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外はもう日が暮れていた。毛穴がきゅっと締まり、身震いをした。夜は、まだ夏服には涼しい。
家路に着こうと、鞄の中にしまった定期券を探していると「遼太郎くん」とぼくを呼ぶ声が聞こえる。声の方を向くと、久美ちゃんが改札の近くにあるベンチに腰掛けてぼくに笑顔を向けて手を振っていた。
ぼくは定期券を見つけると、改札機に翳し、彼女の前を気づかないフリをして素通りして家へと向かうホームへ降りていった。
久美ちゃん、ありがとう。
改めて気づかせてくれて。
人間は自分のためにしか生きないという事に。
ぼくは、自分のために。
死ぬよ。
家の玄関の前で、ポケットの中の鍵を探る。
玄関のドアを、鍵を使わずに開けたのはいつのことだろう。
ぼくが帰ってくる時間に母が家にいることはほとんどなく、玄関の明かりは母がぼくに気づいて電気を点けてくれたわけじゃなく、マネキンが玄関に放置されていても点く仕組みになっていた。
防犯とほんのちょっとの気遣い。
取り出した三つの鍵をそれぞれ別の場所に差し込んで開ける。
ぼくはそのままリビングに行き、ラップを被せて置いてあった夕食を皿ごと持って、2階の自分の部屋へ上がった。
このところ、ぼくは夕食を自分の部屋で摂るようにしている。
リビングで一人食べるのも、部屋で一人食べるのも変わらないから。
親と最後に一緒にご飯を食べたのはいつだったろう。
それは玄関の鍵を使わずに開けた日より前か後か。多分、前後だろうな。答えになっていない。
同じように冷えていて、同じように味気ない部屋の明かりを点けて、机の上に夕食を置き、ベッドに鞄を放る。
鞄から少し中身がはみ出た。
教科書やら、コンドームやら、パンフレットやら。
そう、パンフレット。
ぼくは警官に渡されたパンフレットを取り出す。
『失望保険のご案内』
公共機関のキャラクターにありがちなデフォルメされているが、愛着の湧かないマスコットが笑顔で、両手を広げて描かれている。足の下には『ゼツボウくん』となんの捻りもない名前が付いていた。
ページを捲ると、失望保険は国民皆保険であることが謳われていた。
ぼくも自動的に入っているということだ。
『こんなときにはお近くの公共精神安定所までお気軽にご相談ください!!
・仕事や学校に行くのに倦怠感を覚えたとき。
・上司や同僚、同級生の言動に傷ついたとき。
・お金に困ったとき。
・落ち込んだとき。
・友人がいないとき。
・食べ物が喉を通らないとき。
・ひとの言葉が信用できなくなったとき。
・生きる目標がないと感じるとき。
・楽しいけれど意味がないと感じたとき。
・なんのために生きているのだろうと感じたとき。
・自分の進路に不安を覚えるとき。
・つまらないと感じたとき
・死にたいとき
などなどここに挙げられていないことでも、失望してしまうことがありましたら、まずは気軽にご相談ください!!』
こんなの当てはまらない人間なんているんだろうかといぶかしんだけれど、人間の自殺を実行する瞬間はきっと衝動的なもので、唐突に生という空間から死という空間に制御できずにエネルギーが溢れ出して、境界を突破して自殺することもあるんだろう。そのエネルギーが溜まりはじめるきっかけになる、ちょっとした萌芽も見逃しては自殺をコントロール出来ないから、これだけ列挙しているのかもしれない。
思えば、ぼくだって自殺しようとは前々から考えていたけれど、実行に移す直接的な原因は些細なことで、今思えばどうでもいいことだった。
ということはどんな人間にでも自殺する可能性はあるってことなのかもしれない。
でも、そんなこと、自殺すると決めたぼくには関係ないな。
0120‐554‐140
最後に書いてある二十四時間受付のフリーダイヤルの番号が気になった。
ココチヨイシヲ。
心地よい死を、か。あからさま過ぎるだな。
思わす鼻で笑ってしまった。
同時にここを通して死ぬなら誰にも迷惑をかけないかなと考えている自分がいる。
生死さえ管理され、そして、管理されることに息をついている自分。
そういえば、管理されていないことなんてあったかな?
揺り篭から墓場まで、まるでベルトコンベアの流れ作業みたいに、そのときどきに必要なものを支給され、植えつけられ、立派な規格品となる。
それは死さえ規格外ではなくて、想定内なんだろう。
だからかな、反発したいとか、そんな気持ちは湧かなくて、ぼくはケータイのボタンを当然のように押していた。
0、1、2、0、5、5、4、1、4、0。
三回ほど呼び出し音がなり、音声案内に切り替わる。
失望保険受給希望者は4を押すようにと案内されて、ぼくは迷うことなく4を押した。
「お電話ありがとうございます。失望保険総合案内コールセンター、オペレーター和泉と申します。今回、お電話いただいたのは失望保険受給がご希望ということでよろしいでしょうか?」
妙に明るくはっきりした声の女性オペレーターだった。
ここに電話してくる人間のことを考えれば、これぐらいの調子じゃないとやってられないのかもしれない。
電話を受ける方も人間だ。
そうでもしないと、今日の警官ではないけれど、そのうち電話をする方に廻ってしまうのかもな。
ぼくは「はい」と答える。
「それでは、お名前から教えていただけるでしょうか?」
「鈴木、遼太郎です」
「鈴木 遼太郎様ですね。お手元に住民基本台帳カードはお持ちでしょうか?」
「ちょっと待ってください。今、探します」
「かしこまりました」
ぼくは定期券入れの中に入っている住民基本台帳カードを引っ張り出した。
「用意できました」
「では、住民票コードを読み上げていただけますか?」
「xxxyyyyzzzz……です」
「繰り返させていただきます。xxxyyyyzzzzでよろしいでしょうか?」
「はい」
「では今から住民基本台帳ネットと接続し、照合させていただきますがよろしいでしょうか?」
「はい」
「しばらくお待ちください」
十秒、経つか経たないうちに照合作業は終わった。事前にぼくの情報を持っているんじゃないかと疑いたくなるくらいに。
「お名前、住民票コード、登録声紋からご本人様であることを確認させていただきました。最寄の公共精神安定所もしくは、ご希望される公共精神安定所の相談窓口のご予約をご希望の時間で取ることができますが、どういたしましょうか?」
「……最寄の公共精神安定所でお願いします」
「かしこまりました。お時間は何時にされますか?窓口も二十四時間、業務を行っております」
「えっと、それじゃあ、明日の朝の八時過ぎがいいんですけど」
八時過ぎだと、何時も学校に行く時間に家を出ることが出来るからちょうどいい。
「はい。では江田公共精神安定所の六番窓口で明朝八時に担当の者がお待ちしています。和泉が承りました」
「よろしくお願いします」
「ご利用ありがとうございました」
ぼくはケータイの電源ボタンを押して、通話を切る。
ベッドに仰向けになって、ケータイを持っていた手をだらりと投げ出した。
赤の他人と電話するってどうしてこうも緊張して疲れるのだろうか。
話しているとき、ぼくと電話との距離が耳と密着して、口とは10センチくらい。
オペレーターがインカムを付けていてもいなくても同じだろう。
ぼくとオペレーターの間から電話を抜き出すと、耳と耳がくっついて、口と口は20センチの距離。
そんなに近い距離で赤の他人と話していたら、いや例え話さなくても、それは緊張するよなと1人で納得。
電話が間に入ってなければ鼻息の温度や、口臭だって分かるし、相手の毛穴さえも見える。
でも、もしかしたらそんなことで緊張しているんじゃなくて、死ぬことを決めて、手続きを踏み、漠然としていた自分の死に一歩一歩近づいて行くことが、ぼやけていた死の輪郭がはっきりしていくことがぼくの与り知らないところで脳内物質なんかが異常分泌して緊張しているような気になるのかもしれない。
初めての死。
最後の死。
体も心も二度目はないのだから。