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 甲高い高回転特有の、そう歯医者が苦しいと言えというから苦しいと言っているのに一向にやめない、あのドリルのような音が響く。

 リビングのドアの擦りガラスから西日が差し込んでいた。

 西日をちらちらと人影が遮る。

 歯医者のドリルのような音は鳴り止まない。

 何かの工事でもしているのだろうか。

 そういえば、母がエアコンを増設すると言っていた。

 あれは今年?去年?一昨年か?

 リビングで時間を過ごすことなどほとんどないから気にも留めなかった。自分に関係ないことに対する関心が希薄なのだろう。関係あることさえ危ういけれど。

 上がり框に荷物を置き、いつもなら脇目も振らず自分の部屋に上がるが、ぼくはリビングへ向かった。

 ドリルが回転するような音は止まず、脳天を刺すようだ。

 リビングのドアを開けると西日が視界一面にいっぺんに広がり、眩み、ぼくは思わず目を細める。

 そのぼくの前に、その中の1人が歩み寄ってきた。

 逆光の中、シルエットで女性だと分かった。

「鈴木 遼太郎さん?」

 聞き覚えのある声。

 どこで?

 女性はぼくにお辞儀をして微笑む。

 目が慣れてきて、ようやく彼女が誰か分かった。

「大久保さん?」

「覚えていてくれたんですね。よかった」

 大久保らいかだった。公共精神安定所の職員で介錯士。

「なんで、ここに?」

 何か手続きでもあるのだろうか。

「わたしぃ、今日、初めてだったんです」

 彼女ははにかむ。何が?手続きミスでも?

「“その場で”以外の介錯するの」

 彼女がぼくの前から離れ、指差す方向を見ると、母がソファに横たわっていた。

 頭の周りには夕焼けよりも、赤く黒い液体がソファを染めている。

 血……か。

 母の血まみれの頭を1人の男が抱え、もう一人の男が頭にドリルを突き刺していた。

 2人とも黒のスーツだ。

 どう反応していいか分からず立ち竦んでいると、ドリルの回転音が削るものがなくなったように高くなり、音が止まる。

 突き刺していたドリルを男が頭から抜きだすと、どろりと脳漿と血液がドリルで開けた穴からこぼれ出した。

 そして、もう一人の男が抱えていた頭をソファに据え、おそらく男の持ってきたであろうジュラルミンケースから注射器を取り出し、ドリルを持つ男にドリルと引き換えに注射器を渡した。

「おいっ、何してるんだよ」

 ぼくがようやく搾り出した声は、上擦り、震えていた。

 2人の背中は何も聞こえなかったように作業を続けている。

 注射器をドリルで開けた穴に刺し入れる。

 くちゃりと、プリンを指で潰すような音をたてながら、注射器本体が見えなくなるほど突っ込んだ。

 完全にぼくを無視している男たちの代わりに大久保らいかが作業について答える。

「わたしが介錯をした受給者の脳から脳内物質のサンプルを抜き出しているところだよ」

「何のために?」

「判定するため」

「判定?」

 わかんないかなぁと苦笑いを大久保らいかは浮かべ、ドーパミンやノルアドレナリン、セロトニンがどのぐらい分泌されたかを調べ、受給者の満足度を数値化して、保険点数を算出するのだと説明した。

 母はぼくが自死することを知った後に失望保険を受給して自分が自死することを希望したらしい。たまたま、窓口対応した大久保らいかはいつものように『その場で』を勧めた。母は少し考え、『その場で』を断ったが、今日中の自死を大久保らいかに依頼。大久保らいかは快諾。母は自死場所を自宅に希望して、銃殺による介錯が30分ほど前に行われた。

 そして、介錯の結果を判定するために厚生労働省管轄の独立行政法人精神安定促進機構から判定士が派遣された。彼らは判定士としての業務も行っているが、本来の目的は失望保険や介錯、または不法な自殺行為などを管理することらしい。そういえば、ぼくが自殺未遂をしたあの日、警官が深々とお辞儀をしていた相手も同じ格好をしていた。

 それが今、母の脳の一部を注射器で抜き出している黒いスーツの男たちだった。

 しばらくすると注射器に吸い出された脳が満たされる。注射器を抜き出し、針を取り、キャップをする。

 判定士たちは保険点数の算出に1月ほど要することを大久保らいかに伝え、家を出ていった。

 ぼくの頭の中は混乱していた。

 なぜ、母は自死する必要があったのか。

 それも自宅で。

 ぼくが自死することが分かったからか?

 そんなわけはない。そんな関係じゃない。

 少なくともぼくが死んだところで母が死ぬ必要などどこにもないのに。

 家族だから?独りで生きていくのが辛い?

 今までだって、お互い独りで生きてきたようなものじゃないか。

 会話もなく。共に過ごす時間もなく。ただ同居していただけのようなものだ。

 なのに、なのに、なぜ?

 そして、なぜ、ぼくは今、母の死体を前に打ち震えているのだろうか?

 なぜ、ぼくの視界はぼやけているんだろう。まるで泣いているみたいじゃないか。

 どんな感情がぼくをそうさせているのだろう?

 ぼくは大久保らいかを見た。

 睨んでいたかもしれない。一瞬、彼女が縮かんだように見えたから。

「遼太郎さん、お母さんの自死はあまり気になさらないほうが良いですよ。よくあることですから」

 家族の自死を知って、後を追う人間は多いらしい。他人であっても影響を受けて、自死を希望する人間も多いため、一般の人間が介錯士や受給者に影響されて自死を選ぶことを最小限にするのもSNSが一般からは隔絶されている理由の1つだと。

 でも、ぼくはそんなことを今、知りたいわけじゃなかった。

 ぼくの自死が原因で母が死を選んだならと考えると、なぜか、ぼくの心の中を圧迫するかのように巨大な喪失感が巣食った。

 ぼくが死んでも死ななくても何も変わることなく時間は過ぎてゆくと思っていた。

 そう望んでいた。

 母とぼくはそういう関係ではなかったはずだ。

 大久保らいかは構わず続ける。ぼくのこうした反応もよくあることなのだろう。

「お母様の介錯が終わったため、財産は全て国有化されます。ご自宅もです。ですが、遼太郎さんの生活空間でもあるため、特例として、遼太郎さんの受給証でご自宅を購入することも可能ですがどうなさいますか?先程、このことについてご相談しようと遼太郎さまにメールさせていただいたのですが、ご返事がなかったのでご説明できなかったもので」

 どうでもいいことだった。

 どうでもいいはずだった。

 一日前のぼくなら。

 いや、このリビングに足を踏み入れるまでは。

 そう、そんなことよりもっと大事なことをメールすべきなんじゃないかなんてことも頭に過ぎることはなかっただろう。

 家なんて、ただ寝たり食べたりするための場所なだけだ。

 そんなことどこでだって出来る。

 たまたま母からぼくが生まれ、たまたま母と一緒に生活しているだけだ。

 そして、たまたまぼくは死ぬことを選んだ。

 けれど、母はぼくが死ぬことを選んでから自分の死を選んだ。

 なぜそう繋がる?

 堂々巡りのように、母の死とぼくの死の繋がりにどんな方向に思考しても返ってきてしまう。

 そして、住む場所なんて何処だって良いはずなのに、ぼくはこう答えていた。

「少し……考えさせてくれませんか?」

 大久保らいかはにっこり頷く。

「お母様のご遺体はどういたしましょうか?手続きの煩雑さを考えるとこちらに全ておまかせしてくだされば責任を持って葬らせていただきますが」

 ぼくは、母の顔を見た。

 表情を、まじまじと見たのは初めてかもしれない。

 母だったら何を望むだろう?

 そんな疑問さえぼくにとって初めての感覚だった。

 ひとの気持ちにたって何かを考えるなんて、ただの綺麗事にすぎないと知っていたはずなのに、考えてしまう。

 母の気持ちなんて分かるはずもなく、それは母ならそう思うだろうという願望であることも重々分かっているつもりだ。それに、ぼくは母のことをそこまで知らない。知ろうともしなかった。知る必要を感じなかった。

 なのに、なぜ考えてしまうのだろう。分かるはずもない母の想いを。

 では、ぼく自身の願望はなんだ?

 ぼくならどうされたいんだ?

 誰にも迷惑を掛けずに静かに死にたい。そうだったはず。

 母とぼくの遺伝子は繋がっている。それだけが今まで母とぼくを繋ぐ唯一の接点だと考えていた。


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