6月8日 a
6月8日
ケータイの着信音が鳴り響いた。
ディスプレイは久美ちゃんからの電話であることを告げている。
ぼくは大きくあくびをして、通話ボタンを押した。
「ふあい……」
「ふあい。じゃないでしょ!!今、何時だと思ってるの?」
「うーん。分かんない」
「ケータイ見れば分かるじゃない!!」
ディスプレイを再度見ると、端っこに昼の12時と表示されている。
「ちょっと、寝過ぎたかな」
「ちょっと、どころじゃないでしょ!!もう何度電話掛けても出ないんだもん!!遼太郎くん家まで来ちゃったよお」
あまりに大きい声なので、ぼくはケータイを耳から離した。
部屋の窓から外を覗くと、久美ちゃんが玄関の前で、怒った顔でぼくを見上げていた。
「ごめん。今、着替えるから。勝手に玄関開けて、リビングで待ってて」
「鍵閉めてないの?」
「ううん。ぼくの部屋からもロック解除出来るんだ」
「ああ、そう。じゃあ、待ってるから早く支度してね!!」
と乱暴に通話を切る。
大きく伸びをする。寝過ぎたせいか、体の節々が痛い。
けれど、なぜか憑き物が取れたように心はすっきりしていた。
昨日、購入した服に着替えて、洗面所で顔を洗い、髪型を整える。15分ほどで支度をすまして、リビングに入った。
久美ちゃんの後姿が目に入って、彼女の私服姿を初めて見たことに気づく。
小柄なわりに丈の短いプリーツスカートの裾から覗く足は、オーバーニーソックスが黒いうえに膝上高く、オーバーニーソックスとスカートの裾が5cmぐらいのためか、すらりと長く感じる。
そして、か細く陶磁器のように白い腕を見ると、彼女に投げ飛ばされたことが未だに信じられなかった。
「お待たせ。今日は何するの?」
振り向いた久美ちゃんのツインテールが揺れる。
「とくに決めてないんだけど」
「えっ!?」
「わたし、決められた道を歩くのって嫌いなの」
「久美ちゃんって、社会に何か不満でも持ってるの?」
「そういうわけじゃないけど、あれよ、あれ!!」
と人差し指を振り、続ける言葉を捜している。考えるより、口が先に出てしまうタイプなんだろうか。
「そうそう、サブプライムよ!!」
「……サブプライムって、昔、日本が本土に買収される遠因になったといわれるサブプライムローンのこと?」
「えーっと、そうじゃなくてハプニングというか予期せぬ出来事というか……」
今にも耳の穴から煙りが出そうな勢いで悩んでいる。
「……もしかして、サプライズ?」
「そう、それよ。あらかじめ決められたことをするだけじゃ、心を揺さぶることなんて出来ないの。とくに遼太郎くんみたいに、島嶼国家が地球温暖化で沈んでも、決して溶けることのない南極の地下奥深い氷の奥底に沈んだような心を持つひとにはね」
「ひどい言われようだな。それに昨日と言ってる事がちょっと違うような気もするし……」
「と、とにかく!!」
と久美ちゃんが言いかけたところで、ぎゅるぎゅると久美ちゃんのウェスト辺りから音がした。
その音に、顔を赤らめる久美ちゃん。
「とりあえず、行くところ決まってないんだったら、ご飯食べに行こっか」
「……うん」
タクシー会社に電話を入れると、10分ぐらいで家の前に来た。
てっきり、自転車で移動するものだと思っていた彼女は驚いて、どうすればいいのか分からず、中途半端な笑顔を浮かべている。
タクシーに乗り込むと愛想の悪い運転手に、以前、一度だけ、親に連れて行ってもらったことのある広東料理の店を告げると、急に目を丸くして、瞬かせた。
隣を見ると、久美ちゃんの円らな瞳が、1,5倍は大きくなって同じように瞬かせている。
「わたし、そんな高いところ行ったことがないんだけど……。良いんだよ、無理しなくてハンバーガーだって、牛丼だって、餃子だって好きだし」
「ぼくも1回しか行ったことないけどね。それに無理はしてないよ。お金のことは考えなくていいから、それに餃子だってある」
「そんなこと言っても、その店ってたしかテヘランで1つ星獲得してるぐらい高いんじゃないの?わたし、バーミヤンの中華しか食べたことないの」
「……ミシュランね。心配しなくていいよ」
「心配してないけれど、なんか緊張する」
大きく息を吐いて、窓の外を眺める景色に視線を移した。
手元の受給証を見る。
ぼくもこれがなければ、行こうなんて思わなかっただろう。でも、せっかくの3億円なんだし、使わなければもったいない。
それに高いといっても、江田市内で1番なんて高が知れている。
店に着いて、タクシーの支払いのため受給証を出すと、合点したのか愛想笑いを浮かべ、どうせならタクシーじゃなくてハイヤーを利用すれば良いのにというアドバイスと名刺までくれた。いいカモを見つけたと顔に書いてあった。
中華門にしては控えめな門構えの前にタキシードを着た体格のいい男が2人立っていた。こちらを見るとあからさまに蔑視の目で近づいてきた。
「申し訳ありません。予約していただいた方でないとご入店していただくことができないのですが」
予約しているかどうかを聞く前に断ろうとしてきたので、ムッとしたが、黙って受給証を見せた。
久美ちゃんがぼくの上着の裾をギュッと後ろから掴むのが分かった。
ちらっと振り向くと、俯いて、「いいから帰ろう」と小声で言った。ぼくは大丈夫と微笑んで見せた。
そして、もう一度店員に視線を送ると、セレクトショップの店員が向けた同じ表情を浮かべて、店の中へと案内した。
店は地下にあり、階段を下ると、煌びやかなランタンの龍が左右に鎮座してぼくらを迎えた。
奥の個室に通され、3畳ほどの大きさの円卓の両端に背の高い椅子が2脚あり、チャイナドレスの女性店員が、同じ笑顔を浮かべて、椅子を引いた。
ぼくは無造作に、久美ちゃんはおずおずと座ってメニューが出される。
学校では広東語は習っていなかったので、とりあえず1番値段の高いコースを注文した。
ぼくは食にこだわりがあるわけもなく、おいしければ、もっと言うなら食べられれば何でも良かった。
ただ、お金を使わないのはもったいないし、高ければ外れることもないだろうと一抹の迷いもなく選んだ。
「このコースに餃子は入っていますか?」
と聞くと、女性店員は点心でよければ別に注文していただけますがと答えた。
「焼き餃子ないみたいなんだけどいい?」
久美ちゃんは「えっ」と聞き返してきたので、もう一度繰り返すと何度も首肯した。
もう餃子が食べれるかどうかなんてどうでもよくなるくらいに萎縮しているみたいだ。
メニューを受け取り黙礼して店員が部屋から出てゆく。
「あんまり似合わないことをするもんじゃないね。おいしいものをと思ってこの店を選んだけれど、食べる前からなんだか疲れた」
馬鹿にされたくなくて気張ってみたけれど、大きく見せようとすればするほど、自分が余計に小さく思えてくる。お金を使っているんじゃなくて、お金に浸かっている気分だ。
雑誌の広告で時々見る、金運上昇を謳った翡翠や財布の利用者がジャグジーに札束を大量に浮かべて、女を侍らせている写真をふと思い出し、苦笑いした。
「わたしはだめだめだけど、遼太郎くんは余裕に見えたよ。『いつもの』みたいな」
と久美ちゃんは微笑む。
「あんまり顔に出ないだけだよ」
「ふーん。そっかあ」
そんなことを言っているうちに料理が次々と運ばれてきて円卓一杯に埋まってゆく。
「わたし、円卓回すのはじめて」
と久美ちゃんは円卓を何回も回している。
緊張もほぐれたらしい。
ぼくは、円卓はこういうためにもあるのかと得心した。
円卓も赤ん坊の寝台の上にぶらさがる回転オルゴールも共通する面もあるということ。
事実、ぼくは回転する円卓をぼぉっと見ていたことに、回転がピタリと止まってはじめて気づいた。
そして、次々と料理が運ばれてくる。
前菜からはじまってフカヒレスープ、アワビ、燕の巣やフォアグラだとか説明されるが、食べたことのないものや、種類が豊富過ぎて途中からどれがどれだか分からなくなってしまい、まさに『飛ぶものは飛行機以外、四足は机以外、潜るものは潜水艦以外』出てきて、ただ店員の説明に頷くことしか出来なかった。
「おいしいね。でもこんなの食べきれないよ」
久美ちゃんが苦笑いを浮かべる。
ぼくも首肯しながら、おいしかったことを表すために料理を床に捨て散らかすのは広東料理の作法だったかななどと考えた。
目の前の料理に圧倒されたのか、昨日の説明のつかない気持ちを引きずったままだったのか、あまり食が進まず1品1品箸をつけるので精一杯。
ふと向かい側を見ると、彼女は粛々と皿を平らげていた。
ぼくの視線に気づいて、照れ笑いを浮かべる。
「わたし、鋼鉄の女って言われてるの」
「……」
それって……。
ぼくの反応に不安を覚えたのか、
「もしかして、また日本語間違えたかな?」
「多分、鋼鉄の胃袋って言いたかったんじゃない?」
鋼鉄の女って、サッチャーかよ。
「そうそう」
と箸を躍らせて彼女はまた粛々と料理に手をつける。
ぼくは箸を置き、時間を持て余してこの部屋の調度品を分かるわけもないのに眺めていた。