6月9日 a
6月9日
その後、ぼくは7月6日会のメンバーや、みあちゃんに慣れない酒を飲まされ、阿片を吸わされ、気が付いたらぼくの部屋の絨毯の上で、猛烈な頭痛と吐き気で目が覚めた。
戻しそうになったので慌てて、階下のトイレに駆け込む。
トイレの扉を開けるとそこには先客が……。
「み、みあちゃん!!」
こちらを背にして、便器に屈みこみ、嘔吐していた。
なぜか、ぼくが寝巻き代わりに使っているジャージを着ているし。
「なんでうちに居るわけ!?」
青ざめた虚ろな顔で振り返り、また便器にうずくまる。
「●△*×□∞……」
みあちゃんの声は便器の中で反響しているうえに、意識もはっきりしていないようで何を言っているのか全く聞き取れない。
みあちゃんの姿を見て、すっかり酔いの醒めたぼくはとりあえず、頭痛と吐き気を抱えながら、みあちゃんの介抱に努めた。
背中をさすり、落ち着いてきたのを見計らって水を飲ませ、抱えてぼくのベッドに寝かせる。
母の部屋が空いていたけれど、使わなかった。
みあちゃんはまだ苦しそうに眉根を寄せて、ぷっくりとした口から吐息を漏らしていた。
吐息にはまだツンとした匂いが混じる。
一体全体、昨夜何があって、どうなったのか。7月6日会の名前も忘れたメンバーに下手な阿片を吸わされてその後の記憶がぶっとんでいる。
それになぜ、みあちゃんがぼくのジャージを着ていて、あろうことか彼女の着ていたと思われるものは、パンティやブラジャー、網タイツに至るまでぼくのベッドの周りに脱ぎ散らかされているんだ!?
そのとき彼女がSNSで最初に寄こしたメッセージが頭を過ぎり、今まで掻いたことのないような冷たい汗が体中の毛穴から噴出すのが分かった。
『わたし、介錯はまだまだ初心者だけどS●Xにはちょっと自信があるんです。
コスプレプレイとか、緊縛とか、蝋燭プレイ、羞恥プレイとか、逆に女王様プレイも出来るんですよ。SでもMでも、遼太郎さんの1月間「イキたい」という思いを満足させる自信はあります。』
「……」
ぼくは酔った勢いで彼女とアンナコトやコンナコトをやってしまったのだろうか。
どうせやってしまったなら何故、憶えていない!!
ていうかそういう問題じゃないだろう。
百合に電話して聞いてみようか。
でも、ぼくの推測が事実だということが裏付けられてしまったらどうするんだ?
もう逃げようがないぞ。
頭の中にみあちゃんのあられもない姿が浮かんだり、S●Xをしたとしても、ちゃんとゴムはしたんだろうか。そもそも、充分に保健体育の予習や予行演習を重ねているとはいえ、実戦に投入されたことのないぼくが上手くヤレたんだろうかとかどうでもいい思考の支離滅裂な迷路の中で、酔いとは別の頭痛に苛まれた。
ぼくは混乱していた。
自分が何をしているか分からなかった。
そして今、考えると何故そうしたのか理解不能、出前迅速、落書無用な行動に出ていた。
今、富士山が大噴火を起こし、その灰の下に今の状態のままぼくが埋もれ、ポンペイの逃げ惑う住民のように発掘されたら、後世の考古学者はなんと説明するだろうか。
同じように、昼過ぎになって遊びにきた久美ちゃんはぼくの姿を見て、茫然自失。立ち尽くしていた。その状況を理解出来なかったに違いない。
なにせ、ぼくがみあちゃんのパンティを嗅いでいるところにかち合ってしまったのだ。
そして、脇にはぼくのジャージに身を包み、ベッドですやすやと寝息をたてるみあちゃん。
「キャー!!変態!!」
と久美ちゃんは悲鳴を上げ、部屋の扉の脇に積み上げられた広辞苑、類語辞典、和英辞典、英和辞典、ことわざ辞典、反対語辞典など、日頃使用されずに、指紋一つ付かず、埃にまみれている辞書たちの強大な位置エネルギーをぼくに向かって投げつけ始めたのだ。このときほど、母が何故、電子辞書だけでなく、こんな鈍器と成りうる紙の辞書を揃えたのか理不尽に思えたことはなかった。
「こ、これには訳が――」
と弁明を試みようと開けた口はストレートに投げ込まれた慣用句辞典にふさがれ、その直後に飛んできたファッションビジネス基礎用語辞典が頭を直撃して、ぼくは何も出来ずに気を失ってしまった。
「遼太郎くーん」
体を揺さぶられて目が覚める。
その声は、みあちゃん!?
目を開けると、ピンクの蜘蛛の巣が視界を覆っていた。
「……う、ん!?」
この視界は!?
目の前がピンク色にぼやけている。
夢から醒めた夢を見ているのかと思ったが、起き上がると、覆いはふわりと落ち、目の前にはみあちゃんの姿が。
そして、覆いを手にとってみると、みあちゃんのパンティだった。
なんだ、パンティか。
……ん!?
パンティ!!
すっかり眠気が取れ、辺りを見回すと散乱した辞書と脱ぎ捨てられたぼくのジャージ。
そして、昨夜来ていた服に着替え終わったみあちゃん。
「大丈夫?遼太郎くん、体の色んなところに痣が出来てるよ」
「ん!?ああ」
少し体を動かそうとすると、痛みが走った。
久美ちゃんが部屋に入ってきて、辞書という辞書をぼくに投げつけ、そして、ぼくは気を失い、みあちゃんに今、起こされた。そういうことらしい。
「あのさ、悪いんだけど……」
みあちゃんが申し訳なさそうに言う。
やっぱり、その、ぼくは、みあちゃんとアンナコトやコンナコトをしてしまったのだろうか。
「悪いんだけど、パンティ返してもらっていい?」
「えっ!?」
ぼくの右手に視線を移すと、しっかりと握られたピンクのパンティが……。
「あ、ああ」
と努めて冷静さを装おうと、パンティをみあちゃんに渡しながら、ぼくは素っ頓狂な声を出していた。
「大丈夫。安心して遼太郎くんとは何もなかったから」
彼女がカーテンの裾で大事なところを隠しながらパンティを履き、事も無げに言った言葉にぼくは、大きな吐息を一つした。
同時に、何か損をしたような感覚を覚えたのは気のせいか。
「わたし、介錯士の資格停止処分受けたでしょ?それが大家さんにばれちゃって、出て行けって言われたの。ひどいと思わない?まっ、介錯士御用達マンションだったから、仕方ないと言えばそうなんだけど」
「介錯士御用達のマンションなんてあるんだ?」
「うん。介錯士って、介錯なんて綺麗な言葉使ってるけど、人殺すのが仕事でしょ?そうなると普通のところはなかなか貸してくれないわけ。でも、介錯士ってお金持ってるから、お金で割り切れるオーナーが経営している介錯士専用のマンションもあるのよ。ちょっと高いんだけどね。で、そこ追い出されて、昨日泊まるところなくて、遼太郎くんに泊めてって言ったら、快く引き受けてくれたからお言葉に甘えさせてもらっちゃった。そこらへんも覚えてないの?」
ぼくは首を縦に振る。
「それで、着るものとか駅のコインロッカーに入れっぱなしにしてたから着替えがなくて、遼太郎くんのジャージを借りてたの」
「じゃあ、ぼくが脱がせたんじゃないんだ?」
日頃溜まりに溜まっているかもしれない性欲をぶつけようともしなくて良かった。
「遼太郎くんはけっこう紳士だったよー。着替えるときもちゃんと部屋出てくれたし。でも、わたし、酔っ払って着替えるだけで精一杯だったから、そこらへんに下着脱ぎ散らかしちゃってごめんね。遼太郎くんの彼女さんも怒らせちゃったみたいだし」
「起きてたの?」
「うん。でも、遼太郎くんの彼女さん、あんまりの剣幕だったから怖くて寝てるフリしちゃった。でも、不味いよね、こんな姿見たら誰だって誤解するよね」
「彼女、じゃないんだけどね」
そう彼女、じゃない。
でも、ものすごく久美ちゃんの誤解を解きたくてしょうがない気持ちがあるのは確かだ。
「でも、好きなんじゃないの?」
「好き、なのかな?今まで好きって気持ちになったことなくてさ。分かんない」
世の中の全てに飽き飽きして、絶望したんじゃないのか?
好きとか嫌いとか分からないくせに?
それって、大事なことで、知っているべきことの上位にランクされることじゃないのか?
ぼくは苦笑いを浮かべるしかなかった。
「照れてるし。あの慌てようは彼女さんをそれだけ大事にしてるってことじゃないかな?」
苦笑いが照れ笑いに見えたらしい。
「あっ、分かった!!」
みあちゃんが両手をぱちんと合わせる。
「彼女と上手くいかなくて自死しようって考えたんじゃない?そういうひと多いんだよ。青春だねぇ」
「そんなことで、自死しようと思うはずないでしょ」
そんなこと?じゃあ、どんなことで?
「そう?良いと思うけどな。恋に命を捧ぐ、十代の若人!!素晴らしいじゃないか」
ぼくの肩を得意気に叩く。
「みあちゃんだって、若いでしょ」
年齢はぼくと同じか、若いように見える。
「年齢は関係ないの。そういう気持ちが若いっていうこと。わたし、こういう仕事してるし、わたしの売りって、春を売ることじゃない?そういう気持ち持てなくなるの」
笑ってみせるその目元に寂しさがちらついた。
死を決めた人間と僅かな期間契約を交わし、相手の求める役を演じる。
心を許してはとても身が持つはずがない。
逆に、仕事でなければ拒絶したくなるような相手に体を許さなければならない。
そして、相手は次の日か、1月後か6ヵ月後か分からないけれど、必ず死ぬ。
「わたしのことはどうでもいいの!!遼太郎くんは残り1月もないじゃない。1月なんてあっという間だよ。好きなら、大事なら傍にいなよ。責任なんて考えないで盲目に。それか、まるっきし彼女の前から消えるか。どっちつかずが1番、遼太郎くんも彼女も傷つくよ」
ぼくはどうしたいんだろう?
久美ちゃんはどうしてほしいんだろう?
ぼくは死ぬ。
7月6日に。
間違いなく。
今は分からない介錯士の誰かの手によって。
久美ちゃんともう関わりを持たない方がいいのだろうか。
けれど、70年後に死ぬのと1月弱で死ぬのとどう違うんだろう?
ひとはいずれ死ぬ。誰一人例外はなく。
だったら、ぼくは自分がしたいようにするべきじゃないだろうか。
したいように彼女を想い、彼女の想いを気遣い、交わす。
それが久美ちゃんにも、ぼくにとっても最善だと思った。
「ふふ」
みあちゃんが、頬杖をついて微笑む。
ぼくの心はすっかり見透かされているようだ。
「決めたんでしょ?誤解を解くの手伝うよ。わたし、今、無職だし」
「ありがとう」
ぼくは頷く。
それは肯定であり、決意といわれるようなものだった。