この泉温かいぞ
幸い、桁の違うデカさのバケモノ蜘蛛にも恐怖心はなかった。いや、怖いは怖いが怒りが先だった。気色悪い虫が俺の前に出てくるんじゃない。
生存本能とか言うやつかも。どれだけ虫に対しての殺意があるのか、自分でも若干引く。これがクモではなく熊とか狼だったら間違いなく身がすくむ。怖い。
しかしまあ、殺意はあるにしても、どうにも不自由で斧を投げつけることもできない。汗が出てきた。かろうじて右手は動かせそうだがそもそも斧が手にない。足元である。
≪ユモリーン・ファス≫
イルの声が聞こえた。
≪セレクト≫
いよいよ蜘蛛が全身を現し、俺に迫ろうとした頃。彼女が鋭く発した声とともに杖先の青い石が光り、そこから少し離れた何もない空間に握りこぶしほどの水が球状に現れる。
すぐに水球はバレーボール、あるいはバスケットボールほどの大きさになり、勢いよく蜘蛛に向かって放たれた。
魔法だ。
驚いた。当たった。蜘蛛の動きは止まった。
これで蜘蛛はお陀仏かとも思ったが輪廻の輪に戻るどころかすぐに動き出した。意味なし。せめて視線くらい動かせ。
「死ね!」
俺の感情の発露ではなくアーが剣を引き抜き蜘蛛にとびかかった掛け声だ。
やったな、初めて冒険者らしい頼もしい姿を見た。
垂直飛びっぽく飛んで剣先が蜘蛛の足の先をかする。微妙にカッコ悪いがカッコいいぞ、もう一歩だ。
蜘蛛は一瞬後ろに引いて、アーの方を見た
「うぇ」
アーは怯んだ。完全にカッコ悪いぞ、だめだこいつら。早くなんとかしないと。
クモとアーがにらみ合いをしている内にどうにかしゃがんで斧を拾わねば。
≪ユモリーン・ファス・セレクト!≫
彼氏の危機にイルが先ほどの水鉄砲を食らわせた。意味なし。水を使うならせめて腹側を狙え。
虫は大概腹で呼吸をするんだ。デカさに見合ってないから無理だろうか? 洗剤を混ぜてやるか熱湯にすると殺傷力はあがるぞ。
だがその間になんとか斧に手が届いた。慌てて体に繋がる糸を斬る。いやなかなか斬れない。
この野郎なんてしつこさだ。糸を伝わって獲物が逃げ出そうとしたのを感知したのか、アーとイルに気を取られていた蜘蛛が俺に向きなおして迫る。
人間の頭の2倍、3倍もありそうな頭が近づいてきた。
手を広げたほどの大きな目がいっぱい並んでいる。キチキチと声が聞こえる。
蜘蛛はバリバリムシャムシャと獲物を食べたりしない。獲物に消化液を流し込んで、中身をぐちゃぐちゃにして吸い取るのだ。確か。
この野郎おれは死なないぞおれは。仕事で疲れ果てて死ぬとか寝ている間に心臓発作とかでならまだしもこんな死に方は夢の中であれ絶対に絶対に拒否する。
もう目が覚めてもいいころでは? 蜘蛛に水が当たる音がする。未知の現象に対する反射なのか、俺の手が届きそうな近さで3度目の硬直。今だ。
俺は恐怖も何も忘れて力の限り斧をクモの目に叩きつけた。震えるような奇妙な動き。絶対に殺す。温泉に入るんだよ俺は。
やったかどうかも考えず、クモの目を全部潰す。潰した。
「あああー!」
微妙に情けない声がする。
俺か? アーか? 分からないが、分かりやすい目という目標を失った俺はもうやたらめったら斬りつける。
液体っぽいものが飛び散っておれにあたる。肌に当たるとちょっと痛いが化け蜘蛛はまだ動いている。早く死ね!
「やった! やった!」
何がやったんだ馬鹿野郎。はっぱを付けた団体の登場か?
「もういい! 死んだから!」
イルが叫んでいる。一呼吸入れて、俺はクモが死んだこと理解した。ようやく死んだか。
呼吸がつらい。息をするのも忘れていた。手が震える。体も。
脱力するが、こんどは斧は手放さない。もうなんかドロドロで手放したいのはやまやまだが。
≪ユモリーン・ファス・セレクト≫
俺の頭上までとんだ水球が弾け、桶ほどの量が俺の体を流してくれた。
生き返るとまではいかないがありがたい。
イルの方を見ると、今度はアーの体も流している。そして、力が抜けてへたり込んだ。
アーの方はぜえぜえ言いながら横向きに倒れていた。後ろ側から攻撃してくれていたのだろうか?
俺もあぐらを描いて座り込もうとした、が、顔が潰れたクモと睨み合ってしまったので少し離れてから横になった。
風呂に入りたい。入らねば死ねない。臭い。きもちわるい。
いやこれ夢にしてもひどいぞ。もしかして夢じゃないのか? 意識はなんか明確にならない。
そもそもここのところ仕事中でも起きているのか寝ているのかよく分からなかった気もする。どんな状態が意識がはっきりしてるって状態だっけ?
三者三様、どれくらいそうしていたかわからないが、イルが声を上げた。
「行かないと、日が暮れちゃうよ」
「もうこんなのの相手はできないしな」
アーが呻きながらのろのろと起き上がった。
あれか、夜になると魔物が強くなりますよとかいうやつか。これ以上のが出てくると次に死ぬのはこっちかもしれないな。
俺も起き上がり、蜘蛛の方を見るとなにやら液体がモゾモゾと這い回っている。あれも魔物か。というかもしかしてスライムなのか?
「死体食いがどうかしたのか?」
「死体食いか」
口調から言うとそう危険度が高いようなものでもないらしい。
ここで死ぬとスライムに食われて死ぬと言うわけか。冗談ではない。こいつらが温泉で構成されているならちょっと考えるが、まだ満足にひと汗も流してないのに死ねない。
「いや、ここじゃ死ねないと思っただけだ」
「そう思うなら蜘蛛の巣にかかるなよ」
もっともな意見だった。気をつけよう。
**********
少し歩くと、水の音がかすかに聞こえてきた。
「到着か」
「そう」「ようやくだよ」
俺が独り言のように呟くと、少し元気を取り戻した口調で口々に返事をくれた。
目的地である泉はそう大きな広さではなく、視界に収まる程度のものだ。不思議と川などはつながっておらず、どこかへと消えているようだ。
表面で水流が起こっているから今も湧き出しているのは確かなのだと思うが。
「さ、くもうぜ」
アーが皮でできた袋を背中から下ろし、500ミリペットボトルよりひとまわり小さなお手頃サイズの瓶をいくつか取り出した。イルの方は泉に近づきひとまず顔を洗おうとしている。
その瞬間水面が大きく揺れ、イルを包む波のように音もなく立ちあがる。なんでだ? 波はもっと遠くから起こるもんだ。
「波もどき!?」
アーが名前を叫び、イルは逃げようとして失敗したのかしりもちをついたので精一杯だ。俺は走り出した。
多分俺は一番未経験なんだが不思議なものだ。これが年の功だろうか。しかしまあ走り出したものの間に合うかどうかしれない、単に波に飲まれそうになっているようにしか見えないので不思議なものを見ている気分で、恐怖も攻撃も何もない。
ひとまずあれに呑まれるのは良くない気がする。
一歩届かずイルは俺がたどり着く前に波に捕まった。
触れる前は波だったそれは、イルの半身にまとわりつくと不思議に粘着質へと化けた。そのまま泉の中へと移動を開始する。
水中に行く前には俺が間に合い、必死で引っ張るがかなりの力だ。拮抗できていない。
俺ごと少しづつ泉に持っていかれる。「くっそ!」アーも追いついてようやく拮抗し始めた。
「いたいいたい!!」
イルは綱引きの綱だ。そりゃいたかろう。しかし離せば水中行き、おそらく命はない。
しかし夢の中の登場人物が死んだところで別にいいんじゃなかろうか。
一瞬そんな考えもよぎったがやっぱり女の子が死ぬのは気分が悪い。
アーだったら見捨てたかもな。見捨ててないかも。わからん。
「せーので引くぞ!」「よっしゃ!」「いたい!」
2人で息を合わせて引くと、なんとかイルをこちらへと引き寄せることができた。
「たすかった……」
イルが慌てて水辺から遠ざかると、まとわりついていた波もどき、と呼ばれた液体は地面に落ちるなり水へと戻っていく。波もどきがいるなんて聞いてない、とアーが悪態をついている。
バシャ、と水を浴びせられた。またイルかな、と思うと唖然とした表情でこちらを見ている。そして俺は後ろ向きに移動しはじめた。今度は俺が狙われたようだ。
アーは慌てて駆け寄りながら手を伸ばしてくれてるが、もう間に合っていない。
キングオブポップスが見ている景色はこんな感じかもしれない。
結局温泉にはつかれなかったがこれで目も覚めるだろう。
蜘蛛の時ほど危機感も出ず、なんとなくあきらめの心境で水中に引きずり込まれた。
何時間くらい寝てしまったのだろう。1時間も経っていないといいのだが。
まあ現実よりよほど楽しかったようにも思う。俺と同じく死んだような顔つきの同僚や化粧をしても熊が隠せていない女性社員より目が痛い髪の色でも若いイケメン美人レイヤーと虫退治をしている方がよほど健全な気分だ。いや虫は居なくていい。
クソ上司に斧をぶつけてやれたらさぞ爽快だろう。それもいいかもしれない。
息が苦しくなってきた。なかなか目は覚めない。溺れないよう口を閉じて頑張っている俺がいた。
斧も手放さず、少しもがいてすらいる。どうなっているのか分からんが死にそうだ。どうやったら目が覚めるんだ?
ひとまず何か怖いのでなんとか助からないか見ていると、なにか泡の中に濃い緑色の大きな球体が見える。
この波もどきも恐らくスライム系なのだろう。するとあれは核じゃないだろうか。
試しに斧をぶつけてみたいのだがどうにも手の届く範囲じゃない。
何かないかと思うが何もない。近づこうにも水中でまともに動けそうにもない。
むしろまだ生きていると思われれば近づいてくれないようにも思う。
ならば逆の発想、死んだふりだ。
もがいている手も足もぴたりと止めると、球体の色が少し明るくなった気がする。
いや、間違いなく濃い緑から黄緑くらいになり、徐々に近寄ってきた。
すかさず左手で掴み、斧の刃を少し入れるとヒビも入らず砕けた。
それと同時に体にかかった力がゆるんだのでなんとか息を吸える場所を目指して泳ぐ。もがく。息は限界を超えている。苦しい。もう斧はいい。
ただでさえボロ布が体にまとわりついてやばいんだ。泉はそんなに広くも深くもないはずだ。
足さえつく場所に戻れればひとまず助かる。
「かはっ!」
顔が水面に出ると同時に息を吸おうとするとむせた。
多少水が変なところに入りつつも、なんとかなったようだ。
「大丈夫か!?」
大丈夫じゃない。大丈夫じゃないが大丈夫だろう。
言葉で返事ができなかったため、手ぶりで2人を止めて自力で岸まで向かう。
今気づいたが水が生ぬるい。普通こういう清らかな泉は冷たいものだと思ったが。
そこで気づいた。
これは温泉では?
温かい、というほどの温度ではないが少なくとも冷たいほどの温度でもない。
素っ裸になっても感じ方はそう変わりはしないだろう。
「どうした?」
足を止めてしまった俺に声がかかった。とりあえず、出よう。
出た。見た目、濁ったりはしていない。
木の緑が反射しているせいかもともとなのか、水自体も緑っぽく見えるが透明度は高い。
匂いは今鼻も口も正常ではないからいまいちわからないが温泉の代名詞ともいえるあの、ゆで卵のような――俗にいう硫黄の臭いもしていない。ちなみにあれは正しくは硫化水素の臭いであり濃度によっては死に至るガスである。
強い温泉は毒でもあるのだ。
「おーいどうしたんだよ!」
いかん、また足が止まってしまっていた。ここ1年、2年。いやもっと長かったかもしれないが俺は温泉に入りたいという一心でなんとか仕事を続けていたのだ。目が覚めたら絶対仕事を辞めて温泉に行く。
いや目が覚めなかったとしてもここに温泉として限りなく疑わしいものがある。入りたい。
いつか温泉ソムリエとかの資格を取りに行きたい。俺もかつては知らなかったが温泉ソムリエの他にも温泉に関係する資格はいくつもあるのだ。実際は資格ではなく特技程度のものだが。
温泉マスターに、おれはなる。幼き日の思い出を少し振り返りながら、三度目の声がかかる前に俺は岸まで戻った。
「よく自力で倒せたな」
「なんとかな」
「本当に良かった」
なんだか九死に一生を得たシーンなのだと頭では理解しているのだがどうにも目の前の泉が温泉のような気がして気になって仕方がない。もし温泉だとすれば貴重な自然噴出の天然かけながし。掘削して見つけた循環ろ過とは価値が違う。俺は今非常に臭く汚いのだ。水をたらふく浴びた内に少しマシになった気もするのだが服は相変わらずズタボロだし別にシャンプーやなにやで体をこすったわけでもない。何度となく浴びた虫の体液も気にかかる。蜘蛛から食らった謎液は地味にやけどっぽくなっている。
実際やっぱり目の前の二人はなんだかんだ言って近寄ってくれてはいない。
しまった、これが本当に温泉ならばマナーを守らず入ってしまった。石鹸かシャンブーかないだろうか。かけ湯で程度でここに入るのはためらわれる。
「波もどきが出るなんてな」
「この泉もやっぱり汚染されてきてるの?」
どうも普通は居ないものらしい。しかも温泉が汚染とは聞き捨てならない。
思い出してみれば精霊の泉がどうとかいう話だった。
本来なら聖なる泉なんだもんな、多分。聖なる温泉か。泉質はなんだろうか。
水面が穏やかな面では、木々の緑を映して写真映えしそうな風景だ。
詳しくはないが有名な絵画のような雰囲気すらある。無色透明、臭いなし。ネットで調べられる程度の知識しかない素人の考えでは単純泉っぽいのだが。
味はどうだろうか。さきほど不可抗力で飲んだが正直味など気にしている余裕はなかった。
今なめたらおかしく見えるだろうか? 少しくらいなら「喉が渇いて」で許されるのではないだろうか?
飲んでみるとまではいかないがなめる程度なら多少有害な物質が入っていたとしても大丈夫だろう。
味が気になる。塩っぽければナトリウム塩化物泉の可能性も出てくる。ワンチャン炭酸水素塩泉とやらもあるのか?
「どうする」
「え?」
いかん。独り言だ。いや、泉を汲んで帰るか? そう聞いたように聞こえなかっただろうか。
温泉は気になるがここで温泉に入るかどうかと聞かない程度の理性は残している。
そういえば俺は彼らを先導する立場っぽかった。
それを俺たちに聞くんですかという顔をしているように見えた。
新人指導の頃が思い浮かぶ。いや、言うほどまともなものではなかったな。
あれでもできる限り頑張ったんだけどその新人は3か月後に残らなかった。
俺ももっと早くに辞めるべきだった。斧を上司にたたきつけてやらねば。違う、辞表だった。
やっぱ斧でもいいかな。
そこでイルがお返事をくれた。美人は心も美しい。「人は見た目が八割」と御年八十を超えて若手イケメン俳優にファンレターを送っていたおばあちゃんも言っていた。
「持って帰らないと、村のみんなに何か言われない? お金も入らないし」
イルはきちんと正しい冒険者としての認識を持ってくれていた。俺も見習うべきだな。
「いや、うん、そうだな。一応持って帰ろう」
「ああ……まだ使えるかもしれないしな?」
若干不審げなアーもいた。
ところで俺は温泉に入りたいのだがさすがに源泉と思しきここでつかるわけにもいかないだろうな。
美味しい水だと思って飲んでいるとして、「その水、上流で私が下半身を洗った水です」などと言われると台無しだ。
いや良く考えればここは見たところ生活用水として使われているようにも見えないし別に風呂として使っても構わないのだろうか?
そういえば川の中に温泉が湧いている名所では自分で掘ったり、石を積んで即席の湯舟を作って入るのだがここで初体験をしてみようか。大きな露天風呂だ。アガってきた。
仕事を辞めたら行きたい温泉リストの中に、和歌山の、川を堰き止めて作る日本最大級の露天風呂がある。
流石にそれには及ばないだろうが岐阜が誇る奥飛騨の絶景露天くらいとなら戦えるのではないだろうか。
化け物のような蟲や音もなく人を攫って行くスライムを考えなければ、泉は清らかに見えるし周囲では風に揺られた葉がさざめく音や、時折聞こえる小鳥らしきもの達の声がなんとものどかな雰囲気を醸し出している。
良いロケーションだ。ここで静かに湯に入れたら、いかにも気分が落ち着くだろう。
「ユマル?」
「やっぱり具合が悪いんじゃ」
今度こそ水を汲んでいた2人に対してまたもや棒立ちの俺。
不信を通り越して心配させてしまった。いかん、一度、少しの間でも温泉から離れなければ。
しかし、これから帰るらしいが行く道もわからなかったのだから帰り道も分かるわけがない。
俺に帰る場所などあるのだろうか。自虐しても状況は変わらない。困った。いや、そうか。具合は悪い。
「すまん、少し疲れたようだ。前衛を頼めるか?」
年寄りぶるつもりはないが、自分にできることと出来ないことくらいはわかっている程度に大人だ。
ここは若い力を頼るとしよう。と、思ったが二人は驚いた表情になっている。そんなに自信がないのか。
「無理そうか?」
「いや、ああ、大丈夫だ。やる」
良かった。アー君が引き受けてくれた。イルが続いて俺が最後尾。
歩き出すと二人が持つガチャガチャと瓶がこすれ、水もチャポチャポと音が鳴る。
ついでにひそひそと若い男女が「人が変わったみたい」などとささやく声もしたがひとまず無視。
俺ことユマルはいったいどんなやつなんだ。教えてもらわなくても斧を持ったホームレスなんかろくでもない人間には違いないだろうが。
だがまあ目が覚めるまでのロールプレイを強制されてるんだからある程度知っておきたいぞ。ところでこれもしかして夢の中で死ぬと本当に死ぬタイプの悪夢だろうか?
「ところで、斧良かったのか?」
オーノー。まあいいか。よくないか。虫が現れたら素手で戦えるか?
戦えない。俺は引き返した。推定ではあるが温泉には潜るのではなく、ゆっくりと入りたかった。
一般的に温泉は天然かけながしの方が有り難がられます。
これは循環消毒されたものより噴出時の成分がより強く残るからですが循環されたものも違いは千差万別だし温泉は温泉。
みなさん、温泉に入りましょう。