていない筈だった。
それでも伯爵家であることを重んじて快く聞き取りに応じたようだ。
……あるいは単純にその見目の良さに惹かれているだけかもしれなかった。
聞き取りには空き教室が用意された。
普段ほとんど使われない教室は、よく見れば窓枠のふちに蜘蛛が巣をはっている。
生徒用の長机が整然と並び、机の端では埃をかぶったインク壺が鈍く光を反射していた。
壁掛けの時計も螺子が巻かれなくなって久しいのか、あらぬ時を示したままに静止している。
「学園のガゼボで茶会を開く時には事前に申請が必要だと聞きました。申請を出したのは誰でしたか?」
ルシアンは丁寧にメモを取りながら問いを投げる。
「ミッシェル嬢ですわ。彼女はそういった取りまとめが上手ですので」
「そこで机や椅子など茶会に必要なものを配膳しておくように依頼する、という事で間違いありませんか?」
「ええ、間違いありませんわ」
「茶会の当日、アマルダ嬢はどこに座っていたか覚えていますか?」
「もちろんですわ。私とジョセフィーヌ嬢、それにレイチェル嬢とアンフェザー嬢が同じテーブルにつきました。残った者たちがもう一つのテーブルにおりましたわ」
「なるほど。テーブルは2つだった訳ですね」
「その通りですわ」
ブレンダはにこやかに質問に応じている。
そこに事実を偽装するような後ろめたさはいっさい感じられなかった。
「それでは、毒について教えて下さい。レモネードを用意したのはアマルダ嬢という話でしたね。
これはガゼボの使用許可を出した際に、あらかじめオーダーしておいた訳ではないという事ですか?」
「ええ、そうですわ。数日前までは肌寒い日が続いておりましたから、紅茶だけで良いと思っておりましたの。
ですがあの日は久しぶりに汗ばむような陽気になったので、もっと口当たりの良い、爽やかなものが飲みたいという話になりましたのよ。
そこでアマルダ嬢にレモネードを用意して頂きましたの」
「彼女一人に用意させたのですか?」
ルシアンの問いかけに、ブレンダは扇で口元を隠して微かに笑う。
「意地悪をした訳ではなくってよ。ただ、……お分かりでしょう? アマルダ嬢は男爵家の三女ですの。
誰かが動かなくてはならない時に、アマルダ嬢が指名されるのは決しておかしな事ではありませんわ」
「そうですね。逆に貴女が動いていたら、アマルダ嬢は恐縮してしまったでしょう」
ルシアンは同意を示して頷いた。
「レモネードの原液もアマルダ嬢が用意したものでした。彼女の生家ではレモン作りが盛んだとかで、蜂蜜漬けにしたものを寮に持ち込んでおりましたわ。それはそれは美味しいので時折分けて頂いていたのよ。
あの時もアマルダ嬢が原液を用意して、井戸に水を汲みに行ったのも彼女でした。
ですので私たちの誰一人として、毒を入れる隙なんてありませんでしたのよ」
「なるほど。把握いたしました。異変に気付いたのは何時ごろでしたか?」
「夕食を終えて、部屋に戻ったあとですわ。突然、お腹が痛くなりまして。それに酷い吐き気にも襲われましたの。一晩中苦しい思いをして。何度、死ぬかと思ったことか。本当に恐ろしいことですわ」
ブレンダは睫毛を伏せて小さく肩を震わせる。
「ありがとう。とても参考になりました。学級裁判でも今と同じ証言をしてくれますか?」
「ええ、勿論ですわ。……でも、よろしいのかしら?」
それは暗に、ルシアンにとって不利になるだけだと告げていた。
けれどルシアンはただにっこりとお行儀よく笑って見せる。
笑みを向けられたブレンダは仄かに顔を赤らめた。
「ええ、僕は弁護を引き受けただけで、真実をねじ曲げようというつもりはありませんから。
……そうだ。最後に一つお聞きしたいのですが、アマルダ嬢の犯行動機はなんだと思いますか?」
「そうですわね……、アマルダ嬢はマリアンヌが学園を去ってから随分と落ち込んでいらっしゃいました。
それで、心を病んでしまったのではないでしょうか」
ブレンダは丁寧なカーテシーをして去っていった。
それを見送ってからブラッドはようやく口を開く。
「目新しい事実はほとんど出て来なかったな」
「目新しい必要は何もないさ。ところで、マリアンヌと言うのは?」
令嬢の姿が見えなくなるや否や、ルシアンは長机の上に足を投げ出した。
「数か月前に学級裁判にかけられた女子生徒だ。平民の特待生で、なすすべもなく敗北した。
その後、どうなったかは聞いていないが、学園にいないのは確かだ。
アマルダ嬢はマリアンヌのメンターだった。責任を感じていても不思議じゃない」
「なるほど。僕と君のように固い絆で結ばれた師弟関係という訳か」
露ほども実の無い言葉に鼻で笑う。
「それで、……この状況でどうやって弁護するつもりだ?」
時間をかけようやく8人分の証言を得たが、内容にはほとんど差異が見当たらなかった。
そこに事実を反証する材料があるとは思えない。
「事実確認と証言の約束。十分な成果が得られたじゃないか」
「あいにくと、不利な条件しかないように思えるがな」
「それじゃあ君は、あの憐れなコマドリが犯人だと心から信じているのかい?」
「動機もある。状況も彼女を犯人であると示唆している」
「それはどうかな」
ルシアンは証言を纏めた紙を赤い革紐で束ねると、長机から足をおろして立ち上がった。
「明日はアズライエル寮のヒ素を検出したという奴への聞き込みだ。引き続きよろしく頼むよ、マスター」
それは尊敬の欠片すら感じられないような響きだった。
***
■□■ 事前調査② レジナルド・アーガット子爵令息 ■□■
アズライエル寮は理化学術を始めとする、いわゆる先進的な学問を学ぶ生徒たちが集っている。
今回、ヒ素を検出したという3年生のレジナルド・アーガットは子爵家の出身であり、優秀な生徒としても知られていた。
それはレジナルドの部屋が角部屋であることからも窺える。
聞き取りに当たっては「先輩の立場を慮って」というルシアンの発言からレジナルドの部屋を尋ねる形で行われた。
アズライエル寮は学園寮の中でもっとも北側のはずれに位置している。
窓こそ南向きに設置され中庭を一望できるものの、寮全体としては日当たりがいいとは言い難かった。
レジナルドの部屋もほのかにかびの臭いが漂っており、石壁からの隙間風が肌寒い。
季節は初夏だが、夜になれば大分冷えこんでくるのだろう。
暖炉には昨晩燃やされたであろう、真新しい薪木が残っている。
ルシアンはしばし興味深そうに暖炉の灰を眺めたあと、改めてレジナルドに向き直った。
「お時間をとって下さりありがとうございます」
「いや、構わないさ。真実の探求はアズライエル寮においてもっとも尊重されるべき概念だからね」
色白の、どこか蛇を思わせるような男だった。
芝居じみた、もったいぶった態度が鼻につく。
まぁそれは、ルシアンにも共通して言えるだろう。
「まず始めにレモネードからヒ素を検出したという事でしたが、どのような方法を用いたのでしょうか」
「マーシュ試験法だ」
レジナルドはそこでもったいぶった間を置いた。
「君たちにも分かりやすいように説明するならば、ヒ素が混入されたとされる液体に特殊な薬剤と金属を加えることによりガスを発生させる。そのガスを熱することでヒ素が分離し銀色の鏡状の膜として定着するというものだ」
「なるほど。さすがはアズライエル寮の傑物と名高いだけのことはありますね」
ルシアンは素直に感心してみせた。
「そのマーシュ試験法によってレモネードからヒ素を検出した、という事ですね。
念のためお伺いしますが、レモネードを希釈した水も検査されましたか?」
「レモネードから検出されたことが分かりさえすれば問題ないだろう。それに彼女らが茶会で使う”友愛の井戸”はセリスフォード寮のはずれにある。男子生徒が近寄れるような場所じゃないさ」
「”友愛の井戸”ですか。セリスフォード寮の文化に詳しいのですね」
「ああ、この部屋からはガゼボが丸見えになっているからね」
そう言ってレジナルドは南向きの窓に近づいていく。
「見ろ。中庭が一望できるだろう。茶会を行うガゼボはちょうどあの薔薇園の中にある」
「なるほど。確かにこの窓からはよく見える。それで茶会のメンバーたちとも交流があったのですね」
「下衆な想像はしないでくれたまえ。時折、目があう事もあったがその程度のものだ。覗き見するような真似はしていない。彼女たちが私を頼ったのは、……分かるだろう」
「あなたが、アズライエル寮の傑物だから、ですね。羨ましいことです」
恍惚とした笑みを浮かべるレジナルドには呆れかえる。
顔さえ良ければ相手が男でも構わないのか、ルシアンにおだてられて完全に鼻の下が伸びていた。
こうしてレジナルドへの聞き取りも、ただその間抜けな顔を見せつけられただけでお開きとなった。
***
■□■ 事前調査③ アマルダ・ダーマン男爵令嬢 ■□■
被告人であるアマルダへの聞き取りは、裁判の前日に行われた。
本来は一番に話を聞くべき相手だったが、訴えられたことにショックを受け寝込んでしまっていたという。
アマルダは、セリスフォード寮に在籍している。
セリスフォード寮は女子生徒専用の寮であるため、立ち入るためには特別な許可を得る必要があり、面会のための時間も限られる。
アマルダはセリスフォード寮の中にある特別室で軟禁されている状態だった。
常に監視役の生徒がついており、自由に過ごせる時間はほとんどない。
これは、かつて被告として訴えられた生徒が、裁判を待たず自殺してしまった事への予防措置だ。
逃亡をはかった者も数知れない。
それほどに精神的苦痛を与えると分かっていながら、学級裁判は伝統行事のように続いている。
表向きにそれは、生徒たちによる”自浄作用”だとされている。
だがなによりも、派閥を築き貴族としての生き残りを学ぶ”社交界の前哨戦”としての意味が大きかった。
「具合はいかがですか、アマルダ嬢」
軟禁部屋のベッドで体を起こしているアマルダ嬢はいかにも顔色がすぐれなかった。
青白く、まるで死人のようだ。
ルシアンが話しかけてもほとんど表情が動かない。
実際、アマルダへの聞き取りはほとんど成果が得られなかった。
彼女自身があまりにも憔悴しきっていたし、それでなくとも監視役の生徒が付き添っている。
これは女子生徒が男性生徒と密室で過ごすことに問題があるためで、致し方ない処置でもある。
だが結果的に、言いたいこともろくに言えないような状況になってしまっていた。
ブラッドはアマルダの変貌ぶりに驚いていた。
たった2日で人はこんなに変わるものかと思うほど、彼女の顔はまるで亡霊のようだった。
肌は雪のように白く生彩がない。眼窩はくぼみ、どす黒い隈が浮かんでいる。
水もろくに飲んでいないのか、唇もひび割れ、壊れかけの人形のようだった。
結局、規定の時間になるまでにアマルダから聞き出せたことはほとんど無いに等しかった。
彼女はすでに口を開くことさえ億劫であるかのようだった。
「それでは失礼いたします。明日、学級裁判の舞台にて改めてお会いいたしましょう」
ルシアンが立ち上がってドアに向かって歩き出しても、アマルダ嬢はぴくりとも反応を見せなかった。
本当に、大丈夫だろうか。
ドアをくぐる前に振り返る。
そして、──思わず息を飲んだ。
アマルダはじっとブラッドを見つめていた。
先ほどまで人形のごとく動かなかった顔は確かにこちらに向いている。
ブラッドは士官予備科の人間だ。
実戦に出たことはないものの、日頃から鍛錬を欠かさない。
もうじき3年生となった今、その実力に並ぶものは学園に存在しないほどだった。
で、あるから。
目の前の少女を恐れる理由は一つもない。
その筈なのに、何故だか背筋が怖気だつ。
彼女の視線はセリスフォード寮を出たあとも、ずっと背中に張り付いているかのようだった。
***
その晩は初夏だというのに、まるで初春のように冷え込んだ。
タイルの隙間から冷気が染み込み、ベッドの足元からゆっくり這い上がってくるようだ。
寒い、それに、断続的に水の滴る音が響いている。
ぴちゃん、ぴちゃん、ぽたん、と。
冷えた地下水が岩に染み込み、それが時間をかけ水滴となってこぼれ落ちる。
寒い、それに、……水音に混ざって誰かのすすり泣く声が聞こえてくる。
重い瞼を押し開くと、闇に沈んだ天井が目に入る。
カーテンを開けたままの窓からは青白い月が覗いており、僅かな月明りが室内の輪郭を朧げに浮かび上がらせる。
身を起こして息を吐くと、それは白く濁るほどだった。
寒い。だというのに寝ている間に汗をかいたのか首筋はじっとり濡れている。
それがどんどん冷やされて、凍るような寒さを助長する。
ひっく、えっく、えっく、ひっぐ。
すすり泣く声は部屋の隅から聞こえてくる。
そこは月明りも届かず、濃い闇が漆黒の獣のように横たわっているようだ。
何も見えない。
だが、濃厚な気配がそこにある。
ぴちゃん、ぽとん、ひっく、ひっく、えっぐ、ぴちゃん、ぴちゃん。
すすり泣く声と水の滴る音が混じりあう。
ブラッドはゆっくりとベッドから立ち上がった。
「……誰かいるのか?」
声を投げても返事はない。
同室であるルシアンも寝入っているのか、起きてくる気配はないようだ。
「おい、……」
一歩、一歩、近づいていく。
声は衣装ダンスの中から聞こえてくる。
手を伸ばし、戸を開くと思いの他、大きく軋む音が響いた。
「冗談だろう?」
中に納めてあったのは、冬用の外套や予備の制服だ。それらがぐっしょりと濡れている。
なぜこんな事になったのか。天井から雨漏りでもしているのか。
だがここ数日、雨が降っていた記憶はない。
濡れた外套に手を延ばしかけたところで、再びくぐもってすすり泣く声が聞こえてきた。
それは衣装ダンスの奥から響いている。
「……おい、誰か……」
声をかけ、手を延ばす。
その瞬間、真っ白な腕が突き出し、何かが衣服の隙間から飛び出してきた。
驚きに半歩下がり、その足元が水に滑る。
白い腕、振り乱した髪、顔はほとんど見えなかった。
胸元を掴む指先は、どす黒く変色し、爪はひび割れ、あるいは剥がれ落ちている。
「──ぐッ!!!!」
尻もちをつき、尾てい骨が鈍痛に見舞われる。
ソレはブラッドの上に馬乗りになって跨ると、両手を顔にのばしてくる。
顔が近づく。乱れた髪が頬に触れる。
開かれた口腔にひしめくように蠢くのは虫だった。
頬の肉は骨が見えるほど剥がれかけ、その眼窩に瞳は残っていなかった。
「う、あああああッ!!!!!!」
「騒がしいな」
それは突然に過ぎ去った。
低く響く聞きなれた声。ランタンを翳すのはルシアンだ。
目の前には、……誰もいなかった。
髪を振り乱した女もいなかったし、足元の水たまりも消えている。
ランタンの灯りに照らし出された衣装ダンスには、乾いた外套が並んでいる。
すべてはまるで悪夢のように。何事もなかったかのようだった。
「まったく、君は夜中に一人でダンスパーティをする趣味でもあるのかい?」
しばし呆然としていたものの、ようやく頭が回り始めた。
呻きながら起き上がって、改めてルシアンに向き直る。
呆れ顔の青年は、なぜか薄手の外套を纏い、足元も編み上げのブーツを履いている。
完全に外出のためのいで立ちだ。
「……お前こそ、その格好はなんだ?」
寮の門限は、当たり前だがとっくのとうに過ぎている。
「ああ、これかい? セリスフォード寮にある”友愛の井戸”とやらを見に行こうと思ってね。
この時間ならば、見咎められることもないだろう?」
ルシアンはまったく悪びれた風もない。
ブラッドは大きくため息を吐き出すと、その手からランタンをもぎ取った。
「駄目に決まってるだろう。却下だ。マスターとして許可しない」
低く地を這うような声を出せば、ルシアンは首を緩く傾ける。
仕草だけならば愛らしかった。
「仕方ないな。マスターのご命令とあらば諦めよう。……じゃあ、ブーツの紐を解くのを手伝ってくれ」
その脳天に拳を落とすのを耐えるためには、かつてないほどの忍耐力を消費した。