6月5日 a
6月5日
6時限目の授業の終わりを告げる鐘が鳴る。
5分くらい前から聞こえはじめた私語はチャイムと同時に騒音に変わった。
数学の教師は独り言のように式の解を喋り、教室を出て行く。自分の仕事は生徒の誰とも目を合わさずにひたすら黒板に板書をし、教科書を読み上げることにあるのだと納得させているように。
教壇と一番前の生徒の机の間には、水槽のアクリル壁みたいに見えない壁がある。
数センチの壁のこちらと向こう側では違う世界が動き、ときどきお互いの様子を伺って、一方的なコミュニケーションを図っている。魚が陸で呼吸できないように、この壁を隔てた向こう側ではお互い生きていけない。
それは何も教師と生徒の間にだけ存在する訳ではないけれど。
「遼、遼太郎、最近、予備校でお前見ないけど、どうしたん?」
ぼくが机の中に入っている教科書やノートや、マンガやらコンドームやら鞄に入れていると、同じ予備校に通う智寛が話しかけてきた。
ぼくは鞄から智寛に視線を移す。
智寛は、視線を逸らす。
知り合って1年以上経つけど、智寛と目を合わせて話した覚えがない。智寛の黒縁メガネで縁取られた一重の目はぼくと目を合わせないよういつも忙しなく動く。
こいつが大人になれば、あの教師みたいになるんだろうか。
ぼくは智寛の顔を覗き込む。
「俺、進路変えようと思ってさ。その進路だと予備校に行く必要ないんだよ」
智寛の瞳孔が広がる。
「ど、どういうことだよ?」
また視線を泳がせ始めた。
「どういうことって、そういうことだよ。よかったな、ライバルが一人減って」
智寛とぼくの第一志望は同じ大学だった。
そして、模試では一度も智寛はぼくに勝ったことがない。
「そ、そんなこと考えてねーよ」
そういう口元は明らかに綻んでいた。
事実、ぼく一人が受験しないくらいで智寛の合否に関わることなんてないんだけどな。
「だから、予備校に通うのをやめた」
「そ、そっか。予備校でお前と会えなくなって寂しくなるな」
「学校で幾らでも会えるだろ」
思わず、鼻で笑ってしまった。
ぼくはそのステレオタイプなドモリを聞くことが少なくなって嬉しいけどね、と言いたいところだったが、言うのも馬鹿らしく智寛の肩をポンッと軽く叩いて、
「そういうことだから。まっ、頑張れよ」
暗に席に戻るよう促した。
ちょうどいいタイミングで担任の教師が教室に入ってきて帰りのホームルームが始まる。
アクリル壁の向こうで何か話し始めた。それは壁のこちら側にも向こう側にも必要のないことで、あくまで手続きの一環なんだろう。
遠くで号令が聞こえてぼくは家路に着く。
ぼくには好きなものが一つだけある。
他はどうでもいい。
食べ物、服装、音楽、テレビ、マンガ、女の子、夢、お金だとか。
どうでもいいことを思い出すのはどうでもいい。
何か好きになれるものや、夢中になれるものがあるんじゃないかと探したこともあった。
クラスメイトが話すテレビ番組を見てみたり、マンガを学校に持ってきているやつに借りて読んでみたり、映像配信で海外ドラマを借りて見たり、音楽のトップチャートを1位から10位まで片っ端からダウンロードして聴いてみたり、クラスメイトが紹介してくれたSNSで女の子を誘って、オフで会ったり、おいしいと言われるラーメン屋に1時間くらい並んで食べたりもしてみた。
先生たちが言うように勉強もしてみた。
ぼくが今、通っている高校は進学校の部類だし、入ってからもクラスでずっと1番とはいかないが、このポジションをキープ出来れば東京六大学のどこかには受かるだろう。もしかしたら本土の大学に行くのも不可能ではないかもしれない。
そう、それなりに努力をしてきた。
色んなところを掘ってみた。
でも、スコップで地面を掘ったら、一振り目で金属が固いものにぶつかる音がいつもする。よく見ると地面の1cm下はどこを掘っても、コンクリートだったというわけ。
ぼくはスコップを工事現場で見掛けるような削岩機に持ち替えてまで穴を掘る気にはなれない。手段を目的に変えるなんて出来ないから。
穴掘りが好きなわけじゃないしさ。工事現場のひとだって給料貰えなきゃ、こんな面倒なことやらないと思う。
そうやって、周りにいる人間が好きだとか嫌いだとか騒いでいるものに片っ端から触れてみた。
友達という奴らはこんな結論出すのは時期尚早だって言うだろう。
友達が存在するとしたらね。
で、ぼくは十七年間の生涯で判断した。
人生は酷く退屈で、空虚なものだと。
人生を表現するのに退屈や空虚という言葉しか出てこないんだから、ぼくは退屈で空虚な存在なんだと思う。
そりゃ、哲学者や作家や革命指導者や他にも先生とつくような人のように人生について深く考えてないとは思うよ。
けれど、深く考えたところで答えは出ないんだろう。答えがあったら、みんな幸せなはず。それか人間はとうに滅びているか。
人生は巨大で真っ暗な迷路。一生かけてゴールを探して、光が差し込んだと思ったら、ミノタウロスが涎垂らして待っていて、みんなそいつに結局、喰われるんだ。それが人生のゴールだ。
だから、ぼくは決めた。
死ぬことに。
今はどうやって死ぬかそのことばかり考えている。
これって意外と面白くて、ぼくは生まれて初めて、頭の中の神経が電車のダイヤみたく秒刻みで次々と切り替わっていくような感覚を味わった。
死、だけはどこまでも飽きることなく掘り続けることができた。
自殺が生甲斐。
言葉として矛盾しているし、事実、自分はヘンなんじゃないかと思うこともあるけれど。
でも、ヘンじゃない人間がいるとしたら、そいつは人類で一番特殊な部類に入ると思う。
大げさじゃなくてさ、真っ当な人間って奴がいたらさ、そいつの顔面を思い切り殴りつけてやるといいよ。気持ちいいくらいカコンって音がして、剥がれた皮膚の隙間から金属とか配線とかICチップだとか垣間見えるだろうから。
そういえばターミネーターが生まれる年もぼくが成人する前にやってくる。
ぼくはそんな光景を思い浮かべて、にやついていたらしい。駅のホームの反対側で同じ高校の女子が数人、ぼくを訝しげに見てひそひそ喋っている。卑猥なことでも考えているとでも思っているのだろうか。
ちょっとむかついたけれど、人にどう思われようが関係ない。
ぼくはもうすぐ死ぬんだから。
そうだ! どうせなら今、ここで線路に飛び込んで自殺しようか。
そうすれば、彼女たちはぼくが卑猥なことを考えてないことが分かるだろうし、そんな邪推をしたことを一生後悔するだろう。ぼくが電車に轢かれ、車輪に刻まれて、軟骨混じりの挽き肉やユッケみたいになった姿が目に焼きついて、当分、食べ物が喉を通らなくなって彼女たちのダイエットにもなる。一石三鳥だ。
善は急げ!
ホームの電光掲示板を見上げる。
ちょうど良い頃合に次の電車は手前の駅を発車していた。
心臓の鼓動が高まる。
周りはぼくの企みなど知らずに悠長にケータイを弄ったり、雑誌を読んでいる。
ぼくだけがこれから起こる事を知っているということが益々、心を高揚させた。
死を実行に移すことがこんなにも、興奮を誘うものだなんて!!
向かいの女子たちは相変わらず、軽蔑の眼差しを向けている。
そんな目でぼくを見ていられるのも後、数分だ。
『まもなく電車が通過します』と表示が出る。
ぼくは無意識に両手を握ったり、開いたりを繰り返す。
息を整える。ひーひーふー。ひーひーふー。
……何か違う気がするが、死ぬ数分前の呼吸法が何だろうとどうでもいいじゃないか。
金属が金属の上を滑る音と共に電車が視界の端に入ってきた。
ぼくは、白線を踏み越えた。
周囲にざわめきが広がる。
向かいの女子たちの一人が両手で目を覆い、鞄を落とした。
電車が警笛を鳴らす。
構わずもう一歩踏み出した。
電車のブレーキ音が甲高く鳴り、急ブレーキをかけているのが分かった。
ぼくは今――挽き肉になるんだ!
地面を蹴り上げる。
そのとき、
「ダメ!!」というはっきりとした、だが妙に幼さの残る声とともにぼくは後ろに強い力で引っ張られて、尻餅をついた。
目の前を警笛を鳴らして電車が通り過ぎていく。
ぼくは驚きや怒りという感情より先に、状況が呑み込めず、呆然として引っ張られた方を見やった。