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その言葉を聞いて、ぼくは逃げてみようと決めた。もし逃げ切れなくても久美ちゃんと生きる時間はそんなことで消えてしまうものではないという思いは勘違いや、買い被りに過ぎないかもしれない。でも、そんな気持ちも久美ちゃんの凛とした表情を見ると消えてしまう。それに、ぼくが母が自死したときに感じた説明出来ない、けれど胸を掻き毟りたくなるような違和感を久美ちゃんには抱いてほしくなかった。
「逃げて、みようか」
あなたたちの人生なんだから勝手にすれば、とみあちゃんは呆れたように微笑を浮かべ、肩をすくめる。
久美ちゃんは大きく頷いて微笑んだ。
逃げるといっても、失望保険受給者は日本の中ならどこへでも受給証を使ってどこへでも行くことができた。
つまり、逃げるというのは予定日を過ぎても生きているということだ。
だから、予定日までの3週間ほどは今までどおり過ごせば良かった。
不自然に見えないよう。今もぼくを狙っているかもしれない介錯士に気づかれないようにこれまでのように7月6日会のオフ会にも参加したし、酒や阿片もやった。
そして、今まで以上に久美ちゃんとぼくは共に時間を過ごした。
コンドームは使わなかったけれど、毎日、次の日のための指切りをして。
過ごしてみて初めて、そういう時間は矢のように過ぎていくことも分かった。
朝を迎えるたびに、日付が変わっていることを恨み、同時に今日どうやって過ごすか考えると胸が高鳴った。
思い込みかもしれないけれど、生きるということが分かった気がした。
上手く騙されること。それが生きるということだと。
遊んだり、喧嘩したり、笑ったり、泣いたり、嫉妬したりすること、たとえ相対性理論を思いついたとしても、だから何なんだ?生活に直接響くのか?というように世の中の全ての事象を片付けることが出来る『だから何?』という疑問を抱かないほどに、気づかないほどに、生きることが『生きている』んだと。
正直、そう思える自分がこそばゆい。今まで色んなものに触れて、確かめて、コンクリートの地面にぶち当たって、『だから何?』という疑問で終止符を打っていたのに。
1人の人間に出会っただけでこうも変わるのだろうか。
たったそれだけのことで。