7月6日 a
7月6日
今、ぼくは7月6日会の打ち上げパーティーに参加し終わり、江田駅の改札に来ていた。
会の多くの人は契約した介錯士と一緒に参加していた。ひとしきり騒いでその後、それぞれの介錯現場へと散らばっていった。
最後に会った受給者たちの表情は十人十色で、中には今日、死ぬという事実を受け入れられていない人もいたと思う。
死という1度も体験したことのないことに対する恐れを紛らわすように酒を煽り、阿片を吸い、理性を捨てようとしていたように思えた参加者を幾人かみた。
駅にある時計台はもうすぐ7月6日の午後9時に迫ろうとしている。
「七夕、祝えないんだね」
振り返ると百合が改札の脇にあるベンチに腰掛けて、夜空を見上げていた。
そういえば、百合の契約している知渡れいの姿は見かけなかったな。
「ああ」
ぼくは見るつもりだよ。
7月6日の空を見上げてみる。
空は澄み切っているけれど、地上の明かりのせいか、そんなに多くの星は見えない。
冬ならもっと見えるのだろうか。オリオン座ぐらいしか知らないけれど、見られるなら嬉しい。きっと今、見上げている空と星の配置は違うのだろう。それに気づくかどうかは別として。
7月7日の空は?
大して今の空と変わらないはず。けれど、意味は変わってくる。
視線を地上に戻し、ぼくは言った。
「百合は何処で介錯するの?」
知る必要もないけれど、今の百合には1番の関心事だろうから
「ふふ。聞きたい?」
「うん」
百合は駅のホームをすうっと指差した。
「もしかして……」
「そう。飛び込み自殺。れいちゃんがもう準備してくれているはず」
百合の瞳には迷いは見えない。達観したようなそんな目だ。
「何線?」
ぼくはなんてことを聞いてるんだろう。人の死より自分のことが大事なんて。
ぼくと久美ちゃんは江田東線で花谷小学校へ向かう約束をしていた。
二時間半ほど電車に乗り、花谷小学校の最寄の駅から、最終のバスで30分ほど掛けて行くつもりだった。
受給証を使ってハイヤーで行くことも出来たが、受給証の有効期限を見られて不審に思われるのも嫌だし、ハイヤーは花谷小学校に行ったとき以来使っていなかった。
無理にお金を消費する必要はないし、なんだかサイズの合わない服を無理やり着させられたように疲れる。
百合が他の列車に飛び込むなら、電車は遅れるかもしれないが運休することは無いだろうから、花谷小学校に行くことが出来る。
それに、浅ましいかもしれないけれど、彼女が死ぬことは変わらないのだから。
せめて、傷つかないフリをすることが百合にぼくが出来る精一杯のことだと思う。
ぼくだって今日死ぬなら、そうしてほしい。でも、ぼくは死なないと決めたんだ。
「首都線だよ」
「そっか」
「どうして?」
「ぼく、江田東線使うから」
「そっか。それで介錯現場に?」
「うん。まあ」
ここで久美ちゃんが来たら、百合になんて説明しようかとぼくは内心焦っていた。
「介錯士は誰か接触してきた?」
「いや」
そういえば、幾ら自由入札とはいえ、介錯士とほとんど接する機会がなかったな。
SNSで契約をしないかというメッセージはたくさん着たけれど、丁寧に断った。
こちらから介錯士との交流を避けてきたのもある。
それに自由入札とはいえ、この制度から逃げると決めているのに交渉を持つのは介錯士にも迷惑だろう。
迷惑だと思っていない介錯士は端から交渉する必要なんて感じてないはずだ。介錯予定日を過ぎたぼくを黙って殺せばいいのだから。
「そっか。遼太郎の知らないうちに物事は進んでいるのかもよ」
悪戯な笑みを浮かべる百合。
「そうかもしれない」
と笑い返してみせたけれど、心の中ではそんなことは露ほども考えていなかった。
きみは、死ぬのか。
心の中を占めていたその言葉は胸に閉まった。
ヒトは本心を口にすることはない。
ぼくも笑い返してみせる。
「じゃあ、わたし行くから」
百合がベンチから立ち上がり、臀部についた埃を払う。
「ああ」
これから百合は電車に轢かれ、ミンチ状になり、それを黒服の判定士たちが検査する。
介錯現場に立ち会えば知渡れいに会えるかもしれない。でも、今更会ってどうする?会う必要はない。
ぼくが逃げるのに障害となるのは介錯報酬が倍になるのを当てにしている低レベルな介錯士たちだ。予定日を越えるのをどこかで伺っているのだろう。
周りを見渡すと、帰宅するサラリーマンやOLの姿が目に付いた。そのどれもが介錯士じゃないかとつい疑ってしまう自分がいた。
「よい介錯を」
目の前に百合の姿があって、驚く。気持ちが浮ついていて百合のことが一瞬、頭の中から消えていた。
「ああ、よい、介錯を」
百合は微笑むと改札口を抜け、ホームへと駆け足で降りていった。
電光掲示板を見ると、首都線は5分後にこの駅を通過する予定らしい。
もうそろそろ久美ちゃんも来ていいはずなのに。
百合の自死で電車が遅れるのは間違いないだろうから、久美ちゃんが多少遅れても大丈夫だろうけれど。
それに来るのが遅れているお陰で久美ちゃんと百合が鉢合わせなくてほっとしている自分がいた。
ぼくが今日、自死しないことがばれてしまう危険性もあったし。
ぼくはさっきまで百合が座っていたベンチで久美ちゃんを待つことにした。
ぼくはゆっくりと目を閉じて耳を澄ました。
電車の車輪と線路が軋む音が聞こえた。
警笛。
ブレーキの甲高い音。
どこかで聞いた。
そうだ。ちょうど1月前。
久美ちゃんと知り合った。
ぼくを生かすきっかけになった音。
今、百合が死のうとしている音。
ブレーキ音。
警笛。
悲鳴。野次馬。百合の意思。
車輪が軟らかいモノを踏み潰してゆく音。
百合という存在を。
命を。
それが百合の答えだ。
そして、ちょっと前のぼくが求めていた答え。
きみは正しい。きっと。
ぼくは、どうだろう?
音がぼくの中から霧散していき、百合という存在だけが心に残った。
「ごめん。遅れちゃって」
目を開けると久美ちゃんが来ていた。
「ううん」
「でも、30分ぐらい待たせちゃったし」
時計台を見上げると、あれから30分ほど過ぎていた。
電光掲示板は首都線がまだ止まっているものの、江田東線は運行を再開したことを告げている。
「大丈夫」
ぼくは立ち上がり、久美ちゃんの右手を強めに引いた。
「行こうか」
「うん」
久美ちゃんが頷きながら微笑む。