第53話 普段慣れないことやると余計に疲れる
──。
────。
──────。
────────。
「…ら…じょ…ぶ…」
声が、遠くから聞こえる。
いや、物理的距離は、そう遠くない。俺の意識が遠いだけか。
「…べ…きた?」
「…だ…。お…かわ…て…る?」
誰かと話しているのが聞こえる。
この声は…。
「んぅ…」
「──っ!!」
「おぉ、イュタベラ、起きたか?」
急激に意識が浮上する。寝起きのような気だるさを覚えながら、重い瞼を上げようと試みる。大丈夫だ。きちんと視界は確保出来る。
ぼやけた視界には、白い天井と、淡い光を灯す照明。
──その、視界の右端に、二人の人物。
「咲桜…?行飛…?」
「イュタベラ、起きた──」
「ベラ!起きたっ!」
「うぉっ!?」
未だ世界の輪郭を掴めていない視界。朧気な意識の中、その二人の名を呼ぶ。
それに反応して、行飛は安堵の吐息を吐き、咲桜はぐっと前のめりになり、ベッドに手を着いて俺の顔を覗き込む。相変わらず、綺麗な黒い瞳だ。
徐々に意識が覚醒してくると、安心した行飛はどこかへ行ってしまった。
「──咲桜、ここは?」
「保健室だよ。ベラ、急に倒れちゃったから、ビックリして、心配で…」
あぁ、そうだ。思い出した。
俺は、咲桜の両親の接客中に、急に意識が無くなって──。恐らくは、疲労のせいだろう。
「ベラ、体調悪かったなら休んでよかったのに…」
「いや、多分疲労だ。普段慣れてないことやると余計に疲れるからな。で、どれくらい眠ってた?」
横たわる俺を上から覗き込みながら、心配そうに瞳を揺らす咲桜。
どれくらい寝ただろうか?行飛が居たから、うっかり気を失って夜まで寝た、なんて事にはなっていないと思うが。
「えっと──大体一時間くらい?」
「あー、俺の分の仕事は?」
一時間か…。俺の仕事時間は三十分前に終わっているが、残りの三十分はどうしたのだろうか?咲桜も、ずっといてくれたのなら、代わりは居たのだろうか?
「ベラの仕事は、行飛君が代わってくれたよ。それと、私の分は紗良ちゃんと真奈美ちゃんに代わってもらったから、心配しなくて大丈夫。三人とも本来の出番は一番最後だったから」
「そっか…後でお礼言わないと」
「ふふ、そうだね」
行飛とは、ここに書いていないだけで結構仲良くしている人達のうちの一人だ。友達っていいなぁ。カリステアでは箱入りで、同年代の友達がいなかったからな。
「あ、俺の仕事の三十分、どうなる?行飛達の分をやるのか?」
「いやいやいやいや、流石にベラはもうやっちゃダメでしょ。もうちょっと自分の体を労ってあげて。一番頑張ってたんだから」
一番かどうかは分からないが、今はその厚意に甘えさせて貰おう。まだ少し、頭がぐらつく。
──そろそろ起き上がるか。寝たままだと会話がしづらい。
「んしょ…と。──おぉ?」
「あ、ベラ、危な──」
起き上がった直後。視界が揺れ、それに共鳴するように体が倒れる。ここで背中から倒れればよかったのだが、何故か横向き──しかも、咲桜と反対方向に倒れ──
「っと、危ない危ない」
倒れる前に、咄嗟に左手をつき、ベッドから転げ落ちる事態は回避。
──したかに思えたが。
「ベラ、危ない、ぶつかる!」
「ん?」
俺を支えようとしてくれた咲桜が、勢い余って俺の方に倒れかける。
それを視認し、脳が判断を下す前に、空いた右手で咲桜を抱きしめ、勢いをついた左手で受ける。幸い咲桜は軽いので、どうということはなかった。
「ふぅ。咲桜、ありがとな」
「あ、うん。じゃあこの手を離そうね。今の状況誰かに見られでもしたら──」
「イュータベーラくーん、あーしが来たばーい」
「あたしも来たよー」
直後、保健室のドアがガラガラと開き、聞き覚えのある声がふたつ。
「あっ、──」
「あー、ごめんねおふたりさん」
「違うから!」
「誤解だ!」
紗良と真奈美は、察した様子で直ぐにドアを閉めた。俺たちに弁解の余地はなかった…。
「べべべ、ベラ、どどどどどしよ…?これじゃ、私たち、その…えと…」
「咲桜、落ち着け。深呼吸しろ。俺もするから」
すー、はー。すー、はー。
深呼吸し、一度気持ちを落ち着かせる。
そして、ある事に気付いた。
「──咲桜」
「──はい」
「あいつら、多分ずっと前から勘違いしてたぞ」
「…え?──あ、たしかに」
あれは、そう、一学期の期末テストが一段落した帰り道、咲桜がうっかり同棲していることをバラしてしまったことがあった。その時に勘違いされ、その時は俺も咲桜も気が動転していたので、誤解を解く暇がなかったのだ。
そうだ。勘違い、だ。俺たちは同棲こそしているものの、それは咲桜に日本の常識を教えて貰う為であって、断じて恋人同士ではない。
──悲しい事に。
思えば、最初に咲桜に会った時に、もう一目惚れしていたのかもしれない。
同年代の人に会った事が、あの時は新鮮で。
見た事もなかった、艶やかな黒髪と、吸い込まれそうな黒瞳。初対面ではどこかよそよそしかったが、今ではこんなにも近くに感じられて。
あぁ、分かった。
俺、咲桜の事、めちゃめちゃ好きだったんだ。
そう気付いた途端、胸の中で、何かが弾けたような気がした。
文化祭の勉強をするため、漫画を読んだ時。最後には必ず、主人公がヒロインに、また逆も然り、告白していた。
その場の雰囲気も、その勇気を後押ししたのだろう。
しかし、現実はどうだろうか。
漫画や小説は、殆どがハッピーエンドとなるように作られている。
しかし、現実でそれを求めるのは、違う。
と、いうことは。
「ベラ、そろそろ離してもらえると…。」
「──あぁ、ごめん、ぼーっとしてた」
「私を抱きしめながらぼーっとって…」
「ごめんごめん」
そうだ。何も言わなければいい。
この恋心も、咲桜を想う気持ちも、何もかも。
告白というのは、勇気がいるものだ。
今の俺と咲桜の関係は、恐らく友達か、それ以上の、親しい何か。漫画の言葉を借りるに、『友達以上、恋人未満』というやつだ。
その関係は、壊したくない。
だから、この気持ちは、割り切ってしまおう。
俺には、そんな勇気など、どこにも無いのだから。
「もう、大丈夫だ、咲桜。喫茶店が心配だ。見に行こう」
「うん、分かった。──ん?」
気を紛らわせる為に、喫茶店に戻ることを提案する。一度頷いた咲桜だが、ふと頭に疑問符を浮かべ──
「咲桜?どうした?」
咲桜は、持ち前のその可愛らしい仕草で首を傾げ、次は顎に手を当てて俯く。
そして直ぐに顔を上げ、一言。
「ベラ、何かあったの?凄く、悲しそうな顔してるけど」
純粋な瞳をこちらへ向け、俺の心中を見透かしたのだった。