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そこには少女が立っていた。
少女の背中から差す傾き始めた日がやけに眩しく射る様で、ぼくは目を細める。
混乱した意識がぼくの視界を伸縮させて、少女との距離感や、なんでぼくの両手は線路の上じゃなく、駅のホームのコンクリートの上にあるのかだとか、腰を打った痛みだとか、ぼくの通学鞄からなんでコンドームがはみ出しているのだろうとか、この少女のツインテールは見た覚えはあるけれど、いつどこでなのかとか、うちの高校はセーラー服だから同級生じゃないなとか、だいたい、ツインテールの女子高生なんてついぞ見かけたことがないぞとか、いろんな『とか』がぼくを振り回す。
5分くらい経ったのだろうか。ぼくはようやく自殺を止められたことに気が付いた。
こういうとき「なんで死なせてくれないんだよ!!」と怒るべきなのかな。
けれど、彼女を見ていると不思議と怒りが湧いてこない。
彼女を上から下まで眺める。
よくこんな小さな体でぼくを引っ張って、そのうえ地面に叩きつけることができたなとどうでもいいことを考えた。ぼくの身長は2月前に測った身体測定で175cmだったから、2月で何cm伸びたか分からないけれど、彼女はどうみても150cm台前半。多分、20kgぐらいの体重差はあるだろう。これが砲丸投げするような体つきなら納得も出来た。けれど、彼女の体の線は細く、陶磁器のような白く細い腕は箸より重いものは持ったことがないなんて言葉がぴったりだ。けれど、事実、ぼくの体は駅のホームの白線から2m近く後ろへ飛ばされていた。もし彼女が箸しか持ったことがないのなら、その箸は白色矮星の構成物質で出来ているに違いない。
「鈴木君、だよね?」
彼女はぼくを覗き込み、ツインテールがさらりと肩から落ちて、ブレザーのリボンの辺りで重なる。
髪の毛の香りがふわりと舞った。
何故ぼくの名前を彼女は知っているんだろう。
やはり彼女のツインテールを何処かで見ていたのだろうか。
「そうだけど?」
そう答えると、彼女は吐息を洩らして、微笑む。
「やっぱり、憶えてないよね」
彼女のやるかたない視線。
「えっ、ちょっと待って、たしか……」
ぼくは大急ぎで、脳味噌中の引出しやら、クローゼットやら、箪笥やら、本棚やらそれこそエロ本の隠し場所まで引っ掻き回した。
その瞳を見ていると、彼女が記憶の何処かにいるような気がしたし、どんなに脳味噌の中が散らかっていても、彼女の記憶を見つけ出さないとものすごく失礼な気がしたからだ。
ツインテール、ツインテール、ツインテール……
ぼくは今まで出会った女性の中でツインテールの女性を必死で探した。
それこそ揺り篭から墓場まで探した。
そして、一人の少女を思い出した。
というより、天から記憶が降ってきたような。
これが天啓というのだろうか。
神様、ありがとうございます。
たしか小学4年生のとき転校するまで、1年間同じクラスだった少女がツインテールだった。小学校のときからずっと同じ髪型であるはずもないのに、ツインテールというヒントから出てきたのはその少女しかいなかった。
名前はたしか――。
「……久美ちゃん?」
少女は瞳をみるみる輝かせ微笑んだ。
さっきとは違う微笑みだ。
「憶えていてくれたんだぁ。嬉しい」
「なんとなく。だって、小学4年生のときだけだったよね?一緒だったの」
「そうだよ」
「転校生なんてめずらしいから、そのことは憶えてるよ。その後、ぼくは転校しちゃったけれど」
そう。そのことだけ。
ぼくの記憶の中の久美ちゃんの面影はほんとぼんやりしていて、何をしたかとか、具体的なことも覚えていないけれど、漠然と、楽しい日々がぼくの記憶の中に横たわっていることは確かだった。
でも、あの頃のことで覚えていることと言えば久美ちゃん以外のことでも楽しいことだけだ。嫌いな食べ物を怒られたことだって、嫌なことかもしれないけれど、今、思えば幸せという類いなのかもしれない。それに比べて、今の自分は無味乾燥した世界で生きている。
「鈴木くん、なんでこんな危ないことするの?死ぬかもしれないじゃない」
久美ちゃんの顔が曇る。
死のうと思ってさ。と言おうとしたけれど言葉に出なかった。
「・・・・・・ああ」
「でも、理由は分からないけれど、鈴木くんが無事でよかった」
久美ちゃんは安どの表情を浮かべた。
ぼくもぎこちない笑みで返す。
死にたいはずなのに、何故かほっとしている自分がいる。
「きみ、困るなぁ、こういうことしちゃ」
気がつくと、ぼくと久美ちゃんの周りを駅員や警察官が囲んでいた。
彼らは腕を組んだり、眉間にしわを寄せたりこめかみを掻いたりして、ぼくに困惑の視線を向けていた。
自殺しようとしたのがバレたらしい。
当たり前か。
ぼくの飛び込み未遂の所為で、この駅を通過するはずの急行列車は緊急停車し、電車のダイヤも乱れていた。
「ちょっと、来てもらおうか」
ぼくは大人たちに両脇を抱え上げられ、鉄道警察隊の詰所まで連れて行かれることになった。
ふと、向かいのホームを見ると、先ほどの女子高生たちがケタケタとぼくを指差し笑っていた。
自殺し損ねた根性なしとでも思っているのだろう。
違う。
ぼくは邪魔されたんだ。
じゃなきゃ、今頃、ぼくは電車に轢かれ、ミンチになって、きみたちは当分、笑うことさえできなかっただろう。
でも、そんな嘲笑を向けられても、久美ちゃんに怒りの矛先を向けることが出来なかった。
なぜなら、少し離れてぼくの後ろについて来ている久美ちゃんのツインテールが心配そうに揺れていたから。