「漫画喫茶に行きませんか?」隣の美人アパレル店員からいきなりのお誘い!?
こんにちは、と声をかけて、隣のパン屋である俺は紙袋を差し出した。
「これ、隣のパン屋から差し入れです」
「ありがとうございます」
そうやって受け取ってくれたのは、隣のアパレルショップで働く渡辺灯さん。名前のとおり明るい印象……かと思いきや、いつも冷静で無表情。常連客の間では「クールでかっこいい」と評判だけど、俺にはまだ掴みどころがない。
ちなみに俺は佐々木隆。27歳で、小さなパン屋「ブラン・エ・ブラン」を営んでいる。地元のお客さんに愛されて、もう5年になる。毎日パンを焼くのが生きがいだけど、最近はこの隣人――渡辺さんのことが妙に気になって仕方ない。
「どのパンが好きですか?」と尋ねてみたが、彼女はさらりと、
「特にありません」
と返してきた。
あまりにもそっけなくて、会話のキャッチボールというものが成り立たない。とはいえ、それが渡辺さんらしいといえば渡辺さんらしい。もしかしたら彼女は“無駄な感情を排除した接客”を極めているのかもしれない。
「そ、そうですか…。じゃあ、とりあえずクロワッサンでもどうぞ」
俺が差し出した袋を、渡辺さんはまったく迷うことなく受け取った。その瞬間、袋の底が破けて、中のクロワッサンが勢いよく床に転がる。思わず「しまった」と焦ったが、渡辺さんは慌てる素振りもなく、転がるパンをじっと見ているだけだった。
「新しいの持ってきます!」
そう声をかけようとした矢先、彼女は落ちたクロワッサンを拾い上げ――いや、ロボットのようなぎこちない動きで拾い上げると、そのまま袋に戻そうとする。
「洗うので大丈夫です」
いやいや、洗うとか聞いたことないから! パン屋としてはおすすめできないし、ここで新しいのを渡さなかったら店の名誉が地に落ちる。結局、俺は新しいクロワッサンを渡して、その日はなんとか場を収めた。
だけど渡辺さんの「無表情クロワッサン拾い」は、その後もしばらく俺の頭に焼き付いて離れなかった。夕方、店に戻ってきた俺は考える。やっぱりあの人、どこか変わってる。でも、その変な感じがちょっと面白いし、不思議と気になってしまう。
――それから数日後。昼下がりでパン屋が落ち着き、ひと息ついていると、ドアベルが軽やかに鳴った。振り向くと、渡辺さんがいつもの無表情で立っている。ただ、手には小さな紙袋があった。
彼女はカウンターまで来ると、そっと紙袋を置く。
「この間のことのお礼です」
相変わらず淡々とした口調だったが、その言葉が何となく気になって、俺は思わず紙袋の中を覗いた。すると、小さなコーヒー豆のパックとドリップバッグがいくつか入っている。
「ありがとうございます! これ、渡辺さんが選んでくれたんですか?」
「ええ、少し迷いましたが……パン屋さんはコーヒーが好きだと聞いたので」
最後の一言をぼそっと付け加える渡辺さん。声がわずかにぎこちなく、少し照れているようにも聞こえた。思わず「パン屋がコーヒー好きって、ジャ◯おじさんの話か?」と頭の中でツッコんでしまうが、わざわざ考えて選んでくれたという事実が嬉しかった。
「すごく嬉しいです。大事にいただきます」
「どういたしまして」
渡辺さんは短くそう言うと、軽く一礼して店を出ていく。その背中を見送りながら、俺は紙袋を手に、しばらく立ち尽くした。
“少し迷いました”という彼女の言葉が、妙に胸に残る。完璧そうに見える人が、俺のことを考えながら選んでくれたなんて……その不器用さが、より一層彼女らしく思えた。
紙袋を手にしたまま向かいのアパレルショップを眺めながら、「もっと彼女のことを知りたい」という気持ちが湧き上がってきた。あの無表情の奥には、いったい何があるんだろう。小さな贈り物が、俺たちの距離をほんの少しだけ縮めてくれた気がする。
翌日もいつものようにパンを焼きながら、ふと隣のアパレルショップに目をやった。すると、ショーウィンドウの前に渡辺さんの姿がある。何やら落ち着かない様子で動いているように見えた。最初は軽く首を傾げたり、視線をあちこち動かしたりしていたが、次第に口元が不自然に引きつってきた。
あれ、何をしてるんだろう……?
じっくり見ていると、彼女はウィンドウの中のマネキンに向かってぎこちなく笑顔を作ろうとしている。だが、まったく自然じゃない。どちらかというと「笑ってますよ」という動きだけが先行している感じだ。
――あれは、笑顔の練習に違いない。ウィンドウのマネキンと、どっちが笑えてないか競ってるようにしか見えないぞ……。
そう思った矢先、思わず声をかけてしまった。
「渡辺さん、どうしたんですか?」
すると、渡辺さんは動きをピタリと止めて、ゆっくりこちらを振り向いた。その瞬間、顔が真っ赤になっているのがわかる。さっきまでの無表情とはまるで別人みたいだった。
「見ないでください! このゴミムシ!」
ゴ、ゴミムシ……!? 俺は一瞬理解が追いつかなかった。今、俺はゴミムシって呼ばれたか? ただ声をかけただけなのに、一体なんでそんな暴言を……。ショックで言葉が出ない。
渡辺さんは顔を真っ赤にしたまま、そそくさと店の奥に引っ込んでいった。取り残された俺はしばらく呆然。あの「ゴミムシ」という言葉が頭の中にこびりついて離れない。
数日が経ち、昼下がりの穏やかな時間帯。客足が落ち着いた頃、また店のドアベルが鳴り、渡辺さんがやってきた。いつも通りの無表情に見えるけれど、その手元がわずかに震えているようにも感じる。
「あの、この間はすみませんでした」
そう言った渡辺さんは、意を決したように続ける。
「ゴミムシ…なんて言葉を使ってしまって。本当にごめんなさい。あれは……気が動転して、とっさに出てしまったんです」
「え? とっさに?」
「弟によく言っていた言葉で……。それが癖になっていて……つい」
弟にゴミムシって、どんな家庭環境だよ……と頭が混乱したけど、とりあえず気を取り直す。
「まあ、気にしてないですよ。それより、わざわざ謝りにきてもらってすみません」
渡辺さんは小さく頷くと、少し言いにくそうに口を開いた。
「……ところで、今度の定休日は何か予定はありますか?」
「定休日……ですか?」
突然の質問に戸惑っていると、彼女はさらに言葉を重ねた。
「漫画喫茶に一緒に行っていただけませんか?」
漫画喫茶? いきなりの誘いに頭がついていかない。どうしてそんな場所なのか聞き返すと、半額チケットがあって、しかも弟と行く予定がキャンセルになったらしい。
「……お一人で行くわけにはいかないんですか?」
「お店に一人で入ったことがないので。それに、12時間コースを利用するつもりなんです」
12時間、漫画喫茶……? 初耳の計画に思わずツッコみたくなったが、彼女が困った表情を浮かべているのを見て、断ることはできなかった。
「……わかりました。お供します」
渡辺さんはホッとしたように頷き、深々とお辞儀をして帰っていく。その背中を見送りながら、俺は溜め息をついた。12時間漫画喫茶なんて、どうなることやら……。
やがて迎えた当日。パン屋の定休日をそんな形で使うのは初めてだが、不思議と悪い気はしない。待ち合わせ場所は駅前。待っていると、渡辺さんがやってきた。黒いシンプルな服装で、どこか緊張しているように見える。
漫画喫茶までは徒歩15分。歩く間、彼女はあまりしゃべらない。俺が話題を振っても「はい」「そうですね」程度の返事で、沈黙が続く。その沈黙が妙に重く感じて、少し焦った。
「漫画喫茶、よく行くんですか?」
「いいえ、初めてです」
初めてなのに12時間……? その発想の源は一体どこなのか。頭の中でツッコミが止まらない。
店に着くと、受付で渡辺さんが半額チケットを提示して2人分の料金を払ってくれた。誘われた手前、こちらが払うとも言えず、結局お世話になることに。案内されたのはオープンブースという広めの席だった。
彼女はカバンからメモを取り出すと、そこに書かれたタイトルの漫画を黙々と探し始めた。俺が「読む漫画をリストアップしてきたんですか?」と尋ねたら、いきなり冷たい声で、
「12時間で効率的に読みたいので、本に集中します。……話しかけないでもらえますか」
なんて言われる。今、“このゴミムシが”と言いかけたのを、俺は聞き逃さなかったが、何とかスルーするしかない。
それからしばらく、渡辺さんは一直線に漫画を読みふけっていた。俺も何冊か手に取ったけれど、次第に集中力が途切れてきて、やっぱり12時間は長い…。
そんな中、ふと彼女の小さな笑い声が聞こえた。思わず顔を上げると、渡辺さんが漫画を読みながら微笑んでいる。あの無表情の彼女が、こんな自然な笑顔をするなんて……。つい見惚れそうになりながら、俺は「もっと彼女のいろんな面を知りたい」と強く思った。
気づけば時刻は夜の9時を過ぎ、12時間コースが終了。長いようでいて、終わってみればあっという間だったかもしれない。
「時間ですね。帰りましょう」
すべての動作が無駄なくシンプルな渡辺さん。もう少し感想くらい言ってくれてもいいのになと思いつつ、俺も席を立った。店の外に出ると夜風が心地良く、歩き出すと少し疲れもやわらぐ。
コンビニの灯りが見えたあたりで、渡辺さんが急に足を止めた。
「……佐々木さん」
「はい?」
少しうつむいた彼女が、俺のほうへわずかに近づく。いつも無表情な人だけど、どことなく目が泳いでいるように見えた。
「今日、12時間ありがとうございました」
「いえ、こちらこそ。楽しかったです」
本当に楽しかったかどうかはともかく、渡辺さんのいろんな面を見られたのは大きな収穫だ。すると彼女はさらに声を震わせながら、こう続けた。
「あの……佐々木さん……」
――もしかして、これは……?とドキッとする。
「……私、佐々木さんのことが……」
――告白? 12時間漫画のあとに、まさかの展開!?
「……佐々木さんのことが……その……ゴミムシじゃないと思っています」
「いやそこ!? なぜまず“ゴミムシじゃない”の否定から!?」
彼女の斜め上な発想に、俺は思わずツッコんだ。すると渡辺さんは慌てたように目をぱちぱちさせる。
「違います、そうじゃなくて……その……佐々木さんのことが、好きです」
本当に告白された。夜道のど真ん中で、しかも漫画喫茶帰りに。嬉しさと戸惑いで頭が追いつかない。
続けて渡辺さんは、恥ずかしそうに言う。
「昔から、パン屋さんは正義の味方を支える大切な仕事だと思っていて……」
「正義の味方……ですか?」
「だって、パンがないとパワーが出せないじゃないですか」
そうか、あのヒーローのア◯パ◯マン理論だ。でも俺、ジャ◯おじさんみたいなつもりでパンを焼いてるわけじゃない。でも彼女は本気の様子だ。
「この間、クロワッサンをもらったとき、本当に思ったんです。『ああ、この人は私にパワーを分けてくれてるんだ』って」
――いやいや、落としたクロワッサンを渡しただけだけど? とは思いつつ、案外悪い気はしない。
「だから……私は、佐々木さんに支えられてるような気がして……。そんな佐々木さんのことが、好きになりました」
まさかパン一つでそんなに感動してもらえるとは……。何にせよ、こうして真正面から好意を伝えられたのは初めてだ。驚きながらも、俺は素直に答えることにした。
「あの……そんなふうに思ってくれて、ありがとうございます。俺も渡辺さんのこと、ずっと気になってました」
自分で言いながらも不思議な感覚だった。パンを焼く毎日がこんな形で報われるなんて――報われ方がちょっと独特だけど、悪くない。
渡辺さんは少しほっとしたように微笑んで、控えめに頷く。
「これからも、よろしくお願いします。あの……またパン、持ってきてくださいね」
完全にパワー補給を求められている気がするが、そんなヒーローの補佐役みたいな仕事も、これはこれで嫌じゃない。
夜の静かな道を並んで歩きながら、彼女の告白に感じる不思議な温かさを噛みしめる。パンを通じて誰かを元気づけられるなら、それはひょっとしたら俺にとって最高の幸せかもしれない。そんなことを考えながら、ふたりで静かに帰路についたのだった。