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ナツメとトモキは振り返らない

作者: 亞沖青斗

 広大な敷地に数多種類の動物が展示される園内で、ナツメは未だ描く対象がなかなか絞れず、画材道具を小脇に独りで彷徨っていた。

「ああ、最悪」

 正午からの空は予報通り、ぶ厚い雲でとことん狭くなろうとしている。見下ろしふと目で認めた先には、幼稚園時代からクラスメイトである腐れ縁のタケルが友人ら数人と麒麟舎の前で写生にうち込んでいた。背後から気づかれないように近づいて覗くと、既に画用紙のほとんどに白地はなかった。

 たいした出来ではない、と自分の進捗を棚に上げてせせら笑ったナツメは、タケルが振り返る素振りを見せたと同時にその場から駆けて遠ざかった。

 小学五年生の春になっての遠足は芸もなくありきたりな動物園だが、大型バスで二時間かけて到着した地で規模も地元より遥かに大きく、初の到来となるナツメも楽しみにしていた。しかし、少し前にタケルが起こしたいざこざが原因で面白くない境涯となっていたのだ。

 タケルが「ナツメ」と、叫んだ気がした。園内に点在する他五年生の視線が追ってこないよう、ナツメは更に走った。唇をきつく引き結ぶ。

 ゾウ舎の前には嫌いになったユウナがいた。睨まれて気分が悪くなったので、人気の無さそうなハイエナ舎に行くと、いつも鼻息が荒くて汗かきなユウトがいてこちらに気づくと赤ら顔で照れくさそうに丸い手をあげた。もともと四人は幼馴染だった。

「クソ」

 ナツメは不快感も顔に隠さず背を向けた。ちょっと前、からかわれていた時に助け舟を出してから妙に付き纏われて鬱陶しく感じていたところだ。

 タイミング悪く発熱した母のせいで弁当は、急遽父親が詰め込んだ不出来なサンドイッチで、普段から仲の良い友人からも嗤われた。みんな手の込んだキャラ弁を自慢し合って楽しそうだった。仕事前に父がつくったサンドイッチは、塩昆布や納豆、漬物やら佃煮が挟まっていて意味が分からなかった。ナツメは頭にきて園内のゴミ箱に叩き込んだ。だから、空腹でもっと苛ついていた。

 どこに行っても五年生一組から四組までの生徒たちが、和気あいあいと写生に熱中している。時間は残り一時間と迫っていた。

「ムカつく」

 口の中で毒づくナツメ。自分で結んだポニーテールも本当は、遠足前日に母と美容室に行って前髪もきれいに切り揃えてもらうはずだったのに、それも今までと同じ前髪なしポニーテール。

「あいつデコが広いだろ。もう後退してんだよ」とタケルに陰で吹聴さていた事実を知って問い詰めると、悪びれもなく認めたその顔が一週間たった今も、ナツメの脳裏を掠めて腹奥まで沸沸と滾らせる。

「おい、江梨」

 見回りする担任教諭の織田が、まだ写生に手を付けていないナツメに気づき手招きした。しぶしぶ歩み寄ると、全身白色スポーツウェア姿の織田はナツメと同じポニーテール頭をがりがり掻きながら面倒くさそうに助力が必要か尋ねた。ナツメは、負けじとことさら面倒くさげに返した。

「描きたい動物がいないだけです」

「あっち」織田が背中方向へ立てた親指でぞんざいに示した。「ホッキョクグマいたよ」

 つまり織田は、時間が無いから描きやすい動物を推奨したわけだ。

「いやです」

 ナツメの反骨的態度は今に始まったわけではない。広いひたいだからこそ目立つ母譲りの濃い眉毛が、根っこからの気の強さと心の内を見る人に表している。

 織田は嘆息して西へと指差した。

「あっちにお前より背が低い黄色のリュック背負ったやつが一人いるから、行ってきたらどう。そいつも偏屈で、他人と一緒の描きたくないんじゃないの」

 入り組んだ生け垣、並ぶ街路樹が壁のように区切る緑の方には、人影どころか黄色のリュックの片鱗も視認できない。

「いやです」

「松原もサンドイッチ食ってたぞ。コンビニ袋に提げたやつ」

「じゃあ行きます」

 単純に興味が湧いた。松原とは、五年生の春から転校してきた松原トモキに違いない。クラスは違えど、廊下に張り出された彼の一風変わった読書感想絵には、最速最短がもっとうのナツメも思わず目が惹きつけられて足を止めるほどだった。

 父親から聞いただけの話だが、ナツメの小学校から少し離れた新興住宅地の一部で地盤沈下現象が顕著に発生したため、保証を受けた二十戸ほどの家族が近隣の分譲マンションに移住してきたとのことだった。松原トモキが住むマンションの場所は、ナツメが通う小学校と隣の小学校に校区が分断されていて選択が可能。松原トモキは、他多くの移住民とは違って友人が一人もいないナツメの通う小学校を選んだわけである。

 緑の長い障壁を抜けると、動物園特有の呼吸を浅くさせる獣臭が区域内に立ち込める。霊長目舎と看板に記された先には、建物屋内でニホンザル、ゴリラやチンパンジー、オラウータン、屋外ではテナガザルにリスザル、エリマキキツネザルなどなどが展示。人気もあって複数の生徒がまばらに座り込んで、せわしくクレヨンを動かしていた。

 区域内をくまなく駆け巡ったナツメは、立ち止まって輪郭のくっきりした濃い眉をひそめた。松原トモキの姿はない。しかし、黄色のナップサックのみがベンチを陣取る形で主人の帰りを待っていた。巾着の口からは、乱雑に押し込められた白色のコンビニ袋がはみ出ている。

 トイレかな、と当たりを付けたナツメがその場で待つなどするはずもなく、再び生け垣の外に出ようとする。その時、またもや立ち込まって眉をひそめた。

 生け垣と地面の隙間から、にょきりと子供の指が覗いた。ナツメの足元まで転がってきたコバルトグリーンのクレヨンを捕まえて、また緑の障壁向こうへ引っ込んでしまう。

 ナツメは最速最短がもっとうである。デニムパンツとパーカーが汚れることも気にせず、十センチあるかないかの隙間に腹這いとなって頭から身体を捩じ込んだ。

 生け垣の障壁が狭い三角形のスペースを生むそこに、松原トモキはいた。か細く小柄で可愛い女の子のような容姿で、その真剣な眼差しが向ける正面には一匹の猿がいた。ナツメは唖然とする。

 口笛を吹く真緑の毛色をした猿だった。猿と呼べるべきか。ナツメに気づいたそれが、いやらしく口端を吊り上げて嗤う。リスザルほどのサイズで、耳は先端部が尖っている。

 緑の毛並みは、よくよく見ると苔もあれば雑草のようでもあった。五本の爪はささくれていて長く鋭い。なにより目が異常に人間くさく、今にも言葉を喋りそうだ。

 見定められたナツメは、三角形の領域から進むも退くもなせず固まってしまった。かたやのトモキは一心不乱に画用紙へと絵描きしている。

 地べたに座る緑の猿が、前脚を地に着け舌舐めずりした。低姿勢で後退りしていく。めり、と樹の皮を剥ぐような音がしたと思ったら猿の両眼の間が避けて一つに繋がってしまった。

 トモキがクレヨンを取り落とす。咄嗟に突き飛ばしたナツメが一緒に転がる地面から見上げると、つい先程までトモキがいた場所には巨大な紫色の花が咲いて画用紙やクレヨンのみならず地面すらも抉って一飲みしていた。バキバキと生々しい音で咀嚼してしまう。

 声も出ない。再び猿の化け物が動いた、そう思って片目を固く閉じたナツメの狭い視界で、次は地面からアナコンダほども太い見るからに蛇の尾が噴き出、かの猿を引っ捕らえてしまった。

 尾だけが巨大化した猿にきつく絡みついたまま、ずるずる地中へと姿を消していく。

「なにあれ」

 ひとまず危急は去ったと傍らのトモキに話しかけたナツメは、またもやあんぐり口を明けて硬直化する。特大ポリバケツほどサイズのある蛇の頭があり、しかも目が合ったからには下手に悲鳴もあげれぬ。

 尻もちから起き上がろうとする体勢のトモキは、上半身をまるまるその蛇に咥え込まれ今にも飲み干されようとしていたのだ。

 トモキは雑作もなく丸呑みされた。そして、自分だけは助かるのではないかとの淡い期待虚しく、ナツメまでも抵抗する間もなく飲み込まれてしまった。次に目を覚ますまでの間、短かったの長かったのか、まさに溺れる感覚の中で必死にもがいていたのでまるで憶測つけ難かった。


 背中方向が単純な袋小路であるそこから先は、天井に照明ライトも見当たらないに、辺りは赤色の仄光りで不気味に通路の輪郭をぼやけさせていた。床も壁も塵一つなく滑らかで固く冷たい。

 立ち上がろうとしたところで、左手をギュッと握られて初めて気づく。ナツメは、涙目のトモキに手を引っ張られてまた座り込む。二人ともが粘液で頭から爪先までくまなく全身ドロドロだった。

「ここどこ? わかんないよね。わたし、ナツメ。江梨ナツメ」

「おれ、松原トモキ」

 頷いたナツメは妙に冷静だった。

「どうなったのこれ。あれ、変な猿? 描いてた」

「急におれの前に出てきて、脱走したのかなって追いかけたんだ。チャンスだって思って描いてたら」

 トモキの震える声が控えめに反響していた。それを除けば無音だが、どこかで動くものの気配がする。

「どうする?」

 二人の目の先は、目算で距離が測れない真っ直ぐの通路奥。左右に逸れる曲がり角もいくつかあった。

「行こう」今度はナツメが手を引っ張って立ち上がる。

「どっちに」

「真っ直ぐ、突っ走る」

 言うや否や、覚悟の定まらないトモキを強引に先導する形で走り出した。踏み込むスニーカーの靴底の感触は固い。ダダダ、と二人だけの足音が重なる。その瞬間、周りから一斉に強烈な視線が集まった。ナツメの方は、足がすくむほどの寒気に襲われた。

「待って」

 トモキが急に走る足を緩めたため、ナツメもつられて止まる。

「うわあ」そして、胸が弾けるような声を上げていた。

「なにこれ」

 見上げるトモキが張り付いたそれは、いつの間に変わっていたのか通路脇のガラス壁面で、その向こうには人間の大人を遥かに越える身の丈の巨人が座り込んでいた。顔面の真ん中にはバスケットボールほどもある黄色の一つ目が、二人を睨み据えていた。近づいた目の色がじわじわと赤く染まっていく。ガラス壁面には十行の文字が羅列されていたが、ナツメには解読不可能だった。

「こっちに行ってみよう」

「ちょっと」

 トモキに手を引かれて、一本の直進から逸れてしまう。意表を衝かれたナツメが不服を漏らそうと口を開いたのも束の間、次に広がる光景がそうはさせなかった。枝分かれした通路は、透明のガラス壁面が連続して並んでいた。中では、奇怪な形貌の生物が四角のスペースに狭しと蠢いていた。

 乱杭歯の口内から黄色の一つ眼を見開き、二人の動きを追う紐状のそれは長くぬめる胴体を渦巻かせている。

 対なるガラス面には、体毛の薄いピンク色の豚が眠っている。その身体には人面がいくつも浮かび上がっていた。

「あれ、シロバナアナグマ」

 トモキが指差したガラスの向こうでは、鼻先が白色のアナグマにも似た生物が確かにいたが、身体はヒグマくらい大きく尻からは百足が尾のように揺れている。

「あれは、ベローシカかな」

 頭と顔だけ黒くそれ以外は白い体毛に覆われる猿が五匹いたが、背中は茶緑の薄汚い苔だらけで何故か皆がギギギと嗤い続ける。

「オオセンザンコウだ」

 オオセンザンコウとは通常松ぼっくりのような形状の固い鱗に全身を覆われていてアリクイに似ているが、トモキが言うそれは尻を向けてきたかと思うと、背中側が横に裂けて鋭い鮫齒が犇めくアギトとなった。喉奥からいきなり青白い霧を噴出して、スペース内は靄だらけになってしまった。

「やべえやつだ」ナツメが問う。「あれは? ノミかな」

「虫はわかんないけどそうだろうね」

 肥えて張り裂けそうなノミは土佐犬サイズはあり、数十匹近くが中で飛び跳ねている。「うわ」と、ナツメとトモキが揃って身を引く。二人を認めた巨大ノミ全てが、隔てるガラス面に隙間なく張り付いてガチガチと震え始めたのだ。今にも爆発しそうだった。

「早く行こう」

「うん」

 ナツメが手を引いて角を曲がる。名残惜しそうにするトモキは次の瞬間、驚きと共に膝から崩れかけていた。

「トモキ、あれなに」

「スローロリス、なんだろうけど」

 つぶらな黄色の一つ眼、体毛は赤と紫が入り交じる毒々しいマーブル柄で口からは大量の唾液を垂らす。背中から百本にものぼるだろう触手は、先端部に鋭い鉤爪が備わる。

「あれ、モズだ」歩む足だけは止めないトモキが血相を変える。「頭が黒いから、ズグロモリモズだ」

 胸と背中が褐色、羽毛には神経毒が含まれる通常は全長二十五センチほどの派手な鳥だが、これも他と類漏れず二メートル近くはある。それが、二人を正面にして両翼を広げた。バババッと、ガラス面に亀裂が生まれて隅々まで広がっていく。連続する鋭い破裂音が辺りを支配した。

 何が起きたのか理解できなかった二人は、金切声を上げて駆け出していた。

「ぎゃああっ!」

「ここまで、ごせんまんです」

 急停止したトモキとナツメに絶叫を浴びせられたそれは、薄赤光の下で壁に寄りかかる人型の得体不明生物だった。年齢は分からない。頭髪は若草みたいに鮮やか緑色で、首から下は毛足長い真っ黒の毛皮服。関節部の随所に硬質の鞣革が使われている。紫色のベルトを何重にも巻き、首からは赤黄青緑様々な石がつらなる首飾りがかけられていた。

 何かを声にして発した彼の皮膚は細かな鱗状で、感情まとわぬ縦細い瞳が通路の奥へと促し示した。

「がいどはだいたいいちおくです」

 ナツメとトモキは怯えながらも、思い浮かぶ選択肢はなくただ従った。

 彼が背中で言う。

「こいつらみんなこどもがだいすきです」

 つたない発音で声の調子は低く緩慢。

「え」眉をひそめたナツメが尋ねる。「こんなので人懐っこいんですか」

「いっぱいたべます」

「そっちの意味かよ」

 俄然トモキの手に力が入った。ナツメは痛いと文句を言い、彼の向こう脛を蹴飛ばして続ける。

「日本語がお上手なんですね」

「どうぶつえんでおぼえました。あちらは」

 と、男はガラス面奥を指差す。床には小さなウサギが群れを成す。彼は隔離されている奇っ怪な動物の名を言ったのだろうが、ナツメとトモキは正確に聞き取れなかった。

「あいつのとくせいとして、あたまのみをかじりとってのうみそをすいだしてたべます。こいつらは、うたとかにおいでこどもをおびきよせます」

「あれは? ケープジェネットみたいな」

 足取りが不確かなトモキが、別のガラスの生き物に水を向ける。ケープジェネットとはジャコウネコ科ジャネット属の小型動物である。背の黒い斑点が特徴だ。

「あれは、せなかのはんてんからどくをいっぱいだして、こどもをとかしてたべます」

「あれは? ビントロングみたいな」

 ビントロングは、別名クマネコの由来通りの外見で本来は全長八十センチ前後だが、ガラス向こうのそれは、爪だけで八十センチはあった。つまり、全貌を視認できない。

「あいつは、こどもをぐちゃぐちゃにつぶすけど、こゆびしかたべません」

 ナツメは筋違いにも憤慨した。「なんて贅沢な野郎だ」

「あれは? マダラサラマンドラみたいな」

「あいつは、はなのあなからまやくぶっしつをきりじょうにふきだして、おとながふらふらになってるすきにこどもだけさらって、とうみんようにしおづけにします」

「うえ、吐きそう」

「あいつは、きょうさんだえきでこどもをとかしてぺろぺろなめます」

「もういいやめて」

「あいつは、しっぽがはなのかたちをしてます」男が立ち止まる。角を曲がって直ぐの階段を目前にする最後のガラス前だった。「くちぶえでこどもをおびきよせて、はながじめんからふいうちでこどもにくらいつきす。こどものひめいがだいこうぶつです」

 あの猿だった。身体のサイズ自体はリスザル程度だが、尻からつながる紫色の花は直径二百センチにも及び、中心には凶悪な牙が無数に並ぶ。

 階段を登り切ったナツメとトモキに、首飾りと同じ石を数個ずつ渡して男は「ふたりでよんせんまんえんです」と、衒いもなく言った。

「えん?」

 鼻白んだ二人は顔を見合わす。活発なナツメの方が率先して挙手した。

「あなたは、何者?」

 男は更に先に進み、一つしかない無骨なドアのノブに手をかけた。

「こいつらをつかまえて、ばらばらにして、そのいちぶをつかって、くすりやどうぐをつくります。そしてうります」

「じゃあ、ここはどこ?」

「せつめいもはつおんもすごくむずかしい」

 彼は相変わらず無表情だった。

「あなたは、何を食べて生きていますか」

 トモキが頓珍漢な質問をした。

「わたしは、かじつがすきです。ほうれんそうや、とうもろこしもうまい。たんぱくしつはさかなかとりです。こどもはたべません」

「良かったあ」

「そのいしをもってたらぶじにかえれます。だいたいたぶんはんはんでそうおもう」

「良かったあ」

「良かったのか?」

 首を傾げたナツメは安堵するトモキを引っ張って、男のあとをついて屋外に出た。

「うわあ、なんだ」二人は大きく息を飲んで感嘆する。

 周りは言葉にして表し難い形の樹木で鬱蒼と覆われていて、先程出てきたばかりの建造物を円形に囲っていた。空はどちらかというと緑がかった青で、浮かぶ雲は全部が渦巻いていた。太陽らしい光源体もあった。細かいガラス片が散らばる地面からは、ところどころ赤色の花が生えていて四方へと首を巡らす。

「こいつは、あぶないやつがきたらげいげきしてくれるはなです。ちゃんとみずをあげてさえいれば、だいたいのやつをもやしつくしてくれます」

 先頭に立つ彼が森の奥へと手招きする。不審がってナツメが訊く。

「今からどこに行くんです?」

「わたしがいどです。ついてきて。ここからはしゃべったらだめです」

 言われた通りついていくと、足を踏み入れた森の中は太陽光を完全に断絶してしまうほど真っ暗闇で、男が取り出した松明の燈火がなければ数歩も前進困難なくらいだった。そして、静寂に満ちているのに、どこからか鼻息が聴こえる。

 ナツメはずっと手を繋ぐトモキの口を、空いたほうの手で塞いでいた。顔面汗だくで、トモキの呼吸も荒い。

 背後から鼻息が近づく。視認できない。断続的な生暖かい風が吹き付ける。トモキが振り返ろうとするも、ナツメがスニーカーの爪先で脛を蹴る。それからほどなくして、鼻息は遠ざかってついに消えた。

 待ちわびた光が復活するころには、トモキは顔面蒼白で今にも崩れ落ちそうだった。

「あれにのります。いちおくえんです」

「飛行船?」

 目の前には、空と同じ色の小型飛行船が待っていた。遠足の交通便として生徒が乗り合わせた大型バスサイズだ。開いた入り口から現れて何やら叫ぶ同じ格好の男は、鎖らしきものであの小さな猿を引き連れる。尾は根元から切断されていた。

「おやがくるからいそぎます」

「おや……あれはこども?」

「おやは、じゅうおくします。だけど、わたしたちがにじゅうにんいても、なかなかかてない。ほかくとなるともっとむずかしい」

 そこでナツメはようやく気づいた。彼の腰に巻くベルトがうねうね脈動している。

 通ってきた森の方がざわめき始めた。「いそいで」彼に背を押されて乗った飛行船の中は灰色のペンキで塗り硬めた壁で、フックにはナツメの身長ほど丈がある銃器が所狭しとかけられる。

「あいつらの、ほねのはいをねったとくしゅなだんねつざいです」

 その左右側面、船頭船尾の四箇所には重機関銃の台座があって既に鱗顔男たちが、配置についていた。他にも丸い窓が横に並ぶ。

「おみやげは、ごひゃくまんです」

 唖然とする二人は、一本ずつナイフを手渡されて座るように指示された。工芸品同然、複雑かつ美しい刻印が入る刃面にナツメはしばらく見惚れる。

 誰かの合図で轟轟と噴射音を響かせた飛行船は、ナツメの内臓と三半規管をおおいに揺るがして浮かび上がった。その時、台座の一人が大声を上げた。飛行船が、ペットボトル内に浮かんだ玩具のように乱れる。

 突如、重機関銃が吼える。

「あれは、うちがわにふかくはいりこんではじけとぶたまで、かたいひふもつらぬきます」

 ガイドの彼は飽くまで冷静だった。高く浮上していく飛行船の船頭が、眼下の樹海へと傾いた。いくつもの岩の島が頭を突き出していて、彼方には峻厳な山脈の綾線が霞んで見える。

 それよりもナツメは、大翼はやし飛びすがる巨大な猿に胆を冷やした。飛行船ですら飲み込まんと広げ襲いくる、尾の凶暴な紫花。

 どん、と船が震えた。

 船頭の銃座から放たれた蜘蛛の巣状の網が、巨猿を撃ち落として留めとばかりに、樹海が煙幕纏うまで集中砲撃する。トモキもナツメは、目も口も、結び合う手までも固く締める。爆風と振動、銃撃と閃光、飛行船の推進と轟、興奮と恐怖が重なりナツメの心臓を脅かせた。

「にげます。にげきったあたりで、ぼちぼちかえりまひょか」

 どれだけ揺れようとも、二人の傍らで直立不動の彼が平然と言う。その身体には、腰ベルトの役目から別の意味をなそうと変化する蛇が絡みついていた。銃撃は続く。重機関銃本体につながる弾帯が短くなっていく。

 飛行船が聳え立つ渓谷にまで場所を変えようが、空中に広がる煙幕からは血肉噴き出る巨猿が追いすがる。猿が大咆哮を放つ。衝撃波をまともに喰らった飛行船が安定を失う。

 その隙を逃さずと長い尾の花がアギト開いて襲いくれば、防御線は突破させぬと船尾担当の銃座が命賭して迎撃する。

「しかたないです。こどもをころします」

 彼が冷えた目で言った。

 でも、とトモキが言及する。

「子供を殺したらもっと怒るんじゃ」

「だめです。またどうぶつえんにあらわれたら、そちらのこどもたちがたべられます」

 彼は小猿を閉じ込めていた檻に歩み寄る。身に絡ませた蛇を使役し、小猿の身体に噛みつかせる。

 ギギギ、と嗤った小猿は呆気なく絶命した。

 小猿の遺体をナイフで引き裂き、臓物といくつかの骨を手際よく引きずり出した彼は、他は用済みというふうに残りを鷲掴みして小窓から投げ捨てる。

「ぐろい」と、トモキが嘔吐する。ナツメも耐えきれず吐いた。

 巨猿の悲痛な絶叫が大空に広く響き渡り、その隙に飛行船は渓谷の狭い隙間へと急降下。ただちに、濃密なる煙幕を張り巡らせて執拗な追跡の目を断った。巨猿の悲鳴は、いつまでも尾を引いて反響していた。

「はい、おつかれさまでした」

 鮮血まみれのナイフと手を、布で呑気に拭く彼はここで初めて笑顔らしい変化を表情に浮かばせた。

「ここまででじゅうおくえんです」

「十億円なんて払えないよ、おれ」

 トモキがナツメにすがる。

「わたしだって」

「りしなしでいいですよ」

 ふむ、と顎を撫でた彼は肩口から顔を出す蛇と何やら会話する。低空飛行の飛行船は、渓谷の断崖絶壁なる壁面穿つ大穴へと侵入していく。

 光りは途絶えて、視界が闇に閉ざされたナツメの確かなものは手から伝わるトモキの体温のみとなった。

「トモキ?」

 返事はない。ナツメの頭から顔面にぬるりと生暖かい感覚が伝い落ち、聴覚までも徐々に覆い尽くしていく。

「またあの感覚。帰れる?」

「あれをほかくしたらじゅうおく。このままでは、きみらはあれにこどものふくしゅうをされる。だから、またきみらはここにこなければならない。だから、またよぼう。そのいしのこうかは、じゅうねんだけだから」

 彼の独特の低音声が、意識も戻って三角形地帯に呆然と座り込む二人の頭にいつまでも残っていた。頬が濡れ、前腕が雨に弾かれ、手の甲まで伝い落ちて、仲良く地べたに座り込む二人はそこでようやく手を離した。

 ナツメは大蛇に飲み込まれる絵を、トモキは銃弾の雨浴びる大翼巨猿の絵を描いた。しかし、残念ながら絵は十億円の価値にはならなかった。

 後日、放課後の帰り、肩を並べる二人が話す。

「ナイフも石も、おれのポケットに入ってた」

「わたしも」

「どう解釈しようか。こっちとあっちの世界。どうして、境界線が崩れてあっちから来たんだろう」

「あっちからはずっと前から、ああいうのが来てるんだよきっと。固定概念が一つの枠から解けて、他と融合していくの。怖くて怒りを伴う感情が自分の内から顔を出すのと同じ。ある?」

「あるある。いま住んでるマンション、前からの友達はいっぱいいるし今も仲が良いけど、おれだけ親の都合で校区が別になったんだ。こっちの学校じゃ、友達があまりいないんだよまだ。それがなんか変な感覚。二つの世界の差が怖い」

「わたしは、幼馴染と決別した」

「それは仲直りしたらいいだけ」

「けど、気づいたこともある。一人と決別したら周りの多くが一斉に変化して、ばらばらになっていった。視える世界が変わって戸惑う。たぶん、仲直りしてもそこは元に戻らない」

「変化は素晴らしいね。でも、前の関係を軽んじてもいけないね。いつも、いろいろな角度から物事をみて考察するべきなんだな」

「トモキの絵は、固定概念から外れてて面白い。変化がある。目で見る技術と、気持ちで感じる熱」

「十年後、あの言葉を信じるとしてどうする。なんか放置してたら、十億以上の何かを失いそうな気がしてならないんだ」

「いいね。わたしも」

 笑ったナツメは、トモキのランドセルを力いっぱい叩いた。

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