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世界五分後仮説

作者: 名波 和輝


 「世界五分前仮説」と言うものがある。


 これは、「世界は五分前に始まったのかもしれない」という仮説である。


 言い換えれば、今、自分が持っている知識も経験も全て「そういうもの」として創られただけの偽りの記憶に過ぎないかも知れないと言う仮説なのだ。


 この仮説は、確実に否定する事が不可能らしく、「知識とは何なのか?」と言う問いへと繋がっていくそうだ。


 しかし、どんな問いに繋がろうが、私にとってはどうでも良いことだ。


 私が「世界五分前仮説」に心惹(こころひ)かれた点はそこではない。


 私が心惹かれたのは、この仮説が正しい場合、五分より前の世界は無であり、無から突然この世界が創られたと言うことになる点だ。


 無から突然、有になると言うことは、逆に有から突然、無になることもあるのではないだろうか?


 そこで、私はこの説を提唱したいと思う。


 世界五分後仮説。


 「世界は五分後に終わるのかもしれない」と言う仮説だ。


 この仮説の面白い点は、世界の終焉(しゅうえん)に怯えることはできても、実際に世界の終焉を迎えた時には、それを感じることができない点にある。


 ノストラダムスの大予言やマヤの予言が流行したように、世界の終焉には人を惹きつけられるだけの漠然(ばくぜん)とした恐怖がある。


 けれども、実際の世界の終焉がなんの前触れもなく、一瞬で行われるのであれば、私達がその終焉を感じることはできない。


 この仮説が示す世界の終わりとは、痛みもなく、苦しみもない、一瞬のうちに無に帰すことだ。


 まるで、コンピュータをシャットダウンするのではなく、電源ボタンを押して強制的に終了させるような世界の終焉。


 前触れもなく、予期することができない世界の終焉なのだ。


 実際に起きてしまえば、(あらが)うこともできず、そもそも感じることもできない世界の終焉。


 そんな世界の終焉に怯える意味はあるのだろうか?

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