露天風呂あってこそ温泉
滝だ。滝の音が聞こえる。俺は崖の上に立っていた。俺の目の前には髪の長い女性が俺を恨みがましい目で見ていた。
なんなら涙ぐんでいる。この女見覚えがあるな。なんで空中に立ってるんだ。落ちないのか。落ちないのだ。
だってこれは夢だからだ。そういえばつい最近こんな感じの女と遭って謎のアンケートを取られたような夢を見た気がする。というか同じ夢では?
全ての質問に脈絡なく温泉に入りたいだけで答えてやったような覚えがある。夢で夢を見ている。
「私が温泉です……」
なんか言ってるが意味不明。お前は温泉ではない。どこかのマイスターなのか。宇宙人と対話しててくれ。
明らかに自分でやる気はないくせに他人から用事を引き受けてきては押し付けてくるクソ親を見る目でなんか根暗そうな女を見ていると、女は「ひぇ」とますます涙を流しながら少しずつ消えていった。
ちょっと可哀そうだったかもしれない。ついでに滝を含め周りの景色も消えていった。下を見てみると、俺が立っていた崖も消えていった。
なんで空中に立ってるんだ、と思う瞬間もなく俺は落ちていった。下は水面が見えるが、この高さからではたたではすまなさそうだ。恐怖は感じない。夢だもの。
いやまて、湯気が上がっている。下の水面は温泉だ! これでこそ俺の夢だ! ガタン!
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俺はスネを抑えて悶えていた。痛いからだ。夢の中で落下したり、そこまでいかなくとも足を踏み外したりすると急にビクンとなるやつだ。
反動で近くにあった低い机の脚にぶつけてこのザマだ。無様すぎる。
「なにやってんだ」
開けっ放しの入り口から顔を出したイルの爺さん、もといヴァルス湯父があきれた様子で俺を見ている。
ここはフロマエの中の休憩室。俺はユマル。名前だか苗字だか知らないが。
風呂から上がったほぼ全裸の哀れな俺は、湯父様に救いという名の服を求めてなんか品質の悪い上下をもらった。10トーだった。ユマルの財布は何処にあるんだろう。今現在全てツケの状態なんだが。
10トーの服は、健康ランドでレンタルできる半袖短パンをすごくごわごわさせたような見た目と着心地だが1時間ほど前まで身に着けていたゴミと比べればかなり文明を感じる。服だけなのでノーパンだけど。
念願の温泉に入り、更に文明を感じたことでほっとした俺は早速10畳ほどの休憩室を見つけ横になったんだった。
床板ダイレクトだったが余裕で寝れた。秒だ。身体は痛い。たたみをくれ。
しかし夢の中で夢を見るとは。起きても起きても夢の中か。まあ夢の中で一生を過ごしても起きたら1時間も経ってなかったとかそういう昔話もあるしな。
今がそういうやつなんだろう。初めてで明晰夢をここまで成功させるのも凄いな俺。思うように目覚められないのは成功か失敗か良く分からないけれど。
「起きたのなら少し話を聞かせて欲しいんだがいいかね?」
「その前に水を一杯」
温泉に入った後に水分補給を欠かしてはいけない。入る前に1杯、入った後に1杯が望ましい。
入る時間にもよるが、湯船で流す汗は思っているよりずっと多いのだ。群馬の温泉名人がテレビで言っていた。
ちなみに座るでもなく立つでもなく横になれとも言っていたので温泉上がりに疲れて眠るのは正しいと自己弁護しておこう。
「机の上に置いてある」
机の上にはヤカンがおいてあった。流石に野球部とかが使ってそうなやつではない、ちょっとおしゃれな洋風な感じのものだが。
木のコップもあったので注いで飲むと、もう、とても美味しい。この瞬間だけはビールを超えている。
3杯ほど飲むとようやくのどの渇きが収まった。ヤカンをほとんど空にしてしまった。
「後で井戸からくんでおいてね」
かなりセルフ式。お安い御用だ。銭湯、もといフロマエを一人で切り盛りするのは大変だろう。
俺は風呂に携わるすべての人間を敬うつもりがある。
「それで、イルやエッドスから聞いたが、波もどきが出たと」
「はい」
「精霊の泉に現れて、君が倒したと聞いたが」
「多分」
「ふうむ」
何かまずかったのだろうか。倒すとか倒さないを判断できる状況ではなかったんだけど。
そもそもこの夢の世界の常識が今一つ分からない為、どの部分がまずかったのかの判断もできていない。
「波もどき……まあスライムと言えど魔物が精霊の泉に居たのも信じがたいが、波もどきを倒せたのも不思議だ。あれは本来倒せない類のものなのだが」
「そうなんですか。まあ確かに俺は死にかけましたが」
実際これ死んだらどうなるんだろうか。さっきの夢の温泉ダイブはまるで死ぬ気がしなかったが、森の大きな仲間たちや波もどきに襲われたときはやばい感じがあった。
やはり夢の中で死んだら現実でも死ぬタイプの悪夢なのか。
ここまで来ると別の世界に転生という線も考えないわけではないがそれにしてはこの世界はふざけすぎている。
どちらかと言えばまだ俺の夢の方が納得できるんだよな。なんだ神様の名前が扇風機って。
「そもそもスライムというのは魔物にして魔物にあらず。古い考え方ではあるが、私はユモリーン様の眷属という説を信じているんだ」
「ええ」
あいまいな返事にとどめたが俺は若干引いている。スライムをありがたがっているのかこの爺さん。やっぱり狂った信者の方なのだろうか。
「いや、気持ちはわかる。正直同じ湯父母仲間、信者たちの中でも世間一般でもだいたいは魔物の一種と扱うのが現在は主流だからな。しかし」
どうも何かのスイッチが入った感じがある。また話が長くなりそうだな。
「しかしだ。波もどきは基本的に水辺にすみつくが、これは水を守っているという見方もできる。粘体状の体を持つ、いわゆるスライム類に属する仲間には、例えば死体食いなど、環境に対して有益なものも多い。そもそも我々の快適な風呂生活に欠かせない石鹸だってスライムから取れる素材を使用している」
「えっ」
「なんだ知らんのかね。常識だぞ」
「常識とか言われても困る」
道理で透明なわけだ。あれスライムかよ。石鹸じゃないじゃん。スライム鹸じゃん。語呂悪いな。
「石の要素がないんですが」
「スライム鹸じゃ語呂が悪いからね、そこは流さないと」
風呂だけにか。やかましいわ。いかん、この爺さんと頭の中身が同レベルだ。悲しくなる。
待てよ、この爺さんも結局俺の夢の中の人物ということは俺そのものなのでは――やめよう、この考えは危険だ。
「スライム石鹸かあ」
「頭髪用、体用の他にもリンスやコンディショナー、服を洗うのも皿洗い用のもほとんどスライムの体液だぞ。今更気にしたってどうもならんよ」
スライムとはいったい。この世界の洗剤全部スライムじゃん。
「故にだ、スライムは清浄なることのシンボルという考え方だな。そしてそれは我々が体を清める湯水の大精霊たるユモリーン様の領域にあるもの。つまりスライムはユモリーン様の眷属ということになるのだよ」
「一理あるな……」
「だろう!」
しまった、同意してしまった。仲間を見つけたと思ったのだろう、かなり爺さんのテンションが上がっている。駄目だ、引きずられてはいけない。そうだ。
「それなら、波もどきがユモリン様の泉に居るのはむしろ自然になるんじゃないか?」
「そう思うのは無理もないが、知っての通り温泉は自然界に存在する中でもっとも魔力がこもりやすい液体だ」
知らないが。
「例えば、コップ1杯のスライムとコップ1杯の温泉があったとして、この二つが持つ魔力量は温泉が勝る。だからスライムと温泉では温泉の方が魔力が強いんだ。ということはだよ、温泉にスライムを入れるとスライムは温泉に負けてしまうということになる」
「なるほど」
「だから、温泉にスライムが住み着くというのは本来あり得ないのだ。短時間なら対抗できるだろうが、だいたい半日も持たずに温泉側に負けてスライムは溶けてしまう」
「なんとなく理屈はわかりました。だけど、確かに波もどきは温泉から現れた。ということは、あれは来たばかりの波もどきだったか、別の理由……例えば汚染されているってことですか?」
「そうだな、ここ数年確かに水が濁りやすくなっている。井戸水を飲んで腹を壊すものや病気になるものが明らかに増えた。ユモリーン様のご加護を賜ったこのフロマエの湯すら、いや、この村に限らず各地の温泉でもだ」
「井戸水っていうか、生水を飲んで腹を壊すのは普通じゃないんですか?」
「馬鹿を言うな。たとえ生水とてそれが湧き出たばかりの、あるいは流れ続ける新鮮な水であればありえん。水はユモリーン様の賜物。いや、逆に加護が強すぎて腹というか、体調を崩すということはあるが……」
この国の水はそれほど綺麗なのだろうか。魔法とかある設定のようだから水に含まれるとか言う魔力量が何か濾過的なことをしてくれているのか。
魔力を含む水。微生物や有害物質は死ぬとかだろうか。
「それにしても今まで飲めていた水が飲めなくなる、あるいは温泉ではなくただの水に変わるという事例が一部ではなく広範囲で起こっているのは事実で、ただ事ではないよ」
ヴァルス湯父はそう言って難しい顔をしている。そして自分の手のひらで額を一定の間隔で打ちながら話をつづけた。
「原因は分からないが、それでも対処は出来たのだ。単なる水であれば温泉を、下位の温泉であるならば第6位以上、中位以上の温泉から湯を頂き、悪くなった水に注げば浄化は出来た。しかし、その中位であるところの森のユモリーン泉が汚染されたとなるともはや上位級の温泉から力を借りるより有効な手段は思いつかん」
温泉にもランクがあるのか。分かりやすくはあるがなんだか風情がないような気もする。正直ランクは上なのかもしれないが、あの森のユモリーン泉はぬるすぎて温泉としてはちょっと物足りない。いや、景色は間違いなく良かったのであれで温度がせめて38度ほどもあってくれればかなり個人的なポイントは高いんだが。
「そういえばユマル、君、どうやって波もどきを倒したのかな?」
「死んだふりしたらなんだか核っぽいのが寄って来たので斧で割りましたが」
「核……?」
「なんか緑色で明るくなったり暗くなったりする玉が」
「聞いたことがないな。だいたい死んだふりというのは?」
「いや、まず泉に引きずり込まれてジタバタしてたらその玉が近くに居て、多分それが本体なんだなと思ったのでダメ元で死んだふりしたら寄ってきたんですが」
「じゃ、君あの泉にまともに浸かったのか?」
「まあ」
「それで身体は何ともない?」
「まあ」
俺の説明が下手過ぎて伝わらないのか、ヴァルス湯父は目を閉じて考え込んでしまった。
なんだろう。やっぱりランクが高いだけあって強い温泉だったのだろうか。まあ温度が高ければいい温泉と言うわけでもないしな。
放射能泉なんかも、万病に効くとされていながら日本で最強クラスのものは無味無臭な温泉らしいし。行って確かめてえなあ。
「やはりドワーフの血は温泉に強いのだな。私達なんかがつかると、どれだけ軽くとも頭痛くらいは起こすと思うが」
「強く当たりすぎて? だからいい温泉なのに使われていないのか……」
「まあ、大体人間が使えるのは下位の温泉ばかりだな。かなり強い者で第6位までだろう。それ以上だと魔力的や身体能力、その他特異能力はともかく癒すどころか体を壊す」
「ちなみに湯父は第何位まで挑戦したんです?」
「ああ、私は若気の至りもいいところだが第3位まで……って何を言わす。今のは聞かなかったことにしてくれ!!」
単なる興味で聞いてみたがこの爺さんやはり温泉マニアだな。どのくらいか分からないが、世間ではドン引きの挑戦なんじゃなかろうか。
まあ俺も体を壊すことを承知したうえで強力な温泉と聞けば入ってみたくはあるので同じ穴の狢だが。
そんなことを考えているのが読み取れたのか、ヴァルス湯父がありがたい忠告をくれた。
「やめておきなさい。1分どころか30秒も持たなかったはずだ。腰まで入ったところで意識を失って死ぬかどうかのところだったぞ」
「そんなに」
もはや毒泉では。温泉の効能が強ければいいってもんじゃないだろう。やはり癒し。癒されてこそ温泉。
だが体には悪いであろうクソ熱温泉に短時間入ってスッキリと言うの全く否定はできない。むう。これは体験してみるしかない。
「それはともかくとして、波もどきは退治例こそ聞いてるが核なんてきいたことがないな。類似した別の魔物か、新種なのか。はたまた見間違いか」
「似ている魔物はいる? でも、どっちにしたってスライムの仲間でしょう?」
「いや、うーん。正直思い当たることはないな。そもそもスライムの核ってなんだい。内臓なら分かるが」
「えっ」
「えっ」
内臓。スライムに内蔵。内臓なんてないぞう。いや、あるの? だって透明じゃない?
「内臓って心臓とか、胃とか」
「まあ、そういうのだ。もちろん、我々のとは見た目がだいぶ違うが。しかしまあ、変色する玉が一つと言うのは一般的なのとは随分と違うな」
違ってよかった。あの時周囲に心臓とか脳みそとか腸とかがぐるぐると浮いてたら流石に気持ち悪くてダメだったかもしれない。
ゲテモノはいかんよゲテモノは。
「なんにせよ、様子を見に行かないとね。上位から下位への浄化作用自体は生きているようだし」
「俺ももう一度行こうと思っていたんだ」
恐らく行きたい理由は別だ。俺は露天風呂に入りたいんだ。内風呂も良かった。長年人々を癒し続けた年季の入った共同浴場は素晴らしかった。
久しぶりの、念願の天然温泉というだけあって満たされた感があった。
だけどそれはそれ、これはこれ。やはり温泉と言えば露天風呂は欠かせん。どちらも備えてこその温泉旅館だと思う。
綺麗に整えられた職人技の粋を凝らした人工的な美しさの内風呂、そして職人技ではどうにもできない雄大な山や清らかな清流、生き生きとした緑。
この両方を味わえてこそ温泉。勿論内庭の美しさを否定しない。ただ、今は行ける範囲に森の中の露天があるのだ。行ける時に行かねば。
「それは助かる。丁度護衛を頼みたかったんだ」
「出発はいつだ?」
「明日」
よし。いや、良くなかった。俺ってどこに住んでいるんだ。見てくれはともかく職業がホームレスからチェンジできていない。
流れ者とはいえ年単位で暮らしているんだから家くらいは持っているのだろうか。そうだよなユマル。そうだと言え。
水で喉を潤したあたりから腹も減って来たぞ。やはり人間正しい生活を取り戻すと食欲も出てくるのだ。
こいつ普段何を食べていたんだ。まさか野生児よろしく蛇や蜥蜴がご馳走とかじゃないよな。せめてそこまでにしてくれ。
芋虫はとてもクリーミーとか言うのはSAS上がりの冒険野郎だけにしてくれ。死んでしまいます。
待てよ。仮に家を持っていたとして、このホームレス野郎の家はどんな状況なんだ。控えめに言ってとっても素敵な汚部屋しか想像できない。
俺もそこまで整理整頓出来ちゃいないがユマルの場合蜘蛛と対を成す黒きGとお友達であっても全く不思議がない。嫌だ。俺は綺麗になったんだ。
少なくとも今日はそんな部屋で眠りたくない。
「ここって24時間営業ですか?」
「24時間営業だよ」
24時間営業なのかよ。やはりここは俺の夢だ。ファンタジー世界で24時間営業なんて単語が通じるわけがないだろ。
「お食事は」
「まあさっき風呂場でも言ったが、簡単なモノなら――この時間になってくると私と一緒の食事になるが。そもそもこの村に食堂や宿などフロマエ以外にはないぞ」
ハナから選択肢はなかったのだ。もう俺ここに住むわ。
「君が風呂に入ったのもそうだが、ここで食事をしようと言うのも初めてのことだな。なんなら村の中で食材を調達してるのもたまにしか見なかったが、普段は何を食ってどうやって生きてたんだね?」
もう俺ここに住むわ。
「まあ良いか。愉快で、めでたいことだな。お祝いにすこしだけなら酒も分けるが当然飲めるだろうね?」
あざす! ヴァルス湯父あざす! お酒あざす! 多分朝風呂もあざす!
ファッキュー現実! 起きてもまたこの夢の中で目覚められますように。俺は露天風呂に入りたいんだ。
作者は5時前後からだらだらと空の開けた露天風呂で朝日を迎えるのがとても好きです。
入って居て寒くない程度の湯温であれば1時間くらいは楽に過ごせるので、空の色が変わっていくのを見ながらだらだら過ごす時間は幸せです。
海でも山でも、自分のベスト露天を探すためにも温泉に入りましょう。