消えた王国
それはまだ神と精霊と生き物たちの境界が曖昧で、海と空と大地すら時々混ざり合うような世界が生まれたての混沌の頃。
形の定まらない不安定な世界の中でも、生き物たちは懸命に肩を寄せ合って生き、それは村となり町となり、国となりました。
大きな国、小さな国、穏やかな国、争う国、助け合う国、虐げる国。
そして、国ごとに「分かれた」生き物たちは、国の中でも生き物ごとに「分けられて」いきました。
やがて、虐げられる側に分けられた生き物たちは、虐げる者のいない自分たちの国を求めて、生まれた国を出て行きました。
世界の混沌が少し落ち着いた頃。
そうして生き物たちの国は、「神の国」「精霊の国」「妖精の国」「竜の国」、そして、それらでない生き物たちの「人の国」と呼ばれるようになりました。
それぞれの国は、世界の意志として自然に分かれたと考えられ、鎖国こそしていませんが、お互いがあまり関わりを持たずに生きており、混沌の時代よりとても住み良い世界であったといいます。
妖精の国の王女が、人の国の王子に恋をするまでは。
豊かな森の恵みの国、妖精の国。
一年中常春の国は、飢えることも寒さに震えることもありません。
それを妬む人の王がいました。
たくさんの人の国がある中でも、その王の国は寒さが厳しく乾燥して作物もあまり育たず、人が生きるには大変な土地でした。
人々は共に助け合って、たくさんのことを我慢して生きていました。
その人の国と妖精の国は隣同士。
不思議な力で守られた妖精の国の自然は穏やかで、守られていない人の国は生きるのにも厳しい荒れ地。
人の王の妬みは根深く、凄まじいものでした。
そして、人の王は、妖精の国を自分の国にしたいと、望んだのです。
とはいえ、妖精たちは好戦的ではありませんが、戦わないわけではありません。
戦になれば、不思議な力を手足のように使う妖精に人は敵いません。
ずる賢い人の王は、戦で妖精の国を手に入れるのではなく、王子を使うことにしました。
人の王の息子である王子は、周囲の者を無意識に引きつけてしまう『魅了』の力を持っていました。
このことは人の王と側近しか知りません。
いつか何かの切り札になるだろうと考え、王子本人にすら秘されていました。
妖精の王に支援を求める人の国の使者として、王子は妖精の国に赴きました。
王子と会った妖精の国の王女は、王子に一目惚れをしました。
人の王の思惑通り、王子によって王女は魅了されたのです。
妖精の王は、娘である王女を溺愛していました。
王女は王子の求めるがままに、人の国への支援を父王に強請りました。
食料や衣服、珍しい作物の種、不思議な力の使い方……。
人の国は豊かになり、一方で妖精の国は廃れていきました。
妖精たちは疑うことを知らず、ずるい人に口八丁で連れて行かれては、いなくなっていったのです。
連れて行かれた妖精たちがどのような扱いを受けたかは、誰にも分かりません。
連れて行かれた妖精たちは、もう、「いない」のですから。
妖精と人は姿形が似ていますが、違う種族です。
番い子を残すことはできません。
それでも、王女は王子と婚姻することを願いました。
驚いたのは王子です。
王子は人の国の使者として訪れていただけで、王女と婚姻するつもりは全くなく、そのような素振りも見せたことがなかったからです。
なぜなら、王子には、人の国に愛する妃がいたのですから。
自らの魅了の力を知らず、ただ、誠意を持って人の国の支援を願った王子と。
王子に心を捧げ、求められるままに自国を千切り取って与えていった王女と。
どちらが悪かったのでしょうか。
王子に妃がいることを知った王女は、嫉妬に狂い、闇に染まってしまいました。
その憎しみは、美しく儚かった容貌すらも変えてしまうほどでした。
王女は王子を恨みました。
恨んで恨んで、どんなに恨んでも、王子を嫌いになれない自分に絶望し、とうとう心のすべてを闇にのまれてしまったのです。
王女の絶望は王子の妃に向かいました。
人の所為で消えていった妖精の成れの果てたちや、怒りや悲しみに絶望し闇に染まったものたちの牙が、お前を引き裂くだろう。
何度生まれ変わっても、何も覚えていなくても、お前の魂が存在する限り、私はお前を許さない。
王女が王子の妃をそう呪うと、闇に染まった生き物たち――魔物たちが、一斉に人の国を襲い、たったの七日七晩で、人の国は生き物の住めない土地になってしまったのです。
人の王は、国を捨てて逃げる途中で魔物の腹におさまりました。
王子と王子の妃は、人の国の民を逃すために命を落としました。
魔物を生み出し意のままに操る王女は、既に妖精ではなく、「魔女」と呼ばれる生き物となってしまっていました。
心が闇に染まると、生き物たちは本来の魂の輝きを失い、姿すら変わってしまいます。
自我を失った生き物を「魔物」、自我を持ったままの生き物を「魔女」と呼び、古から忌むべき存在でした。
心が闇に染まっても自我を持ったままでいられたのは、何故か女性ばかりであったことから、「魔女」と呼ばれるようになりました。
魔女は不思議な力の源である魔力の塊。
妖精の王だけで魔女を滅することは、既に不可能でした。
妖精の王は、神の王と精霊の王と竜の王の力を借り、もはや滅びへの道を転がり落ちている妖精の国に魔女を封じました。
自らと共に。
神と精霊と竜と妖精と魔女の力がぶつかり合い混ざり合った妖精の国は、この世の理から外れてしまいました。
神々でも何が起こるか分からない、どうしようもできない土地となってしまったのです。
これ以上、妖精の国に大きな力が加わると、世界に何が起こるか誰にも分かりません。
そのため、神の王と精霊の王は、空にあったそれぞれの国を妖精の国から離し、人の国との交流も断ちました。
竜の国は交流を断つまではいかなくても、元々人の国々がある大陸とは荒れ狂う海で隔たれているため、自国に籠もり静観することにしたのです。
こうして、美しい常春の森だった妖精の国と、その北東に位置した人の国は消えてなくなったのです。
ある女神が去り際、妖精の国の境界に、目印として自らの祝福を与えた樹を植えました。
白い幹に紫の葉、季節を問わず枯れることのない美しい樹。
その樹に囲まれ、妖精たちのいなくなった妖精の国には、今も魔女を抱き締めながら、その国の王が眠っているのです。
何度生まれ変わっても、何も覚えていなくても、お前の魂が存在する限り、私はお前を許さない。
やがて、不定期に妖精の国から魔物たちが溢れ、妖精の国を囲むように発展していた人の国に襲いかかるようになりました。
それは、封じきれなかった魔女の呪いであることも、魔物たちが溢れる森が妖精の国であったことも、長い時が過ぎる中で、人々が忘れてしまってもなお、続いています。
そして人々は、人知の及ばない魔物が蔓延る森をこう呼んで恐れたのです。
黒の森、と。
来るよ 来るよ 魔女が来るよ
他人のものを欲しがって
わがままを言うと 魔女が来るよ
他人をだまして
ものを奪おうとすると 魔女が来るよ
他人の心を不思議な力でねじまげると 魔女が来るよ
魔女は魔物を連れて来るよ
魔物が通ると 何も残らない
人も草も何も残らない 国も残らない
神様も魔女は殺せない
魔女を起こしたら いけない
魔女を呼んでも いけない
魔女を忘れても いけない
来るよ 来るよ 魔女が来るよ
魔女が来た国は 消えたよ
陽と月が七つで 滅んだよ
来るよ 来るよ
いい子にしていないと 魔女が来るよ