表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/26

d

 逆の見方からすれば遺伝子が繋がっている。もしくは血が繋がっている。だからなんなんだ?とも言える。そんなことを言えば、人類皆、遥か昔、アフリカにいた女性にたどり着くのだから、血の繋がっていない人間などいない。

 ぼくはそう思ってもいた。血は繋がっている。だから何なんだ?と。

 そんな関係なはずなのに、母がどう思っているなんて分かるはずもないのにぼくのくちびるはまた勝手に動く。

 母の西日に照らされて橙色に光る穏やかな死に顔を見ているとそう言葉が出てきた。

 というより、母のくちびるがそう動くように感じ、ぼくはそのままを大久保らいかに告げた。

「大久保さんにお任せします。母は大袈裟な葬儀など望んでいないと思いますし」

「分かりました。では早速、棺に入れて火葬場へご遺体は運ばせていただきます。自死された方は概ね、生前に葬儀さえも執り行わないで欲しいとおっしゃる方が多いですから。お母様からは何の希望も出ていないのでそれでよろしいでしょうか?」

 ぼくは頷く。

 ぼくはこの喪失感と思わしき重しが早く消えてくれればと、それだけを願っていた。

 大久保らいかはケータイで何処かへ連絡を取ると、すぐに作業着を着た男たちが現れ、手際よく母の遺体を収容し、介錯の際に飛び散った血や、血塗られたソファなどを清掃、処分しはじめた。

 その間、ぼくは大久保らいかに勧められるままダイニングテーブルに並べられた椅子に腰掛けて母の介錯に伴って必要になった書類にサインをする。

 目を通す気力はなかった。言われるがままにペンを走らせる。

 書類にサインし終わった頃には、母の介錯の痕跡はなくなっていた。

 何事もなかったように室内は片付けられ、昨日と違うのは血塗りのソファがなくなっていただけだった。

 明日、目覚めればラップのかかった朝食が用意されていて、ひょっとしたら母は新聞を開いているのかもしれないと思えるほどに。

 気が付くと外はもう日が暮れていた。

 窓の外は暗転して、庭の屋外灯が淡く光り、部屋の中は蛍光灯の無機質な明かりで部屋は隅々まで満たされている。

 西日の中でさっきまで起こっていた出来事は、黄昏時の幻想のように思えた。

「それでは、おいとまさせていただきます」

 大久保らいかの言葉で現実に引き戻される。

 ぼくは頷き帰し、玄関まで彼女を見送る。

 彼女が出て行ったあと、ぼくは玄関の上がり框に置かれた袋を見て、久美ちゃんとの約束を思い出した。

 ぼくはセレクトショップで手に入れた腕時計を見る。

 7時を指していた。

 約束の時間はとっくに過ぎていた。

 ケータイで連絡を入れようかとも思ったが、気力が沸いてこない。

 今日はこのまま部屋に帰って寝たほうがいいなと思い、階段を上がろうとすると呼び鈴が鳴った。

 ほったらかして置こうと思い、玄関に一旦、背を向けたが鳴り続く呼び鈴にぼくは気が進まないながらも玄関のドアを開けた。

 そこにはツインテールの少女、久美ちゃんが立っていた。

「久美……ちゃん」

 なぜここに?

「へへーん。メアド交換したときに、遼太郎くんのプロフィールに住所も入ってたの。それ見て来ちゃった」

 バツの悪そうに照れ笑いを浮かべる。

「そっか」

「そっか。じゃないでしょ!!約束すっぽかしておいて!!」

 頬をぷっくり膨らまして怒る久美ちゃん。

「ごめん」

 ぼくの浮かび上がらない表情に気づいたのか、彼女の笑顔が憂い顔に変わる。

「どうかしたの?」

「ううん。大したことじゃないんだ」

 そう大したことじゃないはずなんだ。

「まあ、上がってよ」

「うん」

 ぼくは彼女をリビングに招きいれた。

「今、コーヒー淹れるからソファにでも座っててよ」

 ぼくはくるりと彼女に背を向け、キッチンへ向かおうとすると、

「うん。ソファね。はいはい……って椅子しかないじゃん!!」

 彼女が、不慣れなノリツッコミをしてぼくの背中を叩いた。

 振り向くと彼女は頬を真っ赤にして、やらなきゃよかったという顔をしていた。

「あっ、そっか、いや、いいんだ。そこの椅子にでも腰掛けててよ」

 ぼくは、彼女のノリツッコミに答える余裕がなかった。

 自分の何気なく発した一言に、心を持っていかれた。

 久美ちゃんはノリツッコミを無視されたと思い、真っ赤な頬を膨らませてぼくを睨んだが、ぼくの抜けたサイダーみたいな表情に、

「何かあったの?」

 とぼくの顔を覗き込む。

「ううん」

 ぼくは微笑んで見せた。

 明らかに作った笑顔だったが、彼女は「そっか」とそれ以上は追及することをせず、ダイニングテーブルに並べられた椅子の一つに腰を下ろした。ぼくはキッチンでお湯を沸かす。

「遼太郎くん家ってお金持ちだよね?」

「なんで?」

「家、こんなに広いし」

「リビングしか見てないじゃん」

「外から見たら分かるよー。それに、CDだって気前よくカードで奢ってくれたじゃない?高校生でカード持っているひとなんてそんなにいないよ」

「ハハ」

「何、鼻で笑ってるの?失礼だなぁ」

「ごめん」

 彼女の前にカップを置き、コーヒーを注いで、ぼくも向かい側に座る。

 彼女は一口含んだ後、コーヒーに口を近づけて、ふぅーふぅーと息を吹きかける。

「熱かった?」

「うん。ちょっと。猫舌ってなかなか治らないんだ」

 と小さく舌を出して、はにかむ。

「でも、おいしいよ」

「インスタントだけどね」

「平気だよ。わたし、猫舌で味覚音痴だから」

「それってフォローになってないよ」

「フォローしてるつもりないもん」

「ひどいなぁ」

「今日、約束破ったんだから当然でしょ」

「だから謝ってるでしょ」

「うん」

「うんって」

「だから怒ってないでしょ」

 と微笑む。

「もしかしてぼく、いじられてる?」

「ふふーん、さあ?」

「そんなコだったっけ?」

「そんなコって何?」

「こういうことするコ」

「こういうことって?」

「そういうこと」

「それじゃ分かんないよー」

「もう分かんなくていいよ」

 とぼくは肩を落として見せる。けれど、この感覚はなんだろう?

 彼女と言葉を一つ一つ交わしてゆく度に、ぼくの心を埋め尽くしていた圧迫感が少しずつ緩和されてゆく。決して消え去ることはないのだろうけれど、浅くしか出来なかった息が深くなってゆくようなこの感覚はなんだろう。

 ぼくは次の言葉が浮かばないまま、彼女を見ていた。ふと言葉がこのまま浮かんでこなくてもいいかもしれないと思った。

 久美ちゃんが首を傾げる。

「今日の遼太郎くん、やっぱり変だよ」

「かもしれない」

「認めちゃうんだ」

「うん」

「やっぱり変」

 彼女がくしゅっと笑って見せた。

「今日、遊びに付き合わなくてごめんね」

「気にしないでいいよー。暇だっただけだし、こうして話せたし」

「えっ!?」

「だから、気にしなくていいってば」

 そのことに対する「えっ」じゃないんだけどな。まあ、いいか。

「遼太郎くんって昔から変わってるよね」

「そうだっけ?あんまり昔のこと覚えてないんだ」

「そっかぁ、わたしたちが学校一緒だったの小学校4年生のときだけだもんのね。学校の名前くらいは覚えてるでしょ?」

「花……谷?」

「そう、花谷小学校。団地の中にある学校で花も谷もないのに変だなって転校したとき思ったもの」

「そういえば、そうだったね」

「わたしが転校してきた日、覚えてる?」

「ごめん。覚えてないや」

「はぁ、遼太郎くんって他人にあまり興味ないでしょ」

「うん。そう言われてみれば。だから、よく忘れるのかな。人の名前とか」

「わたしの名前も忘れてたみたいだしねー」

「バレてたの?」

「バレバレだよー。目が泳いでたもの」

 と睨みつけるような素振りを見せて、すぐに微笑んだ。

「でもね、忘れてたと思うけれど、転校してきたわたしに初めて話しかけてくれたのは遼太郎くんなんだよ」

「ぼく、そんな人に気を遣えた人間だったっけ?」

「うーん。気を遣えるかどうかは分からないけれどね。だってわたしに声を掛けた最初の一言が……」

 と言い終えないうちに彼女は思い出し笑いした。

「えっ、何?」

「『コンパス貸してくれない?』だったの」

 彼女が転校してきた初日に、彼女はぼくの隣の机に座ることが決まり、ぼくは開口一番、算数の授業で使うコンパスを貸して欲しいと言ったらしい。

「転校生が、用意してるわけないのになぁ。ぼく、何、言ってるんだろ」

「多分、わたしが転校してきたかどうかなんて興味なかったんじゃない?」

「何事にも興味がないというか関心が希薄なのは今も変わらないのかも。でも、そんなこと覚えてないよ」

「関心がないんだから、覚えてなくて当然だよ。でも、そんなかしこまらない態度でわたし、ほっとしたし、それにちょっと嬉しかった。転校ってすごい緊張するから」

「たしかに緊張するかも」

 ぼくは彼女が転校してきた年の3学期に、江田市に移ってきた。過去のことはほとんど覚えていないけれど、こっちに転校してきた日のことは覚えている。

 そう、水槽の中の魚を見るようなクラス中の視線が注がれる中の自己紹介は、ここから逃げさしてくれるなら煮るなり焼くなり、刺身にするなりしてくれと思うほどに緊張した。

 すぐに慣れたけれど。

「それより、こんな時間までお邪魔しちゃって大丈夫?お家の人は?」

 掛け時計の針は9時過ぎを指していた。

「大丈夫だよ。……まだ、帰ってこないし。つーか、もう帰ってこないし」

 ぼくは彼女に母が死んだことは黙っておこうと思っていた。けれど、なぜか、喋ってしまった。

 彼女の笑顔が一瞬にして曇った。持っていたコーヒーカップをソーサーに置き、

「まずいこと聞いちゃったかな。ごめんね」

 と俯く。

「ううん。話したって話さなくたって事実は変わらないんだから」

 そう、現実は隠したって、飾ったって何も変わらないんだ。

 それに、久美ちゃんに事実を話すことに躊躇いはなかった。

「今夕、母は自死したんだ」

「ジシ?それって……」

「平たく言えば、死んだってこと」

 久美ちゃんの表情が強張る。

「そんな……、そんなときに、わたし、遼太郎くん家にずかずかと上がり込んで、くだらない事しゃべって、約束に来れなかったことなじって……最低だね。わたし」

 彼女の伏せた睫毛に、みるみる涙が溜まってゆく。

「いいんだよ。ぼくが言わなかったのが悪いんだし、それに……」

 ぼくはそのとき、他意なく微笑んでいた気がする。

「久美ちゃんと喋れて、良かった。なんだか軽くなったよ。ありがとう」

「そんなこと言われても……」

「ほんとにいいんだ。それにぼくはそのことで悲しんでいるのか、正直分からないんだ。母に何されたわけでもないけれど、何かをしてもらった覚えもないし。こういうの親不孝ものと言うんだろうね。感情に名前を付けられるほどぼくの心は起伏がないんだと思う。1番近い肉親が死んだのに、まるで誰かが死んだのをニュースで知るのと変わらない気がするんだ」

 久美ちゃんがゆっくりと首を振る。ツインテールが揺れる。

「変わるよ。変わってるよ。本当に悲しいときって自分の感情に説明がつかないんじゃないかな。ただ、心の中に澱のようなものが固まって、何をしてもいつもその澱が奥底にあって、いつもと感覚がずれて、笑うことや、泣くことや、怒ることや、そんなことに違和感を覚えて、何でもないときに、急に胸が痛くなったり、たとえば、今日の遼太郎くんみたいに心ここにあらずってなったりね。何も泣く事が悲しいんじゃない。泣いたからって悲しいわけじゃない。いつもいる存在がいなくなって、あるはずのものがなくて、ああ、そうか居なくなったんだって気づいて、そこで何やってるんだろうって自分を笑ったり、ふとした動作がもう必要ないんだと所在無くもてあそんだり、そういうんじゃないかなって思う。それが悲しむってことなんじゃないかな」

 そう言い終えると、久美ちゃんは冷め切ったコーヒーを口にした。

「わたし帰ったほうがいいよね?それとも居たほうがいい?」

「うん。ありがとう。でも、ぼくは大丈夫だよ。ぼくの血は緑色だからね」

 つまらないことを言って笑って見せた。

「それって、変温動物ってこと?人間じゃないの!?」

 クスッと微笑む。そして、真顔になって、

「絶対、自分も死ぬなんて考えないでね」

「ぼくは母親が死んだからって死にたいって思うような人間じゃないよ」

 母が死ぬからじゃないんだ。久美ちゃん。ぼくが死んだからって誰かの心に隙間を作るわけじゃない。それに死ぬことを止めることは出来ないんだ。

 もうぼくは自分の人生を売ったんだから。

 それはもちろん口にしなかった。

 久美ちゃんの真っ直ぐな瞳にそんなことをぼくには言えやしなかった。

 そんなこと言ったら、どんな人間だって、あるわけないじゃないって言うだろう。

 そんな当たり前の言葉が欲しいわけじゃないし、そんな言葉を言わせたら申し訳ない。

 そう、ぼくの感情で唯一、はっきりしていることは誰にも迷惑をかけたくないってことだ。だから、本当は彼女に母が死んだことなんて言うべきじゃなかったんだ。

 でも、なんで口にしてしまったんだろう。

 ぼくは、彼女に迷惑を掛けたいんだろうか。

「そっか。何か困ったことがあったら何でも言って。お葬式だって手伝うし」

「ありがとう。でも、お葬式はやらないんだ。自死するひとはやらないらしいから」

「そうなんだ。それってなんだか寂しいね」

「そう?」

「うん。送る方の立場だったら。あっ、でも、わたしが死んだら、お葬式してもらいたいと思わないかも。わたしのことで悲しんだりしないで自分のために生きてって思うかも」

「うん。ぼくもそう思うかも」

 出来るなら空気のように消えたい。

「遼太郎くん、一つ聞いてもいい?」

「うん。何?」

「あのとき、死にたかったの?」

 ぼくは逡巡した。

「なんで?」

「江田駅のひとは遼太郎くんの飛び込みは事故だって言ってた。でも、分かってるよ。きみが死にたかったってこと。止めちゃまずかったかな?」

「ううん」

 あのとき止めてくれなかったら、久美ちゃんとこうして話すこともなかった。

 きみの存在を知らなければ知らないで、良かったのかもしれない。

 それに、きみという存在を知った今もぼくにとってきみがぼくの世界に現れることが本当に喜ぶべきことなのか分からない。きみといれば楽しい。少なくとも、つまらなくはないんだ。だからといって、きみが必要なのかと聞かれると分からない。

 だって、世界に人間が一人だけしか存在せず、それがぼくで、他の人間というものを知らなければそれはそれで生きていけるのかもしれないから。

 でも、ここは否定するべきなんだろう。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ