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6月7日 a

 

6月7日

 

 母親とまともな会話を交わしたのは何時以来だろう。

 それは、受給2日目のことだった。

 ぼくは朝、変わらぬ日々を過ごすように、制服に着替え、学校へ行く支度をして1階のリビングに降りた。

 母はもう朝食の用意を済ませ、新聞を読んでいる。

 いつもなら母は出勤している時間帯だった。

 挨拶を交わすことさえ久しぶりだ。

「おはよう」

「おはよう」

 母はこちらに眼も向けない。

 ぼく自身も誰に「おはよう」と言っているのか全く意識していなかった。学校の廊下で知らない教師とすれ違うときの挨拶みたく。

 いつもどおり。一緒の食卓で朝食を食べるのは久しぶりか。

 食卓に座り、ひっくり返されたカップを元に戻し、紅茶を注ぐ。用意されたスクランブルエッグを頬張る。

「あなた、死ぬんだって?」

 最初、誰がこの言葉を口にしたのか分からなかった。テレビで朝方から趣味の悪い昼ドラでもやっているのかとテレビを振り返り、関東地方の天気図が映っているのを見て、はじめて母がその言葉を口にしたことに気づいた。

「何で知っているの?」

 疑問に疑問で返す。

 母は黙って読んでいる新聞を寄越した。

 ぼくも黙って新聞を受け取る。

 久しぶりの新聞に目を通してバサバサと不慣れに捲っていると、ある紙面で、母が指を栞のように挟みこむ。

「死亡予定告知面にあなたの名前が載ってたの」

 よく見ると、2面を使って昨日、失望保険を受給開始した人間の名前がずらりと列挙されていた。

 母の指がすぅーっと、その中から『鈴木 遼太郎』を指した。

 『鈴木 遼太郎 江田市在住。7月6日死亡予定。死因予定 自死。』と書いてある。

「そうだよ」

 ぼくはフラットな調子で答える。

「何かあったの?」

 母の言葉もフラットだ。抑揚がない。

「特にないけれど、人生に飽きたのかな」

「17歳で?まっ、あなた飽き性だからね」

 母は苦笑いを浮かべている。

「わたし、一人になっちゃうのね」

「ごめん」と言いながら、母が一人になることを念頭に置いていなかったことに気づく。

 それは迷惑なことだろうか。それとも母にとって荷が下りるようなことなのだろうか。

「あなたの人生なんだから好きにすればいいわよ」

 そう母は微笑んで、仕事へと向かった。

 その微笑を見たのはいつ以来だろうか。

 その微笑を見てほっとしていたぼくはいつまでだったか。

 ただ、うっすらと残る記憶の中の微笑と違うのは今、母が浮かべた微笑には仄かに物悲しさが漂っているように思えた。

 もしかしたら、物悲しく微笑むことをぼくはそのとき無意識に望んで、そんなフィルターをかけて母を見ていたのかもしれない。

 それとも、ただ、幾度となく、小説や映画やドラマで息子が死ぬと分かればそういう表情を示すものだと紋切型の答えしか思い浮かばなかったのか。

 ぼくは残された新聞を畳み再生紙ゴミ受けに入れて、汚れた皿を洗う。

 テレビでは、交通情報が映っていた。


 学校へ行く道すがら、変わらない風景が続く。途中、久美ちゃんと出会った駅の駅員の視線が気になったぐらいだった。

 教室に入って、いつもどおり軽く会釈を交わして席に着く。

 智寛が、引き戸の掘り込みに蹴躓いて、教室に入ってくる。

 視線が合うと、少し苦笑いを浮かべて、すぐに視線を逸らす。

 昨日と何も変わらない反応。

 新聞の死亡告知欄を見る奴なんていないのか。

 見ても気にすることもないだろうし。

 ぼくだってそうだ。誰かが死んだとして、それがどうだって言うんだろうか。それも新聞、つまりメディアでしか知ることのない死は不特定多数に告知されているんだから、自分がその不特定多数の中の一人なら何の関係がある?

 1:∞。計算にも値しない。

「鈴木、ちょっといいか」

 ホームルームの終わりに、担任が教室の外に手招いた。

 教室中の視線がぼくに集まる。「何かやらかしたのか?」と問いたげな視線だ。その中を、足早に歩く。

 教室を出ると、担任は生徒指導室に一緒に来るよう促す。

 生徒指導室に入ると、担任はしかつめらしい顔で切り出した。

「鈴木、おまえ、1月停学だ。理由は分かるよな」

 ぼくはすぐには理由が思い浮かばなかったが、1月という言葉で気が付いた。

「なんとなくは」

 ぼくが死ぬことを決めたことと何か関係があるんだろう。それ以外、昨日と今日で変わったことはない。

「お前の決めたことをどうこういう筋合いはおれにはない。けれど、これは校則でも決まってることだからな。生徒手帳にも書いてある。読んだことは?」

「いや、ないですけど」

 生徒手帳読むやつなんているんだろうか。新聞の死亡告知面を毎朝読むぐらい物好きだと思う。

「開かなくてもいいが、失望保険を受給している人間はその受給期間中、停学処分になる」

「理由は何ですか?」

「理由?校則で決まっているからだよ」

「そうですか。分かりました」

 校則なら仕方ない。それに1月後に死ぬのに、大学受験のための勉強をする必要もない。少し考えれば分かることだ。

「先生、一つ聞いていいですか?」

「何だ?」

「1月後自分の意思で死ぬのと、1月後に不慮で死ぬのと命に違いはあるんでしょうか?」

「ひとは生まれたからには、天寿を全うするのが本来の姿じゃないか?」

 担任は面倒くさそうに言う。

「それは生徒手帳に載っていますか?」

 担任の瞼の端が束の間、震えた。

「載っているわけないだろう」

「そうですよね。冗談です」

 ぼくは軽く会釈をして生徒指導室を出る。

 教室に戻ると、数学の授業が行われていた。

 ぼくは構わず、引き戸を開けて教室に入る。教師がぼくを一瞬、一瞥して何事もなかったように授業を続ける。水槽の中の魚は、外の世界に興味を持つことはない。

 ぼくも授業に構わず、机の中の教科書やノートやコンドームを鞄に閉まって教室を出た。

 廊下を歩いていると、リノリウムの廊下をぼくとは別のテンポの速い足音が混じるのが聞こえてきた。

 振り返ると、智寛が息を切らして走ってくる。

 体育の授業をいつも見学している智寛が走っているのを見て、自然と笑みがこぼれた。

「どうした?」

「どうしたって?な、なんで停学なんだよ」

「死ぬから」

 ぼくは言う。そう、フラットに。

 智寛は目を見開いて、ぽかんと口を開けている。

「1月後に死ぬことに決めたんだよ」

「そ、そんな」

「そんな驚かれてもな。こういうとき喜べばいい?」

「ばっかじゃねぇの!」

 智寛はぼくを睨みつけ、強く握った拳が震えてる。

「なんで怒るんだよ。何かお前に迷惑かけるようなことしたか?」

 睨み付けられて、こんなにも怖く思えないのって智寛の人徳というのだろうか。

「友達が死ぬのを喜べるわけないだろ!ぼ、ぼくは遼太郎をいつも目標に勉強頑張ってきたんだよ。どんなに頑張っても、いっつも全部の科目で勝てなくて、それも涼しい顔してやってのけてさ。女だって興味ないような顔して作ってるし、いつか、そんな遼太郎を抜いてやろうって頑張ってたんだよ。遼太郎がいなくなったら、ぼくは何を目標に頑張ればいいんだよ!」

 智寛からはそんなふうにぼくは見えているのかと思うと、こそばゆい。

「安心しろよ」

 ぼくは智寛に微笑んで見せた。

 ふっと、智寛が表情を和らげる。

「ぼくさ、智寛のこと友達って思ってないから。というかさ、ぼくに友達なんていないんだよ。まっ、頑張れよ、勉強。志望校に受かるといいな」

 唖然とした表情を浮かべる智寛を残して、ぼくは校舎をあとにした。

 人間は水の中で長く生活するようには出来ていない。


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