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その瞬間、ぼくに圧し掛かっていた重量がふいに消えた。
そして、包丁が地面に落ちる音。
田中さんの悲鳴が響く。
目を開けると、久美ちゃんが田中さんを羽交い絞めにしていた。
えっ!?という思いと同時に、久美ちゃんがぼくを助けてくれたときのことを思い出した。この華奢な体にぼくは投げ飛ばされたんだった。
「遼太郎くん、逃げて!!」
「あ、ああ」
男として情けないなと思いながらも、久美ちゃんのあまりに見事な羽交い絞め振りにぼくは力関係を思い知らされ、天文台から這い出て扉を閉める。
中からは、田中さんが痛みに悲鳴を上げながら、必死に久美ちゃんに謝っているであろう声とも叫びともつかない声が聞こえた。
それが10分、いやもっと長かっただろうか。ようやくやみ、天文台の中から久美ちゃんが出てきた。
「ありがとう」
「ううん。いいの」
そう言って、久美ちゃんがぼくに抱きついてきた。
「久美ちゃん……」
ぼくの鎖骨の間に顔をうずめる。
「だって、あなたはわたしのものだもの」
そのまま久美ちゃんはぼくの首に手を回し、顔を引き寄せる。
お互いの呼吸が近くなり、くちびるとくちびるが重なり、舌が絡み合う。
暖かなものが口を伝って流れ込んできた。
互いの呼吸が速まり、意識が遠のいてゆく。
くちづけがこんなにも優しく、激しく、愛おしいものだなんて知らなかった。
ずっとこうしていたい。
永遠があるならばそれを望んだ。
くちびるを重ねる度に視界が揺れる。
焦点が定まらなくなる。
筋肉が振るえ、弛緩してゆく。体が、言うことをきかない。
膝から崩れ落ちる。
床にうずくまる。
「久、美、ちゃん!?」
言葉さえ満足に発声出来なくなっていた。
どうしたんだろう?
ぼくは彼女とくちづけを交わして、舌を絡ませて、それから……
虚ろな目線を彼女に向ける。
ぼくは必死に呼吸をしようと息を荒げる。
彼女は穏やかな笑みを浮かべていた。
「だから言ったじゃない。あなたはわたしのモノだって」
視界の端には暗闇の中、非常口誘導灯の緑色の灯りに縁取られたもっと暗いシルエットが。
どこかで見た憶えが……。
母が自死したあの夕刻に、見た。
黒いスーツの男、2人。
たしか、判定士と呼ばれていた。
これからぼくの脳みそを覗くのか。
そうか、そういうことだったのか。
久美ちゃん、キミは介錯士だったんだね。