温泉に入れる生活、プライスレス(前)
ガラスも張っていない窓からまだ少し冷たい空気を感じる。
首から下は、温かな湯を感じている。朝風呂だ。これだ。しあわせ。
再び休憩室で睡眠をとった俺はぐっすり眠ってさっき起きたところだ。こんどは布団も貸してもらえたので体も大分痛くないし痛い夢も見ていない。
時刻はだいたいAMで5時を過ぎたころ。そう、ぱっと見何かの芸術作品に見えるような見た目だったが時計もあった。
時の精霊、温泉に関連する精霊ではないので格下らしいがこの世界で一番真面目と言われているらしい彼らの力を借りて24時間表記がだいたい分かる仕組みだそうだ。
一枚のほの明るく緑に光る透明な板に円状の溝が掘ってあって、そこに小さな黒い球体が入っている。溝の上下左右には上から右回りに12、3,6、9の文字。
この玉が時の精霊の力が籠っていて、一定の時間間隔で球にとって前方に進む。玉の位置によって大体の数字が分かる。重力とは。
全ての玉は王都にある時の精霊の精霊殿で生み出され、もし不具合があれば各地方の主要な街にあるらしい支所で、ずれてきたら調整や修理もできる便利具合。
信仰というか時計屋じゃねーか。
湯の中で身体を揉んでいる時に気付いたが、やけどなどもすっかり消えていた。温泉の力ってすげー。
年寄りの朝は早い。ヴァルス湯父も既に起きて掃除をしていた。朝風呂していいか聞いてみたら苦笑された。
表向き、この村のフロマエの風呂は当然、こんな時間からやっていないそうだが、実はずっと涌いている自噴泉らしい。やったぜ。
実はと言いながらも、ヴァルス湯父から聞く限り公然の事実状態のようだが。まあ流石に村人達も遠慮して入りに来ないそうだ。
たまに前の晩に飲みすぎた酔いざましにエッドス親分がくるそうだが。ヤな客だな。
だから、湯はあっても浴場に明かりはない。ガラスのない窓から取り込まれるほの明るさだけだ。
後は虫の声。そして湯船に注がれる温泉の音。この雰囲気を、俺は湯船の掃除を買って出ることで手に入れていた。
財布の所在が分からないことは、まだ言っていない。
まあそれはともかく、この空気は冷たく、湯は暖かくというのは一種の理想のようにも思われる。
頭まで茹ってしまうことなく、熱く感じ始めた時には一旦上がって涼む。そして寒さを感じ始めたところでまた入る。
2度、3度ほど繰り返したところで風呂場が入ったころに比べて随分と明るくなってきたことに気付いた。
吹き出し口に手のひらの椀をあてて口に含む。無味。うまい。
味も臭いもないのだが、美味しく感じるのだ。味と言うか、満たされた感がある。心の問題か。
温泉って素晴らしい。ヴァルス湯父も毎日飲んでるので健康だそうだ。
名残惜しいが、注ぎ口の栓を閉じ、浴槽の栓は抜く。いかにユモリン様の加護高き温泉と言えど垢だのなんだのは毎日掃除しないと汚れるものは汚れるのだそうだ。
だいたい昨日までこのフロマエの温泉も汚染されてたらしいしな。実は割と非力なんじゃないかユモリン様。
いや、失礼だな。相手は温泉の神様、じゃなかった精霊なのだ。ガンバレユモリン。すべての温泉を守ってくれ。俺を温泉に入らせてくれ。
純粋に不純な願いを込めながら俺は吹き出し口に鎮座するユモリン像に指示されたスライム石鹸(液体)をどろどろかけて昔懐かしの亀の子たわしでごしごし洗った。
なんか泣いているように見える。
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温泉につきものの食事と言えばなんだろうか。北海道から沖縄まで、少なくとも日本の温泉地であればまずお目にかかるであろう料理は。
各地の温泉でゆでられた半熟の、あるいはハードボイルな。
栄養豊富かつ安価で、温泉の泉質によってはわずかに味がしみ込んだり、真っ黒な外見になったりする。
そう、卵だ。温泉卵だ。おんたまだ。
今俺の目の前には朝食が並べられていた。パン食かなと思ったが炊き立てのお米だ。恵まれた洋風のファンタジーと思わせてからの和食なのか。
この村の、あるいは国の食生活はどうなってるんだ。間違いなく俺の夢だ。
しかし細かいことを気にしなければ僅かに湯気を上げながら目の前に置かれたお米は窓からの直射日光を浴びてきらきらと輝いている。
ガス炊きの上を行く、薪で炊かれた本当のかまどご飯だ。さっきふたを開けた瞬間など、じゅうーと音を立てていた。おいしそうすぎないか。
お米の隣ではなかなか立派なサイズだったと思われるこれまた焼きたてのお魚の切り身が香ばしい匂いを漂わせている。見た感じ、イワナやヤマメのような川の鱒系な感じだ。
その皿の端にはこじんまりと白い野菜、恐らくかぶか大根と思われる漬物が乗せられていた。たくあんかな、と気になり少しだけ指でなぞって口に入れると甘酸っぱい。
「おまちどうさま」
今ヴァルス湯父から差し出されたこれはどうみても味噌汁だ。完全に味噌の匂いだ。おおざっぱに切られた緑色の葉や茎が浮かんでいる。
「私は晩の食事は小食でひもじい思いをさせたかもしれないが、朝昼はきちんと食べるから安心してほしい。まあ今日の昼は難しいか」
確かに昨晩は塩味の効いた漬物となんか豚肉系っぽい味のする干物のスライスを軽くあぶったものを水で薄めたような味の日本酒で流し込んだだけだった。
10代20代の頃に比べ、食が細くなってきた俺の胃には十分だった。ユマルのだけど。
気持ちだけならとんかつやステーキの1枚2枚ぺろりと行けるはずなんだが実際食べると2枚はきつい。
さておき、あの時点で若干味付けが和風っぽいなとは思っていたが、目の前の朝食を見る限り完全に和食だ。ナイフとフォークではなく箸だし。
ごはんに主菜、副菜に汁物と一見完璧だ。ここが温泉でなければ大満足の朝食だ。
朝食と言えば、毎日半額の総菜パンとかバナナ1本、なんか投げ売りされている謎のお菓子とかを食欲もないのに流し込んでいた俺には勿体ないくらいだと、思う。思うのだが。
ここは温泉だ。明らかにもう一品足りないのだ。
「卵はないんですね」
自分でも若干驚くくらい悲しそうな声になった。俺って実は卵が好きだったのだろうか。最後に食べたのは多分2週間くらい期限が切れた卵の卵かけご飯だが。
「今日はないな。エッドスの息子が週に一度は何個かくれるんだが」
それもしかしてエッグス。今のシノギはニワトリなんですか親分。
「そっかあ……」
「ないものは仕方がない。食べたければ仕事が終わったら買いなさいね。いただきます」
「いただきます」
俺は手を合わせたが、ヴァルス湯父は胸と顔の間で握った手で空中に円を描くような動作をした。
俺の方をちらりと見はしたものの、特に促すようなこともなく食べ始めたので、俺も食べることにしよう。恐らくはユモリン教のいただきますなのだろう。
それより玉子だ。ないことはすでに分かっているのに机の上でついつい視線がさまよう。
もちろんおかず的に不満があるわけではない。これでもご飯二杯くらい食べられると思う。卵があったらもう一杯くらいおかわりできるというだけで。
普段から大食なわけではないと思うのだが、旅館とかで食べる朝ごはんはついつい食べてしまう不思議な美味しさだ。美味しかった。
ごはんから手を付けたのだが、少し柔らかめな炊きかげん。
最初かみしめた時からほのかな甘みを感じる。良い米だ。良い米は育った水も土も良いと俺のじいさんばあさんが言っていた。
土のことは流石に分からないが温泉が湧き出る村だ。さぞ水質は良かろう。なんなら温泉で炊いているまである。
「これなんて魚です?」
「イワーナ。珍しいかね? 本当に何食べてんだ君は」
それは俺が知りたい。いや、知りたくない。それに比べればイワーナとかいうなめ腐った名前など大したことではない。多分これヤマーメもいるな。
マスっぽい魚、もといイワーナは一口目は若干物足りなく感じたが、振られている塩の味を感じ始めるとじんわりとその身から優しいうまみもにじみ出てくる。
皮はパリパリに焼き上げられており、骨も取りやすい。表側を食べた後、裏側も半分ほどは食べ進めたが、後の半分はそのまま口に放り込んでしまった。
少し焦げ気味のヒレや尾の香ばしさと触感もまたよし。
味噌汁は赤みそに近い味だ。胃にしみいる。具は、おそらく漬物にした野菜の余った葉と茎の部分が使われているがアクやえぐみなどは全く感じない。
シャキシャキとして新鮮さを感じさせる丁度良い茹で加減。これだけでもおかずだ。ご飯は進む。
つけものも、これはこれで侮りがたい。焼き魚にしろ味噌汁にしろ、基本は塩味なのだ。そこで甘酸っぱい味付けの漬物を取り入れるとは、ヴァルス湯父は分かっている。
なんならこの2切れ3切れしかないつけものだけでも、ご飯を一杯食べられそうなのだ。味噌汁と焼き魚の間に挟む以上の価値がある。
うっかりもうすべて食べてしまった。困った。まだ食べたい。
「よく食べるな……」
「すみません」
実は3杯お替りした。温泉卵があったらもう1杯くらいなら食べられるとも思う。ユマルが悪いのだ。あと美味しいご飯も。おのれユマル。ヴァルス。
「すまんが、もうご飯が無くなってしまった。そこまで腹が減っていると思わんかったからな」
「自分でもびっくりしました」
正直かなり気分が晴れ晴れとしている。昨夜は温泉。今朝も温泉。朝食は美味しく、今日の予定もまた温泉。
巨大な虫達との戦いも待っているが温泉に入れるのなら大したことはない。絶対に殺すしてやろう。
「ご飯食べて、ひと休憩したら出発ですか?」
「ああ、イルたちも呼んできてくれるかい」
「いいですよ」
軽く返事したが、いや良くなかった。どの家にいるのかさっぱり分からん。待てよ、そういえば俺はこの服しかないんだが。このスーパー銭湯の館内着と斧で森に行くのか。
ちょっとそれはシュールすぎないか。近所の森に散歩と言えばそれまでの話だが、流石にこの格好でふらふらしてるのは定年を迎えたご老人たちくらいだろ。
子や孫の中学のジャージとか着てるレベルのやつだって。とてつもなく悪い想像しかできないユマルの家に行くしかないのか。ゴミ屋敷だぞ多分。
そういえばヴァルス湯父には”魂食らい”に襲われた話ってしてるんだっけ。記憶があいまいなので案内してもらえないだろうか。
「すみません、俺の家はどこでしたっけ」
「おいおい、ボケてるのかい――いや、そうか。”魂食らい”にやられたんだったな」
良かった。ちゃんとアーとイルが説明してくれていた。
熊や蛇、イノシシに猿といった動物さん達の代わりに、最低1m超えの巨大な虫さんたちと音もなく湖に引きずり込んでくるスライムさん、ついでに記憶を無くす系の攻撃を仕掛けてくる”魂食らい”さんがいる森。嫌すぎるな。
昨日は序盤の雰囲気とか思ったりもしたが雰囲気はともかく出てくるエネミーが凶悪すぎないか。
やっぱり健康ランドのリラックス上下に斧とかいうなめ腐った格好で行っていい場所じゃないぞ。
「”魂食らい”って割とポピュラーな魔物でしたっけ?」
「そんなわけないだろ。ボケてるのか」
ですよね。ボケてないっす。ユマルの記憶はさっぱりですが6歳くらいからの自分の記憶はちゃんと持ってます。最近の、主に働き始めてからの記憶は怪しいっす。
大人になるって悲しい事なんだな。高校くらいから悲しいって言うか楽しいことがなくなっていった気がする。
「確かにあれ自体は危険な迷宮指定の場所に限らず、どんな場所でも、それこそ街中ですら報告例があるが、やはりこんな田舎ではまずまずありえんような話だ。一説にはいたずら好きな精霊、あるいは悪しき心を持った精霊のしわざと言われるが、どうかな。単に精霊のご加護が薄くなって忘れっぽくなった年寄が”魂食らい”のせいにしている例もすくなからずありそうだし、正直街中の例は怪しいもんだ」
さりげなく自分を年寄の枠から外したなこの爺さん。エッドス親分は気持ち弱気だったし、髪の毛が無事だとこうも強気になれるのか。
「ともかく、私の生きてる中でこの村の近辺で”魂食らい”の報告を聞いたのは初めてだよ。どんな魔物だったんだ?」
「いや、すみませんが記憶がなくて」
「そうか……黒い霧のようなものともいわれるし、一目で分かる異形で、頭や胸に穴をあけて脳や心臓を食われるとも聞いていたが、イルが言うには今回は前者のパターンのようだな」
前者でよかった。後者は怖すぎるぞ。B級スプラッタなイカれたメリケン風味のホラーに出てくる奴だよ間違いない。
そんなB級モンスターを精霊と間違えた奴は何なんだ。この世界の精霊ってそういうのなのか。
悪堕ちのし過ぎだぞ。正気に戻ってサメ映画でも撮っててくれ。俺には近づかないでくれ。
「あの、それで俺の家は」
「そうだった、外に出よう。説明する」
**********
村の中で一番森に近い位置。
ユマルの家は、家と言うか悪い意味で文化財だった。なんならこの建物だけ屋根が、藁だか茅葺のだぞ。一人白川郷か。
戸はなく、いやあるんだがなんだろう。皮でできた、のれん。
北風ぴゅうぴゅう吹いたら俺は凍死すると思う。
ドワーフ差別だろこれは。なんだろう。よそ者を住まわせてやるだけ感謝しな! の感覚なのかな?
想像していた通りのゴミ屋敷ではなさそうだが方向性が違うだけで酷いことには違いない。
間違いではないのだろうが確認しようとヴァルス湯父を見たらもういなかった。
「イル達は私が呼んでくる」
気づけば遠くに居たもんだ。既に村の中に戻っていく途中の湯父。もうこっちを見てもいない。
仕方ないのでのれんをくぐるとなんだろう。然程きつくないがかび臭いような土の臭いのような。
あっ壁と地面の間に警告色の大きなキノコが生えている。そう、床もない。土間だ。
辛うじて植物系の材質で編んだと思われる絨毯、というかマットが広々と広げてあったが苔に侵食されている。
端の方に適当に置いてあるシーツをかけられた大きな塊はなんだろう。もしかしてベッドなのか。
その横には粗末な宝箱がある――は? いや、なんだ。宝箱だ。本当かよ。
ロールプレイングゲームでしか見たことない間取りだぞ。家具として宝箱。
財布はあの中なんだろうか? カギは?
なんだろう。ひどいな。
後は、申し訳程度に机は置いてあるが箪笥とか、キッチンとかトイレとかが見当たらない。ワンルームにしか見えないんだがどこなんだ。
野ぐそ立ション上等か。野生の獣だぞ。本気か。ユマルてめえ。
ダメだ、いけない。そんなことを考えたらこの夢の中で初めて催してきた。
便意だ。マジだ。ヤバい。夢なのに。これ起きてしまうんじゃないか。
いやだ、俺は露天風呂に入りたいんだ。
どこですればいいんだ。そもそもこの村トイレは何処なんだ。フロマエにはあったんだろうか。
かれこれ1日以上経ってんだ、強力な波動がお腹からおしりまで襲っている。5分も我慢できそうにない。
ひとまず出よう。ここではまずい。家の中はまずい。
のれんをくぐったら村の方からイルとアーを連れてヴァルス湯父が戻ってくるのが見えた。
家の外もまずい。
この状況では外で失礼すらできない。かといって我慢は限界だ! ジャスト1分!
森だ! 森に逃げよう!! うほほ! 俺は野生の獣だ畜生!
腹から上だけ気合を入れてよたよたと森へ向かう、とユマルの巣の裏手に工事現場やイベント会場で見かける程のサイズのでっぱりがあった。
それしかない! もうここにかけるしかない! そうだろ! そうであってくれ!
巣の入り口はのれんなのにこっちは扉だどういう感覚なんだ!?
かなり乱暴に開けると、木で組まれた台座があった。もちろん中には穴が掘られている。
不思議なことに巣の中よりも心が安らぐような臭い、いや、匂いがしている。
もうこれだよ! 間違いねーよ!
短パンの腰ひもを乱暴に抜いた。レディ。ゴムだったら伸びてしまっていたかもしれない。
ファイアした。助かった。昔ながらのウンチング・スタイルではあるが座れる便座があったらそれはそれでビックリする。
なにはともあれほっとした。水の音にしてはなんだか濁った音がするが、汲み取り式だからだろうか。
想像は無意味だ。もっときれいなモノを見たい。
ドンドン。
「ユマル―まだかー」
「あと5分待て!」
馬鹿野郎アーお前この野郎。お前も我慢できなかったのか。イルに遠慮しろ馬鹿野郎!
梅雨も過ぎ、夏場になってくると一部の絶景を誇る露天風呂でも虫が大量発生してつらい時期です。
守るものが何もない場所で噛んだり刺してくる虫と戦いながら入る温泉はおちつけませんね。
ただ人が居ない露天出来るということなので、首までしっかりつかってなんとか温泉を楽しみましょう。