単純ユモリーン泉(前)
ユモリーン泉ってなんだよ。それは泉質分類の一項目なのか?
温泉にはいろんな種類がある。時代によって名前が変わったりしていたこともあるようだがこんなカタカナのはモール泉以外にあったっけ?
俺が知らないだけでそんな泉質、あるいは別名が存在していたのだろうか。外国版の名称か? そうかもしれない。
だって無類の風呂好きだった爺ちゃんだったらともかく俺は所詮ネットで知識を仕入れていただけの温泉素人なのだから。
俺の夢のくせに俺より詳しいとは畜生。教えてください。
「ユモリーン泉ってなんだ?」
「ユモリーン泉はユモリーン泉でしょ。え、これも覚えてない?」
覚えていないというか知らないの。俺は今きっとなんとも言い難い情けない顔をしている。
「ユモリーン様の力が強い精霊泉がユモリーン泉ね。効能は疲労と魔力の回復とか」
「効能もちゃんとあるのか。……低張性とか酸性とかアルカリ性とかも、もしかして?」
「丁重性……?」
今度はイルが困った顔をしている。俺たちは何を言い合っているのだろう。
「スライムがいたから酸性ってことか……? でもアルカリってなんだ……?」
アーも何か考えている。俺たちは三人寄っても文殊にはなれないようだ。
「あ、もしかして」
はい、イルさん早かった。正解なるか? 何が正解かしれないが。
「丁重かどうかは知らないけれど、正式な泉質のことならここのフロマエと一緒だと思う」
「ああ、なんかこまごまと書いてあるやつか。波もどきが出てるくらいだからもう変わってんじゃね?」
「そうかもだけど」
泉質表もちゃんとあるのか。正直見てもそこまでわかるわけではないが。いや、全然わからないが。
それでも酸性かアルカリ性かを分けるPH値とか、一般的に温泉成分といわれるメタケイ酸がどのくらいとか簡単に何が書いてあるかくらいはわかるぞ。
でも泉質って魔物とかで変わるのか? 地震とかで温泉が出なくなったり泉質が変わったりはあるらしいけれど。
「フロマエってもしかして銭湯みたいなものか? あー、お風呂か?」
「ええ、大きなお風呂となんか暇な村の人が集まってたりとか精霊様を祭ってたりとかそんなところ」
「どこの村にも絶対あるし、大きな町ならいくつもお風呂があるでっかいフロマエもあるな」
温泉旅館も薬師如来とか少彦名だとか、温泉の守神として小さなお社を持っているところもあるみたいだからな。銭湯と神社と公民館の複合施設か。
「村長やおじ、じゃなくて湯父様湯母様が勉強とか教えてくれるよね」
「怪我しても風邪ひいてもいくな」
学校も病院も兼ねてるのか。欲張りすぎだろ。ゆふさまゆぼさまってなんだ。
「結婚したり子供が産まれたり何か手続きがあるときもフロマエかな」
市役所まで。もうそこまでいくならあるのか分からないが銀行もつけてくれ。あと飯屋とホテル。スーパーウルトラハイパー銭湯だ。
市役所に行ってお金下して健康診断受けてそのまま風呂入って酒飲んで終了だ。大勝利感があるぞ。露天風呂もあるんだろうか。サウナは?
「ふ……ふろ、まえ? 行っていいか?」
「もうそろそろ準備できてるだろうし、行ってみっか」
「ええ」
そうか。初めからその予定だったんだな。ちょっとワクワクしてきた。
ようやく、ようやく風呂に入れそうだ。待ちに待った温泉だ!
**********
フロマエは、思った程の大きな施設ではなかった。スーパー銭湯を想像しすぎた。
通りすがり見てきた中では村の中では一番大きいようだが、何階建てもあるような大きな建物ではなく、2階建て、民家2軒から3軒ほどだろうか。いや、3軒はないかもしれない。
ちょろちょろと水の流れる音が聞こえ見ると建物から小さな用水のようなものが掘られて村に流れる小川に繋がっている。下水もなさそうだし排水してるのだろうか。環境汚染は大丈夫なのか。
まさかビールまで飲めるとは思っていなかったが、この様子では露天風呂やサウナは期待できない。ワクワクがワク程度になった。
お風呂の大きさも良くて4、5人が入れる程度の浴槽が1つあればいいんじゃないだろうか。昔連れて行ってもらった古びた銭湯が思い出された。お湯もくそ熱い。43度くらいだったきがする。今なら頑張れると思うが当時ガキンチョだった俺にはきつすぎる。うちの爺ちゃんやその風呂仲間たちは平気で入っていたが人間をやめていたのだろうか。
「ごめんください」
中に入ると番台があった。日本でも令和に突入した今となっては、なかなかお目にかかれる銭湯は少ないんじゃないだろうか。
「まさかと思ったが本当に来た」
番台に座っていた老人が軽く目を剥いて挨拶をしてきた。とんだご挨拶だが。ユマルめ。
「自分でも我慢できないくらい臭くなった」
「もっと早くに気付いてほしかった」
素直な気持ちで回答すると3人からお返事をいただいた。後ろにいたアー君もA子さんもタイミングを合わせてきた。
なんなら俺自身も同意していたのでこれはもう仕方がない。ユマルめ!
「ちなみに風呂に入るルールくらいは知っているね?」
知っている、と言いかけたがもしかすると俺の常識とはかけ離れているかもしれない。
「故郷のとは違うか?」と言ってみるとなぜか嬉しそうに老人が「よし!」と言った。
若干後ろの二人からもの言いたげな雰囲気がしたが振り向いて様子をうかがう暇はなかった。
「まあ簡単な説明ではあるんだが、まずはユモリーン様にお祈りを。ああ、別に口に出してまでしろとは言わないがちゃんとお祈りはしなさいよ。でね、まずはかけ湯というものをする。これは全身くまなく、あー、指先、あるいは足先から体の中心に向かってするのが良いんだけど、まあ厳密に順番は決まってない。しかしまあ特に汚い部分は」
一旦じろりと俺を見てきた。ついで俺の下半身に目を落として、体の隅々まで目を走らせてからすぐに続きが始まる。
「いや、君の場合は絶対に体を洗ってから入ってくれよ。湯が汚れる」
「大丈夫です、分かってます」
「まさかと思ったがちゃんと言葉がつかえたのか」
さすがにそれは馬鹿にしすぎでは。差別か。ドワーフっぽいから差別なのかと口に出しそうになったがもしかするとですます調で喋ったことに対する驚きなのか。老人の表情からするとそれっぽい。
年上に対してすら丁寧語で喋らなかったユマル。いやアー君もそうじゃないか。ウェイ族め。
「まあいいや。ええと、そう、タオルや石鹸は持ってなければ1トーで貸せる。3トーで買えるが今回は貸し出しはなしだ。君の後のをだれも使わんよ。買ってね」
「でしょうね」
分かってるのならなんで風呂に入らないんだという顔をしている。俺が聞きたいんだ。ユマルに聞いてくれ。トーってなんだ円的な単位か?
「入浴料は?」
「入浴料? そんなもんはこの国ではとらんよ。風呂に入れるのはユモリーン様が人間に下さった権利だろうに。君の国では違うのかい?」
なんてこった無料で銭湯に入れるのか。ありがとうユモリン様。今日からあなたの信徒です。
「でも寄進なら受け付けるよ」
ユモリン様はともかく番台のじいさんはなかなかちゃっかりしているようだ。
「お爺さん、神父さん?」
「新婦……?」
じいさんは怪訝な顔をしていた。俺も怪訝な顔をしてみたがそういえば神はいなくて精霊なのだったか。
「おじいちゃんは湯父だよ」
「ゆふ……」
さっきのか。湯布院とは何の関連性もないのだろうな。多分。
「湯父も知らずにフロマエに来るとは良い度胸だな若造。……若造でいいのか?」
流石に目の前のご老人より年齢が上だとは思いたくないのだがどうなんだろうユマル。俺個人としては目の前のじいさんよりまだ若いつもりなので頷いておいた。
「まあいい。湯父というのは大精霊たるユモリーン様より温泉を預かり管理しているものだ。女性であれば湯母だな。我々はこのフロマエにある風呂の管理はもちろん、フロマエがある各区域の温泉信仰を司り、また、人々にその教えを伝えるものでもある。」
「信仰を持たなければ風呂には入れない?」
俺にとって大事なことは温泉に入れるかどうかだ。それなんだ。よほど面倒でもなければ信仰してもいい。
神社に行ったら2礼2拍手、お寺に行ったら手を合わせて南無阿弥陀仏、教会に行ったら十字を切ってアーメン程度の決まりまでならいい。
週に一回教会で祈りを捧げたり坊さんを迎えたりになると面倒くさいのでご免こうむりたい。無断で温泉には入らせてもらう。邪魔をするな。
「そんなことはない」
そんなことはなかった。よかった。言ってることは堅苦しそうだが懐は深い良い宗教だ。
「湯につからずして湯の良さなどわからんし、湯に入ることがつまり湯霊を信じていることにもつながる。口で信仰を語るより余程信仰に篤かろうよ」
「おじいちゃん」
イルが口をはさんだ。どうもこの老人イルの肉親のようだ。
「いや、うん。私の考えだが。」
こほん、と若干息をついたイルの祖父。様子を見る限りやばい宗教ではなさそうだな。
「しかしまあ、今までその湯から遠ざかっていた君の立場は微妙だったからな。これで私も村も一安心。これからは三日に1度でいいから、いや本心で言うなら毎日入ってほしいのだが」
「むしろ毎日入らない奴がいるのか?」
しまった。今のは失言だ。お前だろと言わんばかりに殺意すら感じる視線が俺を刺している。特に仲間である若者二人から。ユマルめ!
「毎日入ります」
「よろしい」
「朝昼晩入りたいくらいです」
「結構だが入りすぎは逆に良くない。3度までにしておきなさい。この村のフロマエの泉質ならそう強くも当たらんだろうが他のところでは下手をすれば1度で強く当たる」
そうだ、泉質だ。イルのじいさんがこの風呂の経営者、ならぬ湯父とやらなら間違いなく泉質にも詳しかろう。
「ここのお湯は単純ユモリーン泉と聞いたけれど」
「その通り。まあこの国でも一番多く存在する泉質でそう面白みはないかもしれないが」
「おじいちゃん?」
またもや孫娘から突っ込みが入った。この爺さんもしかすると俺の爺さんと同類の温泉マニアでは。信心深さと言う点ではまだイルの方が上のような気もする。
「いや、うん、まあもっとも多くの人から愛される泉質だな。戦士や魔法使いが好むような強い効能こそないものの、誰でも入れる湯だな」
聞く限り単に単純温泉のことを言い換えているだけに聞こえるな。単純温泉は日本でも一番多くある泉質で、まあぶっちゃけ普通のお湯とそう区別はつかない。らしい。
温泉というものの、ほとんどが匂いもせず色もついてない。このじいさんの言う通り面白みはないかもしれない。
ただまあ、実際に入ってみると湯冷めをしづらかったり肌触りが若干違ったりするものもある。
令和を迎えた日本ではこの単純温泉を含めた10ほどに分けられる温泉の泉質だが、温泉を分類する上での成分、塩分だったり鉄分だったり、特殊なものでは放射能だったりが足りないものはすべて単純温泉なのだ。ネット調べ。
「酸性でもアルカリ性でもないんだな。中性の単純温泉、いやユモリーン泉か」
「うん?」
じいさんは良く分かっていないようだ。それとも耳が若干遠いのだろうか。
いや、アー君とイルさんの説明通りなら見た目少し薄くなっているが青みのある髪だからまだ死にそうにもないはずなのだが。おボケになっていらっしゃるのだろうか。
「ここの温泉は酸性でもアルカリ性でもない、本当に単純ユモリーン泉なんだろ?」
「君の国の分類か?」
「うん?」
俺は良く分かっていないようだ。おボケにもお迎えにも早すぎる。もしかして酸性とかそういう区分も別の言い方なのだろうか。スライム性とかか?
「正式に言うなら弱体力性第8位の単純ユモリーン泉だ。誠に残念ながら特殊な効能はない、オーソドックスな温泉だ」
「なんて?」
「弱体力性第8位の単純ユモリーン泉」
「じゃくたいりょくせいだいはちいのたんじゅんゆもりーんせん」
俺は良く分かっていないようだ。もはや別の言い方とかの違いではない気がする。かろうじて、「いったいどんな効能なんだ?」とお返事ができた。良くできました、と自分で自分で褒めておく。表情はこの夢の中に来てから一番のマヌケ面だと思うが、もじゃなヒゲとヘアーでカバーできている。できていろ。
「体力性というからには体が強くなる、と言いたいところだが中位くらいならともかく下位の泉質だから精々で傷の直りがうっすらいい程度だよ。まあ肌にうるおいくらいは生まれるかもしれない」
「へえー」
「まあ心が安らげば魔力も多少は回復するだろう」
「ふーん」
「なあ、もしかしてこれまだ話が長くなるか? 俺たちはもう帰っていいよな?」
「私も一旦着替えてきたいんだけど」
段々と話が長くなってきたところでアーとイルがしびれを切らしたようだ。確かに。俺も自分の想像とあまりにかけ離れていたせいでちょっと良く分からなくなってきた。
一旦温泉に入ってリセットしよう。今はまだ目が覚めなくていい。最低、風呂に入らせてくれ。
「俺も風呂に入りに来たんでした」
「おお、そうだな。そうしなさい」
まだ話足りないかと思ったが、じいさんは二つ返事で解放してくれた。良かった。
「風呂場はそこをまっすぐ行ったところだ。ほかに客は来ていないから今までの分までゆっくりとな」
「1時間くらいかな」
「入りすぎだ、死んでしまうぞ」
そう言って老人はえっちらおっちらとどこかへ行ってしまう。一人で切り盛りしていることはないだろうが複合施設らしい銭湯だ。忙しいのだろう。
しかしたかが1時間で大げさなことだ。当然のように長風呂派になってしまった俺には丁度いいくらいだしもっと長い奴もいるだろうに。
泉質はいまいち良く分からないが、ようやく天然モノの温泉に入れるのだから1時間くらいは勘弁してほしい。
**********
風呂場は脱衣場と一体化しているようだった。
ロッカーらしき木の枠が10ほど壁に並んでおり、そこから歩いて10歩も歩けば予想通り、詰めれば5人ほどはなんとか入れそうな小規模の浴槽がある。
というかこれどことなく見覚えがあるな。長野などではよく見られる昔ながらの共同浴場にひどく似ている。似ているだけでどことなく違和感もあるのだが。
湯の吹き出し口に置かれている像とか仏像とかじゃなくて明らかに西洋の神っぽいやつだし。なんだろう。これがユモリンなのか。
大きく深呼吸すると何の匂いもしなかった。じいさんの説明通り、無味無臭の単純温泉のようだ。排水溝から漂う不快な臭いとかもなかったのでよしとしよう。
さて、体を洗ってから――。
「あ」
しまった、石鹸もタオルも買い忘れた。本当にしまった。よく考えるとえっちらおっちらどこかへ行ったじいさんは俺用のお風呂セットを取りに行ってくれたのでは。
認めたくないが俺は多少おボケになってしまっているのかもしれない。いやユマルのせいだ。この体が悪いのだ。俺はおボケには早すぎる。
どうしよう、既に俺は全裸いわゆる素っ裸なのだが。もう一回今脱ぎ去ったこのボロ布、もといゴミを着ろというのか。
いったいいつからずっと着ているのかもしれない、風呂すら入らなかったホームレスが来ていた、おまけにキモすぎる虫の体液も吸った、もはや形容できない悪臭を発しているこのゴミをいやムリだ。無理無理絶対無理。もう二度と着たくない。なんなら自分で捨てるのすら嫌だ。俺は今から風呂に入って真人間に戻るのだ。この後服がない事にも気づいているが嫌だったら嫌なんだ。絶対嫌。
よし、忘れよう。俺は考えたくないんだ。悩みたくない。世界的に有名などこかの社長も選択することはストレスを伴うとか言っていた。
ひとまずかけ湯をしよう。きっと優しい青い髪のおじいさんがタオルとか石鹸とか届けてくれる。よく考えたらこの夢世界のお金ももっていないような気もした。トーって何円なんだ。
ああ、でも気のせいだ。とりあえず元気が出てから考える。青い髪のおじいさんって考えてみるとかなりファンキーだな。ふふふ。
重ねてある木の桶を一つ取り、湯をすくう。温かさに触れた指先から幸せを感じる。そして肩から流す。本来は手先や足先から流すのが正しい湯のつかり方だ。
身体の先端から徐々に慣らすのだ。肩からかけるのはユミコ・スタイル。テレビで見た温泉名人が言っていた。
しかし今は爽快感。やはり生まれたままの姿で浴びる湯は心地よい。たまらず何度もかけゆをした。胸に。頭に。股にも。でけーなこいつの。ユマルめ!
かけ湯は特に43度を超えるような熱いお湯、あるいはサウナ上がりの冷たい水風呂に入る前には必ず行いましょう。
長野の野沢温泉の大湯や横落の湯のあつゆなど一部の熱湯チャレンジではかけ湯をしても厳しい物があります。
熱さに耐えながら温泉に入るのもまた良い物ですが健康には気を付けましょう。